
【掌編小説】「裏通り」
須田卓也は、学生時代から六年間付き合ってきた婚約者に捨てられた。それは彼が人生で遭遇した初めての挫折だった。
卓也は大学を卒業して四年目になる二十六歳の青年だ。都内にある会社に通勤するために、実家を離れて一人暮らしをしている。
仕事は大学で学んだ専門知識を生かすことのできる理系の研究職で、現状に不満はない。住んでいる家は家賃が安いだけが取り柄の、エレベーターもないワンルームマンションだが、一人の生活には十分だった。
彼は毎朝七時十五分きっかりに、マンション三階にある自室のドアを開け外に出て、階段を下りる。マンションの前は、南北に延びた大通りだ。通りに出て、そのまま道路脇の歩道を北に進み、五百メートル歩くと、東西に私鉄の線路が延びているのが見える。
左に曲がり、線路に沿った駅前通りを西の方に四百メートル歩くと駅に着く。橋上駅なので、階段を上がったところにコンコースがある。
ここで時計を見ると、七時三十分になっていて、五分の余裕をもって通勤の快速電車に乗ることができる。
マンションからの大通りも駅前通りも、雑居ビルや大型スーパー、家電量販店といった商業施設、それに居酒屋、焼肉屋、回転寿司店などの飲食店が並ぶ、にぎやかな表通りだ。
コンビニも三軒あり、日常生活に必要なものは、すべてこの中で調達することができる。
マンションを出て大通りを進み、駅前通りに突き当たるまでの間、左に曲がる細い道が何本か出ている。
方角から見ると、その道からでも駅にたどり着けそうだが、卓也は一度も通ったことがないし、通ろうと思ったこともない。彼にとって、住んでいる町での生活は、この表通りの中だけで十分事足りていた。
婚約者であった森井美咲は、卓也と大学の同じ研究室で学んでいた同級生である。研究仲間として話を交わすうちに気が合い、そのまま恋愛に発展するというかたちで深まった付き合いだった。
大学を卒業した後、別々の会社に就職した二人だったが、交際は続き、卓也は自分の結婚相手に「最適な存在」として、彼女を意識するようになっていった。
卓也は彼女との結婚を具体的に考えるようになっても、決して先を急ぐことはなかった。彼は筋道立てて物事を考える人間で、大学進学も就職もそれが功を奏して、順調な人生を歩んできた。結婚も当然その延長線上にあるというのが彼の考えだった。
結婚後の経済的な安定、互いの仕事、二人の実家との関係など、卓也はすべての面において、結婚生活がうまくいくかどうかを熟考し、彼女の話にもしっかりと耳を傾けながら話を進めていった。
すべての条件が完全にクリアされたことを確信した後、卓也は正式に結婚の話を切り出し、彼女も快く受け入れてくれた。
二人の前には明るい未来が待っており、そこには、一片の雲もなく青空が広がる日に傘の心配が要らないように、何の不安もないはずだった。
彼女との関係にいきなり暗雲が垂れ込めてきたのは、そろそろ結婚式の日どりを相談しようかと考えていた矢先だった。それは交際の終了を告げる彼女からの一方的なメールという形で始まり、それが最後通告でもあった。
「私のことは、もう忘れてください。もう二度とあなたと会うことはありません」
卓也が連絡を取ろうとしても、彼女への通信手段はすべて遮断され、住んでいたマンションに彼女の姿はなかった。
彼女の実家に電話をすると父親が出た。父親は、娘の気持ちが変わることはないと、静かに、しかしきっぱりとした口調で言った。
彼は交際が始まってから、現在に至るまでの二人の関係と、自分のとった行動や発した言葉を一つ一つ思い出し、冷静に振り返ってみたが、婚約の破棄に結び付くことは何一つ発見できなかった。しかしそれは紛れもない事実だった。
彼女との関係が破局を迎えてからも、卓也は同じように毎日七時十五分に家を出て、表通りを歩いて会社に向かう生活を続けていた。
だが、彼の心の中は空虚だった。
そんなある日、卓也はふと、大通りから左に出ている細い道の方に曲がってみようという気になった。考えてみると、この町に住んで四年になるのに、その道の向こうに何があるのかと考えたこともなかった。
大通りを曲がると、そこは裏通りである。一歩入ると、いつも通っていた表通りとはまったく違った風景が目の前に現れた。
壁にひびが入った古いアパート。人が住まなくなり軒先が傾いた廃屋。雑草が生い茂り、野良猫たちのたまり場となった空き地。家々の裏を流れ、廃棄物が浮き沈みしている狭いドブ川。ブロック塀の隙間に隠れるように立っている小さな石地蔵。
狭い道は迷路のようになっており、目の前の辻を曲がると、そこにはまた新しい風景が現れた。歩いているうちに方角が分からなくなってくる。
電車の時間に遅れてしまうかもしれないが、卓也はまったく気にならなかった。それどころか、歩いていると、なぜか心がやすらぐのをおぼえるのだった。
卓也は、なぜ婚約者が自分のもとから去って行ったか分かった。
創作エピソード
『裏通り』は、第15回公募ガイドの掌編コンテスト「小説でもどうぞ」(2023年1月)に投稿した作品に、手を入れたものです。
この回の課題が「表と裏」でした。主人公は、思慮深く恋人思いで、結婚相手として申し分ない男性に見えますが、婚約者から捨てられる。端的に言うと、面白みのない男(人間的魅力に欠ける男)ということになるのですが、初めて裏通りに足を踏み入れることによって気づくという話です。
投稿したときは、まずまずかなと思っていたのですが、小説としては説明が多すぎますね。
ただ、モチーフとしてはありかと思います。もう少し長いものが書けそうになったら、使ってみたい気もします。