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ウィークネスファインダー(創作大賞2026オールカテゴリ部門応募作品)

    1、「私」をデザイン

    今回は「私」に関する記事です。これまでの記事とは毛色が異なり、やや抽象的ですが、自分のアイデンティティを語る上で大切なテーマかと思います。

    というのも、誰しもが学生だった頃、進路活動で何らかの面接試験があったと思います。
    「あなたの長所(短所)を教えてください」
    「自分を◯◯に例えると、何だと思いますか」
    「1分間で自己アピールをお願いします」などなど…

    「私」という人物を相手に伝えるチャンスですが、自分の言葉で自分を表現するので、もちろん正解はありません。口下手だと結構苦労します。

    履歴書やエントリーシートで自分を表現する場合もありますが、これには本人の文章力が求められるので、別に意味で苦労します。

    いずれにせよ、自分自身を理解していなければ表現できません。

    昨今では、自分の特性を知るために、能力検査や性格検査、適性診断など、自己分析するためのツールが沢山あります。それらを参考にするのも良いですが、前提として「私自身、自分についてちゃんと考えてる?」と、自問してみましょう。

    今年で39歳になる手前、思春期だった中学生の頃に戻った気分で本記事を書きました。良ければご覧ください。

    1、どこまでが私なのか…

    そもそも、「私」として認めている範囲が不思議でなりません。
    例えば、髪の毛。自分の頭から生えていて、髪型として認めていれば、「私の髪」という存在が成立しますが、床屋や美容室で散髪してもらうと、切り離された髪の毛にそんな気持ちは無くなります。「あぁ…私の一部たちが床に落ちていく…」なんて思いません。髭や爪も同様です。整えられた髭やネイルは、自分らしさを表現しますが、気分を変えて剃ったり、付け替えたりできます。

    余談ですが、先日、親知らずを抜歯しました。治療を終えると、医師から「抜いた歯、どうされますか?」と聞かれたので「え、処分していただいて良いですが、持って帰る人いるんですか?」と、思わず聞き返しました。どうやら、記念に持ち帰る人がいるそうです。

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    私とは可変的であり、流動的である。

    二重作拓也(著)【強さの磨き方:私のつくり方 190頁】より 

    本書は、強さという抽象的なテーマを様々な角度で考察しています。
    本来、「私」という存在は変化が可能であり柔軟性があります。日々、変わっていく自分を認識できるかは本人によります。

    ところで、自分らしさを表現できる一番のツールって服だと思います。
    私は古着が好きですが、古着屋さんで試着をすると、以前の持ち主の歴史を感じずにはいられません。肩幅の具合や裾のアタリ、利き腕だった袖が地薄になっていたりなど、人間性がかなり表れています。

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    愛用と言えば聞こえが良いですが、私は物持ちが良い方です。
    これを着て同窓会へ顔を出すと「お前、まだそれ着てるの⁉」と驚かれます。

    2、でも私たちって…

    つまり、世間で「私」が話題になるのは「私らしさ」かと思います。

    根拠として、人体とは皆が概ね同じ構成だからです。

    成人であれば、体重の約4%は腸内細菌、約10%がミトコンドリア、約60%は血液やリンパ液などの水分で構成されています。

    そもそも、「私」という器を維持するために、日夜働く細胞や細菌たちを「私」として認識するのは困難です。たとえ、顕微鏡で自分自身の腸内を観察したとしても「あ、これは私らしい腸内細菌だ!」とはなりません。

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    上記の漫画では、主人公が人体錬成を試みますが大失敗します。大切だった人ともう一度会うためでしたが、人外を生み出してしまうシーンは結構残酷です。

    作中では、人体錬成において「足りない何か」が解明できずにいますが、不足しているのは、おそらく「私」という自我です。

    つまり、人体を作ることは理論上可能ですが、その器をコントロールする意識の主体が必要なのです。

    3、再び、どこまでが私なのか…

    だからこそ「自分のことをちゃんと考えなくてはならない」と思います。尤も「ちゃんと」という表現は曖昧ですが、自意識がブレなければ、「私」もブレません。

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    誰でも自分というものをもっている。同様に誰でも自分の世界をもっている、と言えないこともない。しかし半日一人でいると退屈するという人や、流行の衣装とあれば何でも構わず身に付けるという人が、自分の世界をもっているとは言いにくい。

    谷川徹三(著)【人間であること:人生のこと 自分の世界】より

    本書では、人間であることを独自の視点で哲学的に考察しています。
    著者の考えに同意見ですが、私が思うに、自分の世界を内側に留める人と外側に出す人の2種類いる気がします。

    前者は、個性的というラベルのもと「ユニークな人ね」と、周囲から評価されがちですが、後者は違います。

    彼らは、自らの確固とした強い意志で動き回るので、その余韻が周囲に残像として現れます。その人の服装や考え方、言葉遣いや食事などの生活全般までもぐぐぐーっと強い引力で引っ張ってくる人いませんでしたか?←私は過去数人いました…

    良くも悪くも周りの人に影響を与える世界の持ち主…ただし「私」の認識範囲を見誤ってはいけません。

    今回は以上になります。ここまで、読んでいただきありがとうございました。これからも、何かの参考になるような記事を投稿するのでよろしくお願いします。


    2、やりたいことの見つけ方

    年明け、最初の投稿になります。ゆく年の疲れをいやし終えたら、去年のままではあってはならないと計画を立ててみますが「はて、一体何を始めたらよいのやら…」となることもしばしばです。

    学生を日々相手にしていると「とりあえず、就職で!」「まぁ、自分はまず専門学校で…」といった具合だったり、親御さんの方に聞いても「今の時代、大学くらい入れてやりたいけど、本人がねぇ…」「そもそも、うちの子、やりたいことがないみたいで…」とまぁ様々です。

    一方で、大人になってから勉強をし直すケースもあります。「今年から栄養学を勉強する」「改めて専門学校に入学して勉強しなおす」といった友人がいます。中には、34歳で大学を受けなおし、医学部に入学した猛者もいます。勉強はいつからでも遅くないです。

    新しい年の始めというものは、心に深く期すものがあることで、この年の歩みが踏み出せると私は思っています。

    本記事は「やりたいことがよく分からない…」「現状、そこまで不満はないし、同じ感じでも良いけど…」というように、一歩の踏み出しが分からない人向けの記事になっています。興味のある方は、読んでください。

    1、やりたいことを考えることはスゴイ!

    思うに、やりたいことと向き合うとは、自分と真剣に向き合うことに繋がります。これは、マズローの発達段階における自己実現欲求に該当するもので、実は高尚な欲求です。というのも、生理的な欲求や安全な欲求に満足できれば、今の時代、贅沢しなければ割と生きていけます。

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    重要なのは、このピラミッド構造を階段のように駆け上がるのではなく、人間は上がったり下がったりして各欲求を満たしています。つまり、下位の欲求が満たされることで、上位の欲求に目を向けやすくなる、というものです。そこに優劣はありません。

    2、やりたいことはどこにあるのか?

    本題に戻りますが、やりたいことを考える上でヒントになる書籍があるので紹介します。

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    自分の頭で考えるとは寒空の下、肌着で立っているようなものである。

    御子柴 善之 著【自分で考える勇気】より

    「いやいや、立ってないでコートやダウンを着なさいよ」と言われそうですが、著者はそのような上着を情報や知識に例えています。つまり、厳しい状況を外部の見聞なく、ゼロベースで物事を捉えるというものです。

    例えば「将来は○○になりたい」というのは職種である客体が目標になっています。これ自体否定しませんが、やりたいことを裸一貫で向き合うには、もう一声欲しいところです。そもそも、困っている人は、なりたいものが無いから苦労していると思います。

    ヒントになるか分かりませんが、社会を起点にやりたいことを考えるというものです。日頃、社会にアンテナを張っていると「ここに○○があれば良いのに…」「どうして△△にならないのだろう…」といった具合で、身近な所、そうでない所に疑問が湧いてきます。実は、やりたいことというのは、認知上の限界、すなわち自分の枠から飛び越えたところに案外潜んでいるものです。私がnoteを始めた理由もこの点にあります。

    だからこそ、社会時事、世界情勢の観察が大切なのです。

    諺に「世々の道、背くことなし」とあるように、一見自分に関係のなさそうなニュースであっても、巡り巡って自分事になっていたりするものです。

    もちろん、言うは易し、行うは難しなので、一朝一夕にはなりませんが、あくまでもやりたいことの見つけ方のヒントです。やりたいことが仕事になるかどうかは結果論であって、そもそも、夢中になっていることをお金にすることはまた別問題です(この点についてまた別記事で投稿します)。

    3、自分の強み(持ち味)を知るために

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    才能を隠してはならない。それは、使うためにつくられたものだ。日陰に置かれた日時計に一体何の意味があるだろう。

    ジム・クリフトン ギャラップ 著 古屋 博子 訳【ストレングス・ファインダー】より

    かと言って、自分のセンスからかけ離れたものを、がむしゃらにやってしまってはいけません。極端な話、アラフォーの私が今から野球やサッカーを練習して、プロを目指すというものです(目指す分には一向に構いませんが…)。

    何が言いたいかというと「あなたの強み(持ち味)を自覚し、それを生かしていきましょう」というものです。

    昨今、様々な性格診断があります。いろいろと試してみるのも面白いと思います。上記の書籍は参考として載せておきます。

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    上記の挿絵は、範馬勇次郎が米国一の怪力男ビスケット・オリバに放った言葉です。オリバは、龍 書文(ロン ショブン)という暗殺拳法家と戦いますが、ロンの独特な戦闘スタイルに彼の調子が狂います。そんなブレブレのオリバに一喝を入れる場面です。
    人生も、自分の持ち味を生かしたスタイルでやるべきだと私は思います。

    今回は以上になります。ここまで読んでいただきありがとうございました。これからも、何かの参考になる記事を投稿していくのでよろしくお願いします。


    3、痛みは何を伝えたいのか?

    今回は「痛み」に関する記事です。痛みと言っても、打撲や捻挫など外力による損傷もあれば、腰痛や肩こり、首の痛みなど慢性的なものがあります。私の職場でも、何かしらの不調を訴える人が結構います。

    特に耳にするのは腰痛と肩こりです。これは私の肌感覚ではなく、日本全国において、2つの有訴率(病気やけがなどの自覚症状がある人の割合)は男女問わずに上位を占めます。もはや、国民病とも言えます。

    腰痛に至っては、ぎっくり腰だけではなく、腰椎分離症や椎間板ヘルニアなど、本人しか分からない激痛があると思います。

    こうした長引く痛みに対して、整骨院や鍼灸、リフレクソロジーやカイロプラクティックなどなど…一緒くたにするには難しいほど、近頃は色々な整体があります。

    ただし、そのようなボディケアには、筋肉のコリや疲労を一時的にほぐすことはできますが、神通力のようなものは決してありません。

    本記事では、痛みに関する原因や対策をまとめてみました。良ければ読んでみてください。

    1、慢性的なもの

    例えば、ある日、あなたは腰痛が酷いので、病院で診察を受けたとします。医師の診断は「はっきりとしたことは言えないが、過度なストレスが原因かと思われます」とのこと。あなたからしてみれば「原因不明は何でもストレスのせいなのか?」と懐疑的になりそうですが、医者の立場からすると、患者に強く言える部分と、そうでないことがあるようです。

    「湿布、投薬、様子見」という事実上放置になってしまうのは、本来であれば、患者の免疫力を底上げすれば治るものと医師は知っており、そう信じているからです。

    以下、ストレスの主な原因として2点あります。

    原因①不良姿勢

    人間の体重は、およそ10%が頭部、片腕1本が7%の割合です。例えば、体重が70㎏の人の場合、およそ7㎏を首で支えて、両肩に5㎏ずつぶら下げている状態です。

    これらを支えるためには、それなりの筋力を必要とします。不十分な筋力で重みを支え続けていると、筋肉は収縮し続けて、拘縮し、次第に姿勢が悪くなります。

    筋肉は、弛緩よりも収縮の方がエネルギーと酸素を必要とします。これらを各部位に供給する際、血液が必要となりますが、血行が悪い状態が続くと、炎症や痛みとして現れます。

    つまり、肩回りの筋肉(特に僧帽筋)の収縮時間が長すぎるのです。特に、猫背になりがちなの方は、胸筋も収縮し続けています。

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    原因②考え方のクセ

    普段から姿勢が良く、筋肉が十分な人でも外的ストレスを受けているはずです。それなのに「どうして痛みを発症する人とそうでない人がいるのか?」という疑問が残ります。

    この理屈はとても単純で、脳の側坐核で合成される鎮静物質オピオイドが上手く機能すれば、痛みは発症しません。仮に発症したとしても、慢性化せず次第に収まります。

    ここで問題なのは、脳はストレスを受け続けると脳の血流が低下することが分かっています。血流が悪ければホルモンは上手く分泌できません。ストレスを受けやすい人の特徴として、全か無か(オール・オア・ナッシング)、べき思考といった具合に、極端で偏った思考の人に陥りやすいです。

    これは、真面目な人に当てはまりやすいため、何とも皮肉なことですが、なるべく柔軟な思考を意識した方が良いです。←「これでもOK!」でOK。

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    余談ですが、「肩こり」というワードは夏目漱石の著書「門」が由来だそうです。作中で「頸と肩の継目の少し背中へ寄った局部が、石のように凝(こ)っていた」と表現されており、それ以前は「肩が張(は)る」と言っていました。なので、英語圏では「肩こり」代わる単語がありません。

    対策①血流促進

    時折で良いので意識的に胸筋を伸ばし、肩甲骨を動かすことをオススメします。また、簡単な静的ストレッチを隙間時間に取り入れると良いです。

    加えて、不良姿勢を防ぐためにも良い姿勢作りを心掛けた方が良いです。以前、姿勢に関する記事を載せていたので、一応リンクを貼っておきます。

    対策②筋力アップ

     慢性的な痛み
    →思い切り身体を動かせない
    →体力が低下する
    →ますます動きたくない
    →…

    こうした悪循環から脱却するためにも、やはり筋トレをオススメします。私のマガジン【HEALTH】は、運動を推奨する記事が多いですが、初心者向けもあります。こちらもリンクを貼っておくので、良ければご覧ください。

    具体的にどの部位を鍛えると良いのかと聞かれれば、腹筋群及び殿筋群になりますが、とりあえず、種目はスクワットで良いです。効率的なやり方を掲載しています。

    2、突発的なもの

    時として、スポーツやトレーニングの最中イレギュラーは起こります。私は学生の頃、陸上部に所属していましたが、足底筋膜炎や腸脛靭帯炎、シンスプリントなど、脚の怪我は結構やりました。幸い、ケガ癖になることもなく、現在は楽しく筋トレできていますが、今振り返るとそれらを防ぐ手立てを身に付けておくべきでした…

    原因 アップ不足

    私が知る限り外傷発生の重大因子です。運動する前の身体というのは、筋硬直しているので、特に関節部分の血流促進が必要です。
    トレーニー界隈で関節を痛める最たる理由は、準備運動を大してやらずにいきなり高重量をラックアップするからです。

    確かに、適度なスポーツやトレーニングは骨の強度を上げ、関節軟骨の弾力を向上させますが、これらは十分な準備運動と漸進的に負荷を上げることで成立します。

    コンディショニングや動的ストレッチは、面倒くさいと感じる筋トレ愛好家も多いですが、長い目で見ればウォームアップをした方が断然良いです。

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    対策 専門書から学ぶ!

    「同じ轍を踏まない」という意味でも専門書はあった方が良いです。
    実は、筋トレYouTuberやパーソナルトレーナー、学校の運動部顧問に至るまで、多くの人は結構我流でやっています。彼らは、良くも悪くも発信者として、時には指導者として求心力を発揮しますが、当人の経験や感覚に基づき過ぎては危険です。

    例えば、とある高校の野球部の顧問が「最近の若者は肉離れを起こしやすい、根性が足りない」と言っていたとします。
    日頃の部活動こなすには根性もある程度必要ですが、補完する知識も大切です。因みに、肉離れの原因は筋膜の粘性不足なので、粘性を上げるためにビタミンCを意識的に摂るべきです。

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    今回は以上になります。ここまで読んでいただきありがとうございました。
    私事ですが、先日、筋トレインストラクターの資格を取得しました。資格そのものがステータスにはなりませんが、誰かの役に立てられるよう計画中です。今後ともよろしくお願いします。


    4、悩みのタネはどこから来るのか…

    今回は「悩み」に関するテーマです。多くの悩みは人間関係と言われています。確かに、元気のない生徒がいる場合、大抵の原因は友人関係や親子関係です。

    それらが理由で、学校に来なくなったり、場合によっては学校を去る生徒もいます。本人は辛いでしょうが、悩み抜いて出した答えが、たとえ後ろ向きであっても、いつか「あのときの決断は良かった」と言える日が来たりします。

    正直、私は人間関係で悩んだ経験は少ない方です。それは、周りの人間との比較からではなく、人間関係の悩みが社会にこれだけ渦巻いていることに理解できないからです。
    たまに、生徒から「先生には感情がないのか?」なんて言われたことがあります。一応あります。腹が立つことはありますが、悩まないだけです。

    ただ、「悩みがないことに悩む」ではありませんが、私のような人間でも、悩むから人間であると再認識できるのかもしれません。

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    1、悩みは不安や心配からやってくる

    持論ですが、人は何かに挑戦するとき、頭だけであぁでもないこうでもないと考え続けると悩みになると思います。不安や心配というものです。これ自体は否定しませんが、この状態を少しでも解消したい場合、参考になる図があるので下記に載せておきます。

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    縦軸の挑戦レベルと横軸のスキルレベルのバランスを取る必要があります。

    例えば、ある生徒が数学のテストで高得点を目指しているとします。始めは一所懸命勉強しますが、解き方が全然分からない状態が続くと、このままで良いのかと不安になっていきます(図の左上)。
    ところが、問題への理解が進み、数学のスキルが向上すると今度は計算自体が作業になっていき、次第に退屈してのんびりします(図の右下)。

    望ましい状態はフロー(図の右上)であることです。挑戦レベルとスキルレベルを適切に調節することで、学習に夢中になれます。

    つまり、心配や不安を解消するためには、挑戦レベルを一旦下げて良いと思います。難し過ぎず、簡単過ぎない問題に挑むことで、徐々にスキルを上げていきましょう。

    2、悩みがもっと憂鬱な場合

    ただ、悩みの質は人様々なので、上記のように単純な話ではありません。特に、人間関係に関するものが多いと思います。そうなると、フローもヘッタクレもありません。読者からは「そういうことを聞いているのではない!」と聞こえてきそうです。

    おそらく、現代における悩み事というのは、言い方を変えれば憂鬱になるような、場合によっては本人の命に関わるものなのかもしれません。

    そうした重大事案にもなり兼ねない悩みについては、参考になる書籍があるので紹介しておきます。

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    本書では「今日の大衆は生活水準と知的レベルが向上しており、それと相まって、個人の自由の主張と道徳の低下を招いている。これが原因で、国民国家の弱点になる」と指摘しています。

    これが悩みとどう関係しているのかと言うと、本書では次のように書かれています。

    生きるということは、一方においては、各人が自分で自分のために為すことである。しかし他方においては、その私の生、私だけにとって重要な生が、もし私がそれをなにかに捧げているのであれば、緊張も「形」も失い弛緩してしまうのである。

    オルテガ・イ・ガセット(著)【大衆の反逆】より

    訳語が読みにくいので、私なりに要約すると、「生活が豊かになり、知識が豊富になっている我々は、自分のために人生を作り上げるようになります。一方で、この人生を他の何かに捧げることで、張り詰めた気持ちや悩みも次第にほぐれていくのである」といったところです。

    確かに、誰しも自分のための人生ではありますが、それを自分のためだけに捧げると、追求するあまり汲々します。自分々々であるが故の悩みであれば、何か(誰か)に時間を割くというバランスも必要になってきます。

    こう結論付けると「悩む人の多くは、自分のためだけに生きているからだ」と帰着してしまいそうですが、決してそういうわけではありません。

    実は、人間関係の悩みというのは、本人が悩むべきものではありません。これに関しては次の項目で取り上げます。

    因みに、著者は自由であるが故の憂鬱さも指摘しているので、興味のある方は是非本書をご覧ください。

    3、人間関係の悩みは誰のもの?

    今から10年程前ですが、アドラー心理学を題材にした著書「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」岸見一郎(著)が話題を呼びました。

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    上記の2冊は、青年と哲人との対話形式で進み、主に対人関係の課題をテーマにしています。人との付き合い方に悩む青年へのアドバイスが簡潔であり、尚且つ心理学という学術的な根拠にも基づいているので納得感が強いです。

    例えば、自分が悩んでいる場面を考えてみてください。

    • 相手にどう思われているかが気になる

    • 相手が自分の思い通りに動いてくれない

    • 嫌われたくなくて言いたいことが言えない

    ここで問います。それは誰の課題ですか?

    • 相手がどう思うか → 相手の課題

    • 相手がどう行動するか → 相手の課題

    • 自分がどう行動するか → 自分の課題

    つまり、課題の分離(整理)をすることで、自分でコントロールできないものは引き受けず、自分の課題に向き合うことが、人間関係を楽にする第一歩だと主張しています。自ら決断した行動で相手から嫌われるのであれば、その程度の関係性だったと割り切っても仕方ありません。

    4、ご冗談でしょう、アドラーさん

    とはいえ、私はこのアドラー心理学に対して懐疑的な部分があります。確かに、課題の分離という考え方は自分自身を楽にしてくれますが、相手との関係性が解決されているのでしょうか?

    このモヤモヤに関して、似たような主張をしている著書があるので下記に紹介します。

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    一九一九年のあるとき、わたくしは格別アドラー的とも思われないような一事例をかれに報告したことがある。しかし、かれは、その小児患者を見たことさえないのに、自分の劣等感理論によってその事例を事もなげに分析してみせたのである。

    カール・R・ポパー(著)【推測と反駁:第1章 科学】より

    つまり、アドラーは患者を診ず診断したのです。これにはポパーも少しばかりショックを受けたようで、彼は次のように尋ねます。

    ポパー 「どうして、それほど確信がもてるのか?」
    アドラー「こういった例は千回も経験しているからだよ」
    ポパー 「でもこの新しい事例で、先生の経験は千一回目になると思いますが…」

    ポパーが感じる違和感に私も同感です。私の心に引っかかった点は、アドラー心理学の観点で人と接すると、あたかも決めつけのようになっており、追加確認例ともみなされないわけです。
    これでは思考停止を招きかねないわけで、ある種宗教的にも思えてなりません(「神様が言っているのだから」と同じ理屈)。

    そもそも、学問は時代とともに変化します。数学や物理など、科学を勉強しているとよく分かりますが、理論というものは反証する余地がどうしても出てきます。

    ましてや、人の心を扱う心理学あれば尚のこと、推測に対する反駁が持てる方が真っ当な学識かと思います。

    余談ですが、医者をしている友人にカウンセリングのコツ、引いては良好な人間関係のコツを聞くと「診断や相談ではなく、単なる雑談である」と言っていました。なるほど…確かにそうかもしれません。

    今回は以上になります。ここまで読んでいただきありがとうございました。これからも、以前投稿した記事をバージョンアップさせていくので、よろしくお願いします。

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    北海道で教師をしています。世の中に対する自分の考えや健康に関すること、短編小説やエッセイなど9つのマガジンをベースに発信しています。個人的な体験・経験による疑問を解くために、書籍や漫画、動画などを参考にしながら、一般的な答えに落とし込む帰納性を心掛けています。

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