
体躯の日(創作大賞2026ミステリー小説部門応募作品)
【あらすじ】
気弱で、言い訳の多い青年は、就職活動のため田舎から都会にしぶしぶ出てきた。前日、適当なビジネスホテルで前泊したが、その緊張からか、何度も目が覚めてしまう。二度寝、三度寝を繰り返し、ようやく起きようとするが、部屋の様子に違和感を抱く。やがて、自分の身体の異変に気が付き、慌てていると、洗面所の扉が開くのだった…
ベッドスタンドの間接照明は、夜の灯火となって俺の顔を照らしていた。黄色灯が煩わしかったのか、それとも、慣れない寝床で眠りが浅かったのか。どちらでも良いが、未明の目覚めはもったいない。今日の天気はどうであろうかと頭を起こすが、縦窓から見える外の様子はぼやけてしまう。俺はひどい近眼だ。
外へ耳を澄ますと、かすかに雨音が聞こえて来る。ついていない。朝上がりすれば良いが、このままでは気分が塞ぎ込んでしまう。空模様に気持ちが左右されやすい性分、せめて今日の午前中は快晴になっていて欲しい。もし、このまま雨が続くのであれば、道中、背広を汚す恐れがある。ウールは雨に濡らさぬよう、母が小言を言っていたな。まぁ、コンビニでビニール傘でも買っていけば良い。
とにかく今日なのだ!明日明後日、この都市が近来に無い土砂降りに遭っても構わない。その頃には、俺はこの街から遠く離れた地元へ帰っているのだから。
それにしても、ホテルにある間接照明というのは、どうもあざとく感じてしまう。枕元のつまみの調光装置は、程よく光を整えることが出来るので、持て成しの配慮に優れた機能と一見感じる。けれど、手元の光を調節するくらいであれば、俺は灯りをとっくに消している。そもそも、調節出来るのであれば、最初からスイッチ一つで、全人類が快適と思える光の度合いで照らしてくれれば良いのだ。オンとオフで良いところをこうも工夫されてしまうから、点けっぱなしで寝てしまうのだ、まったく。
大した不都合が無くとも、目に留まったものに俺は文句を付ける。布団の足元にある、帯の用途が未だによく分からない。床へ追いやってしまった。ビジネスホテルにおいて、宿泊客が部屋に入った際、まず目に留まるのは、ベッドということだ。その見栄えが大切なのであろう。まぁ、社会のしの字も知らないので知ったことではないが、このような心遣いによって利潤に差が出る現代社会に、俺は適応出来そうも無い。
日頃、そんな心持で面接室のドアをノックしているから、顔の印象が悪いのだ。今日、受験者は何人いるだろうか。面接は個別形式だろうか。集団面接は駄目だ…自分こそはと下手に勇み立ってしまい、空回りしてしまう。理想は面接官二人、受験者一人の二対一形式。二人のうち一人は、虫も殺せないような、温和な表情で受け答えをしてくれる、くまのぷーさん型の中年が良い。もう一人は、会社への帰属意識が高そうなインテリ気質で、自分が知識層であることを自負していそうな、就活生に厳しめな質問を飛ばしてくる細身でカマキリのようなきつい男。そうすることで、心理的に調和が取れる気がする。経験上、どちらもぷーさんだと油断してしまい、こちらも要らぬことを言ってしまう恐れがある。かと言って、両方カマキリだと圧迫されているようで、面接中、脂汗しか出てこない。
考え得る最高の状態は…いや、そんなことを期待したところで、事は明らかにならない。心配性は昔からだ。勝手な理想と同時に、予期せぬリスクが想定され、不安も頭の中でぽっと浮かんでしまい、結局のところ、理想と不安が一対一対応である。
おそらく、試験会場は、味気の無い武骨な雑居ビルだ。一階の受付付近にある「面接会場はこちら↓」といった立て看板の案内に従う。日差しが幾分足りない薄暗い廊下を進み、突当りに並んでいるオフィスチェアが3つ4つある。そこに座る俺と同い年の連中は、背筋をぴんと伸ばして座っており、時間が経つと運命に抗うこともなく、隣にある部屋へ吸い込まれて行くはずだ。
気持ちの面を考えると、もっと下準備をしておくべきだった。条件が異なっていても、俺が思い描いている情景は、他社の入社試験と何ら変わらない。同じであれば今回も同様、不合格通知が届いてしまうのではないのかと、自分で自分が頼り無くなってしまうのだった。
普段から心配癖と面倒臭がりが相俟っている。昨日、試験会場を下見する時間はあったが、都心の雑踏を見るや否や、気持ちの余裕は無くなってしまった。というより、昨日の夕方から天気が下り坂であったし、それに加え、携帯電話の充電が必要だった。要するに、具合が悪いといったこじつけを自分にしてしまったのだ。
その結果が今現在である。夜中に目を覚まして枕の縫い目を数えるようになったのは、いよいよ心の病という奴だ。眠りが浅いわけでも無かったのだが、夜がすっかり明けきらないのに目が覚めたということは、やはり当日になって怖気付いている証拠でもある。
社会人になった友人から、現場の話を聞いてもロクなものではない。しかし、就職が出来なくては世間体が立たない。詰まる所、仕事をする理由はそれに尽きる。とは言うものの、不本意な場合、俺は顔に出てしまうだろう。何にせよ、学生というステイタスが失われてしまったら、俺は生き生きと人生をほめたたえることなんて到底出来やしない。
そうだ、寝るのが良い!寝てしまえ!なるようになるという精神の元で生きていられる程、甘く無いことは分かっている。だが、もう、どうしようもないじゃないか。時間が矢のように過ぎて行くのを止められやしない。止められないなら尚更、心が結ぼれつつあるこの情況を、目をぱちぱちさせて味わう必要も無いのだ。
掛け布団から嫌々伸び出た俺の右手は、手探りでつまみをひねり、灯りを消した。
薄暗い空の下、立ち並ぶビルにはガスが掛かっており、鬱屈した心情と似ていたのだろう。加えて、季節外れの寒気の影響で肌寒いと来たら、外出なんて、暗黙の禁止事項みたいなものである。
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陽が出たのであろう、東向きの建物は,、腰窓からたっぷり日差しを浴びるので、目覚ましに丁度良かった。これは幸いだった。だが、二度寝をしても気が重いことには、ちっとも変わらない。
雨雲の間から光が差し込み、まるでヤコブの梯子のようだった。晴れ間が広がるのは、願ったり叶ったりである。が、暗灰色に広がっていた斑の無い空の一様は、その光の差し込み具合に不気味さを感じてしまう。厚い雲の背後から延びる薄明な光のさすすじは、普段であれば、心配や悩みを照らし、気持ちをすっきりさせてくれる。大げさな言い方をしてしまえば、新たな時代の幕開けを、美しい自然現象として拝むことだってあれば、写真に収めてしまいたい瞬間でもある。
結局のところ、悪天候が原因で、気を塞いでしまうというのは言い訳だった。顔に射す陽が、朝の俺を勇気付けている気がして、いつまでもごろごろしているわけにはいかない。だが、流れた時間を振り返ってみろ!あの時、一思いにベッドから起き上がり、洗面所へ向かう気力があっても良かったのではないか?東方に立ち並ぶビル街の隙間から、雨雲を押しのけるように登り来る太陽を遠望していれば、それに伴って俺の気持ちも晴れ渡っていたのではないか?往生際悪くとも、気持ちの整理は出来たのではないかと、二度寝した朝に後悔する。
試験会場は…地図を見る限り大した距離ではないが、油断は出来ない。土地勘が無いのが何より怖い。
都心に来てまず感じたことは、地図に記載されている交通ルートの現存が怪しいということだ。あちらこちら絶えず工事が進んでいる。田舎者の俺からしてみれば、まだまだ使えるのにどこを直す必要があるのだと思ってしまう。だが、工事に対するその補修観念が田舎者丸出しなのかもしれない。彼らは「手入れ」が目的で建築に肉体を働かせているのでは無い。利便性を重視させ、効率良く人を流すために、まず頭脳を働かせており、以前にも増して小奇麗でいけ好かない街にしていくのさ。老朽化なんて騒がれるのは、きっと地方の財政事情が関係している。こんな大都会であれば、お金だってじゃぶじゃぶ使えるはずなのさ。いかにも皮肉を込めた言い方になってしまったが、きっと首都という面目をつなぎ持つのも大変なはずだ。であれば尚更、こぞって競って高いビルに立て直し、駅は近代的に様変わりさせるのが都会的道理ってもんさ。
まぁ文句を言っておきながら、ここへ来て働き口を求めてしまっている。この街並みに対して、心穏やかでない俺の理由はまだまだたくさんあるが、そんなひねくれた推測はこの辺にしておこう。
ベッド上で仰向けのまま眼をぎょろぎょろしていると、天井の黄ばみが目に付くようになってくる。今更だが、禁煙室が空いているホテルを予約するべきであった。試験会場との兼ね合いもあって、このホテルの喫煙室で妥協してしまったが、このままだと背広に古い煙草の臭いが付いてしまう。
面接中、自分の身体から気に染まない臭いが漂っていたら、受け答えに影響してしまいそうだ。ただでさえ、見知らぬ土地に来て前泊しているので、やはり気持ちは下がったままである。寝床が変わると、どうしても寝付きと寝相が悪くなってしまう。このままでは寝起きも芳しくない。だが、幼稚な言い訳はもう通用しないぞ。内定を一つももらえないまま、ここに来て就職活動が頭打ちになってしまっては、それはもう精神的に限界である。
俺は、ベッドから少し這い出て、ナイトテーブルのデジタル時計を確認すると、時刻は六時四十八分を指していた。これをまだまだ余裕と受け取っていいのか、不本意にも起き上がらなくてはいけない状況なのか、それは俺の身体と相談する必要がある。
…待てよ、面接は十時半から開始だ。パンクチャルな自分。というより、ただの臆病者なだけなのだが、このままベッドで思い耽っている場合ではないぞ。朝食バイキングの時間を考慮すれば、そろそろこの固いベッドから身体を起こし、落ち着かないユニットバスで小便した後、寝癖を直す時間になるはずだ。朝の身形は、軽く整えるだけで良い。確か、1階のレストランが朝食会場だ。食事を済ませ、すぐ部屋へ戻って来るのだ。ビジネスホテルのバイキングとなれば、出張のため前泊しているサラリーマンや年配の夫婦、登山客など、平日のホテルの朝はそんな客層だ。取り繕う必要は無い。毛玉の付いたよれよれの寝間着で、朝食をとる客もいるはずだ。
掛け布団にくるまっていた俺は、着ている鼠色のスウェットに、変な染みが付いていないか一応確認した。
だが、朝食のサービス券を使うにも億劫だな。俺は決して、一人でご飯を食べる行為に気が進まないということでは無い。そもそも、宿泊代の内訳など開示されていない。朝食で客の便宜を図っているのかと思うと、あまのじゃくな俺は却って遠慮してしまう。
それに、朝の身体にわざわざ鞭打って、会場へ出向くのはいくらか勿体無い。俺は低血糖低血圧な人間、朝にはめっぽう弱い。起きた身体に朝食を与えるのは分かるが、朝飯を食べるために早起きするのは、少々手段と目的をはき違えている気がする。
いやいや待てよ、そういえば来る途中、ホテルの向かいにMをあしらった袋文字のロゴマークの看板があったな。もう少し、このベッドでこうして現実逃避をしているのも悪くない。八時過ぎたあたりで起床して、その後、背広に着替えてチェックアウトをする。その足であのファストフードへ入店し、朝のモーニングセットを注文する。そこで一時間程のんびりした後、試験会場へ向かう。朝から外食とは値段が張ってしまうが、それも悪くはない。何せ、今の胃袋は、朝食が入る雰囲気ではない。全然腹が減っていない状況で、ほんのり焼き目を入れたトーストにバターをたっぷり乗せ、ベーコンに乗ったアツアツの目玉焼きにフレッシュサラダとホットミルク、食後には新聞を片手にブレンドコーヒーを啜る。バイキングの定番メニューは、学生の俺からしてみれば至れり尽くせりといった感じだが、それらが急に口へ入って来られても、そりゃ寝起きの内臓たちは迷惑なはずだ。
そうだ、やはり朝食はハンバーガーにしよう!そうすることで、俺はもう少し妄想に心を注ぐことが出来るし、朝のファストフード店には新鮮さを感じる。もう少しの間、俺はこの快適な羽毛布団にくるまって、世間から見放されていても構わないのだ!
念のため俺は、携帯電話でタイマーをセットしたが、その時刻よりも早く起きる自信があった。なぜなら、こうして自得させたことには一度として誠実さが感じられなかったし、あくまでも怠惰な、横着を決め込んだ姿勢にいつも罪悪感があったからである。それを分かった上でやるのも、俺の生まれついての性質であった。「過ちて改めざる、是を過ちと謂う」なんて論語に記載されていたが、俺はその典型である。
顔を枕に沈めたまま三度寝をしていると、ありもしない声がどこからか聞こえて来る。そんな声で目を覚ますのも不快であった。俺は、十分な睡眠を確保した段階で寝床を起き出たいのだ。未明の目覚めは不本意であったし、このような不意も勘弁してほしい。
その聞き覚えのある声柄と口調に、俺は自然と聞く耳を立てた。…身近で聞いていた気がする。俺も未だ寝惚けているのだろうか。いや、これはおそらく、身の回りを気にしていないことが原因だろう。友人の声を聞けば、そいつの顔がぱっと浮かんで来るものだが、我ながら薄情なものだな。普段、テレビで見ている芸能人の声じゃあるまいし、身近であればあるほど自分が情けない。
廊下に知り合いでもいるのか?だとすれば、期待もしない予期せぬ偶然だな。俺は、これから憂鬱な入社試験だというのに、彼は何をしにここへ来たのだろう?まぁ、差し当って観光だろう。そうだ、そうに決まっている。この時期、未だに就職活動をしている奴なんているはずも無い。廊下で立ち話をする余裕、俺にだって欲しいよ、まったく。
のぞき穴から覗いてみようか。いや、そこまでする必要無いな。第一、声だけで知り合いと決めつけている先入観がおかしいのだ。数少ない俺の友人が、同日、同じホテルの階層で、それでいて俺の部屋の前で誰かと立ち話をしている確率というのは、どんなものなのだ。そんな偶然は天文学的数値に匹敵する。あり得るわけが無い。
それはそうと、声が一色しか聞こえて来ないのはどうしてだろう。男は独り言を唯々言っている変人なのか?
そうか、声差に惑わされているのは、そのせいだったのだ。独り言には合の手が無い。あぁ、俺も本当に馬鹿だな。声が一色だけ聞こえて来るから、彼は独り言を言っている、という思い込みが実によくない。
ケータイだ、ケータイ。
彼は、廊下で声高に通話をしている俺の友人の声に似た男。それで合点が行く。まったく、こうしている間にも時間は経ってしまったではないか。でもまぁ、急ぐことも無いわけだから、もう少しこんな体勢でいるのも悪くない。どうせ約二時間後には、額と脇に汗を滲ませ、てかてかなおでこ、はかはかな気持ちで、会社の人事部であろうサラリーマンと上っ面の談話が行われるのだ。
相変わらず男の声は、ごにょごにょとしか聞こえて来なかった。話の細部が聞き取れずにいたのだが、何やら他人事ではない文脈である。聞き覚えのある企業に加え、大学名、論文テーマなど、思い当たる既有の単語が奴の会話に所々点在していたのである。
すると、男が急に明瞭な声を発したので驚いた。ただ、俺が驚いたのは、出し抜けの声にも然る事ながら、その声の出所である。壁一枚、扉一枚挟んで“廊下”から声が聞こえて来ると勘違いしてしまった理由は、一人でこの部屋にチェックインしたことによる安心感からなのかもしれない。それに加え、ビジネスホテルの一室における、構造の把握が甘かったことも否めない。理由はともかく、男 の位置を特定出来たのは幸いである。
なんだ、洗面所の方から声が聞こえるぞ!奴はこの部屋にいたのか?だとすると相当不気味だ!俺が三度寝している間に、誰かが部屋に入って来たとでもいうのか?部屋のオートロックを掻い潜って侵入する方法なんて考えにくい。だとすると、故障?自動的に施錠されるシステムに、どこか不具合が生じたのだろうか?
そういえば以前、友人に聞いたことがあった。旅行先のホテルの話だ。朝食を食べに行こうと玄関のドアを閉めたら、施錠されていないことに気が付き、フロントに連絡したとのこと。その後、部屋にエンジニアがやって来て修理をしたようだったが、友人のそのトラブルは海外の話だ。ここは日本のビジネスホテルであり、最上階には天然温泉と謳って大浴場があるくらいの設備である。そんなところで、運悪くオートロックが故障した部屋に泊まり、平日の翌朝、泥棒に入られてしまうことがあるだろうか。だとすると、何て運の悪いことだ!
洗面所にいる不審者が、泥棒であると仮定してしまったのは早合点であるかもしれない。だが、思い設けぬ事態というのは、最悪な方向を想定しておかなくては、挽回する余地が無くなってしまう。
今の声は間違いなく、洗面台のあるユニットバスからであり、廊下から聞こえたものでは無い。俺と男との距離は、あの白い壁一枚を挟んでいるが、直線距離にしておよそ二三メートル程だ。我ながら間抜けだった。扉一枚介していたのは事実だが、こんなにも近くにいる男の声に聞く耳を立てていたとは呆れてしまう。
どうする?すぐさま起き上がり、なりふり構わず五六歩先にある玄関へ向かい、その扉を開けて一階のフロントへ通報することだって出来る。それが最善である。泥棒からしてみれば、ベッドですやすや寝ていた奴が、急に廊下へ飛び出してしまえば、いくらか動揺するはずだ。
だが問題になってくるのは、今現在、枕に顔を沈めて震えている俺に、そんなことが出来るのだろうか?
仮に、勇気を出して俺が一階へ通報しに行ったとしよう。その間、貴重品を抜かれてしまい、泥棒が逃げ出す可能性だってある。むしろ、その可能性は高い。いや、もっとこの状況を深読みしてしまえば、俺の財布は既に盗られた後かもしれないのだ。不明なことが多い現状、奴を一人にして廊下へ出るのは危険過ぎるし、泥棒からしてみれば逃げ出すチャンスになるだけかもしれない。
大体、俺が突然起き上がり、廊下へ飛び出しでもしたら、狸寝入りしていたことを白状するようなものだ。
それにここは確か…六階だ、駄目だ!俺が部屋からばっと飛び出して、非常口手前の角を右へ曲がり、二つのエレベータを待っている間に泥棒は逃げてしまう。二つエレベータのうち、いずれか一方でもこの六階に止まっていることだって考えにくい。
この作戦にはまだまだ粗がある。まず、泥棒の素顔が分からなくては意味が無いではないか。これだけの至近距離で犯行が行われているにも拘わらず、俺は犯人の顔も見ずに部屋を出て行くことになるのだ。警察に事情を聞かれた際、何も手がかりが無いのであれば、彼らも捜査のしようが無い。「ただただ怖くて、飛び出しました」なんて情けない話を言い出せたものではないぞ。
それならば、隣の部屋の宿泊客に助けを求めるか?そうか、泥棒を恐れない気概を持つのは、廊下に出てからでも遅くは無い。朝早い時間帯に申し訳ないが、緊急事態だ。勇気を出して、近隣の扉を片っ端から叩いてやり「泥棒だ!」と大音声を上げる行動力があっても良いではないか。わざわざ一階へ行くよりも、この場で救いの手を求める方が安全で確実ではないのか。
だが、肝心の宿泊客がいなかったらどうする?時刻は八時を過ぎているはずだ。現在の時刻は…不幸なことに、近眼の俺には何時を指しているのかよく分からない。
平日の朝のホテルは忙しないに違いない。ひょっとすると、大方の宿泊客はチェックアウト済みかもしれない。そんな中、廊下で大声を出していたら、俺は一人騒いでいる若者に過ぎない。
くそ、だとすれば今すぐベッドから起き上がり、洗面所へ向かうあの扉を勢い良く開けて「何をしている!」と怒鳴りつけてやるか。…目の前にリモコンがある。円卓にはボールペンだってある。果たして、それらが俺の身を守る道具となり得るだろうか?何の気休めにもならないのは、流石の俺も分かっている。小さい頃から、喧嘩沙汰になるようなことは避けてきた人間だ。それに、相手が泥棒であれば、凶器の一つや二つ持っているに違いない。
いや、奴に立ち向かうためのリモコンやボールペンでは無い。おそらく、直観で思いついたそれらは自衛目的では無い。自分と犯人との間に、何か物的なものを介して対峙しておきたいという、あくまでも心理的なものだ。要するに、俺は手元に何かを持つことで、生身で奴と相対する状況を避けたいのである。問題なのは、それが気休め程度にもならないということだ。
いや、待てよ。そう言えば、昨夜冷蔵庫に冷やしておいた酒瓶があるじゃないか。今時流行の瓶入りカクテル。あのガラス瓶は使い勝手の良い立派な凶器になるぞ!
瓶の首を持っていれば、臆病者の俺でも優勢であるのは間違いない。
だが、ホテルの一室で事件が起こった場合、住居侵入になるのだろうか。いや、そんなことよりも、俺が洗面所にいる奴を殴打したとして、それが正当防衛になるのかという疑念が生じてくる。正直、洗面所にロクな私物は置いていない。仮に、未だ何も盗られていない状況で、相手に怪我をさせてしまったら、俺の心はそれですっきりするのだろうか。
…殴った拍子で奴が死んだらどうしよう。俺の腕力を想定して考える必要は無い。だが、犯意の有無を知らずに奴を殺めてしまった場合、その後の罪悪感たるや、想像しただけでも恐ろしいことになってしまう。相手の当たり所が悪かったというのは、正当な理由になるだろうか?そもそも、奴が泥棒であるという根拠がどこにも無い。
一日の気力をここで使い果たしてしまったら、その後の本分を忘れてしまいそうで、それまた恐怖だ。
空き巣狙いに遭った後、気持ちを切り替えて「さぁ入社試験だ」と言って、堂々と面接室の扉をノック出来るだろうか。その一連を想像すると、俺は心の中で、くすくすと笑いが込み上げて来た。極めて簡単だ。むしろ、人をぶん殴った後であれば、アドレナリンが出た状態なので、却ってその方が、面接官には元気良く目に映るかもしれない。概して、これまでの面接試験で、俺に足りなかったのは元気であった。面接の際、決まって元気の無さが目立っていた。おどおどしているわけでは無く、何かこう、健康的な勢いが無い。まぁ、学生の時分を思い返せば、学校の行事には一切関わることが無かった。今思えば、あのコミュニティは“声を出す“という現場に成り得たわけであったし、あのような現場に居合わせたことが無かった故の現状。
性格。
当時、彼らは元気があるから声を出すのでは無く、声を出すから元気が出ていたのであった。もっと突き詰めてしまうと、自分が声を出さなくてはいけない状況にいることを自覚することで、元気が出る。まぁ、そんなことに屁理屈を捏ねるようだから自覚しないわけだし、気が付く頃には既に遅いのだった。
そういえば、化粧台の長机に灰皿があったな。酒瓶よりそっちの方が殺傷能力は低い気がしてきたぞ。喫煙室に仕方無く宿泊したのだが、まさかこんなことで灰皿に救われるなんて思ってもみなかった。ばっと上体を起こし、化粧台に置いてある白い陶器の灰皿を右手に持って、真っ先に洗面台へ向かう。その間三四歩で、時間にして二三秒だ。
思えば、酒瓶は冷蔵庫に入れてある。冷蔵庫を開けて、酒瓶の首を持って、洗面台へ向かう過程には、あまりにもタイムロスが生じて極めて危険だ。
あれ、昨夜、冷蔵庫に入れたっけ?ベッド脇のナイトテーブルに置いて、一人優雅にらっぱ飲みをしていた。テレビを点けると「あぁ、やっぱり都心の番組は芸人がたくさん出ているし面白いなぁ、これが噂のテレ東か」と、やや興奮気味であったところまでは覚えている。
そうだ、思い出した。ベッドに零しでもしたら始末が面倒だと思って、窓際の円卓に置いたはずだ。酔っぱらってしまったら、昨日の今日で面接を受けることになってしまうので、結局、飲み切らずに寝てしまったのだ。慣れない高速バスの後だったので、何もしていないくせに身体は疲れており、その状態でアルコールを胃袋に入れるのは危ないと判断して控えたのだった。すると、酒瓶は冷蔵庫にあるのではなく、円卓の上にたんとあるはずだ。
というか「身体任せに起き上がり、部屋の現況を確かめてしまえば良いではないか!」「いつまでぐずぐずしているのだ!」と、第二第三の人格は、脳裏から愈々急き立てて来る。この場でぐるりと仰向けになって、目玉をぐるぐる動かしてしまおう。四つの白い壁に囲まれた八畳一間、物の配置なんてすぐに把握出来てしまう。お前は枕を目の前にして、素性の分からぬ男にいつまでびくびくしているのだ。言っておくが、俺は多重人格者ではない。現状を別の角度から考えてみた際、どうしても行動しない自分に、もどかしさを感じるのは当たり前だ。だが、そんな安易な自分にも、そのリスクについて今一度言及しておきたい。そう、勇敢さは時として、想定していないことに遭遇してしまい、後のそれは勇ましい果断にはなり得ず、単なる無謀ということにもなってしまうからだ。
まず、気取られてはいけない。当初、なぜ俺がここまで慎重になっているのか、自分でも分からなかった。うつ伏せの状態から身体を起こす動作には、物音をさせずにこなす自信は勿論ある。だが、これは一考しただけではその危険性に気付くことは難しいのだ。
要するに、相手は一人とは限らない。俺は、洗面台に犯人が一人だけいる、という前提で考えがちであった。俺が身体を起こしている様子を、玄関口に立っている二人目の犯人に見られてしまうかもしれない。そうなって来ると事態は最悪である。いくら策を練ってみたところで、玄関扉を塞がれてしまっていてはどうにもならない。お手上げだ。
二人目、それを想定してしまうと事は厄介だ。コメディ映画でありがちな二人組だ。一人は、見つかったら逃げることは到底出来そうも無い太っちょな奴。その片割れは、日頃ちゃんと食べているのかと逆に心配になるくらいに痩せっぽちな奴。いずれも不健康そうな組み合わせは、手本となりそうだ。しかし現実は、泥棒をコミカルに職業としている者はどうもいないらしい。金銭的に困窮した男が、なりふり構わず、失うものが無い故の孤独の悪。
最悪なのは、相手が一人だと思い込んで玄関を開けてしまい、廊下で見張り役の太った相棒がずんと居たらどうしようか。そう、廊下で二人目が塞いでいる場合だ。見張り役をするくらいであれば、恰幅の良いガードマンのような奴に決まっている。そんな奴と取っ組み合いになったら不味いぞ。
何にしても、これ以上の想定は無駄である。とにかく情報が足りない。対応策をいくら頭の中で巡らせたところで、仮説ばかりが増えてしまい、いつまで経っても実行に移せやしない。
そうであれば、身体を反転させて、せめて玄関口だけでも確認する。危険を顧みなくては、話だって進みやしない。だが、リスクは小さく、寝返りを打つかのような仕草は極めて徐にする。玄関口にいるかもしれない二人目の盗人が、どうか間抜けな奴でありますように!
俺は首だけを動かして、枕に擦りつけるように顔を反転させ、恐る恐る薄目を開けた。判断出来るものは、あまり多く無かった。普段、近眼であることに大した不便を感じなかったが、このような緊急事態になると、極めて情報弱者になってしまう。
ぼんやりと眼前に写る玄関には、人影すら無い。昨夜、肘掛椅子に置いていた鞄は、行儀良く座っていた。こんな簡単な動作に、つまらない心配をしていた。悪い癖だ。どうやら、事細かに状況を飛躍し過ぎてしまったようだ。
というか、泥棒は何をやっているのだ。そもそも、部屋を物色するなら真っ先に寝室にある鞄ではないのか。それとも、奴の経験上、洗面所から盗みに入るのがセオリーなのだろうか。いやいや、そんなはずは無い。通常、貴重品は鞄の中だ。やはり犯行は筋違いだ。俺が泥棒であれば、まず、玄関扉にドアストッパーを挟めておき、真っ先に寝室へ向かう。鞄を見つけたら、その中身が分からずとも脇に抱え、とっとと部屋を出るに決まっている。
俺は、自説と言えるべきもの(ここまでくると、単なる憶測であるチープな思い込み)を踏まえた際、奴に対する疑念が益々膨らむばかりであった。判断が大いに鈍ってしまっている。盗った様子の無い物取りであれば、それこそ赤の他人で済むのだ。害が無いのであれば、奴と対峙する際、こちら側が自分の意見を引っ込めた上で、それを逆手に取ることだって出来る。
つまり、相手が泥棒だってなんだって構わないのである。勿論、構わないというのは、相手の素性が分かった上で実行するのが一番有効なのかもしれない。が、この際もうどうでも良いではないか!何が酒瓶で後ろからガツンとだ、危うくこちらが気違いになってしまうところだった。
あの扉が開いて、男が出て来るのを待とう。そして奴と向かい合ったら、俺はまず驚いたふりをするが、すぐさまこう言うのだ。「ここは六〇六号室ですよ?」と。そこには、相手方の素性であったり、何をしていたかも一切問い詰めようとはしない、究極の譲歩を演じ切れば良い。泥棒であれば、その演出に乗っかるであろう。彼らだってその場で白を切る演者になれるはずだ。「あれ?道理でおかしいと思った」とかなんとか言って、その場をはぐらかして出て行くに違いない。仮に、本当に部屋を間違えた宿泊客であれば、あちらさん赤面して、あわてて廊下へ出るに違いない。そう、俺は先方が部屋を間違えた体で一声を先行すれば良いのである。
ただ、一番怖いのは、たったそれだけの賭けをしておきながら、沈黙が続いてしまうことである。沈黙は怖い。もし、そうなってしまったら、俺の身勝手な妄想は瞬く間に膨張してしまい、下手すると、どちらか一方が犯罪者になりかねない修羅場と化してしまうのだ。
奴は、部屋を間違えた宿泊客である。後のことは、その場の直観に頼るしか他無い。
俺は、目をきょろきょろさせて、最悪な事態に備えるべく、もう少し楽観的になれる要素を考えながら、そして周辺にそのような物的根拠が存在していないか、改めて確認する。こうしている間にも、洗面所の男は、がさがさ物音を立てているのである。やはり時間帯にしても、ここまで余裕を持った盗人は考えにくい。その疑う心には、もはや彼が泥棒であって欲しくないという願望でもある。
そうか、分かったぞ。それも俺の先入観だったのだ!知らぬ人間が、部屋に忍び込んでいるのは泥棒であるという勘違い。朝食を終え、誰もが自分の身支度を進めているこの時間帯、他にも可能性があるじゃないか。宿泊客である我々が、チェックアウトするのを今か今かと待ちわびている、朝の時間をむさぼる様に労働へ費やす連中。清掃員だ!ビジネスホテルには彼らがいるではないか。
彼らには、時間内に一定の部屋数を清掃しなくてはいけないノルマがあるに違いない。少々強引なシステムではあるが、この部屋を担当している清掃員が、しびれを切らして入って来たのであろう。なんだ、それであれば起こしてくれても良いのに。昨日、フロントで貰ったホテルの冊子に目を通しておくべきであった。
おそらく、当ホテルのチェックアウトは七時までに済ませなくてはいけないという、少々理不尽な時刻設定だったのだ。俺は田舎者だ。てっきり全国一律で午前十時くらいまで余裕があるのかと思っていたが、この繁忙煩雑極まりない都心部、ましてや駅前に位置するビジネスホテルである。それくらいせっかちなホテルが世の中に存在してもおかしくない。出来る男であるならば、というより都会のサラリーマンは当たり前なのかもしれないが、奴らの朝はこうだ。
まず、一階のフロントへ行き、チェックアウトを済ませた後、その足でエントランスの傍にあったレストランへ向かう。思うに、そこが朝食バイキングの会場になっているのだ。入館した際、俺は確認しておくべきだったのだ。会場入り口のメニューボードにはおそらく、朝食の案内、及びタイムスジュールが書いてあったに違いない。そこで朝食を済ませ、その足で出勤するのだ。
宿泊客にはかなり失礼ではあるが、これは忙しないサラリーマンに合わせたシステムなのだ。モーニングコールなんて甘っちょろいものでは無く、半強制的モーニングルームクリーニングによって、寝坊助のあなた以外、世間はもう動いていますよという暗黙だ。それに乗り遅れることなく、お客様も早く起きて下さいという無言の圧力。それを考えると、勝手に部屋へ入られているわけだから、怒り出す客もいるような気もするが、俺にとっては、結果として存外悪いものでは無かった。
やれやれ、納得したと同時にほっとしたよ。当初、俺は怖くてこの羽毛枕を微かに動くことだって出来やしなかった。いつまで鳥の羽を嗅いでなくてはいけないのかと不安であったし、これほど朝から緊張するとは思わなかった。お蔭でスリリングな目覚めが出来た。ここまで来ると、勝手な思い込みからやってくる演出だな。洗面台の扉が開いたら、彼にはむしろご苦労さん、そしてすみませんと言ってやるのが妥当なのかもしれないぞ。
なぜなら彼は泥棒でも何でも無い。おそらく俺が三度寝している間、玄関で何度もノックをしたが、あまりにも俺が起きて来ない。待つのも我慢ならないとなった彼は、マスターキーでも使って入って来たのであろう。独り言の多い清掃員、または携帯電話で通話をしながら仕事をしている不真面君。そんなところであろう。やれやれ、人騒がせなホテルだ。チェックインの際、フロントで一言あっても良いものだ。ここを出る際に、クレーム調子は避けたいものだが、客としての主張も少しは伝えないとな。さて、そうと分かれば、さっさと支度をして…
不気味であった男の素性が不明であっても、世間知らずの俺は、彼を清掃員ということで自得するのである。緊張が解けると、俺は五感がぱっと明るくなるのを感じた。
足元にある空気清浄機がうなり出す。俺は密閉された一室で寝泊まりすると、鼻が詰まり、喉が渇いてしまう。
ここは駅に近く立地も良い。フロントマンは、やや説明不足ではあったが、とても感じが良い。ベッドも快適であり、大浴場も清潔感があり満足のいくものであった。昨夜、無料で提供された夜食のうどんは、小腹を満たすには丁度良く、学生の俺には大変有り難いものであった。今度来る時には、ぜひ禁煙室を予約してみたいものだな。
おそらく、朝の喫煙者というのは、円卓に灰皿を置いて、肘掛椅子に浅く腰掛ける。左手の珈琲カップと、右手に持った煙草のフィルターを代わり番こに唇へ運んでは、窓の景色を眺めながら一服する。味覚の広さは大人の特権とも言うが、俺は舌が子供なのか、正直どちらも好まない。やがて喫煙者は、部屋をふと見渡してみると、この一室が全てにおいて配慮された設計であることに感心するのである。
例えば、玄関脇にあるオープンクローゼットにしてもそうだ。入室してすぐ上着をハンガーに吊るすべく、ドア横に突っ張り棒がある。まず上着を脱いで、肩の荷を下ろしましょう、と言わんばかりだ。上棚には、消臭剤まで置いてある徹底振りだ。飲み会の後の臭いであったり、如何わしい店で付いてしまった匂いであったり、何にしても背広にまで配慮が行き届いているのは、日本人気質のおもてなしであろう。
部屋の利便的な趣向に感心している俺は、その玄関脇の突っ張り棒に対して、ぼんやりとした違和感を持つのである。それは「あれ、なんか忘れていなかったっけ?」というような、既存のものがぽっかり無くなったことによる、心のちぐはぐとよく似ている。そして、それが何故しっくりきていなかったのか。それを悟るのに、大して時間は必要無かった。昨夜、自分が入室した際の一連の流れを思い出したからである。ホテルの心遣いに感心している場合では無かった。
…ちょっとまて、俺の背広が無いじゃないか!昨夜、俺は部屋に入ってすぐ、堅苦しい紺色の上着を洋服掛けに吊るし、社会への従順を誓う首輪っかをすぐさま外して、あの突っ張り棒に掛けたはずだ。ワイシャツもそうだ。汗をかいてしまい、首元が汗地味になっていたので、消臭剤を大量に吹きかけ、それだって吊るしたはずだ。というより、俺の背広一式が無い!
まさか、洗面所にいる男は清掃員では無く本当に泥棒なのか。
…なるほど、分かった。男は、ビジネスホテルを専門とする、ジャケットのみを狙う泥棒なのだ。あちらさんも考えたものだ。金品目当てであれば、寝室まで入らなくてはならない。盗る対象が決まっていれば、深入りは無用。玄関口の横にあるハンガーに手を伸ばすだけで済むのである。ましてや、ビジネスホテルの構造は、外観が幾分異なっていても、各部屋の間取りは大体同じだ。であれば、盗む標準を上着や背広に合わせることが容易に出来る。おそらく奴は、盗った物をインターネットに転売するのであろう。そうだ、そうに決まっている。忍び込んだ際、あわよくば寝室を物色するのかもしれない。宿泊客が寝ている場合、寝室に入るリスクも無く、確実に上着だけを盗むことが可能である。
そうとなれば、うかうかしていられないぞ。リクルートファッションとはいえ、俺はあの背広を着て、高速バスで田舎からわざわざやって来たのだ。外着が盗られてしまっては、寝間着で入社試験を受けに行くという前代未聞の受験者になってしまう。
よし、今に見ていろよ。速やかなかつ肝っ玉の大きい行動は、相手の不意を突くのに丁度良い。半ばやけくそではあるが、あの扉を勢い良く開けて、酒瓶を奴の頭に振りかざしてやる。
…感性や意欲の作用とは区別して、思考というものは、概して頭の中で済むことである。頭の中での行為に過ぎず、それ故に俺は思いめぐらせていただけである。造作無い。無くなった背広よりも、洗面所にいる男の素性より何より、俺が違和感を持つべきところは本来そこでは無かった。
無論、初動のすべてを行うのに必要なのは頭ではなく“身体”である。布団の中で包まっていたはずの、その肝心要となる己の首から下が跡形も無いことに漸く気が付いた。
その現況に感覚があったのなら、とっくに慌てふためいていたはずだ。留年したとはいえ、俺は理学部理論物理科を卒業した男だ。人前で事細かに話をすることは苦手であるが、現象の概要を理路整然とまとめることに関しては、得意であると自負している。言うならば、これまで経験したことの無い心的現象。その筋道をよく分かるように解き明かすには、事実と併せて話すのが良い。
寝返りを打つ際、腰の方から力を入れて太腿を回転させるという行為が、実の無いものに感じられて仕方が無かった。それは習慣も例外では無い。ベッドの上で背伸びをして、全身で身体に酸素を吸入させる行為、硬直しつつあった夜の身体を復帰させるための準備段階。それらに対して、身体が空虚なことにまず疑念を抱いてしまう。いわゆる、脳が信号を発信する際、中枢神経を通って身体にこうこうこうしなさいという指図である。朝はまず、上体を起こして、背を伸ばし身の丈を高くしなさい。だが、司令塔がいくら指示系統を出してみても、その先々にある四肢に辿り着くこともなく、首というバイパスでぶつりぶつりと情報が途切れてしまう。
枕の上でごろごろとあがいているうちに、首元に掛かっていた布団が、その自重でするっと音も無く抜けてしまった。
動転しようにも、文字通り心ここに在らずである。生首になってしまった俺の奇怪さが、決して夢見では無いということだけは、読者には信じてもらいたい。また、第一声が「あ、ちょっと…」と発してしまい、何がちょっとなのか自分でもよく分からないが、丁度、誰かを呼び止めるような声を出してしまった。それは動揺した際、俺の単なる口癖であり、どうしても出さずにはいられなかったものでもない。ましてや、洗面所にいる男に助けを求めたわけでも無く、というより男の素性は、もはやどうでも良くなっており、それどころでは無くなっていた。
存在するということは感じることである。心のぐらつきであっても、それは目の当たりにする光景からやって来たことであって、自分の存在の有無から生じた動揺なのであろう。胴体を失ったという、常識的見地からでは考えられないと同時に、今いる自分が頭部のみでの存在を自覚しなくてはいけないという見地に帰着する。腑に落ちないが、落とすしかないのだ。
だが、こうなってくると、何が起きても時宜に適うはずもない。トイレのレバーハンドルを押し込む音と共に、ごぼごぼと便器を走る水流の音が聞こえ始めた。ドアノブが回転し扉が開くと、奴はベルトを閉めながら、ぬっと出てきた。
漸く、ご対面。
思い描いていた人物像とは全く異なる。当初予想していたのは、水色のつなぎを着て、三角頭巾をかぶっている若い男。または、マスクをして、黒を基調とした服装で特徴と呼べる特徴を隠し、目立たぬ身長で痩せ気味な奴。男の身形を見るや否や、それは清掃員でも泥棒でもないことはすぐ分かった。
風体に見覚えがある。というより、普段、自宅の洗面所や姿見で毎朝毎日見る体格だ。俺はあの身形を散々見て育ってきた。学生時代、形が育って成熟していくことがステイタスになったものだ。
元来、俺は運動が嫌いであった。ただ、幼い頃から泳ぐことだけは得意というより好意を持ってやっていたようで、小学生の頃は夏休みになると、友人を誘っては、学校のプールへ毎日のように通うアウトドアな少年であった。水泳の授業では、大した泳法を学ぶわけでは無かったので、中学生を機に俺は水泳部に所属したのだった。当時から、競争心の強い人間では無かったし、満足が行く結果を求めない性格でもあったので、大きな表彰を受けることは勿論無かった。そんな低い志ではあったが、学生時代の放課後は、水を延々掻いていたので、お蔭で肩幅が良くなり、男としての見栄えは幾分良くなった。だが、運動神経の悪さは体育の授業に出てしまう。一見、俺は体格が良いので、スポーツに特化しているのかと皆が思いきや、授業で行う球技にはなぜか活かされず、団体競技ではすっかり“お荷物”な存在であった。
そんな逆三角形には、肩で着るとも言われている背広が良く似合う。それが誇らしくなっていたこともあったが、ここ最近、それすら裏目に出てしまっている。面接の際、人事部の第一声は「良いガタイしているね、何かスポーツをやっていたの?」なんて入りは好い加減うんざりしていた。挙句には「雰囲気は体育会系なのにね…」なんて言われたりもした。いつだったか〈人は見た目が9割〉なんて恐ろしい表題の新書を読んだことがあったが、入社試験を落ち続けてよく分かった。現実、9割どころの話では無い。先入観は人の選択肢を完全に狭めている。どうであろう、あのような長々と下らぬ質問、口頭試問を繰り返されている中、実のところ1分かそこいらで合否は決まっているのではないのか?たとえ、それが人事の意識下で無いにせよ。そんな俺の本質を捉えてはくれず、初動で打ち崩してきたあの身形、見覚えが無いわけが無い。こうして実体と対峙するのは初めてではあるが、すぐに分かった。紛れも無い、あれは俺の身体だ!
ただし首から上が無い。
「お、漸く目が覚めたか、寝坊助三太郎」
首の無いその身体は、背広の袖口から見えるワイシャツを摘んで引っ張りながら、俺に言い放った。こうして傍で見ると、ドラフト会議に出席する若い野球選手のように、背広がぴっとしている。呆気にとられている俺に向かって、奴は再びこう言った。
「何せ、ネクタイってのは首あっての冠飾だから心元さびしいな。でも、お前よりも着こなしは上手いと思うが、どうだ?」
右手でネクタイの首元を抑えながら、左手でその先を摘んで話すその姿は、一端の就活生を振る舞っているのである。
「ちょっとまて、一体どういうことだ?」
普段、俺は眼前にある光景を信じて疑わない。ドア越し、壁越しで声が濁っていたから疑う余地があったのか。くそ、どうしてすぐに気が付かなかったのだ。あれは正真正銘、俺の声だったのだ。声変りを経て、ずっとあの声でやって来た自分、聞き覚えがあるでは済まなかったはずだ。…なるほど、声帯の振動が、頭蓋骨を通じて耳に伝わる経緯が無い。おそらく、録音された自分の声に違和感を持つのと同じ原理だ。本来、空中を伝搬し、耳に届く俺の声は、あいつが発している音声が真理なのであろう。散々身近にあるものが、これほどまで無意識下にあったとは油断した。とは言え、俺はこの状況を素直に飲み込めるだろうか。今度の今度は、流石に想像力の限度を超えてしまっている。
相互に漂う空気は決して不穏なものでは無い。奴は、恰も自分が真っ当であるかのような口ぶりで言った。
「どうって、今日は入社試験じゃないか」
「そうだ」
「これを逃したら、本当の本当に後が無くなってしまう」
「そうだ」
「うん、今日の今日こそは『君、採用!』の声をもらうべく、お前が三度寝している間に身形と調子を整えていただけだが?」
「…」
当たり前のように話しているのが癪に障る。俺の地声とはいえ、言葉を二度重複させるのも似ているが、俺はあんなに自由な気質では無い。そうか、調子だ!それが俺を惑わす原因だったのだ。自分の在り方をわきまえているので、その結果、俺は自信が無いように話す癖がある。俺が俺であるように、こいつの立ち振る舞いには親しみを感じるのだが、俄然、勢いが違う。
奴は空気清浄器のスイッチを切ると、手際良くコードを巻いてしまい、化粧台の足元へ片付けてしまった。椅子の座に置いてある鞄をベッドへぼんと追いやり、その肘掛椅子に浅く座り、偉そうに脚を組む姿は、枕上の俺を見返しているようにも見えた。縦窓から差し込む光が、悠々と腰掛けている身体を照らしており、胸元に挿しているステンレス製のボールペンが鈍く光る。おかしなもので、背広の内ポケットからメモ帳を取り出すその仕草は、悔しくも様になるのはどうしてだろうか。
奴はうぅむと唸ると、メモ帳をバラバラとめくり、呆れた調子で話し始めた。
「しかしまぁ、ここに書いてあるこの内容…ざっと目を通したが、ひどいものだな。これを丸暗記して試験本番、大声で言っていたのかと思うと、我ながら正気の沙汰では無いな。恥ずかしくも惨めである。俺が面接官だったら目も当られず、心の中で笑い転げてしまっているよ」
遠慮の無い言葉に頭に来た俺は「じゃぁお前だったら何を言う?」と強く言ったのだが、返答には大凡見当が付いていた。奴に言われなくても、文面に関しては俺が一番良く分かっているのだ。面接対策として自己開示されているメモ帳には、経歴に関する見栄や誇張がある。要所々々、嘘を交えた小話も記帳されており、我ながら恥ずかしくもあざといのである。はっきり言って、他人に見られて気分が良いものでは無い。だが、その知ったような口ぶりが鼻に付く。
「ふん、そんなもの、実際に行ってみなきゃ分からないじゃないか。お笑いの漫才じゃあるまいし、話すことなんて用意出来るか」と身体。
「ふん、それらしいこと言っておいて、そうはいかないぞ。そう安易な奴に限って、本番に不覚な態度を取ってしまう。土壇場で理知に富んだ返答が出来るのか?俺のどこにそんなスキルがある?面接で話す内容なんてものは、ある程度用意していなきゃやっていられないよ!」と頭の俺。
「そう、お前には無い」
「…?」
ふん、自分から喧嘩を吹っかけてきて、結局すぐ認めてやがる。潔いのはやはり俺の身体だな。俺に無いものは奴にも無いのだ。大体、その恰好で外へ出てみろ。街中大騒ぎじゃないか。
少し間を空けると、奴はこう言った。
「お前のその……思弁ぶった認識が幅広い人間性を失い駄目にしている」
「は?」
「今時、無駄な努力が労力になると思っている。お前の…というより、俺のこのメモ帳のようにね」
そう言って奴は、メモ帳をゴミ箱へぽいと捨ててしまった。
こいつ…ただでさえ、普通あるべき状態で聞いていれば良いものを…程度が甚だしい!そうだ、立場としては俺が圧倒的に下にいるのだ。俺は、奴のように椅子へゆったりと腰を掛けることも出来やしない、哀れな頭だということを忘れていた。本来、五体で満足するのであろう人間、そのうち四体はあちらにある。つまり、こいつを諭すようでは話が務まらない。俺は超自然主義のような、知覚によって捉えられないものを説明出来やしないし、それに対して信仰なんてものもない。であれば、なぜこのような事態になったのかを考えるべきではなく、どうやってこの状況を克服していくかが先決だ。首元の接合部分がどうなっているとか、そんなことを問題視する必要はまったく無い。
奴は再び喋り出した。
「とにかく、俺は今から朝食を食べに行く。あつあつのご飯とわかめの味噌汁をトレイに乗せ、おかずには納豆と鮭の切り身が定番だな。味付け海苔も欲しいが、想像するのは馬鹿々々しいので止めにしよう」
奴を止める手立ては無い。俺が促す静止に、奴はまったく耳を貸さなかった。「留守は頼んだ」と言って、鞄から財布とサービス券を手にすると、簡易スリッパを履いて俺の身体は、すたすたと部屋を出て行くのであった。
まったく、俺の身体のくせに舐めた真似をしてくれたな。あいつは、自分が世間で如何に異端な存在であるかを分かっていないのだ。この時間帯であれば、バイキングの会場は宿泊客でそれなりに混んでいる。配膳台で首の無い背広の男が、平然と自分の茶碗にご飯を装っていたら、会場の寝ぼけ眼は、一斉に珍獣を見るような目になってしまうであろう。
そもそも、一階の会場へ無事に辿り着けるだろうか?会場へ向かう途中、騒ぎになる可能性はいくらだってあるのだ。
廊下で若い女と擦れ違ってみろ。それこそ悲鳴を上げられてしまう。するとどうであろう、廊下の騒動を聞いて、部屋の扉はあちらこちら開き出してしまい、瞬く間に騒ぎは大きくなってしまう。悲鳴は悲鳴の連鎖を呼び、この階層、混乱は免れない。ましてや、エレベータで相乗りなんて出来やしない。あんなのが乗っていたら、お先どうぞなんて遠慮される話ではないぞ、まったく。
まてよ、あいつが起こした騒動は、行く末は俺もその当事者になってしまうのではないか。すると、どうなる?それこそ、これが警察沙汰になれば、面接試験の話は無くなりかねないぞ。ただでさえ浪人生を経て、かつ大学で留年までしてしまったのだ。周りの連中と比べると、俺は二年のブランクがある。履歴書に記載されている無記入の空白期を見て、眉間に皺を寄せる面接官にはこちらだって辟易しているのだ。
どんな言い訳をしたところで、面接日の変更を頼める立場では無い。そんなことを、当日になってお願いでもしたら、先方に「約束を守れない奴に社会人が務まるか!」と、ぐうの音も出ない正論を言われ、電話を切られてしまう。
駆け付けたホテルマンは、あの奇怪な姿を見て、一旦後退りするも警察に即通報してしまうのであろう。俺のことだから暴れ出す恐れは無いにしても、急を要することだと、勘違いされたらどう事情を説明するつもりだ?財布…運転免許証か!でもまてよ、それを証明する肝心な頭部はここにあるのだ。駆け付けた警察官に、それを見せて奴はどう弁明するつもりだ?「顔写真の“こいつ”は部屋に置いてきています」と突拍子も無い理由で切り抜けられる訳が無いぞ。警察らに証明を求められても、その場での実証は不可能である。
とすると、あいつのアイデンティティーはやはり俺である。二十三歳、就職活動中の男であり、それが今日、面接試験のために東京へやって来たという実証は、俺がいなくては絶対出来無いはずだ。あいつにだってそのくらいの想定は出来る。もし既に、誰かに見られていても、フォローの余地はいくらでもある。
人々を騒がすような事件の引き金になってしまったことで、奴は慌てて戻って来るであろう。そして「やはりお前が必要だ!」と俺に嘆願してくるに違いない。騒動になってからでは、はっきり言って遅いのだが、奴が部屋の外へ出て行ったからには、この際仕方が無い。己の存在が、世間に認められていないということを、自らの奔放な行為によって理解する良い機会だ。不服ではあるが、泣き付いてくる奴に、俺は心を大きくして迎え入れるとしよう。
首だけの俺は、カラスがひょこひょこと地面を歩くように、首の力を使ってベッドの上を進むことで、上手い具合に床へ降り立った。目線は歩く猫と同じくらいなのだろう。普段の高さからでは気付きにくいが、ベージュのタイルカーペットにある細かな髪の毛や埃が目に留まった。後は、だるまがごろごろ転がるように、玄関下まで向かうのだが、俺が自力で移動出来るのはこの扉までだ。
そうだ、あいつは俺に、留守を頼んで出て行ったのだった。戸当たりで扉を止めてない。困ったもので、見上げた先にある金属のドアノブは、たった1メートル程なのだが、どうしようもない距離に感じてしまう。普段、あれを容易にひねって開閉していたなんて、四肢の無い今の俺には、到底出来っこない。もしドアノブに届いたとしても、不幸なことに当ホテルはレバータイプでは無い。あれを回して扉を押し出す力は無い。好奇心のままベッドから降り立ってしまったことに、それが軽はずみな行いだとふと気が付いた。再びベッドへ這い上がることだって出来やしない。この首が、猫の足のように十分な脚力を持ち合わせていれば良いのだが、むしろ頭を支える筋力が足りないのであろう。首筋が疲れて仕方が無い。まるで、重い荷物を持つ腕のように、前腕にじわりじわりと乳酸が溜まっていくような感覚を首元で味わうくらいならば、枕の上にいた方が見栄えにしてもまだ良かった。
どうも俺は、不足な面に意識がいってしまう。そんなことでは、帰って来る奴に再びのびのびと行動されてしまうのではないか。
奴の言っていることは節々理解に苦しむが、朝の行いを思い返せば、要するに俺の代わりに身支度をして朝食を食べに行っている。日課となるのであろう朝の面倒事は奴がやってくれている。案外、これは悪いことではないぞ。そうだ、この事態が良い方向に変わることだってある。俺のことだ、あれだけ得手勝手なことを言ってはいたが、おそらく会場の隅っこの目立たぬ席で食事を取るであろう。外に出た以上、それくらいの配慮は出来るはずだ。奴は、平然と生首になっている俺を目の前にしても驚く素振を見せなかった。つまり、奴は自分が異端であることも分かった上で玄関を出ている。であれば、その配慮に欠くはずがない。
俺は食にこだわりが無い。あいつが何を食って来ても、俺はその胃袋に満足出来る自信がある。当初、朝食を食べに行くことすら面倒であった手前、お蔭で手間が省けたってものだ。
身形にしてもそうだ。首が無いくせに、あいつはネクタイの結び目もしっかりさせていた。あのネクタイにせよ、俺はどうも背広の着こなしが下手で堪らなかった。代替にしては上出来で、むしろ背筋が伸びている印象であった。朝の身支度はあいつに任せておけば、今後の快適なベッドライフが望めるのではないか?むしろその方が、人生が好転していく予感がする。
後は、寝坊助の俺が洗面台へ向かい、ぼさぼさになっているであろう寝癖を直し、目やにを取って、顎にざらざらと纏廻り付くひげを剃ってしまえば、朝の時間に余裕を持てる。なんと都合の良いことであろう!要するに、あいつは、怠け者の俺のために時間の効率化を図ってくれていたのである。それを実現させるための第一歩だったのではないか。
だとすると、さっきは強く当たり過ぎたな。戻って来たら、もう少し友好的に接しないと駄目だ。そもそも、あれとは文字通り一心同体であったのだ。仲違いをする必要は無いじゃないか。二十三年間、連れ添った仲という感覚も無いが、そもそも以心伝心のつもりでやっていたわけだ。なるほど、これからは朝の新しいライフスタイルが始まるぞ!俺はぎりぎりまでベッドの上で妄想に耽っていても、二度寝三度寝を繰り返しても何の問題も無い。忠実な俺のボディが、理想的な食事を取り、理想的な身だしなみを毎朝するに違いない。朝の生活習慣は、分業の枠を超えた目覚ましい創案となるのである。徹底して良い方向へ向かうはずだ。
背広姿の俺が、何事も無く部屋に戻って来たのは間も無い。
右手で腹をさすっては軽く叩いている様子を見ると、朝食が望み通り満ち足りたようであった。左手には朝刊を持っている。察するに、俺の取り越し苦労だったのは否めない。
「いやぁ、ビジネスホテルの朝食があそこまで立派なものであると、もはや仕事目的でなくてもこりゃ満足出来るな」
「そいつは良かったな」
「あぁ」
「一階まで無事に行けたのか?」
「あぁ、当然だ」
身体はそう言ってコップを手にすると、一旦洗面所へ向かい水を注ぎに行った。コップの底から二三滴垂らしながら、大股で戻って来ると、電気ポットのふたを開け、中に注ぎ入れる。スイッチを入れる。肘掛椅子に浅く腰掛けると朝刊を開くのであった。ごたごたと入り混じっている新聞の見出しに、普段の俺は興味が無い。フロントに据置きされてある朝刊を手に取ったのは、退屈凌ぎが目的ではないはずだ。奴は、ばらばらと音を立てて捲り出すと、目に留まった記事を前にぴたりと手を止めた。奴は、視界から俺を遮るようにしている。偶然か、故意にしているのか不明であったが、俺の位置からでは、奴の姿は、見開きの新聞を介して影しか見えやしないのだ。
「なんだ、ベッドから転げ落ちたのか?」
俺に向かって一瞥を投げる姿勢は、やはりどこか不幸せな、見下した表情(?)にも見える。ここで腹を立ててはいけない。本来、所期の目的はこいつへの歩み寄りなのだ。
俺は首の力を抜いて、後頭部を背にしてベッドの脚に寄り掛かる。そこから見上げる姿勢は、自分を卑下するような形になってしまうのだが、むしろ都合の良いことなのかもしれない。
「いやぁ、ベッドから降りたのは良いが、俺自身で移動出来るのはここまでなのだよ」
「…そりゃな」
「玄関を開けようとしても、ドアノブに届く訳も無い。普段、頭というものは身体の支えによって感じにくいものだが、重いのなんので…」
「まぁな、無駄に重い」
「今回の一件でよく分かった。要するに俺はお前の大切さに気付いていなかった」
「…」
ふん、分かっている。千切れてもそりゃ俺の身体だ。性格が少々異なるがどうやら本質は同じなようだ。興味の無い話になると、一切こちらに気を留めない。まるで無視だ。差し当って「どうでも良い」といった態度をみせる。だからこそ、ここで譲歩しているのではないか。
「何でもそうだが、人は失ってからその大切さを知るというのは、本当だね」
「…フィリピンで大型台風、被害甚大か。最近、日本も多いと思っていたが、世界規模で台風が多発しているのか」
新聞に目を通す日課は無い。俺を相手にしない為の手段材料だ。見出しを音読することで、人の話を無視するなんて、実に幼稚だ。(いや、そういえば、不快で煩わしい雑音が聞こえてくると、俺もそうしていたかもしれない)見苦しい俺を、視界から消していたいだけなのだ。独り言の調子は、俺にも聞こえる声量で尚且つ、それは冷たい小声である。「なぁんだ、しし座が六位じゃぁないか。これでは喜んで良いのか、がっかりするべきなのか分かったものでは無い」と奴は言った。星座占いに目を通すことも俺らしくないのだ。
「…」
おかしいな、台風の接近といい、星座占いといい、小さな話題がぽつりぽつりとあっておきながら、そこから敷衍することが全くない。もしかすると、こんなに余裕綽々でありながら、話の論点を俺から探っているのか。伝える意思が無いということは、それに対して興味が無いのと同時に、決まって相手の情報量を把握しているからである。とすると、それらの独り言から、奴の事情を汲み取っていかなくてはいけないのか。
いや、俺のことだ。ひょっとすると、単純に新聞に没頭しているだけかもしれない。意外と抜かり無いところがある。新聞で昨今の出来事を斜め読みするのは、口頭試問に向けての事前準備なのであろう。まぁ、時事に関心を寄せるのも良いが、こういう時に限って、その日の面接では突っ込まれなかったりするものだ。俺がお前に抱いた杞憂のように終わってしまうぞ。
「目に留まる記事でもあったのか?」興味無さげに俺は言った。
「…いや、無い」
「大体、新聞なんて、見出しをチェックしておけば事足りると思うが」
「無さ過ぎて逆に安心したよ。世相はいたっていつも通りだ」
「?」
相変わらず、俺は奴の胸中が分からずにいた。だが、奴の言動に対して徐々に違和感を持たなくなっていた自分に、俺はふと気が付いた。それは本来の意思に反していても、奴がこれまで以上に自然体に見えてきたからである。新聞越しにある影の上体が、左右に揺れているのが見える。現況に平常と感じつつあることにも若干の恐怖があったが、この場にある雰囲気は、それこそ、駆け引きなどそもそも必要としていない出来レースにも思えたからである。奴の余裕は成るべくして成ったものなら、俺はそれに対して唯々抗っていただけなのかもしれない。
刻一刻と入社面接の時間が近づいてきている。奴は、新聞を折り畳み、化粧台へぽいと投げると、足元の戸棚から緑茶のティーバックを取り出し、その封を切って湯飲みに入れる。湯が沸くのを待つのである。落ち着き払う奴に俺は言った。
「なぁ、ここでゆとりを持つのも悪くは無い。だが、どうであろう、俺たちは未だ試験会場の下見もしていない」
「…」
「ここは一旦、チェックアウトをして、会場の傍へ行かないか?どうせ街中の駅だ、近くに喫茶店はいくらでもあるし」
「もう行って来た」と言って、奴は俺の言いかけの言葉に被せるのだった。
「え?」
「飯後、ふらっと外へ出た。なに、駅のホーム伝いで歩いていけば、大した距離でもない。立地は良いが、古い建物だったよ」
それを聞いた俺は、奴の殊勝な心がけに感心してしまった。なんと下見まで出来る優等生だったとは!であれば尚更、俺はこいつと仲良く睦みあう必要が出てくる。俺自身頭に浮かんだ謝意が、どうも純粋なものとは言えないのだが、頼まれもしていないことを実行出来るとは、願い望んでいた以上である。
しかし、これでは相手を急かす口実が無くなってしまうな。それに、予想以上の行動力には関心を通り越して不安に駆られてしまう。信頼関係が出来た上でこのような分離活動をしなくては、奴の動向が気がかりで朝寝坊もままならない。
「ありがとう!そいつは俺たちも恵まれている。であれば、そろそろ元に戻らないとな」
と言って、俺は首の力の反動で床に直立した。日頃、使い慣れていない懇ろな言葉遣いをしてしまったらしく、思慮が浅かったのか、俺の身体には響くに値しない台詞だったらしい。先程まで、冷ややかで、緩慢にしか行われていなかった会話に、俺は悪い方向へ抑揚を生んでしまったのである。
「は?」
「え?」
「戻るとはどういうことだ?」
「…」
本来の朝であれば、まず寝癖を直す。床を転げ回ってしまったので、顔は普段よりも入念に洗うべきであろう。次にひげを剃らなくてはいけない。頬やあごの裏など、清潔感はどんな入社面接でも常識である。乾燥肌の俺には、突っ張った肌にスキンクリームを塗って欲しい。そして髪型、これが重要だ!俺はおでこが広く、コンプレックスになりつつある。それを整髪料一つで良い方向に持っていくことが出来る。俺の生活の誘因は、髪型一つと言っても良い。それらに有する時間を考慮してもらわなくては困る。
あれこれを踏まえて欲しいと、俺は奴に言い開くのである。奴は、うんうんと聞いているのだったが、肘掛に腕をだらしなく乗せると、右手の人差し指を意味も無くとんとんとさせ調子を取り始めた。腕時計のガラスと裏蓋をさすり始める。手元の落ち着きが無くなるのは、飽き飽きしている証拠である。日頃、物事が思うようにならないでいると、このように目に映ってしまう不快な仕草は、俺が客観とも呼べる目を徐々に持ち始めているからであろう。そうだ、こいつは俺なのだ。自己中心性の高い人間なのだ。自分のタイムスケジュールしか頭に無い。意思に反している俺の胴体には、やはり理解しなくてはいけないのだが、案の定、「それが今日の何と関係あるのだ?」と返されてしまい、もはや関係無いというより、話の脈絡が読めていない素振を見せたのだった。
電気ポットのお湯がごろごろ言っている。奴はポットの把手に手を伸ばすと、湯飲みにお湯を注ぐのである。湯飲みから立つ白い湯気がはっきりと燻らす。鼻先に寒さを感じてはいたのだが、それが体感と呼べるものにはならないことを俺は知っていた。室温は確かに低かった。
なるほど、俺も勘の悪い男だ。こいつは俺と一緒になる理由は毛頭無いといった調子だ。これには、俺の血も沸点に達して沸き立つってものである。
「おい、ちょっと駅前を歩いたからって良い気になるなよ!この時間帯は、誰だって自分の勤め先へ出向くのに忙しいのだ!行き交う人をいちいち目で追うわけがないじゃないか」俺は強く言った。
「そうだ、生首になっても分かっているじゃないか」と身体。
「そうだ、俺は分かっている。お前が世間の正統から外れた身形をしていることくらい。本音を言えば、お前だって同じ気持ちのはずだ!」
奴は、湯呑の中から滴る濾紙の袋をゆるやかに取り出し、ゴミ箱へぽいと捨てた。背凭れに寄り掛かり腕を組んでこう言った。
「すまん、俺はお前ではあるが、言っている筋道が掴めない。要するに、この状態で入社試験を受けるのは不味いというのだな?」
奴の素知らぬ様子に俺は少し驚いた。まさか人間というのは、頭の中だけに常識的な観点が詰まっているのであろうか。だとすると、こんな自発性からくり人形と心通わす会話なんて今後出来やしないぞ。
「というより『元の状態に戻ろう』ということだ」と頭。
「あ、なるほど」と身体。
そうだ、結論先行で話を進めるべきであった。こいつが、この状況にここまで冷静でいられるのは、こうなるきっかけを作ったが紛れも無く俺自身だからだ。それだけ分かれば後は良い。このような交渉をするのも望むところではないのだが。差し当って、こいつの言い分は「頭からの思考は、もはや必要の無いもの」といった他愛の無い文句なのであろう。回りくどく、頭でっかちな論調が俺の悪い癖。自身の中で期待だけが膨らんでおり、その期待が世間と交錯した時、絶望に打ちひしがれてしまう。そんな苦い思いを俺もこいつも何度も味わってきた。要するに考え過ぎなのさ。それは分かっていた。それが裏目に出てしまい、相手に誤解を与えてしまう。今もそうかもしれないな。良いさ、俺の身体にどう思われていたって俺は俺だ、今に分からせてやる。
だが奴は、あからさまにふぅと吐いて「自分の立場を全く分かっていないのだな」と言って、腕組みをしている左手の人差し指を二の腕でとんとんとさせていた。奴は続ける。
「まさか、俺がお前の思考に危惧を抱いていたから、こうした強硬手段を取ったとでも思っているのか?」
「え?」
「まぁ、それも一理ある。たしかにお前の考えていることは、いつも短絡的過ぎて反吐が出ていたよ」
「だから、それは悪かったと言っている」
「悪かったぁ?それで済むなら、こんなことするわけないだろ!お前、本当に自分の立場が分かっていないようだな!いつも考えるだけ考えておいて、後のことは首から下にすべて丸投げだ。そんなことを散々させておきながら、その日常に戻れと言われて戻る奴があってたまるか!」
思いのほか、奴の方がご立腹だった。というより、日頃の不平不満が爆発したってところか。短絡的というより、ただの短気である。新聞を読んでいた時は、心が落ち着いていたように思えたが、ひょっとすると俺の言動が癇に障っていたのかもしれないな。俺は気が短い。俺が言い訳をすればするほど、奴の満ち溢れる怒りに拍車をかけるってものだ。本来であれば、時間解決が最も有効なのだが、そんな余裕は無いのである。
身体の言い分は理解した。だが、こいつは重大なことを分かっていない。それでも俺たちは、一緒になる理由があるのは当然だ。自身まで腹を立ててしまったら、後が無くなってしまうことを念頭に入れ、一呼吸して俺は話し始める。
「分かっていないのはお前の方だ!当たり前だが俺とお前、一つになって初めて世間に顔向け出来るのだよ。そりゃそうさ、俺はドアノブ一つひねることも出来やしない。そのかわり、合理的な判断が俺には出来る。お前が日頃、不服だったのは分かったが、そんな恰好で面接会場に行ってみろ。騒動になって試験どころでは無くなってしまう!」
それに対して、奴はふんと冷淡にあざけると、いよいよ捲くし立てるのだった。
「まったく、分かってないなぁ。俺は先の道中、街行く人々に見られていたが全く問題無いのだよ。それに下見へ行く際、フロントに部屋鍵を渡しているよ?大体、俺とこうして対峙するまでの間、どれだけ無駄な憶測をしてみせたのだ!読者の中には嫌気が差した人だっていたはずだ、まったく!
そもそも、良く聞け。“顔”というものに関してだが、どうもお前たちは先入観を持ち過ぎているのと同時に、それを他者へ与え過ぎている。その額、眉毛と瞼に覆われた二つの眼、鼻に至っては二つの鼻孔まで他人への印象付けの対象だ。口や頬、顎も例外ではない。髪の毛に至っては、毎朝べたべたしたクリームを塗りたくっていじくり回す必要がどこにある?要するに、俺が言いたいのは、お前の考えが、日頃お粗末なのは今に始まったことでは無いので仕方が無い。が、その顔という部位によって世評が決まってしまうことには、うんざりだ。顔は分かり易い。その人の生き方がにじみ出てしまう。その点、根暗なお前を克服するため、このように仕立てられた背広で見繕い、コンプレックスを取り除いた完成型が俺である。
”首なし“は現代人の最新型理想形態だと思う。無駄を省き、効率を求めるのであれば、お前らが思い描く理想や合理的配慮は、むしろ必要無いと思うのだが?人間、やれ顔が整っていれば、それだけで持てはやすのはどうしてなのだ?至極簡単。見栄えが良い、それだけである。だが、所詮それだけであって、議論の発展性がまるで無い。だったら初めからそんなもの無くてだな、お互いの仕事振りを見ていれば何てことないじゃないか。顔という表面各部位に個性があってしまうから、犯罪が起こり、しがらみは世間に纏いつく。事実、お前もそうだろう。自分の顔面で損したことはいくらでもあったろうに…あぁなんて可哀想、塚本弘志二十三歳、俺はお前の直観を買っていたのに、その結果は頭部切断。首から上の理想を、首から下が裏切るのは世の常か…それであれば尚のこと、俺とお前は絶交するべきだ!」
「いやいや、それだけで仲違いする理由にはならない!そもそも、他人の目に映る印象は顔だけではないだろう」
早口な俺の言葉を、奴はばっさりと否定する。
「嘘だね。顔だけとあえて限定しているが、それは本意で言っていない」
「…本当だ」
「じゃぁ聞くが、例えば今日の面接官が、つるっぱげのどぎついおじさんだったらどう思う?」
胸の前でろくろを回すかのような仕草には、いかにも自分が正論を言っているかのように得意気である。加えて、俺に答えるよう右手で合図をした。
「まぁ、若干の怯みはあるわな」と頭の俺。
「うん、集団面接の時もそうだ。周りの連中が生彩に欠ける表情で、尚且つ面接官に突っ込まれていたらどうだよ?」
「…少し、気負ってしまうかもな」
「面接官が美人だったら?」
「そりゃぁ…」
「そら見ろ!結局は顔の印象で多くは決まってしまう。それを実証しているのは紛れも無く貴方ではないか!本人の身体を前にして嘘は止めてもらいたいよ!」
「いやいや、嘘のつもりで言ったのではない。今のは誘導尋問も甚だしい。こちらの言い分も少しは聞いてもらいたい」
たしかに、論点が“見た目”になってしまうと、こちらの分が悪い。俺がこのまま主張を押し切られてしまったら、この馬鹿は何も知らずに本当にどこかへ行ってしまいそうだ。話を戻しておきたいが、実例が出来てしまっている。常識という切り口で、アプローチしていくしか方法が無いのかもしれない。
「なぁ、お前の言い分は顔が無くてもやっていけるということだが、世の中そう甘くは無いぞ。たしかに、お前の先の行いは実に見事であった」と一旦譲歩。
「そりゃどうも」と不本意。
「だがそれは事実、本当の話なのか?」と強気。
「…どういう意味だ?」
心外な疑いを掛けられて気に入らないのか、身体は低い声で俺に聞き返した。これこそが、考え得ることだと思っていた。俺は、一方的な私感によって疑いを掛けてしまうのだが、そもそも口論というものはそういうものだ。
「たしかに、お前は飯を食いに行くと言って、部屋を出たところまでは認めよう。だが、一階のバイキングで食事を取り、試験会場の下見まで行って来たという作り話くらい、日頃こすい俺なら考えられる。ましてや、騙す相手が俺であれば、その嗜好も容易に把握出来るのではないか?『フロントに鍵を預けた』そんな形式ばったこと、言語行為のうちに入ってたまるか。朝のフロントは繁忙まっさかりだ。あちらさん、いちいちお前の身形を確認していないかもしれない。結局のところ、後付けの嘘だって考えられるのだよ。なぜなら、お前の眼球はここにあったのだからね」
「…つまり、先のさっきまで俺が自作自演していたとでも?」
怒りを含んだ口調に聞こえた。奴の気持ちもよく分かる。奴からしてみれば、俺に論点をすり替えられたことに加え、疑惑を招いたことに対する不審でしかない。俺は再び口を開く。
「まぁ、そういうことだ。というより、単純に信用していないということだ。考えても見れば、試験会場なんて携帯のナビ機能で確認出来る。差し当って、先の五十分弱の間、トイレにでも籠っていたのではないか?そうやって時間的な裏付けを作って、俺と絶交する台詞を考えていた。違うか?」
「…」身体は一旦よじる。
どうだ、図星だったのだろう。そうだよ、考えても見ろ。大体、口も無いのに飯など食えるか。常識。それに尽きる。調子に乗って、この部屋を出たことが間違いだったのだ。その時点で常識から外れたのだよ。さぁ、話がまとまりそうだぞ。臆病者の俺のことだ。要するに、部屋を出たものの、人と接触する勇気が無かったのであろう。そうと決まれば、仲違いなんてしている場合では無い。こうもしているうちに
「どうやったら納得してもらえる?」と身体。
「は?」
「だから、どうやったら先の行動が真実だったと納得出来る?今、それを示してやる」と超強気。
意外であった。要求出来るなんて予想もしていなかった。でもまてよ、これだけの自由な権利は、それだけのリスクを伴ってしまうぞ。
さて、どうするか。元に戻った状態で、フロントまで行って確認を取るか?いや、お互いが分かり合えない状況で、一心同体になるのは不本意であろう。それは俺自身、なんか負けた気がして納得出来ない節がある。心の座りが良くない。
仮に、元の状態に戻ったとして(その際、首根っこのつぎ合わせがどうなるとか、そういう物理的観点は置いておく)一階へ出向いたとする。こいつの言っていることが事実であれば、フロントマンからは「はい、先ほどお預かりしました」と返されてしまう。「誰から預かりましたか?」と聞いてみても良いが、先方は質問の意図が読めず迷惑するであろう。俺の身形だけを見て「お客様からです」と返答された場合、それは真実であったと俺は受けざるを得ない。
当たり前だが、「お預かりしておりません」という返答が最良である。自作自演であることを、何の根拠もなしに俺ははっきりと言い切ってしまったので、確認を取る以上、その返答をフロントから受ける必要がある。
おかしいな…俺は、本人に断言をしておきながら、未だそのような拭えない見地を想定しているのか。背広のこいつとホテルの従業員が、フロントで平然と部屋鍵の受け渡しをするのもシュールな話だ。日常では考えにくいはずなのだが、その信憑性が俺の中で薄いのも事実である。昨今の若者によくある食傷気味の人間嫌い…たとえ、宿泊客が奇怪な姿をしていても、事務的に事を成すホテルマンがいるだろうか。
よくよく考えてみれば、先方に「いいえ、お預かりしておりません」という回答を受けても、俺の身体はいくらでも言い逃れを出来てしまう。この時間、受付は宿泊客で混み合う。そんな中、預けた預けていないの水掛け論をそこでやるわけにはいかないし、そもそも今現在、俺は鍵を持っているにも拘わらず、その質問をされる従業員の気持ちはいかがなものであろう。
最悪なのは、フロント側が「申し訳ありません。存じかねます」という単純に覚えていない場合だ。なぜなら、部屋鍵は俺しか持っていないわけだし、事実確認をそこでする余地が無くなるわけであり、話の裏がそれ以上取れないことになる。客から鍵を預かった際、彼らはその都度、帳簿に付けるというマニュアルがあるのだろうか?…いや、ビジネスホテルに幾度も泊まってはいるが、そんな作業は過去見受けられない。それに宿泊客であれば、あちらさん真意分からずとも失礼の無いように振る舞うのではないか。きっぱりとした否定的な回答はしないはずである。
とすると、元の状態でフロントへ出向いたところで、確実といえる確認の取りようがない。そこが疑問だ。意外と簡単な行為に思えて難しい。
落ち着け、趣旨を不透明にしているから無駄な思案をしてしまうのだ。「俺、さっき鍵預けたよね?」という内容を確認しに行くわけである。案外、そういう宿泊客もいるのかもしれないな。自室の玄関口まで行き、「あれ?鍵が無い」という誰でも一度は経験があること。やがて、フロントに預けたことを思い出し、再びロビーへ戻ってしまう。それを装うのか。いや待てよ、この作戦には一点、粗がある。五体満足の状態で従業員に確認を取るのは、やはり根本的な解決にはならない。俺も馬鹿だな。そもそもの目的は、こいつの言動が嘘か本当かを確認することでは無かった。その姿では、世間で通用しないという常識を教えてやる。それが本意。もっとシンプルに話を解決する。大体、嘘かどうかを確かめるなんて稚拙である。こいつが嘘を付いていようがどうでも良いのだ。必要なのは、人と面と向かって会話が出来ない証拠だ。それだけで十分である。
こいつのシナリオの中に、フロントのやり取りがあったのであれば、何か策があるのだろうか?直観であるが、それは先の会話の流れからやって来た後付な気がする。であれば、そこに突っ込む余地がある。バイキングの営業時間は既に終わっているので、会場での確認は取りようが無い。
ここは一つ、鎌をかけてみるか。
「その従業員の顔を覚えているのか?」俺は言った。
「…顔は知らない。だが、ネームを付けていた。佐藤という男だった」
これまた意外だった。もし、こいつが明言を避けてしまえば、俺だって話を掘り下げようとはしない。素直さが裏目に出たな。嘘の上塗りは際限が無くなってしまうぞ。「顔は知らない」で止めておけば良いものを…(この時、俺は、奴の素直さを認めておきながら、嘘つき呼ばわりしている矛盾に気付いていない)
「その佐藤という従業員をここへ連れて来い」と頭の俺。
「は?」
「お前の言動を確かめるためには、お互いこの状態で、尚且つここで確認する必要がある」
「…佐藤というホテルマンをこの部屋に呼ぶのか?」
「そうだ、そしてお前本人が確認しろ。『八時半頃、この部屋の鍵をフロントで、貴方に預けましたよね?』と」
「…」
これには予期せぬ対応が求められるであろう。お前を阻む常識を今に見せてやる。首の無いお前が、受付での交渉をどうしたのか見せてもらおう。
ふん、核心に迫るような雰囲気にどうやら気が進まないようだな。ネクタイの結び目をいじる仕草がそうだ。俺の悪い癖が出始めている。要するに、当然あるとして求められていたものでは無い。ここまで要求されるとは思ってもみなかったのだ。俺の回答を受ける前の段階で、幾多の予想と対応があったに違いない。思考の裏を見越すことで、あえて俺に発言権を与えたのであろうが、そう上手くいってたまるか。
だが、一瞬戸惑いの気配に見えたのは、表情が無い故の雰囲気からなのかもしれない。身体は腕時計に視線(?)を落とし、何かを案じている風な素振を二三みせると、突然元気良く言った。
「わかった、今フロントに電話してみる」
身体は両太ももを両手でぱんと叩くと、取り付けの電話機に手を伸ばした。嫌に素直だな、腹を括ったのか?まぁ何でも良い。これから始まる珍事件は見物だな、おい。佐藤という男が腰を抜かさなければ良いが、それはそれで面白い。電話越しで事情を説明している奴の様子を見ると、先方がどうも渋っているようだ。それもそうだ、まず出向く理由が分からないし、それでいて時間帯が悪い。こんな朝っぱらから、何のクレーム対応だとあちらは不快に思っているだろう。…朝?
うん、少し遊び過ぎたな。面接の時間もいよいよ迫ってきているはずだ。なに、これから起こることは簡単なことさ、すぐに終わる。これが済んだら、早急に面接会場へ向かえば良い。
「すぐ来るってさ」奴は受話器を置くと、こちらの方を見て言った。
「そうか、手間をかけて悪かったな」
「あぁ」
「でも、これはお互いに生じている常識の食い違いを解消するためだよ。分かってくれるだろう?」
「…」
「それとも、今すぐ元の状態に戻って、これまでのことは無かったことにしても良いが?」
我ながら若干言い訳がましい発言であったが、これまでのやり取りを建前とすれば、本音を言ってしまうとこれに尽きる。意地を張り通すのもエネルギーがいるのだ。(早いところ、この頭をその身体で支えておくれ!)
それにしても、俺も人が悪いな。と言っても、もう答えは出ているのだ。今後のこともあるからな、自分の身体とはいえ、少し可哀想だが仕方が無い。こいつは、要求の一つ出来やしないハイジャックをした犯人同様、燃料が尽きればそれでしまいという状況だったのだ。それでも奴は、余裕な素振を見せてこう言った。
「いやいや、これで信じてもらえるのであれば、それに越したことは無い。ところで、先方が俺の姿を見て腰を抜かしてしまったら、今後、お前さんに従うが、もし平常通りコミュニケーションを取れていたらどうするつもりだい?」
腕と脚を組み直し、深く腰を掛けると、前のめりになって俺を見下ろした。
…なるほど、考えてもみないことを言う奴だな。これじゃまるで、勝ち誇っていた俺が馬鹿らしくなってしまうじゃないか。平常通り?それが出来ないことを見越しているのだ。「それは有り得無い」と言って、俺はあしらってやった。すると、身体は声を大きくして言うのだった。
「有り得無い?この状況が成り立っていて、尚且つあんな要求を人にさせておいて、今更よくそんなことを言えるな?既に、お前の頭の中では想定し得ないことが起きているじゃないか?それをここに限って、『有り得無い』そんな一言で蔑ろにされてたまるか!」
身体は迫るようにして真ん前に立つと、床に転がっている頭を両手で抱え、円卓の上にどんと置いて相対させるのだった。
床に落ちていることも虚しいが、こうして公然の家具にさらされるのも恰好が悪い。何にしても、俺は何も出来ないし、どこにいても見苦しい。気の短い俺のことだ、少し腹が立ったのであろう。
であれば、少々気を悪くさせてしまったな。こうなってくると、ここは一先ず無責任な態度は控えるべきであって、相手の御機嫌でも窺うのが賢明ではあるが。俺は正面を切ってこう言った。
「そういうことだったら悪かった。だがそれは、お前一人で自活して生きていけるという事実にもなるじゃないか?」
「そうだ」
「だったらそれまでの話だ。顔を必要としない世間にお前は適用出来る。俺からの援助を必要とせずに堂々と生きていけば良いさ」
「つまり、晴れて“自由”を約束するのだな?」
奴がその二文字を強調して言った時、俺は思わずふんと鼻で笑ってしまった。その身形において、どれほどの社会的弊害があると思っているのだ。世間へ向かってお前がいかに自立してみせても、それはむしろ拘束の一途を辿ってしまうではないか?すぐさま俺はこう返した。
「自由なんて大げさだな。結局、俺がいてもいなくても、お前は一端の就活生であることに変わりは無い」
「ふん、その言葉、本当だな?」
奴は好い気になって、指の関節をぽきぽきと鳴らし始めた。
その時俺は、これまでの状況に対して、一方的な立場で展開しているかのような錯覚に一瞬陥った。散々、狭小な視野で物事を認知していることによる、何か思い違いをしている感覚である。しかし、それを認めてしまっても、後戻りが出来無いのも事実である。
なぜなら、あの癖は心境の変化からやって来るものであり、それも状況が好転しそうな時によくやっていたからである。つまり、奴にとって、局面が大凡打開されたのである。
「ふん、くどいな。お前の好きにしろ」俺は精一杯の失笑をまぎらせて言った。
どれだけ何を求められようが、関係無い。この先にあるシナリオは読めているのだ。それに沿って従えば良い。そうだな、騒ぎが大きくなりそうだったら、元の状態にすぐ戻れば良い。外がバタバタしてきたら、素知らぬ顔で応対すれば良いのさ。そうなれば、俺の身体も応じるであろう。
玄関の扉をノックする音が聞こえて来た。当初、俺はこの朝のドタバタが終わるものだと、てっきり思っていた。が、それは事の発端にすぎず、発端というよりもはや、扉が開こうとしていることに終末的な気分にさせられるのだった。固く心を定めていたはずの意思が、ここにきて緩みつつあったからであり、正直怖くなっていたのだ。俺の身体は、短く「はい」と玄関に向かって声を放った。その明瞭さは自信に満ち満ちていた。どうしてこいつは、こんなにも自分の風体に疑問を持たないのだろう。俺は小さな声で「やっぱり…」と聞こえない程度の声量で発してしまったのである。それを聞き取れなかったのか、単に無視しているのか不明であったが、俺の身体は早足で玄関へ向かう。すると、扉一枚を挟んで「先ほど、お電話頂いた佐藤です」と若い声がした。
卓上の俺は、顔を玄関先にぐるりと向けた。
身体が起こす一連の動作に不審さは無かった。奴はドアノブに手を掛け、扉を開けると第一声が「すみません、お忙しい中…」と、呼び出しておきながらの謝意を含む低姿勢。開き切った扉の戸先を右肘で止めてみせた。対峙する二人の対応すべきものに、不調和な感じがどこにも無い。奴の先にいる黒のスーツにカッターシャツの…
おかしなもので、俺は普段何も考えていなかったのであろうか。さっきまで、首の無い自分の身体と話をしていたから、事物に対する驚きというか、そういった感覚が麻痺していたのかもしれない。そうだ、こいつと対面した際、俺自身の反応は薄いものであった。なぜなら、奴を見る以前に自身が首だけになっていることに気付いていたからである。既存していた身体に対する愛着の有無は関係なく、恐怖心が拭い去られていたのであろう。要するに、自分が既に異端なものであったから、あいつに対して自然な応対が出来たのだと、今更だが感じる。
問題はここからである。驚く際の悲鳴というのは、予兆や伏線無しにいきなり起こるものでは駄目なのであろう。テレビドラマのようにはならない。本当に突発的であれば、人は声を出すのも忘れてしまう。その上、俺は眼前にある奴の風体に慣れてしまっていたのだ。
なので、玄関先に立っている佐藤という首の無いホテルマンに、俺は声を出して動じることは無かった。ただ、首元の骨格筋が収縮をし続けと、漸くぞっとした。二人はまるで打ち合わせをしていたかのように話が進む。事情を説明している俺の身体と、それに対してはいはいと聞いている佐藤には身振りがある。
「はい、確かに先程、お客様と鍵の受け渡しを致しました」
「おい、聞いたか?」と、腰を反転させて俺の身体は俺に言う。
冒頭でも言ったが、俺はひどい近眼だ。高々四五メートル先で対話をしている二人の頭部がぼやけて見えない、という苦しい理屈を通したところで話は進まない。しかも、ホテルマンの佐藤が言うには「今朝はそのようなことで、対応させていただいているお客様が多くいます」とのことであった。
多くいる?ちょっと待て、今現在、世間はどうなっているのだ?話の脈絡が一向に読めないぞ。鍵の受け渡しが多いということか?
それに対し、俺の身体は「なるほど、それもそうですね」とすぐさま聞き入れると、続けてこう言った。
「今より後に起こることを推量するのが趣味な奴ら。考えかけたことは金輪際、考え抜かねば気が済まないことに呆れ返ってしまい、それに付き合うのも大変でした」
すると佐藤は、すぐさま同情して「そうでしたか。実は、昨夜からそのようなお客様が多く居りましたので…こちらこそ、手が行き届かず不便をお掛けしました」と言った。尚も続ける。
「ちなみに、お客様は“処分“のご予定はございますか?」
「処分?」
「はい、当ホテルではチェックアウトの際、“あれ“を放置していただいても問題ございません」
佐藤の提案を受け、俺の身体は腕組みをして扉に寄り掛かる。
「そうだな、この際だからお願いして良いですか?何せ、これから入社試験がありまして、そろそろ支度をしないといけない」
「左様でございますか。ご健闘をお祈りしております。“あれ“が無くなったお客様でしたら、良い方向へ導く力がございます」
「いやはや、周りがどの程度この姿になっているかが心配です。何せ“あれ”があるかないかで、今後の合否が決まってしまいかねないね、ははは」「ははは」
「おい!ちょっと待て!」
俺は、その場に向かって大きく一声を上げた。だが、その先の言葉は考えていなかった。「それは、一体どういう意味だ…」と、途端に力無く言うだけであった。
すると、二人の心も興が醒めたのか、佐藤はこの場の雰囲気を汲み取って「それでは、失礼します」とお辞儀をして、その場を後にした。
扉は閉まった。
「あいつは何だ?」
腕時計をはめる。
「何の芝居をしていたのだ?」
靴下を履く。
「口裏合わせやがって、汚いぞ!」
外靴を履き、鞄を提げる。枕元、ナイトテーブル、化粧台、洗面台…忘れ物が無いかを確認すると、俺の身体は姿見の前に立って「良し!」と言った。奴は勢い良く扉を開け、廊下へ出て行った。がちゃんと扉が閉まると辺りはしんとなった。
なるほど、外へ出なくても察しておかなくてはいけないのだ。本来あるべき姿は、もはや見たくもない。
外はすっかり晴れていた。