
言葉の瓶詰め屋 標本No.40 1部終幕(後編)―過去―
また、落ちている。
足元、アスファルトの隙間に、黒ずんで棘だらけの、不快な塊。
「死ね」「消えろ」「うざい」
街中、あちこちにこんな歪んだ言葉ばかりがまるで吸い殻のように捨てられている。
僕はそれを小石のように冷たく蹴り飛ばした。
父さんも母さんも、この棘が見えない。
「今日もいい天気だね」と笑い合う二人の間にも、薄緑色の嘘くさい建前の言葉が漂っている。
......なんで、僕だけ。
嫌な力だ。見えなければ、僕だって普通に笑えていたのに。どうせならもっとマシな能力が良かった。
「君、今、何か蹴ってなかった?」
背後から声をかけられた。
同じクラスの、フタイだ。
「トゲトゲの言葉、蹴ってた」
僕が正直に答えると、フタイは目を丸くしてそれから、ふはっと笑った。
「なにそれ!!面白いね!!」
地味で、勉強もできなくて、誰の言うこともすぐに信じる、バカな奴。
けどなぜか彼は僕に懐いていた。
僕がどれだけ冷たくしても「ねえ、これ知ってる?」と、毎日優しいピンク色の言葉をかけてくる。
ある日、フタイがいじめられているのを見かけた。
「お前なんて、いなくなればいい」
いじめっ子たちの口から放たれた、真っ黒な言葉の槍が、フタイの体に、グサグサグサッと音を立てて突き刺さっていく。
フタイは地面に蹲り、声もなく震えていた。
僕はそれを見て、気づけば叫んでいた。
「おい!!やめろ!!」
いじめっ子たちが去った後、僕はフタイに駆け寄った。
彼の体に深々と刺さる無数の槍。
僕はそれを、一本ずつ必死に抜こうとした。
「気にするな。あいつらの言うことなんて。大丈夫だよ」
綺麗な言葉。励ましの言葉。僕は自分が知る限りの優しい言葉を彼に投げかけた。
でも。
槍は、抜けない。
僕の言葉は槍の表面を滑り落ちるだけで、彼の傷を癒すことはなかった。
フタイは血を流しながらも無理やり笑顔を作って
「ありがとう」
と言って、立ち去った。
槍は一本も抜けていないのに。
またある日。
フタイの足元に、言葉の有刺鉄線が巻き付いているのに気づいた。
彼は、僕じゃない誰かに助けられていた。
「また何かあったら言ってね。力になるよ」
心からの心配の言葉。温かい言葉。
でも。
有刺鉄線は、消えない。
いくら励まされても彼の足元を締め付ける棘は、ビクともしなかった。
何回も。何回も。そんなシーンに出くわした。
高校に上がる頃には、フタイの体はあちこちトゲトゲの言葉で埋め尽くされていた。
僕はその都度、彼の心を軽くしようと声をかけ続けた。
でも、何も変わらなかった。
なんで。なんで、こんな槍が見えるんだ。
見えなきゃ彼が傷ついていることも、僕の言葉が届いていないことも知らずに済んだのに。
いつか軽くなるかもしれない
その微かな希望が、槍の数が増えるたびに薄まり、枯れていく。
僕はだんだんとフタイと疎遠になっていった。
彼の体を見るのが怖かったからだ。
そんな時、フタイは命を絶った。
葬式の日。彼の遺影は、あの日の無理な笑顔のままだった。
僕の心の中で、何かが、パリンと音を立てて砕け散った。
.....違う。
あの時。僕が綺麗な言葉なんてかけずに、もっと鋭い言葉であいつらを刺しておけば、
フタイは死なずに済んだんじゃないのか。
あの時も、あの時も。
僕の力を使って、言葉を歪め、あいつらの心臓を貫いて動けなくすればよかったんだ。
フタイに槍を降らせた、あいつらを。あいつらを...!!
僕はいじめっ子たちのいるクラスへ行った。
教室の扉を開け、中にいる主犯格に声をかけた。
「おい。」
「なんだてめえ」
そいつの口から放たれた、トゲトゲしい、真っ黒な言葉。
僕はそれを素手で掴み取った。
手が裂け、血が流れるのも構わず、僕はその棘をさらに歪め、さらに鋭く研ぎ澄まし、クラスの連中へと、力一杯投げつけた
「......お前のせいだ」
クラスの誰かが呟いた。
その声が波及する。
「そうだ。お前が悪いんだ」
「お前さえいなければフタイは生きてた!」
そうだ、そうだ!
クラス全体に悪意の波紋が広がる。
無数の悪意の言葉が、一斉にいじめっ子へと降り注いだ。
真っ黒な槍が、そいつの体に次々と突き刺さるのを、僕は冷ややかに見つめていた。
いじめっ子は、悲鳴を上げながら教室から逃げ出していった。
......そのまま、彼は不登校になった。
ああ。最初からこうしていれば良かったのだ。
綺麗な言葉なんて、フタイには届かなかった。
彼を救う力なんてなかった。
僕に力があるなら、フタイを傷つける連中を粉々に粉砕してこらしめるべきだったのだ。
そうしていれば、彼はまだ、生きていたのだ。
言葉は、武器だ。
街にはトゲトゲな言葉ばかりが落ちている。
綺麗な言葉なんて見えたことがない。
綺麗事、優しい言葉に意味なんてない。
言葉の本質は、悪だ。
......そうだよな、フタイ。
お前は誰の言葉にも救われなかった。
......僕の言葉にも。
「ああああああああ!!」
銀縁眼鏡が、地獄のような悲鳴を上げて膝をついた。
あたしの胸に飛び込んできた黒い欠片を、彼の中に押し戻した瞬間、彼の凍りついていた時間が一気に融解したのがわかった。
彼のレンズの奥の瞳から、大粒の涙が溢れ声にならない、慟哭のような叫びが喉から絞り出されている。
「なぜ、こんなものを見せるッ!!」
あたしは、体中を苛む黒い言葉の渦に必死に抗いながら、重たい体を立ち上がらせようとした。
脳が揺れる。でも、今の彼をこのままにしておくわけにはいかない。
「......あの時は、そう思うしかなかったよね......」
あたしは震える声のままゆっくり語りかけた。
「......あなたは、必死に彼を助けようとしたんだよ......綺麗事じゃない......」
「やめろ」
彼の銀縁眼鏡に、ピキッ、とヒビが入った。
体から力が抜け、握りしめられていたカタリが彼の手から零れ落ちる。
カタリはふらふらと空を舞い、あたしの元へとしがみつくように止まった。
ネクタイは安堵と心配の薄いクリスタル・ホワイトに変わっていく。
あたしはカタリを撫でながら、銀縁眼鏡を真っ直ぐに見つめた。
「......あの時、守りたかった自分の正義を......今は、もっと別の......自分を幸せにするために、使ってみてもいいんじゃない......?」
銀縁眼鏡は、あたしを睨みつけた。
「優しい言葉は誰にも届かない」
「届くよ」
あたしはカタリの羽の柔らかさを感じながら、きっぱりと言った。
「たとえ時間がかかっても......ちゃんと、届く」
銀縁眼鏡が嘲るように笑おうとした瞬間、あたしは最後に小さく、けれどはっきりと言った。
「.......あたしは、それを信じてる」
「君は甘い」
銀縁眼鏡が、ゆっくりと、立ち上がった。
眼鏡のヒビが朝陽を浴びて歪な光を放っている。
「僕は変われない」
「......変わらなくてもいい。でも。知ってほしい」
あたしは、並木道の影へと去ろうとする彼の背中に向かって最後の言葉を投げかけた。
「あなたの痛みも。言葉になる。歪めなくても。ちゃんと誰かに届く言葉になるよ......」
銀縁眼鏡が、一瞬だけ動きを止めた。
「さよならだ」
彼は、そのまま振り返ることなく並木道の影へと、消え去っていった。
銀縁眼鏡が去った後、広場にはあたしとカタリだけが残された。
風が冷たく吹き抜ける。
でも陽光はまだ暖かかった。
あたしは傷ついたカタリを抱きしめたままベンチに座り込んだ。
カタリのネクタイが、安らぎの穏やかに凪いだパステル・グリーンに戻っていく。
「......痛かったよね」
「ツピ...」
カタリが小さく鳴いた。
痛いけど、大丈夫。
あたしは、カタリの羽が抜かれた場所をそっと撫でた。
銀縁眼鏡は言葉の鮮度を信じていた。
鋭く、研ぎ澄まされた言葉をすぐに投げること。
たとえ歪めても。
それが彼の正義だった。
でも、あたしは。
純度を信じてる。
柔らかく、温かく、生きている言葉。
時間がかかっても、回り道でも、ちゃんと言葉は届く。
どっちが正しいかなんて、わからない。
もしかしたら、どちらも正しくてどちらも間違っているのかもしれない。
それでも——
あたしは、そっとカタリを抱き寄せた。
「......あたしはそう信じたい」
カタリのネクタイが、静かに優しいアンバー・ゴールドに灯った。
「帰ろう」
あたしは立ち上がった。
体はまだ震えていたけど
カタリと一緒なら、それでよかった。
第1部 終幕