
ボートは後ろ向きに進む
ひょんなことからボートをはじめて、横浜の鶴見川の漕艇(そうてい)場に毎週通うようになって十数年になる。私が乗っているのは「ナックルフォア」といって、四人の漕ぎ手(漕手)と一人の指揮者(コックス)が乗り込むボートだ。なぜコックスが必要かといえば、ボートは後ろ向きに進むからである。つまり、漕ぎ手には行き先が見えないのだ。
ボートが面白いのは、一人一本ずつ、片方のオールを持つこと(スイープ)にある。誰か一人が勝手に全力で漕ぐと、艇は片側にぐるぐると回るだけで一向に進まない。だからどんなに卓越した漕手がいても、全員の力の配分やタイミング、リズム、そして漕ぐ距離(レンジ)を合わせなければ、レースで勝つことはできない。
これは個人技で打開できることもある球技の世界とは一線を画すボートの特徴である。もちろん、野球やサッカーもチームプレイを問われるが、その点ボートは徹底的だ。一にも二にも重要なのはそろって漕ぐことに尽きている。
およそボートほど、自分の存在の小ささを感じさせてくれるスポーツはないのではないか。風雨や陽光が降り注ぐ水上という自然のてのひらのうえで、なるべくボートを揺らさないようバランスを取り仲間の呼吸に合わせる必要があるのだから。しかし、これこそがボートの得がたい魅力なのである。
ストレッチャーに足を固定し、レール上にあるシートに座り、脚を縮めることで前に出てオールを水中に落とす。縮めた脚を伸ばし、股関節を使い、腕を引くことで水中のオールに推進力を加え、水を押し切ったところでオールを抜く。延々その繰り返し。釘を打つようにシンプルで、かつ奥が深い。
「オールを動かすのではなく、オールで水を固定して、ボートの方を動かす」
というような〝地動説〟的転回もローイング技術にはあるのだ。こうして本来堅いはずの「オールをしならせる」のである。
端から見れば奴隷船に見える単純作業の繰り返しでも、存外気持ちがいい。そのためには、脱力が重要となり、身体の連動を感じ取らなければならない。たとえば、肩をリラックスさせるには膝を緩め、薬指を軸に軽く握ったハンドルを外に折るようにして、首の関節を肩の位置から開く、というように。もっとも、これは今の自分のレベルでわかることにすぎず、上達すればするほど全身の連動を感じているのだろう。
最近、また「シングルスカル」に挑戦しようと思っている。一人乗りの両手漕ぎのボートで、艇が軽くて細い分、バランスを取るのが非常に難しい。私が初めて乗ったときは、開始わずか数秒で〝沈(ひっくり返ること)〟した。
しかし、その気持ちよさは格別だ。四人乗りのナックルとは対照的に、軽くて不安定な分だけ、少し漕いだだけで艇は滑るように進む。進路を曲げることも自在だ。自分のちょっとした動きに艇が敏感に反応し、その都度〝ダメ出し〟をしてくれる。「シングルスカルは最高のコーチ」といわれる所以である。
〝夏休み〟のようなある平日にシングルスカルを練習して、艇の上で水を飲んだときのこと。
空あり 水の上にひとり
と〝孤独〟を感じることができた。孤独は心を一気に裸にしてくれるかけがえのない瞬間だ。三歳に海と一体となった空を見たあのときの心に。ボートはいつも自分に思いがけなかったことを与えてくれる。
ボートは後ろ向きに進む。人生も同じではないだろうか。
私たちは前を向いて未来を見据えているつもりでも、「一寸先は闇」であったことをしばしば痛感させられる。まっすぐ歩くことが存外難しいのは、私たちが「後ろ向きに進んでいる」と考えれば合点がいくのではないか。
自分の歩んできた過去を羅針盤に、社会や他者という「水の抵抗」を梃(てこ)にして、私たちは未来という闇の中を突き進む。逆に言えば、過去や人間関係を無視しては、人は一歩たりとも歩めないということだ。「前を向いて生きる」とは、過去を切り捨てることではない。もし人生が後ろ向きに進むものなのだとしたら、希望の光は過去にこそ射している。
過去とは動かぬ死物ではなく、今の自分の求めに応じて立ち現れる生きた記憶の連鎖である。過去は片時も離れず側にいるが、膨大な全記憶なかからどの記憶を思い出すかは自己の内面に向かう努力が伴う。同じような過去を持っていた人でも何を思い出すか、どう生きるかはまったく別人だ。
過去は現在をどう生きるかによって、いくらでも塗り替わっていく。だとすれば、かつての辛い過去も、これからを導く羅針盤になってくれないとも限らない。そう信じていけない理由はないだろう。
ボートが後ろ向きに進むことに、今日も私は助けられている。
(佐藤春生)
2026.7.16 なにもない場所新聞 発刊