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【猫に暁】 #20 廻心

    「䞀旊匕く」

     あおいの元ぞ戻るなり、千歳は早口でそう蚀った。

    「悪鬌は   もう倧䞈倫なの」
    「さあな。でも、どうせすぐ戻っおくるだろ」

     うんざりしたように眉を顰める圌の額に角はなかった。生癜い肌には倧粒の汗が流れ、歩くたび地面に染みを䜜っおいる。

    「少し距離を取る」

     存倖冷静な圌の蚀葉に、あおいは小さく頷いた。

    「じゃあ猫も䞀緒に  」

     ちらず猫の姿を確認しお、その堎に立ち䞊がろうず肢䜓したいに力を入れる。
     しかしその意に反しお䜓は䞍自然に地面から離れた。ふわりずした浮遊感。

    「え」剛腕が圌女の背䞭を乱暎に掎んでいる。

    「じっずしおろ」

     その瞬間、芖界が䞀気に開けた。
     広い肩に担がれる栌奜で身動きが取れない。しかし恐れを感じる間はなかった。
     砂利を螏み締める音がかすかに聞こえた。ず思うず次の段には景色が䞀点に吞い蟌たれおいる。
     癜色の光に雪が混じる。
     それは圗星のように尟を䌞ばし、芖界の倖ぞ次々ず流れた。

     颚の音が耳を防ぐ。

     坂本ぞ匕き返しおいるのだず気が付いたのは、猫の姿が闇に玛れおしたっおからだった。

    「たっお」ハッずしお、あおいは声を䞊げた。

    「猫も連れおっお 止たっお」

     しかし千歳はこれを黙殺する。

    「八鶏さん お願い」

     匷靭な身䜓を手圓たり次第に殎ったずころで速床は少しも緩たなかった。
     圌は脇目も振らずただひたすらに走り続け、そうしおい぀か、炎は完党に芋えなくなった。


     おかくれ通りの入り口たで戻ったずころで、圌はようやく止たった。
     そうっず降ろされた足が地面に觊れる。
     ちりちりずした痛みが襲うが、気付かないふりをした。

    「なんで猫を助けおくれなかったの 目の前にいたのに。助けられたのに」

     顔を䞊げるず、気怠げに䌏せられた瞌の奥で风色の瞳が自分を芋おいた。それをキッず睚み぀ける。

    「たっおっお蚀ったのに」

     千歳の衚情は倉わらない。
     それが䜙蚈にあおいを苛いら぀かせた。
     もう䞀蚀䜕か蚀っおやろう。
     そう思ったちょうどそのずき、圌は思考を敎理するように長く息を吐いた。それからいきなり圌女の襟元を掎み、その身を匷匕に匕き寄せるず、䞀声。

    「状況を考えろ」

     静寂の䞭に、今床は千歳の怒号がこだたした。

    「お前たで堕ちたら救えるモンも救えねえだろうが」
    「  お、堕ちないっお蚀ったじゃん」
    「堕ちにくい・・・っお蚀ったんだバカタレ」
     あたりの剣幕に怒りを湛えた衚情が歪む。
     吐息が波打っお、震える螵が地面に觊れるずそのたた傀儡くぐ぀のように膝が折れた。

     耳の奥で怒声の䜙韻が響いおいる。
     䜓枩がすっかり匕いお、心臓が肺を突き砎らんばかりに鳎る。

    「  倧䜓、お前は䜕でこんな所にいる 䞀人でりロりロするなっお蚀ったろ」

     千歳は感情を抌し蟌めたような口調で蚀った。
     揺らいだ声が応える。

    「わかんない、だっお、気づいたらここにいたんだもん」
    「はあ」
    「たすけおっお、声がしお、それで  」

     蚀葉尻を濁にごしながら地面に目をやるず、涙がぜ぀りぜ぀りず萜ちお、薄く積もった雪の絚毯じゅうたんに穎を空けた。
     泣いおいるこずを悟られるのが恥ずかしかった。乱暎にひず拭いだけしお、あずは唇を噛んで耐える。
     あおいはそうやっお、しばらくの間静寂を聞いた。

       
     そうしおい぀か、綿雪のように溜息が降っおきた。
     ──もう䞀撃来るだろうか。そう思っおあおいは身構える。

     しかし、いくら埅おども想像した事態にはならなかった。
     恐る恐る様子を窺うず、バツが悪そうな顔をした千歳ず目が合う。

     圌は䞀瞬逡巡したあずで、のっそりず膝を折った。
     鬌ノ目堂の、あの䜕ずも蚀えない銙りが二人の間に広がる。
     目の淵に溜たった涙が瞬きの匟みで流れた。
     それを慌おお拭うず、圌はその手をやんわり取っお、「もういいから」ずそっけなく蚀った。

    「泣くな」
    「泣いおない」
    「嘘぀くな」
    「぀いおない」

     緩やかに握られた手銖から䌝わった枩床が、党身にたで染み枡るようだった。
     線を蟿れば、巚䜓を䞞めおこちらを芗き蟌む圌の眉尻が僅かに䞋がっおいるように芋えた。

    「  ごめんね」

     その衚情を芋お、あおいの口は自然ず動いた。
     怒りや恥ずかしさや、そういったものは䞀切が消えおいた。

    「もういい」

     手銖が開攟される。
     圌の顔はい぀もの仏頂面だった。

    「来たからには、仕事しおもらうぞ」
    「  仕事っお」

     圌は怠そうに立ち䞊がっお蚀った。

    「宥恕だ」
    「あ」

     ──そうだ。あおいはすぐに了解した。
     そう、宥恕それをしに来たのだった。声に呌ばれお、ここたで。きっずそのために呌ばれたのだ。そうだった。

     錻をすすっお、最埌にもう䞀床涙を拭う。
     深呌吞をすれば、頭の䞭たですっきりずした気分になった。

    「タタラから話は聞いたのか」蚀いながら、千歳は暗闇の向こうを気にかけおいる。「宥恕の」

    「なんずなくは」
    「そうか」
    「そう、なんずなく  」

     蚀いながら、あおいは自分が具䜓的な方法に぀いお䜕も知らされおいないこずに気が付いた。

     たずいかもしれない──そう思った途端、滲んだ冷や汗が背䞭を䌝っおいくのを感じ始める。

    「手順ずか、そういうこずはただ  聞いおない」
    「ああ、そんなモンはねえよ」

     あっさりずした反応に、あおいは玠っ頓狂な声を䞊げた。

    「え」
    「手順なんおねえ」

     振り返った圌はごく圓たり前のように繰り返す。

    「䜕が救いになるかは人による。だから鬌堕そい぀をよく知る奎が結になるんだ。決たった手順を螏むだけでいいなら、そもそも結なんか必芁ねえだろうが」

    「  そ、っか」

     その蚀葉は、すずんず圌女の腹に萜ちた。
     確かに、それもそうだ。誰でもできるこずならば、自分にこんな倧圹は無理だ。
     たず間違いなく、もっずしっかりしおいお、プレッシャヌに匷く、倧事な堎面でミスをしたりしない屈匷な粟神力を持った人が遞ばれるだろう。

     しかし、そうではない。そうではないから、自分は結なのだ。

     䞍栌奜な圢をした自信ずいうものが、圌女の内偎でむくむくず湧いた。

    「ずにかく、貓あい぀は俺が匕き受けるから。お前はネコの方を䜕ずかしろ。出来るな」
    「たぶん  うん、倧䞈倫、だず思う」

     千歳は満足げに頷く。
     そうしお、いよいよ次の段を話し始めようずしたずきだった。

    「  䜕だそれ・・」

     圌の芖線はあおいの巊手に留たる。

    「あ、お面。癟鬌行列のずきの。猫が着けおたや぀」

     なんでか持っおきちゃっおお。あおいはあっけらかんず答えた。
     察しお千歳の衚情はみるみる険しくなっおいく。

    「おい、それ──」

     手を䌞ばすのず同時だった。

     絶叫が再び耳を劈぀んざき、千歳の蚀葉を遮る。
     慌おお芋るず、曲がり道の向こうにオレンゞの明かりが芋え始めおいた。

     千歳は盎ぐ様あおいの手から鬌面をひったくった。
     驚きず抗議の声には反応する䜙裕がない。
     取り返そうず纏わり぀く手を払い、長い腕を倩に向けお䌞ばす。
     そしお──掲げた面は倜気の䞭音もなく燃え䞊がった。
     次いで雪に混じり降っおきたのは、和玙を飲み蟌んだ炎の欠片ず、灰。

    「な、なんで  」

     呆然ずするあおいを無芖し、千歳は流れるように状況を確認する。
     貓は、ちょうどカヌブを越えたずころだった。
     纏った炎を長毛のようにうねらせ、火の粉を散らしながら真っ盎ぐこちらぞ向かっおいる。

    「八鶏さん、あれっおさっきの  」

     あおいも気が付いお、無意識に千歳の身頃を掎んだ。
     さんざっぱら怍え付けられた恐怖が再来し、圌女の手ず膝はすっかり震えおいる。

    「䞋がっおろ」

     千歳は手の平に残った灰を握り蟌んで密かに奥歯を噛んだ。
     焔光えんこうに揺らぐ瞳が、背埌にいるあおいず迫り来る悪鬌ずを亀互に映す。

     ──駄目か。
     そう思うずずもに、圌は脳内で結ず鬌堕を匕き合わせるための経路を幟通りもシミュレヌションした。

     そうしおいる間にも貓ず二人の距離は瞮たっおいく。
     ずにかく䜕ずしおもこの堎を治めなければ。
     圌はあおいを背に庇うず指先から順に転化し始めた。

     ずころがそのずき、突劂ずしお貓は進行方向を転換した。
     前脚で急ブレヌキをかけるず䜓を盎角に捻り、そのたた脇道ぞず飛び蟌む。

     そうしお、光源が去った。

    「  ぞえ」千歳は䞀人玍埗したように呟いた。「なるほどな」

    「思った通りだ。どうも、悪鬌は面これに匕き寄せられおたらしい」
    「お面に   どうしお  」

     残った灰が圌の右手からさらさらず逃げおいく。

    「そもそも癟鬌行列っおのは、お前が考えおるような楜しいお祭りじゃない」

     詊すような芖線。
     あおいは䞀瞬思考しお──すぐに思い至る。

    「あ、“鎮魂祭”」
    「知っおたか」
    「真柄くんから聞いたの」

     それは癟鬌行列がか぀おの倧事件に端を発するずいう噂。
     話を聞いたのも䞁床この蟺りだった。
     圌の蚀葉を思い出すず、えもいわれぬ恐怖心が鮮明に蘇る。

    「でも、本圓にあったかはわからないっお」
    「  詳しいこずは俺も知らない」

     千歳は静かに蚀った。

    「ひず぀確かなのは、歎史がどうあれ、あの祭りそのものが負の気の塊だっおこずだ。玠面しらふならそこに居るだけで匕っ匵られる──぀たり、堕ちたり堕ずされたりする可胜性がある皋に。だからそうならないよう面に気枯れを肩代わりさせお、最埌は焌いお枅算するわけだ」

     ──知らなかった。
     嘆声たんせいを零せば、じっずりずした芖線の的になる。

    「祭りの埌の鬌面は呪物に近しい。元々悪鬌に成りかけおたような奎が鬌面これに觊発されお化けた  考えられない話じゃねえな」
    「そんなに危ないものだったなんお  」

     呆れたように吐き出された溜息が粉雪を散らした。

    「普通、そんなもんを倧事にしおたら持っおるだけで圱響が出る。そうならなかったのは、お前が阿呆だからだな」
    「アホ  」

     情けないやら恥ずかしいやら。
     結局は己で蒔いた皮だったのだず思うず、圌女には蚀い返す蚀葉もなかった。

    「ごめんなさい」

     絞り出すず、千歳はもう䞀床「阿呆」ず蚀った。

    「たあ、䜕にせよ、これでお前のずころに悪鬌が寄っお来る可胜性はなくなったわけだ」
    「ほんずに  」
    「お前が実はもう䞀぀隠し持っおなきゃな」

     あおいは勢いよく銖を振った。

    「お母さんが、間違っお捚おちゃったから」
    「そうか。そりゃ、呜拟いしたな」

     蚀いながら、圌は坂䞊の暗闇ぞ目をやる。
     ここからでは猫の姿は芋えない。

    「  あの状態が、䞀番苊しいな」

     吐息に混じっお挏れた呟きは、あおいの錓膜の衚面をわずかに撫でた。
     寂しげな声だった。
     驚いお芋䞊げるも、肩越しに靡く長髪がその衚情をたったく隠しおいる。

     圌女は䞀瞬、䜕か蚀おうかず逡巡しお口を開いた。
     しかし振り返った圌の衚情に哀愁の色はなかった。

    「俺はあの化け猫を远いかける。ネコのこずはお前に任せるぞ」
    「  わかった」

     はっきりず頷けば、千歳の姿は闇に玛れおすぐに芋えなくなった。