
ハラスメントとは何か、あなたは定義できますか?
ハラスメントとは何か、あなたは定義できますか
「不快にさせること」ではありません
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はじめに
この質問に、即答できる人はほとんどいません。
研修は受けた。ポスターも見た。相談窓口の場所も知っている。それでも「では、どこからがハラスメントですか」と聞かれると、答えられない。
定義できないものを、私たちは全力で取り締まっている。
これがいま、日本の職場で起きていることの正体です。
この記事では、まず定義のズレを明確にします。その上で、なぜそのズレが生まれたのか、そして現場に何が起きたのかを、順を追って書いていきます。
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第1章 ハラスメントの定義は、すでにズレている
誤解されている定義
多くの現場で共有されているのは、こういう理解です。
ハラスメントとは、相手を不快にさせること。
これは違います。
本来の定義
ハラスメントの核心は、仕事という体裁を利用して、逆らえない立場の人間に対して次のことを行うことです。
- 人権や尊厳を恣意的に搾取する
- 逃げ場を無くす
- 利益を搾取し、損失を与える
- 立場を利用して強要する
言い換えれば、仕事として合理的な内容ではなく、個人的な利益や感情を満たすための行動や指示。
つまり本物のハラスメントとは、「自分軸」の「感情のため」に「仕事や権力を悪用」することです。
判定基準はどこにあるか
ここが決定的です。
判定基準は「相手が不快だったか」ではありません。
「その言動に、その指示に業務上の合理的な目的があったか」です。
この二つは、まったく違うものを測っています。
- 不快だったが、目的は合理的 → ハラスメントではない
- 不快ではなかったが、目的は個人的 → ハラスメントであり得る
後者が見落とされていることに、気づいてください。穏やかな口調で、笑顔で、人を追い詰めることは可能です。
この定義は、上下どちらにも適用されます
もう一つ、重要な性質があります。
この定義は、役職の上下を指定していません。
核にあるのは「逆らえない立場の相手に対して、感情のために権力を使うこと」です。権力の中身は限定されていません。
いまの制度下で、部下が持っている権力は明確に存在します。告発できることです。
上司は反論しにくい(反論自体が二次加害とされうる)
逃げ場がない(評価や配置に直結する)
一方的に損失を負う(信用、キャリア、精神的負荷)
役職は上でも、この一点において上司は「逆らえない立場」に置かれます。構造が反転しているだけで、中身は同じです。
法的にも、すでにこれは押さえられています。2020年のパワハラ防止指針は「優越的な関係を背景とした言動」と定義しており、これは役職の上下に限定されていません。同僚や部下による言動でも、その人の協力なしに業務が回らない場合や、集団による行為の場合は、優越的関係に当たるとされています。
部下から上司へのハラスメントは、法律上すでに成立しうるものです。
ここが重要なのは、基準が対称になるという点です。
「不快にさせたかどうか」を基準にすると、判定は必ず立場の弱い側に有利な、非対称なものになります。
「目的が合理的だったかどうか」を基準にすれば、上から下にも、下から上にも、まったく同じ物差しが当たります。
同じ基準が全員に適用されること。これは、この定義を採用する最大の実務的なメリットです。
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第2章 では、なぜ「不快」が基準になったのか
判定できないものは、代理指標に置き換わる
「合理的な目的があったか」を判定するのは、極めて難しい作業です。
現場にいてさえ、どんな状況で、誰が、どんな目的で、どうやって、何をしたのか——正確に見えることはまずありません。現場にいなければ、なおさらです。
民法、刑法、労働法の観点から議論しても、判定できるのは「労働法に反していないか」程度です。
「合理性」は、それを専業とする司法や研究者ですら、常に一致する結論を出せるわけではないほど扱いの難しい概念です。
だから現場は、判定不能な「合理性」の代わりに、判定可能な指標を採用しました。
「相手が不快になったかどうか」です。
これが、最初にかけ違えたボタンです。
根本にあるもの:合理性という、人間に扱いにくい道具
なぜ人間は合理性の判定が苦手なのか。
人間は感情を主体とする生き物で、情報に対してまず感情で反射するようにできています。
強い言葉を受けた瞬間、その言葉の目的や意図を考える前に、体が先に反応する。「攻撃された」と感じてしまう。
この反射が起きている状態では、「相手が何のために、誰のために言ったか」を判定することは、そもそも不可能に近い。
感情の生き物である人間が、合理性という道具を扱うことの難しさ。
これが、すべての構造問題の根っこにあります。
そもそも合理性という言葉自体にも非対称性があるのです。
『感情を排した』目で事実を捉え目的に対しての最適解として認識している者
『感情』を説明する後付の理由を論理立てたものと認識している者
つまり、『感情』が『合理性』の外にあるか中にあるかです。
多くの方は後者を『合理性』と呼びます。
何故なら感情が主体である人間には
感情のフィルターを外すことがそもそも難しいからです。
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第3章 その結果、現場に何が起きたか
「強い言葉」が一律に排除された
合理的か感情的かを判定できないなら、どうするか。
とりあえず、強い言葉を使う人間を排除する。
これが現実的な運用になりました。理屈はこうです。
> 言い方が悪ければ、聞く気があっても受け入れられない。だから強く言うのは過剰なはずだ。それは人格攻撃であり、人権の侵害だ。会社や利益のためだと言い訳しても、他に手段はあるはずだ。わざわざ強い言葉で相手を傷つける以上、原因はその人間の性格や個人的な感情に決まっている。そういう人間は組織にとって害だ。見つけ次第、排除しよう。
一見、筋が通っています。
しかしこの網には、合理的な目的を持って厳しいことを言っていた人材も、感情で当たり散らしていた人材も、同じように掛かります。
結果は、現場ごとにバラバラになった
だから、こうなります。
| 介入後の数字 | 意味するところ |
|---|---|
|『良くなった』
|成功。周囲に恐怖を与えていた存在の排除に成功した |
『変わらない 』失敗。無関係な人を排除しただけだった |
|『悪くなった 』 失敗。その人がある程度の秩序と生産性を支えていた |
そして実際のデータは、現場ごとにこの三つに分かれます。
何を排除して、何が改善し、何が悪化したのか。データを集めても法則性が見えない。構造上、当然の帰結です。
相手軸で合理的に感情で言う場合も
自分軸の感情を満たすだけの発言の場合も
見分けがつかないからです。
そして、誰も何も言わなくなった
指導のコストとリスクだけが上がり、リターンは変わりませんでした。
そうなれば、合理的な判断は一つです。
言わない。
言えば自分がリスクを負う。言わなければ何も起きない。だったら黙って距離を置く。
- 人は人、私は私だ
- 迷惑をかけないよう、協力するのもやめよう
- 誰かが困っていても、助けを呼ぶまでは動かない
- このままだとこの人は後で困るだろうが、言うメリットよりリスクの方が大きい
- 何かをやらかして助けを呼ぶことになるだろうが、知らないふりをしよう
正直に書きますが、私自身も、明らかに問題のあるスタッフに対して、意図的に関わらないようにしていた時期があります。これは冷たさではなく、コスト計算の結果です。
そして、この計算をしている人が、いまの職場には大勢います。
妙になっただけかもしれない
さらに指摘しておきたいことがあります。
「不快感」が判定基準になると、罰せられるのは**不快感を発生させた人**です。
つまり最適な戦略は、こうなります。
**相手に不快感を与えずに、相手を追い詰める。**
- 情報を回さない(何も言っていないので違反にならない)
- 仕事を振らない(指導していないので、指導の問題にならない)
- 助けを求めるまで助けない(求められていないので、放置の証拠が残らない)
- 評価だけを静かに下げる(面と向かって何も言っていない)
どれも強い言葉を一切使わずに、人を追い詰められます。そして**証拠が残りません。**
強い言葉を使った人間だけが捕まる制度は、証拠を残さない手法へのインセンティブとして機能します。
排除がなくなったのではなく、見えなくなっただけかもしれない。この可能性は、真剣に検討されるべきだと考えています。
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第4章 育つ機会を失うということ
不快感は、成長の材料でもある
人は、うまくいかないときにストレスや不快感を覚え、「今のままでは駄目だ」と気づいて変化します。