
無名の最強・金子十郎家忠の理術38【完結】
頼朝が、死んだ。
落馬が、死因だと伝えられた。
家忠は、その報を、淡々と受け止めた。
驚きは、なかった。
予測の範囲、というわけではなかった。
ただ——人は、いつか死ぬ。それだけのことだった。
鎌倉の秩序は、揺らがなかった。
仕組みは、すでに人ひとりに依存しない形で、出来上がっていた。
それが——家忠の、仕事だった。
「重久」
「はい」
「わたしは、七十五になった」
「存じております」
「やるべきことは、終わった」
重久は、何も言わなかった。
「鎌倉の仕組みは、固まった。金子の一族も、後を継ぐ者が育った。あとは——後の世に、任せればよい」
「家忠殿は」
「何だ」
「これから、何をなさるおつもりですか」
家忠は、答えなかった。
しばらくの沈黙の後、北西の空を見た。
加治の地を、見ているようだった。
「重久。お前に、聞きたいことがある」
「何でしょう」
「武人とは、何だと思う」
重久は、少し考えた。
「戦う者、かと」
「では——わたしは、武人だったか」
重久は、即座には答えなかった。
家忠の人生は、剣ではなく、頭で戦った人生だった。
噂を作り、社を建て、仕組みを設計した。
戦場では弓矢を主体とした。遠方からの攻撃をしながら馬で近づき流鏑馬
また、近づいた時に刃を交える⋯
茂みに隠れ、奇襲をかけたり
森に罠をしかけたり
武士同士、の武人の誇りをかけた切り合い
と言えるのは⋯数えるほどしかなかった。
「家忠殿は⋯」
重久は、慎重に言葉を選んだ。
「武人としての戦い方を、変えただけだと思います」
「変えた、か」
家忠は、少し笑った。
「優しい言い方だ」
「優しくは——言っておりません」
「分かっている」
家忠は、目を閉じた。
「わたしは、頭で戦ってきた。それが、最も多くの民を救う道だったからだ。剣は、人を一人ずつしか救えない。仕組みは、千人を、万人を救える」
「はい」
「それは、間違っていなかった。今も、そう思う」
「では」
「だが——わたしの中の、何かが満たされて⋯いない!」
重久は、黙って、続きを待った。
「わたしは、武家の生まれだ。剣を学び、馬を学び、戦うために育てられた。それなのに——わたしが選んだ道は、武人として戦わない道だった」
「結果として、多くの命を救いました」
「そうだ。だから、後悔はしていない」
家忠は、目を開けた。
「だが、後悔がないことと、満たされていることは、別だ」
風が、吹いた。
「わたしは、最後に一度だけ——武人として、生きてみたい⋯」
重久の表情が、変わった。
「それは——」
「戦の中で、武人として、終わりたい」
「家忠殿」
「これは、感傷ではない」
家忠は、先回りした。
「わたしの人生の総決算として、最後にもう一つだけ、自分自身のために、選びたいことがある。それだけだ」
「最後に、ということは」
「若のところへ、行く」
重久が、目を見開いた。
「義経様は——もう、奥州で」
「死んだことに、なっている」
家忠は、静かに言った。
「だが、生きている」
「……知っていたのですか」
「衣川での最期は、わたしが設計した死だ。本物の死ではない」
重久は、何も言えなかった。
「若は今、大陸で軍を率いていると、噂が届いている。確かな筋からだ」
「大陸で——何をしているのですか」
「分からぬ。だが——若が、戦の中にいることだけは、確かだ」
家忠は、立ち上がった。
「わたしは、若の元へ行く」
「何のために」
「最後に、若に会いたい。そして——若の戦に、加わりたい」
「家忠殿の歳で——」
「歳は、関係ない」
家忠は、重久を見た。
「武人としての死に方を選ぶのに、歳は、理由にならない⋯⋯」
重久は、しばらく、何も言わなかった。
「分かりました」
「分かった、とは」
「お止めしても、無駄でしょう⋯
それに、この間に軍中守護に雷電様を社にお呼びしているのを見て、何となくそうなのでは、と思っておりました。鎌倉幕府が落ちついた今、そんなに大きな戦はないはずですから⋯」
家忠は、少し笑った。
「分かっているではないか」
金子一族への別れは、静かなものだった。
家忠は、当主の座をすでに後継に譲っていた。
仕組みは、出来ていた。
人がいなくなっても、回る仕組みが。
それが、家忠の作った最後の盾だった。
「父上」
息子が、言った。
「本当に、行かれるのですか」
「行く」
「戻られないおつもりですか」
家忠は、しばらく、息子を見た。
「お前には、もう何も教えることはない。教えるべきことは、すべて教えた」
「父上⋯」
「これからは、お前たちの世だ。わたしの仕事は、終わっている」
息子は、深く頭を下げた。
それ以上、何も言わなかった。
それが、金子の一族の作法だった。
感情を、表に出さない。
家忠が、そう育てた。
港に向かう道で、家忠は一人だった。
そのつもりだった。
だが——船着き場に着くと、すでに人影があった。
重久だった。
「……何をしている」
「お見送りに」
「お見送り、ではあるまい」
重久は、荷物を背負っていた。
旅装だった。
「重久」
「はい」
「お前は、来るな」
「なぜ⋯ですか?」
「これは、わたしの死地を探す旅だ。お前を、巻き込むつもりはない」
重久は、まっすぐ、家忠を見た。
「家忠殿。わたしは、もう自分の記録を、すべて消してきました」
家忠が、目を細めた。
「……何だと」
「白髭神社の建立記録。崇徳院の噂を流した経緯。その他、わたしが関わったすべての史料から、わたしの名を消しました」
「何のために」
「作った史料の製作者が、誰か分からぬようにするためです」
家忠は、しばらく、重久を見つめた。
「お前は——」
「家忠殿の仕事には、設計者がいた。それが、後の世に知られては、ならないと、わたしは判断しました」
「……」
「家忠殿が、後の世に対して、何も語らずに消えること。それが、最後の設計の完成だと思いました」
家忠は、何も言えなかった。
それは——家忠自身が、まだ考えていなかったことだった。
「それと——もう一つ」
重久が、続けた。
「もう一つ、理由があります」
「何だ」
「家忠殿について行く、覚悟の証です」
家忠は、重久を見た。
長い、付き合いだった。
噂を流させた。社を建てさせた。数え切れない仕事を、命じてきた。
そのすべてを、重久は、黙ってこなしてきた。
「重久」
「はい」
「お前は、武人ではなかったはずだ」
「いいえ」
重久は、首を振った。
「わたしも、武人です。剣は得意ではありませんが⋯⋯一介の武人として、死ぬならば、最高の戦で最高の武士と最高の戦友と⋯⋯死にたいと、ずっと思っておりました」
家忠は、しばらく、黙っていた。
風が、港の匂いを運んできた。
潮の匂いだった。
「……お前も、満たされていなかったのか」
「家忠殿の影として生きることに、後悔はありません。ですが——最後くらいは」
重久は、言葉を選んだ。
「自分自身の戦を、したいと思いました」
家忠は、目を閉じた。
長い⋯長い⋯長い⋯吐息を吐いた。
「やれやれ」
目を開けた。
「分かった」
「……よろしいのですか」
「お前を止める理由が、もうない」
家忠は、背を向け、船の方へ歩き出した。
「ただし——お前の戦は、お前自身のものだ。わたしの死地に、付き合う必要はない」
「分かっております」
「それぞれが⋯それぞれの最後を選べばよい」
二人は、並んで、船へと乗り込んだ。
船が、港を離れた。
陸が、少しずつ、遠ざかっていった。
加治の地も、白髭神社も、金子の領地も——すべてが、水平線の向こうに沈んでいった。
家忠は、それを、振り返らなかった。
重久も、振り返らなかった。
「重久」
「はい」
「若が、何のために大陸で戦っているか、知っているか」
「いえ」
「わたしも、知らぬ」
家忠は、海を見た。
「だが——会えば、分かるだろう」
「家忠殿」
「何だ」
「若は——家忠殿のことを、覚えているでしょうか」
家忠は、少し笑った。
「忘れるような男ではない」
「そうですね」
「『若』と呼べるのも、もう、わたしくらいのものだろう」
船は、大陸へ向かう航路を進んでいった。
波は、穏やかだった。
だが——その下に、大きな潮の流れがあることを、家忠は知っていた。
「重久」
「はい」
「これが、最後の仕事だ」
「最後の——仕事、ですか」
「自分自身の死に場所を、自分で設計する。それが、わたしの、最後の合理性だ」
重久は、しばらく、家忠の横顔を見ていた。
「家忠殿らしい、言い方です」
「お前らしい、評価だ」
二人は、それ以上、何も言わなかった。
ただ、海を見ていた。
陸は、もう、見えなかった。
大陸が、まだ、見えなかった。
船は、その狭間を、進み続けていた。
家忠の旅は——若の元へ。
そして、自らが選ぶ、最後の戦場へ。
まだ、続いていた。
⋯⋯⋯
⋯⋯
⋯
草原が、燃えていた。
火ではなく、馬蹄の砂塵が、夕陽を浴びて、そう見えた。
義経は、馬上にいた。
囲まれていた。
「ハーーン!奇襲です!」
予期していなかった奇襲だった。敵軍は、地形を読み切っていた。退路は、すでに塞がれている。
「……読まれたか」
義経は、舌打ちした。
長年の戦で、こういう状況には、何度も陥った。だが、今回は、数が違う。
側近たちの顔に、焦りが見えた。
それでも、義経の目には、諦めの色はなかった。
死に場所としては、悪くない。そう思いかけた、その時だった。
後方から——地鳴りのような音が、響いた。
敵軍の、後方からだった。
義経が振り向くと、敵の陣形が、内側から崩れていくのが見えた。
⋯⋯何かが、突っ込んでいた!
恐ろしいほどの勢いで、敵を蹴散らしながら。
その向こうから、声が聞こえた。
「若ー!!」
聞き覚えのある声だった。
「若ー!!」
もう一度。
義経の目が、見開かれた。
砂塵の向こうに、見えた人影——
老いた、しかし背筋の伸びた、見慣れた姿。
「……家忠殿」
呟きが、漏れた。
歓喜が、胸の奥から込み上げた。
同時に——何故、という問いが、頭をよぎった。
衣川で別れて以来、何年が経っているか。家忠は、もう七十を超えているはずだった。
それが⋯何故⋯何故⋯こんな大陸の果てで、戦場の真ん中にいるのか。
だが——その問いは、一瞬で消えた。
家忠殿のことだ。
理由なら、一つしかない。
戦をやりに来たに、違いない。
義経の頭が、瞬時に切り替わった。
驚きも、疑問も、すべてを後回しにした。
今、目の前にあるのは、好機だった。
「全軍、左へ寄せろ!家忠殿の勢いに、合わせる!」
義経は、声を張り上げた。
敵の崩れた陣形に合わせて、義経自身も馬を駆けさせた。
家忠の動きが、読めた。
長年、共に戦った相手だ。考え方の癖も、間合いの取り方も、身体が覚えていた。
二つの軍勢が、敵を挟む形で、噛み合っていった。
家忠の側が、敵の後方を食い破る。
義経の側が、その隙を、正面から突く。
まるで、最初からそう決めていたかのように、息が合っていた。
敵軍は、為す術もなく、崩れていった。
戦場の砂塵の中、二つの馬影が、ようやく合流した。
「若!」
家忠が、馬上から声をかけた。
息は、上がっていなかった。
「相変わらず戦好きですな!楽しそうなので、ついつい⋯⋯来てしまいました!」
義経は、笑った。
久しぶりに見る、心の底からの笑みだった。
「戦好きは家忠殿ではないですか!」
「否定はしません」
「でも!また一緒に戦えるんですね!」
家忠は、頷いた。
その目には、迷いがなかった。
「はい。もう、何も⋯何も気にすることはありません!!——全力で!やらせて頂きます!」
その言葉に、義経は、何かを感じ取った。
家忠の言う「何も気にすることはない」が、ただの戦況の話ではないことを。
鎌倉のことも。金子の一族のことも。後の世のことも。
すべてを、やり終えた者の言葉だった。
義経は、それ以上、何も聞かなかった。
聞く必要が、なかった。
「行きましょう、家忠殿!」
「はい、若!」
二人は、敵陣に向かって、馬を駆けさせた。
その後方から、もう一つの影が、続いた。
重久だった。
「……やれやれ」
呟きながら、刀を抜いた。
長年、家忠の影として生きてきた男が、今、自分自身の戦の中にいた。
最高の戦で最高の武士と最高の戦友と⋯死にたいと願った、その望みが、今、目の前にあった。最高の戦術家付き⋯でだ。
重久は、笑った。
久しぶりに、声を出して。
そして、敵陣へと、突っ込んでいった。
草原に、三つの影が、重なった。
合理性で戦ってきた男。
剣で戦ってきた男。
影として戦ってきた男。
それぞれの理由で、それぞれの戦場に、辿り着いた三人だった。
砂塵が、舞い上がった。
夕陽が、その砂塵を、金色に染めていた。
戦の音は、まだ、続いていた。
だが——そこにいる三人の表情には、もう、迷いはなかった。
それぞれが、選んだ最後の戦場だった。
それぞれが、満たされる場所だった。
家忠が、かつて言った言葉があった。
合理性とは、計画通りに進めることではない。
想定外を、状況を上手く使えるように設計し直すことだ。
その言葉の、最後の答えが——
今、この草原に、あった。
人生という、長い設計の果てに、辿り着いた、一つの戦場。
それは、もはや、誰かのための合理性ではなかった。
ただ——自分自身のための、選択だった。
砂塵の向こうに、陽が沈んでいった。
物語は、ここで、終わる。
その先に何が起きたか、史料には、何も残らない。
家忠の名は、史料から消えている。
重久が、そう設計したからだ。
だが——もし、後の世の誰かが、合理性を得た誰かが、藻壁門の巻物の違和感を覚え、一の谷の戦いの史料を紐解き、衣川の死の不自然さに気づき、義経生存説を辿り、さらにその先で、大陸の戦場に現れた老武人の影に行き着いたとしたら。
その時、初めて——
家忠の、本当の物語が、見つかるのかもしれない。
それまでは——
ただの、風だった。
それだけのことだった。
完