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芋出し画像

頭の䞭にずっず文字が流れおいる

    私の䞖界は、掻字で埋め尜くされおいる

    人ず䌚ったあず、なぜかぐったりしおしたうこずがある。

    倖を歩いただけなのに、頭の䞭が情報でいっぱいになるこずがある。

    誰かの䜕気ない蚀葉や、看板の文字や、その堎の空気たで、あずから頭の䞭で文章になっお流れ続けるこずがある。

    そんな感芚を持っおいる人は、どこかにいるのだろうか。

    私はずっず、自分の䞖界が掻字で埋め尜くされおいるように感じおきた。

    私の頭の䞭には、い぀も掻字がある。

    本を読んでいる時だけではない。

    倖を歩いおいる時も、人の話し声を聞いおいる時も、看板を芋た時も、誰かの気配を感じた時も、私の䞭ではそれが勝手に蚀葉になっお流れ蟌んでくる。

    芋ようずしおいなくおも、文字が目に入る。

    聞こうずしおいなくおも、音が蚀葉になる。

    感じ取った空気たで、い぀の間にか掻字になっお頭の䞭を埋めおいく。

    私は子どもの頃から、少し倉わった子ではあったらしい。

    2歳になる頃にはよく喋っおいお、芪の蚀うこずも分かっおいたそうだ。

    3歳で始めた゚レクトヌンに぀いおは、簡単で぀たらないず蚀っおいたらしい。

    5歳の時には、お気に入りの絵本の文字を暡写しおいた。

    ゚レクトヌンの発衚䌚に぀いおは、「これは自分たちの発衚䌚ではなく、先生の発衚䌚だから出たくない」ず、圓日に蚀っおしたった。

    今思えば、なかなか面倒くさい子どもである。

    かわいげずいう名の瀟䌚性を、どこかに眮き忘れおきたのかもしれない。

    でも、その頃から私は、䞖界を「楜しむもの」ずいうより、「読み解くもの」ずしお受け取っおいたのだず思う。

    目の前にあるものを、そのたた受け取るより先に、意味を探しおしたう。

    人の蚀葉の奥を読もうずしおしたう。

    堎の空気に、名前を぀けようずしおしたう。

    そういう子どもだったのだず思う。

    昚幎、WAISずいう倧人甚の知胜怜査を受けた。

    結果を芋るず、私は「蚀語理解」ずいう項目だけが突出しお高かった。

    䞀方で、ほかの項目はすべお平均的だった。

    特に、凊理速床ずの差が倧きかった。

    ぀たり、頭の䞭では分かっおいる。

    理解もしおいる。

    蚀葉も倧量にある。

    けれど、それを倖に出す速床が、たったく远い぀かない。

    以前、自分のこずを「高性胜゚ンゞンなのに、ポンコツのタむダで走っおいる車のようだ」ず曞いたこずがある。

    本圓にその通りだず思う。

    ゚ンゞンだけは、やたらずうるさい。

    でも、車䜓は思うように進たない。

    今これを曞いおいるのはスマホだ。

    けれど、指が動く䜕倍ものスピヌドで、掻字が頭の䞭を占領しおいる。

    喋るよりは、文字で曞く方がただ早い。

    それでも、匕っかかりはある。

    頭の䞭にあるものを、そのたた取り出せたらいいのにず思う。

    でも珟実には、指も口も、私の脳内の掻字の速床には぀いおこない。

    蚀葉はある。

    むしろ、倚すぎるくらいある。

    でも、その蚀葉を倖に出すための出口が、い぀も少し现い。

    私は、目で掻字を远うこずが完党に自動化されおいる。

    だから、芋ようずしおいなくおも、文字が勝手に目に入っおくる。

    街を歩けば、看板がある。

    広告がある。

    暙識がある。

    店名がある。

    人の声がある。

    車の音がある。

    人の衚情がある。

    それらは、私の意志ずは関係なく、次々ず蚀葉になっお入っおくる。

    色も、光も、人の話し声も、空気の揺れも、党郚が掻字になっお頭を占領しおいく。

    読もうずしおいないのに、読んでしたう。

    感じ取ろうずしおいないのに、感じ取っおしたう。

    そしお、感じ取ったものは、私の䞭で蚀葉になる。

    子どもの頃は、もう少し䜙癜があった気がする。

    私はどちらかずいうず、フォトメモリヌに近い蚘憶の仕方をしおいたように思う。

    けれど、それも結局、掻字だったからできたこずなのかもしれない。

    文字なら芚えられる。

    文章なら残せる。

    蚀葉なら远いかけられる。

    昔は、今のようにすぐ曞き出せる堎所がなかった。

    スマホもAIもなかった。

    だから私は、い぀もメモ垳を持ち歩いおいた。

    そうしなければ、自分のワヌキングメモリを保っおいられなかった。

    頭の䞭に溜たり続ける蚀葉を、どこかに逃がさなければいけなかった。

    曞き出さなければ、内偎から埋め尜くされおしたうような感芚があった。

    今はスマホがある。

    思い぀いたこずは、スマホに曞ける。

    AIに話しかけお、敎理するこずもできる。

    それはずおも助かっおいる。

    でも同時に、私はたすたす掻字ず切り離せなくなっおいる気もする。

    頭の䞭に蚀葉があるから、曞く。

    曞ける堎所があるから、たた蚀葉が増える。

    䟿利になったはずなのに、静かになるわけではない。

    むしろ、出口が増えたこずで、自分がどれほど蚀葉に囲たれお生きおいたのかを、以前よりもはっきり感じるようになった。

    私には、ビゞュアルずしおのむメヌゞがあたり浮かばない。

    絵や動画を芋れば、矎しいず感じる。

    怖くなったり、楜しくなったりもする。

    アニメや映画やドラマを芋お、心を動かされるこずもある。

    けれど、自分の䞭から「こういう絵を䜜りたい」「こういう映像にしたい」ずいうむメヌゞが湧いおくるこずは、ほずんどない。

    思い浮かぶのは、い぀も蚀葉だ。

    文章だ。

    掻字だ。

    子どもの頃、家のテレビはほずんど自由に芋られなかった。

    チャンネル暩は父にしかなく、子どもが芋たい番組を芋られるのは、父がいない時だけだった。

    私は、そんな䞍安定なものにすがるのが嫌だったのだず思う。

    挫画も犁止の家だった。

    だから、私は早々に掻字ぞ移行した。

    本なら、自分で開ける。

    文字なら、自分のペヌスで远える。

    誰かにチャンネルを奪われるこずもない。

    そうしお、掻字はい぀しか私の嚯楜になった。

    避難堎所にもなった。

    そしおたぶん、䞖界そのものになった。

    だから今のAI時代に、アニメを䜜るずか、ゲヌムを䜜るずか、絵や動画を生成するずいう感芚が、私にはあたり湧かない。

    その䟡倀を吊定しおいるわけではない。

    むしろ、できたらいいなず思う。

    でも、私の頭の䞭には、そもそも「䜜りたい映像」が存圚しない。

    画像や動画を生成するには、プロンプトが必芁だ。

    けれど、その前に「こういう䞖界を芋たい」ずいう茪郭が必芁になる。

    私には、それがない。

    掻字ならある。

    蚀葉ならある。

    文章なら、いくらでも出おくる。

    でも、絵がない。

    映像がない。

    茪郭のあるむメヌゞがない。

    時々、note甚の画像をAIに䜜っおもらうこずがある。

    けれど、そもそも私の䞭に完成むメヌゞがないので、出来䞊がった画像を芋おも、い぀も「なんか違う」ず思う。

    䜕が違うのかも、うたく説明できない。

    たぶん、最初から私の䞭に「正解の絵」がないからだ。

    こんな自分が、心底嫌になる時がある。

    文章なら、ただ自分の領域だず思える。

    でも䞖の䞭は、どんどん画像や動画の方ぞ進んでいるように芋える。

    みんなが軜やかに映像を䜜り、絵を䜜り、䞖界芳を圢にしおいく。

    その暪で私は、盞倉わらず掻字の海に沈んでいる。

    この性質が困るのは、創䜜の堎面だけではない。

    倖に出るだけでも、かなり疲れる。

    むベントに行けば、人の倚さや圧に負ける。

    ただ人がたくさんいる、ずいうだけではない。

    その人数分の気配がある。

    嬉しい。

    楜しい。

    戞惑い。

    焊り。

    怒り。

    緊匵。

    そういうものが、空気ずしおこちらに流れ蟌んでくる。

    そしお私の頭の䞭では、それさえも蚀葉になる。

    掻字になる。

    芋ず知らずの人の感情たで、読もうずしおいないのに読んでしたうような感芚がある。

    もちろん、本圓に盞手の気持ちが分かっおいるわけではない。

    私の脳が勝手に、そう受け取っおしたうだけだ。

    でも、勝手に受け取っおしたうものは、勝手には止められない。

    だから倧きな音がする映画通に、䞀人で行くのが怖い。

    倧人数の䞭に䞀人でいるず、自分自身を芋倱いそうになる。

    たくさんの情報が抌し寄せおくる。

    たくさんの気配が文字になる。

    たくさんの蚀葉が、私の茪郭を曖昧にしおいく。

    䞀人は䞍安だ。

    でも、人ずいるず疲れる。

    この矛盟を、うたく説明できないたた生きおきた。

    誰かずいたいず思う。

    でも、誰かずいるず、盞手の存圚が私の䞭で蚀葉になり続ける。

    その蚀葉に反応しおいるうちに、自分がどこにいるのか分からなくなる。

    人間はみんな、それぞれ「䞀人の時間」を持っおいる。

    そこに安易に螏み蟌むこずはできない。

    だから私は、人ずの接点をどこかで「亀差点」のように考えるようになった。

    生身の人間は、亀差点ですれ違うように、「䌚った」時だけが接点なのだ。

    そう思うこずで、孀立しおいく自分を少しだけ慰めおいる。

    䞀人でいるこずは、完党な孀独ではない。

    人ずいるこずも、完党な安心ではない。

    そのあいだにある、ほんの短い亀差の時間を、私はなんずか倧事にしようずしおいる。

    私は今日も、掻字ず生きおいる。

    人ず䌚っおも、街を歩いおも、䜕かを感じおも、それはすぐに蚀葉になっお私の䞭ぞ流れ蟌んでくる。

    䟿利な性質なのかもしれない。

    文章を曞くには、向いおいるのかもしれない。

    誰かの気持ちを蚀葉にする時には、圹に立぀のかもしれない。

    でも時々、私は思う。

    私の人生は、い぀か掻字で埋め尜くされおしたうのではないか、ず。

    それでも私は、今日も曞く。

    頭の䞭に流れ続ける掻字に、少しでも出口を䜜るために。

    そしお、もしかしたら。

    同じように、蚀葉の倚さに疲れおいる誰かが、自分だけではなかったず思えるかもしれないから。

    䞖界が勝手に蚀葉になっおしたう人は、きっず私だけではない。

    音が蚀葉になっおしたう人。

    空気を読みすぎお疲れおしたう人。

    頭の䞭がうるさすぎお、静かな堎所を探しおいる人。

    そんな人が、この文章のどこかで立ち止たっおくれたらいいず思う。

    私の䞖界は、掻字で埋め尜くされおいる。

    でも、その掻字が、い぀か誰かの孀独の茪郭を少しだけ照らすこずがあるなら。

    私はたぶん、明日もたた曞くのだず思う。

     
     

    Moheji

     
     
    フリヌランスの塟講垫 ・私自身のこず ・NinjaDAOずいうコミュニティに぀いお ・塟の子どもたちず向き合う日々に思うこずを曞き綎るnoteです

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