
レミオロメン「3月9日」は卒業式か結婚式か
今年の3月9日に、「THE FIRST TAKE with 晴れ風ACTION」として、レミオロメン『3月9日』が公開された。
動画の紹介欄にもあるように、レミオロメンは約14年ぶりの活動再開を発表した。
『3月9日』は、リリースの2004年からは20年以上が経っている。
卒業式などの門出の場面で歌われる定番ソングの一つとなっている曲だ。
実は、自分が初めて買ったCDがレミオロメンの「粉雪」で、そのカップリングに「3/9 with Quartet」として『3月9日』のストリングスアレンジのものが入っていて、通学のときによく聞いていた。そこからアルバムの「朝顔」「ether [エーテル]」や 「HORIZON」が出るたびに、当時の相棒iPodnanoに入れていった。「雨上がり」「ビールとプリン」、「アカシア」「ドッグイヤー」「南風」などなど好きな曲を挙げていけば、きりがない。
そして、改めてこの『3月9日』を聴いていて、ふと思った。
この曲は卒業式を歌ったものなのか、結婚式を歌ったものなのか。
せっかくなので、歌詞を読みながら考えてみようと思う。
レミオロメン『3月9日』は卒業式の歌か?
流れる季節の真ん中で
ふと日の長さを感じます
冬は夜が長く、夏は昼が長い。
冬が終わりをつげ、卒業シーズンである春が近づいてくる。
それを実感するのは「日の長さ」である。
学校では朝から夕方くらいまでを過ごす。
学校からの帰り道、冬至のある12月頃は17時くらいにはもう外は暗い。
でもだんだん春(3月)が近づいてくると、同じような時間に歩いていてもまだ辺りが明るかったりする。
最初は夕焼け空に歩いていたのが、だんだん太陽が高いところにあったりして、気温の面では三寒四温と言われる通り、暑さと寒さが行ったり来たりするけれど、日の長さは着々と伸びていく。
「17時なのにまだ明るいね」みたいな話をしながら帰るのだ。
せわしく過ぎる日々の中に
私とあなたで夢を描く
「私」と「あなた」はどういう関係性の誰なのか。
生徒と先生、後輩と先輩、
友達同士、恋愛関係、あるいは子と親。
いろんな関係がありうる。
日々はせわしい、やるべきことはたくさんあるし、
生活のあれこれに追われているとあっという間に過ぎていく。
そんな折、「将来〇〇になりたいんだよね。」とか
「こうだったらいいのにね。」とか、ふとした日常会話で夢や憧れの話をすることもある。
自分の大事な部分、核心に近い部分ではあるだろうから、その分繰り返し語られたり、話題に出ることも多いかもしれない。
あるいは、馬鹿にされたり、そんなの無理だと言われるのが怖くて、あまり人には言わないタイプの夢もあるかもしれないし。それはそれで夢を語ったことが特別さを持ってくる。
3月の風に想いをのせて
桜のつぼみは春へと続きます
溢れ出す光の粒が
少しずつ朝を暖めます
ここは特に卒業式っぽい。というより、卒業式の「呼びかけ」っぽい。手紙の「時候の挨拶」のような雰囲気もある。
呼びかけの冒頭に、
「暖かな春の日差しを浴びて」
「桜のつぼみが膨らみ始め」
みたいな言葉が入ることが多いイメージがある。
式典という形式的な場だから、手紙と同じように時候の挨拶を入れているのかもしれない。
春は「春一番」に代表されるように、風が強く吹くイメージがある。春一番は、「立春(2月4日頃)から春分(3月21日頃)の間に初めて吹くあたたかくて強い南風のこと」。風には追い風というプラスのイメージもある。(向かい風はマイナスだが)
桜は地域にもよるが4月頃に咲くところが多いので、3月はつぼみであり、それがこれから学校を卒業していく子どもたちの比喩にもなっている感じがある。新しい世界で花開くことを願うような。
それでいて、「3月の風」は気温の変化が激しかったり、黄砂や花粉を伴うなど大変な環境でもあるので、順風満帆とは言えない雰囲気もあり、それがまた良い。
朝晩はまだ寒さが残る季節なので、朝方のまだやさしさがある光を「溢れ出す光の粒」としている。そして雨の日の雨粒に対して、晴れ粒とでも呼べるような小さな光の粒たちが、「少しずつ朝を暖める」その描写が3月の季節を上手に表しているように感じる。
大きなあくびをした後に
少し照れてるあなたの横で
新たな世界の入口に立ち
気づいたことは1人じゃないってこと
あなたが誰なのかわからない。(友達、親、先生…)
けれど、近くであくびをしていることから、気の置けない大切な人だということはわかる。そしてあくびしたあとに目が合って、「少し照れてる」あたりにも、二人の関係性が伝わってくる。
卒業式で感謝の言葉を伝えることが多い。そういう節目に振り返ってみると、学校生活というものは学業の面でも、飲食の面でも、部活動の面でも、施設の面でも様々な人の助けがあって成り立っている。そして、家庭や友達関係があってこそ、豊かな日々を過ごせていたことに気づく。
「新たな世界」へと巣立っていくことに孤独と不安を感じるけれど、それはこれまで支えてくれた人たちとの別れから感じるものでもあるのだ。
瞳を閉じればあなたが
まぶたの裏にいることで
どれほど強くなれたでしょう
あなたにとって私もそうでありたい
そして、このサビにつながる。
試合や試験の直前、目を閉じて深呼吸するそのひとときに、思い浮かぶ人がいて、そこから勇気や自信をもらう。
練習や勉強をがんばった日々、はげましてくれた言葉。
いっしょに同じ時を過ごしたというだけで築かれていく関係性があり、その「一人じゃない」「自分だけじゃない」という事実だけで安心できることもある。
2004年に流行した平井堅『瞳を閉じて』とレミオロメン『3月9日』に代表される「瞳を閉じる」という言葉に違和感を持つ人もいると思う。
瞳は本来「瞳孔(黒目)」のことを意味するから、「それを閉じるとは…?」と不思議に思う表現ではある。
おそらく平井堅の方は「目を閉じて」の5音より、「瞳を閉じて」の7音の方が収まりがよかったとか。(「を」の前と後が「ひとみ」と「とじて」の三音ずつの方がバランスが取れてる感じがするから、かな?知らんけど)
レミオロメンの方は「まぶたを閉じればあなたがまぶたの裏にいることで」にすると、「まぶた」が短い間隔で2回出てくるので、言葉の重複を避けたのかもしれない。
で、2番の歌詞。
砂ぼこり運ぶつむじ風
洗濯物に絡まりますが
昼前の空の白い月は
なんだか綺麗で見とれました
上手くはいかぬこともあるけれど
天を仰げばそれさえ小さくて
つむじ風が砂を巻き上げている、多分運動場かな。
それが洗濯物に絡まっている。(春は風が強いのだ)
せっかくきれいに洗った洗濯物に砂がついてしまう。
「あーぁ」と思いながら見ている。
運動場の近くにある知らない家の洗濯物だと思う。
(学校で洗濯物を干すかな?部活動によっては、なくはないのかも)
体育の授業や運動系の部活で校庭にいるときに見たのかもしれないし、校舎の窓から眺めているのかもしれない。
昼前の空にある月は、半月くらいのものがよく目につくイメージ。
夜は空の上の方で小さく光っているけれど、昼間の月はその白さが際立っていて、妙にはかなげな感じがあってそのきれいさに見とれてしまったのだろう。
そういう風景の描写。
物語では風景には感情が投影されていることが多い。
「上手くはいかぬこともあるけれど」という心情が、「洗濯物が砂で汚れる=うまくいかないこと」みたいな繋がりがあるようにも思える。
服が砂で汚れるように、日々の中で不条理で不快な出来事が自分に降りかかって、打ちひしがれて立ち止まっていたら、思わぬ気づきもあったというような。
ただそこにあるだけの空の壮大さと美しさで、気分が紛れることもあるだろう。運動場や川や海の近くなどは、周りに大きな建物がないのでやけに空が大きく見えるのだ。
青い空は凛と澄んで
羊雲は静かに揺れる
花咲くを待つ喜びを
分かち合えるのであればそれは幸せ
冬場は風が冷たく空気が澄んでいるように感じる。
空の青さもキリリとして、凛とした印象を受けるのだろう。
空の青さは、海の青さの反射なのだと聞いたことがある。科学的根拠があるのか、詩的表現なのかはわからないが、ぼーっと空を見ているとなつかしい気分になるのは、海がいのちのふるさとで、空はそれに似ているからかもしれない。
(調べてみたら、空の青さと海の青さはこういうことらしい。チコちゃんに叱られそうだ…)
羊雲はすこし大きな塊になった雲が、空に散らばっている。(秋によく出るらしいが、春にも普通に現れるらしい)
たぶんさっきの月を見た流れで、まだ空を見ている。
似た形の雲で、うろこ雲とかもあるけど、羊雲なのは動物の羊のイメージからくる語感もありそうだ。校庭や体育館で全校生徒が集まっている時のそれなりに整列してふらふらしながら話を聞いてる感じと、雲の感じが重なるかもしれない。
雲は止まっているように思えるときもあるけれど、じっと見ているとゆっくり動いていて、形も少しずつ変わっている。だから、目を離すと雲の位置や形は意外と変化しているのだ。
それは、まるで毎日が同じ繰り返しのようで、気づけば遠くへ来ていたような日常の変化みたいだ。
「花咲くを待つ喜び」のところ。
優勝とか合格とか、そういう目立った成果だけを喜ぶのではなく、それに向かって小さな目標を積み上げていく日々や、何でもない日々のあれこれを、笑顔で過ごしていける方が幸せだったりするのだろう。
羊雲は、「天気が下り坂(翌日以降に雨が降る)サイン」でもあるらしいので、そういう天気が崩れるような気配もニュアンスとして含んでいるのかもしれない。
この先の隣でそっと微笑んで
卒業式という別れの場面ではあるけれど、それは永遠の別れではなく、また顔を合わせることもあるだろうし。家族や仲の良い友達は環境が変わっても、まだまだそばにいてほしい。
そういう願いが、「この先も隣でそっと微笑んで」に込められていて、曲の大きな盛り上がりになっている気がする。
最後の「でーー」の部分が力強く伸びる。曲の頂上に来たような、その高いところ(山場?)で感極まっている感じがする。
歌声にも熱がこもっている感じがするし、「これからもよろしくお願いします。」のメッセージ性もありそう。
また、サビに帰ってくる。
自分を支えてくれた人への感謝。
人間関係は基本的に相互に助け合うものだから、「あなたにとっても私もそういう心強い存在であれたらいいなと思っているよ。」というメッセージも、持ちつ持たれつで素敵だと思う。
歌詞のことばかり書いてきたので、メロディのことも。
イントロから歌声の後ろで繰り返されるシンプルなメロディ。
たまにちょっと駆け上がる。春のひざしのようでもあるし、三寒四温の感じもある。電車の窓から見た電線のたるみとも合う。散歩くらいのペースで歩きながら聞いても良さそう。繰り返す日常のような響きもある。
最後のラーラララは小田和正の「言葉にできない」系の表現で、どこまでも広がっていく。阿蘇山のカルデラみたいに広大な自然を思わせる壮大さもある。同時に日常の記憶のかけら、詳しいことは忘れてしまって、輪郭が溶けて感情だけが残ったような、そんな気持ちの放出みたいな感じがする。
言葉を重ねれば重ねるほど、核心から離れていく感じがして、ただ「ラララ」と歌う方がしっくりくるような。言葉に加工される前の感情の原石をそのまま、ラララですくい上げているような。
Superflyの「あぁ」も歌詞ありバージョンと歌詞なしの"Ah"バージョンがあるけれど、歌詞なしの方が想像を掻き立てる気がする。
気づきも、後悔も、ありがとうも、さようならも、ごめんねも、大好きだも、もっとああしとけばよかったも、がんばったよなも、いろんな感情がぜんぶ、「ラララ」なら包み込める。どれかの言葉になった途端、それはその意味しか持たなくなるのだ。
ということで、これは紛れもなく卒業の歌。
卒業式にみんなで合唱すれば、心に響くこと間違いなし。
はじめの方が音程が低くて、サビが高くて歌うのが難しいけれど、歌詞は抜群に合うと思う。
意外と最後のラララの部分で涙が込み上げて歌えなくなった人もいるのではないかと思う。歌とは不思議なものだ。
だが、ここで気になる情報が、
レミオロメン『3月9日』は結婚式の歌かも?
3月9日のWikipediaには「自主制作期の2002年3月9日に結婚式を挙げた友人のために制作された楽曲」と書かれている。Wikiの情報ソースとして示されているリンク先のサイトにもそう書かれていた。
じゃあ結婚式の歌かもしれない。
ので、そっちの方向性でも考えてみよう。
流れる季節の真ん中で
ふと日の長さを感じます
せわしく過ぎる日々の中に
私とあなたで夢を描く
未来は遠い先のこと、過去はずっと前のこと、その真ん中に今がある。
「而今」という言葉が仏教の禅宗にあるようで、お酒の名前にもなっている。
じこん【而今】
酒名は、仏教用語で「今の一瞬」の意。過去や未来に囚われず今をただ精一杯に生きるという意味を込めて命名。
「今を精一杯生きる」べきなのだけれど、未来への不安や過去への後悔で、なかなか今の自分に集中できないことがある。「このままでやっていけるのだろうか」とか、「なぜあのとき、もっとちゃんとやっとかなかったんだ」とか、「もし○○だったら」の思考の堂々巡りに陥ったり、ほかの人がうらやましく思えたりする。
そんな憂鬱な日は、昼も夜もとてつもなく長く感じる。
暇があるとマイナスなことを考えてしまう。そうならないために、予定をたくさん入れてみたり、仕事や作業に没頭したりする。現実逃避にはいろんな方法がある。
そんなこんなで「せわしく過ぎる日々」だったのだが、あなたと出会って変化していく。
サン=テグジュペリは『人間の土地』で
フランス語(原文):"Aimer, ce n'est pas se regarder l'un l'autre, c'est regarder ensemble dans la même direction. "
英語:“Loving is not just looking at each other , it's looking in the same direction.”
日本語:「愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである」
と言っている。この言葉は結婚式のスピーチなどでもよく引用されるものだ。「私とあなたで夢を描く」もそれに近い気がするのだ。
それまでは、互いに見つめあいその魅力に惚れ惚れし、キャッキャウフフとデートを重ねて、映画を見たりショッピングに行ったりする。それも楽しい日々ではある。
だが、将来のことを話すとき、たとえば
「どんな家に住みたい?賃貸?マンション?戸建て?」とか、
「結婚式の式場や場所、誰を何人くらい呼ぶ?時期や予算は?」
「新婚旅行は行く?行くならどこ?国内?海外?」
「結婚指輪や婚約指輪は買う?家族の顔合わせはどうしようか?」
「車は買う?買うなら軽自動車?コンパクトカー?ミニバン?SUV?中古?新車?支払いは、一括?ローン?」
などなど決断をしなければならないことも多い。
未来の同じ方向を見つめて、そちらに向かって進んで行かなければならないからだ。
あれこれ想像を膨らませたり、「あれもいいね、これもいいね、どうしよう」と悩んでいる時間。あとから振り返ってみると幸せな時期なのかもしれない。その渦中にいると、ケンカや価値観の違い、一つに決めることの難しさに悩むのだが…。一つ一つが将来の夢であり、踏み固めていく現実のステップでもある。
もう少し具体的に見てみると、
住む場所にしても車にしても、買う物は収入に合わせたもの(家賃の一般的な目安は「手取り月収の25%〜30%」らしい)しか選べないし、新婚旅行も仕事を休める日数によって、旅程に制限が出てくる。本当は通勤に便利な駅前がいいけど、人気の駅前エリアは家賃が高いうえに部屋がそこまで広くない、とか。
家を建てるにしても、土地やローンのことを考えると、新しく分譲している郊外エリアの方が手が届きやすいが、最寄り駅までバスに乗る必要があるとか。
新婚旅行で、ヨーロッパに行きたかったけど、飛行機の移動時間がかなり長いし、値段も高いな、とか。じゃあアジアならどの国がいい?そもそも言葉の通じぬ海外ではあるが、金額的に高い大手のツアーで行くか、自分たちでフリーでプランを立てていくか。そこで求められるいろんな手続きや申し込みがあり、その時々でトラブルや予定外のことが起きて、その対応に追われているうちに互いに不機嫌になってケンカするなんてこともあるだろう。
3月の風に想いをのせて
桜のつぼみは春へと続きます
溢れ出す光の粒が
少しずつ朝を暖めます
いろんな想いが3月の風に乗って、未来へのつぼみとしてつながっていく。いつか花開く日を夢見ながら。そしてそれが桜ならば、割と短い期間で散ってしまうかもしれないが、咲いている期間は一年の中でもとても美しい日々となるだろう。そして、花が咲いて散っても、桜の木はずっとそこにあり続け、次の春にはまた花を咲かせるのだ。
「人の人生がもし一日だったら、何歳くらいで夜が明けるのだろう。」ということを考えることがある。検索すると「人生時計」というものが、いくつも出てくる。年齢を3で割って、24時間にあてはめる(人生を72歳=72時間と考えたたときの、大体の位置がわかる)などなど。
日本人の平均寿命をもとに人生が85歳で終わるとして計算すると、
1年 ≒ 17分
10年 ≒ 2時間49分
つまり、人生を時計で表すと
年齢 人生の時刻
0歳 0:00
10歳 2:50
20歳 5:40
30歳 8:30
40歳 11:20
50歳 14:10
60歳 16:55
70歳 19:45
80歳 22:35
85歳 24:00
という感じになる。もっと早く亡くなる人もいるし、長生きする人もいるだろうから、単なる目安ではあるのだけれど
25歳 → 朝7時ごろ
35歳 → 朝10時ごろ
45歳 → 昼12時半ごろ
55歳 → 午後3時半ごろ
65歳 → 夕方6時半ごろ
さまざまな人生の形があっていいと思う。思うのだが、もし人生の流れに「結婚」があるとするならば、それは何時くらいなのだろう。
子どものころはまだ夜明け前で、二十歳くらいでだいぶ朝も過ぎてきて、結婚する頃くらいは朝と昼の間くらい、子育てをしている頃に昼を迎えている気がする。
あなたとの出会いによって、人生が「光の粒」のような小さな希望(=あなたと描く夢)によって少しずつ暖められていく感じが、比喩としてもしっくりくる。
大きなあくびをした後に
少し照れてるあなたの横で
新たな世界の入口に立ち
気づいたことは1人じゃないってこと
なんとなくこの部分の歌詞は「目が覚めて涎を拭いたら」で始まる星野源の"Family Song"に通じるような幸せな雰囲気がある。
「あくび」というのはある種の無防備な瞬間で、眠い時にする行動だ。
夜の寝る前なのか、朝起きてすぐなのか、昼にお腹いっぱいになって眠くなっているのか。
いずれにしても、大きなあくびを見られて照れている瞬間と言うのは、いとしさで溢れている感じがする。
「新たな世界の入り口」、結婚はまさにそうである。
婚姻届を出すのにも、証人が2名必要で。
家を借りるにしても、買うにしても、保証人が必要な場合が多い。
誰かに助けてもらわないと、結婚も家に住むことも難しい。
結婚式に呼ぶメンバーを考えるとき、自然と自分の人生を振り返る。
幼馴染、小中高、アルバイト、いとこ、親戚…。
自己紹介ムービーで懐かしい写真を引っ張り出してきたりして。
「この遊園地は今はもうないんだっけ」とか、
「もう亡くなったおばあちゃんが写ってる」とか、
「高校生の頃はこんなにシャープな顎をしてたんだな」とか。
うまくいかないことばかりで完璧とは程遠い人生だけど、いろんな人に助けられてここまで育ってきたんだなと思う。
結局、自分はあまり人を呼ばなかったけれど、そこもまたパートナーと相談しながら決めていけば良いと思う。
「1人じゃない」は「これからは2人で」というニュアンスも感じる。何ならこれまでも2人で過ごしてきた日々があるだろうし。
瞳を閉じればあなたが
まぶたの裏にいることで
どれほど強くなれたでしょう
あなたにとって私もそうでありたい
目を閉じれば、浮かぶ顔がある。
仕事の帰り道、あなたは今、何をしているかな、○○してる頃かな、とか。
買い物で、あっ、あなたの好きそうなものがある。とか。
あなたなら、こんなときこう言いそうだなとか。
そういえば、『葬送のフリーレン』で、フリーレンが「ヒンメルならそうする」的なことを言う場面がある。
勇者ヒンメルならそうした時にどうぞ。 pic.twitter.com/0Azg6UmSdL
— 『葬送のフリーレン』公式 (@FRIEREN_PR) December 18, 2024
まぶたの裏というのは、心の中ということだと思う。
その人の行動や思考回路が頭にあって、「あの人だとこう言うだろうな、こうするだろうな」というのが、迷った時の判断基準となる。
それは、全部ひとりで背負わないといけなかった頃より、「どれほど強くなれたでしょう」という。
これは心理学でいう「内在化」である。
内在化(ないざいか): internalization
心理学用語。内面化ともいう。心ないしパーソナリティの内部に,種々の習慣や考え,他人や社会の規準,価値などを取入れて自己のものとすること。十分に内在化 (内面化) されたものは,もはやほかから受入れたものとして感じられなくなる。子供は発達の過程で,両親や周囲の人々ないし社会の習慣,考え,規準などを内在化し,やがてそれを自分のものとして行動する。精神分析上の超自我は両親のもつ規準の内在化したものとみることができる。
(出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
フリーレンの心の中にヒンメルがいる。
「大切な人が亡くなっても、心の中で生き続けている」という表現も、この内在化につながっている気がする。
そして、「あなたにとって私もそうでありたい」につながる。
片方だけがずっと助けられ続けている関係は長く続かいないと思うので、お互いに持ちつ持たれつでバランスが取れているといいなと思う。
現実にはなかなか難しいこともある。フリーレンもヒンメル亡き後に、そのことに気づいて、あのセリフを言っている気がするし。ヒンメルにもそうなっていく予感が伝わっていたような気もするし。
砂ぼこり運ぶつむじ風
洗濯物に絡まりますが
昼前の空の白い月は
なんだか綺麗で見とれました
上手くはいかぬこともあるけれど
天を仰げばそれさえ小さくて
「洗濯物を外に干すか、家の中に干すか」というのも家事で意見の分かれる問題である。
外に干すと、黄砂や花粉がつくし、突然の雨にも弱い。夜には虫がきたりするかもしれない。
中に干すと、生乾き臭がする率が上がるので衛生的に微妙だし、干すスペースも限られている。
そもそも「洗濯を回す、干す、畳む」という作業が、面倒なうえに結構な頻度でそれをしなければならない。ネットに入れるとか、柔軟剤や洗剤を投入するとか、なくなれば買いに行くとか、地味な負担が多い。
で、洗濯機は縦型か、横型ドラム式か。
どれくらいの頻度で、バスタオルやシーツを洗うか。
毎日の家事は、意外と家庭ごとの文化の違いというか、どちらの生活習慣に寄せていくか。あるいは、互いに納得のいく落としどころはどこかということを、いろいろと相談する必要がある。ときにはケンカにもなるし、ケンカまでいかなくても我慢している方のストレスが溜まる。
「昼前の空の白い月」が、そのモヤモヤが洗濯機の中でぐるぐる回るのを、いったん休ませてくれたのかもしれない。こういう時に見る月は、水のように薄い青色の空に、洗い立てのように白く透き通って綺麗に見える。
青い空は凛と澄んで
羊雲は静かに揺れる
花咲くを待つ喜びを
分かち合えるのであればそれは幸せ
どたばたと過ぎる日々も、少し落ち着いてくると澄んでくる感じがする。
ぐるぐるかき混ぜられていた水の濁りが次第に底の方に沈んでいき、水面が凛と澄んでくるみたいなもので。
「羊雲が静かに揺れる」のあたりは、穏やかな休日。
羊って眠るときに数えるイメージがある(英語の「sheep(羊)」と「sleep(眠り)」の発音が似ているという言葉遊びからきたものらしい)ので、休日にのんびりお昼寝をしているのかもしれない。
そして、1番の歌詞からの時間の経過を感じるので、子どもが産まれていたりするのかなと思う。
「花咲くを待つ喜びを分かち合える」という言葉を、赤ちゃんと過ごす日々の喜びを分かち合っていると受け取ると、しっくりくる感じがする。
花咲くは、子どもの笑顔なのか、ハイハイやつかまり立ち、発語などの成長を意味するのか、解釈の幅はいろいろありそうだが、そういう幸せな雰囲気で満たされている。
この先の隣でそっと微笑んで
この歌詞にも、そういう人生の広がりがありつつ、これからもずっと隣で微笑んで、人生を歩んでほしいというメッセージがありそうな感じがする。
この部分が、歌い方からもメロディからも、感極まっている感じがするので、この歌が1番伝えたい願いなのかもしれない。
瞳を閉じればあなたが
まぶたの裏にいることで
どれほど強くなれたでしょう
あなたにとって私もそうでありたい
そして、1番のサビがカップルやパートナーを意識したものであったのに対し、2番目は自分の子どもという次の世代に受け継がれている感じがする。
そういう意味では、この歌は親子の歌でもあるのかもしれない。
(卒業式がしっくりきてたのも、その部分が共鳴しているからなのかな)
自分の親なら、こう言うだろうなとか、こうするだろうなということが頭をよぎることがある。考え方だけでなく、生活習慣は親の影響によるものが大きい。結婚して、別の家庭で育った人間と一緒に暮らすとそのことに改めて気づく。
瞳を閉じれば(内在化された)自分の家族が浮かび、自分を支えてくれたように、自分の育てている子どもたちの中でも、親である自分が支えとなっていればいいなという。そういう愛を感じる。
そして、最後のラララにはもはや人生の走馬灯のような、親から子へ脈々と受け継がれてきた思いや願いみたいなものが、きらきらと輝いているように思えるのだ。
終わりに
このレミオロメンの『3月9日』は「卒業式の歌」でもあるし、「結婚式の歌」でもある。そしてもっと幅の広い「人生の歌」であり「愛の歌」でもあるのだと思う。
堀北真希さんが出ているMVを見ていると、冒頭で担任の先生があいさつしている卒業式の描写があり、そのあと姉の結婚式に参加している。姉の結婚式から、姉妹の思い出にも話が広がっているので、家族の話でもある。
映像に出てくる記念写真もホームビデオも、当時は何気ない日常だったはずなのに、あとから見返すとかけがえのない眩しさを感じる。
そして、最後は新しいスーツ(姉からもらった?)を着て、電車に乗り新しい生活へと踏み出していくのだ。
MVの完璧な演出と、出演者の演技に圧倒される。名曲に名MVありという感じもする。映像作品として、完成度がとても高いのだ。
自分の好きなNHKの番組「名曲考察教室」でも卒業ソングスペシャルとして、『3月9日』が取り上げられていて、それもとてもおもしろかった。
その中で『3月9日』をイメージした和菓子が出てきて、とても美しくて、おいしそうで、歌のイメージに合っていた。
最後に、
歌詞を読んでいく中で、人生を1日に換算する「人生時計」と言うものを紹介したが、もし人生を1年に換算するならば以下のようになるらしい。
仮に人生80年として、1年(12か月)を80年で割って計算してみます。10年は約1.5か月に相当します。
10代(2月後半~3月)
勉学に励み、養分を充分に吸収して芽吹きを待つ季節です。
20代(4月~5月前半)
丁度青葉が伸びゆく季節、未熟ですが希望を胸に社会に出ていく時期です。
30代(5月後半~6月)
新たな家庭を持ち、職場でも責任が増していきます。梅雨も成長の糧となります。
40代(7月~8月前半)
夏真っ盛り、家族のため、会社のため、まさに働き盛りです。
50代(8月後半~9月)
苦難という台風もやってきます。人生の収穫期に向けて、成果が問われます。
60代(10月~11月前半)
実りの秋、子どもも独立し、第二の人生を満喫したいものです。
70代(11月後半~12月)
やがて冬、静かに人生を顧みるときです。落ち葉は次の世代の養分になります。
より細かく計算すると『3月9日』は人生の約18.6%が経過した時点となるので、
人生を 100年 とすると → 約18.6歳
人生を 80年 とすると → 約14.9歳
ということになるので、やはり人生と季節の重なりでいうと、「卒業式」の方がしっくりくるのかもしれない。
話はそれるが、さきほどの「カレンダーで見る自分の『一生』」の記事でも紹介されている「ジャネの法則」と言うものがある。それは、年を取るほど1年が短く感じる現象を説明したものだ。
この記事がより詳しい
本当にそんなに短いかどうかは、ツッコミどころではあるが、振り返ると一年があっという間に感じるのは、体感としてとてもよくわかる。
ついこの間、高校を卒業したばかりだと思っていたのに、気がつくとかなりの時間が経っている。
ついこの間、結婚したと思ったら、もう結構な時間が過ぎていたりもする。
ついこの間、3月だと思っていたのに、記事を書き終わったのがもう6月なのは、書くのが遅いからと、記事が長くなりすぎたからだ。
ということで、ここまでお付き合いくださった読者のみなさんとこの名曲を生み出したレミオロメンの皆様に感謝して、この記事を終えようと思う。ありがとうございました。