
何をしていてもむなしいとき
何をしていてもむなしい時がある。
こんなことをして、何の意味があるのだろう。
誰のためにもならず、何の役にも立っていない。
その感情の上に、「あー、めんどくさい」という重みが乗っかって、もはや何もしたくなくなる。
むなしさや無力感が、何もしない言い訳になっている部分もある。
じゃあ役に立つことならするのかと言われると、人にあれこれ指示を出されて動くことにも嫌気がさしてきて疲れる。表面上の思考は、あれこれわかりやすい理由をつけているけれど、その理由を解決しそうなことであっても、結局むなしさは消えない。
「学習性無力感」という言葉があって、
「何をやっても無駄だ」ということを学習してしまって、うつ病みたいな症状が出るという。犬に電撃を流すという、なかなか倫理的にひどい実験をして証明されているのだが、自分もこの無力感かもしれないなと思っている。
この言葉をセリグマンという人が提唱したらしく、『オプティミストはなぜ成功するか』という自己啓発本みたいなタイトルだけど、意外と心理学的理論に基づいて書かれている本を読んだこともある。(読んだものの、オプティミストにはなれなかったけど…。ちなみに自分が買った時は629円+税だったのに、今は違う出版社から1430円(税込)で売られている。物価高だね…。)
このむなしさは何なのだろうと思いながら、ずっと生きてきた。
セリグマンの本は読んだし、バーンズの『いやな気分よ、さようなら』も買って途中まで読んだ。(途中で挫折して積読へ、我が家の分厚い本ランキング上位だ。ちなみにほかの本は、エンデの赤い『はてしない物語』の単行本、マット・ラフ『魂に秩序を』、藤原新也『印度放浪』、京極夏彦の『百物語』シリーズ、現代語訳『南総里見八犬伝』上下巻も分厚い。分厚い本は挫折率が高い。『はてしない物語』のみ読了)
そんな中、一つのヒントになったのは、意外と心理学ではなく仏教の「般若心経」だった。
検索するとWikipediaもあるし、NHK財団の般若心経の解説のPDFが出てくる。
初音ミクの歌がついたものもあって、ニコニコ動画を中心に話題になったこともある。こうして聴いてみるとお経も歌の一種なのかも。
色不異空
空不異色
色即是空
空即是色
(形があるということは実体がないことと同じであり、実体がないということは形があることと同じである。すなわち形があるからこそ、実体がないということになり、実体がないからこそ、形があるということになるのだ。)
一般財団法人NHK財団のHPより hannyashingyou.pdf
原文と訳を一部抜粋した。
結局、「色=形がある」「空=実体がない」の2つが正反対のはずなのに、コインの表裏のように一体になっているから、ややこしいのだ。一見わけのわからないことを言っているようで、めちゃくちゃ実感できる気もする。
耳口目鼻など感覚を刺激し精神に訴えかけてくる色んなものがあるけれど、結局そのどれにも大した意味はない。その感覚や価値に囚われすぎると、こだわっているつもりが、その先のむなしさに行きつくような。
美味しいご飯も、美しい芸術も、伝統も権威も、いろいろと価値がありそうに装うけれど、その元を紐解いていくと何も残らなかった。
般若心経の解説に出てくる宗教的な教義や世界観の話はあまり興味がないので、仏教関係の方には「おいおい」と突っ込まれるかもしれないけれど、この「色即是空」の考え方はすごいしっくり来たのだ。
すべては関わりの中で存在するように感じているだけで、結局絶対的なものなんてないんじゃないか、と。
生活の中で役に立っているとか、生きがいだとか、自分が大切に思うことやもの、好きな物事もあるけれど。
ふと我に返ったときそこに感じるむなしさは、「ないけどある」「あるけどない」のその表と裏の境目みたいなところにスポッとはまってしまう気分なのかもしれない。
ジャンルは違うが、哲学でも「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの言葉があって、
全てについて疑うべし(De omnibus dubitandum。カール・マルクスの言葉)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。
世界のすべてが空で、無であったとしても、そのことを考えている自分だけは信じてもいいんじゃないかということなのだろう。
世界の空虚さやむなしさを出発点にして、悟りやら涅槃やらを目指す仏教と、思考を進めていく哲学とで進む方向はやや違うのかもしれないけれど。
自分が感じていることは、昔からいろんな人が感じていて、それぞれすごい人たちが意味づけして折り合いをつけてきたんだなと思う。
正直この文章もどれだけの意味や価値があるのかと言われたら、まるで読む意味のないものかもしれない。すべての文章は、元々伝えるべきことなど何もなく、ただ死ぬまでの暇つぶし、一夜の夢のようなものなのだ。それをわかったうえで、それでも何かを語り、何かを残していく営みが、思わぬところで人を励ましたり支えたりすることもあるかもしれない。
ただ漠然としたむなしさを抱え、このネガティブな、めんどくさい、いやな感情は何なんだと思っていたころと比べたら、今の方がだいぶ気楽だ。
その負の感情の原因が、たぶん自分の過失や負い目ではなく、多くの人がぶち当たる問題なのだと思うと、まあそんなもんかと思える。
論語の有名な言葉で
子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩。
15歳で学問に志し、30歳で独立し、40歳で迷うことがなくなり、50歳で天命を知り、60歳で他人の言葉を謙虚に受け止められるようになり、70歳で人の道を踏み外すことなく自由に行動できるようになったって内容です。
なんてのもあって。
年を重ねていく中で、成長するのかしないのか。
心の欲するままに行動しても道を踏み外さなくなるのは、まだまだ先の話のようだ。