【私の後ろに、知らない毛玉がいる】

毎朝のルーティンである「ゴミ出し」が、今日は少しだけ違っていた。
玄関の鏡で身なりを整えていたとき、背中に妙な違和感を覚えたのだ。服の上からでもわかる、不自然な膨らみ。
ジャケットを脱いでシャツをめくり、男――ミツマサは固まった。
「……これは、尻尾なのか?」
白くて丸い。ぽんぽんとした、長さ五センチほどのふわふわした尻尾。
しかも、ミツマサの密かな動揺に合わせて、ぴこっ。と、小さく痙攣した。
「……は?」
声が出た。しかし、パニックにはならなかった。人間、限界を超えると尻から幻覚を見るらしい。
「ついに来たか」
妙に納得しながら、ミツマサは靴べらで踵を滑り込ませた。とりあえず、今日の会議に遅刻するわけにはいかない。
ミツマサは慎重に、その柔らかい尻尾をインナーの中にねじ込んだ。
モゾモゾするが歩けないほどではない。
満員電車で他人の背中を圧迫しないよう、いつも以上に姿勢を正して会社へ向かった。
✥
異変に気づいたのは、昼過ぎのことだった。
社内の給湯室でコーヒーを淹れていると、背後から課長の声がした。
「おい、ミツマサ。昨日の企画書、データの裏付けが甘いぞ。お前の頭の中はどうなってんだ」
相変わらずのネチネチとした説教。ミツマサは心の中で、
「あなたは自分の頭皮でも心配してろ」
と悪態をつきながら、作り笑いを浮かべて振り返った。
その瞬間だった。
✥
――ぴこっ。
背中で、何かが跳ねた。
スラックスの布地を突き破る勢いで、隠していた尻尾が勝手に外へ飛び出した。
課長は絶句した。
「なっ……なんだ……犬を連れて出社してたのか?! 外に連れ出せ」
「あ、これですか?」
ミツマサは尻尾を見た。
「いや……今日はコイツの体調が心配で」
「ふざけるな! ペットをスラックスに突っ込んで会社に来る奴がいるか!」
課長は頭を抱えた。
「お前の頭は女子高生か!」
「すみません。そばにいないと不安なんです」
ミツマサは平身低頭で謝った。そして、すぐに尻尾を服の中へ押し戻そうとした。
だが。
尻尾はミツマサの意志を完全に無視していた。ブルブルと震えている。
「そんなところでふやかしてないで、早くスラックスから出せ!」
「いや、出したら余計にややこしいことになるんで……!」
騒ぎを聞きつけ、フロアから視線が集まった。
頼む。見ないでくれ。尻がプルプル震えるじゃないか。
ミツマサは極力目立たぬように生きてきた。会社の評価も「可もなく不可もなく」。
それが、ミツマサの誇りだった。
「わかった。俺が警備室に預けてきてやるから犬を出せ」
……犬?
ミツマサは尻尾を見る。
確かに、くるりと巻いている。
何犬だろう。
いや。
何をどこから取り出せばいい。
その時だった。
尻尾がブンブンとプロペラのように激しく回転し始めた。
「うわっ、危ないな! こっちに振るな!」
「す、すみません。言うこと聞かなくて!」
ミツマサは必死に押さえた。だが、押さえれば押さえるほど暴れる。まるで、ミツマサより先に怒っているようだった。
✥
「……課長」
ミツマサは言った。
「これは、私の意思ではありません」
「は?」
「勝手に出ます」
課長の眉間にシワが寄った。
「何が」
ミツマサは少し間を置いた。
「……本音が」
「尻尾を本音扱いするな」
フロアが静まり返った。
でも、この状況を利用できる気もした。
「ですから、本日はこれにて早退します」
ミツマサは一礼した。
「尻尾の機嫌が直り次第、また出社しますので」
背後から課長の声が飛んできた。
「待て!」
「犬じゃなくて、レッサーパンダになってるぞ!」
ミツマサは振り返らなかった。
✥
翌朝。
くすぐったい毛並みに起こされた。
目を開ける。
まだレッサーパンダだった。
慣れるのが早すぎる気がした。
まだ、大丈夫だ。……たぶん。
問題は、
今日が燃えるゴミの日だということだった。

