メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

『ゆきのは悪くない』

    この蚀葉を、私は䜕床も祖母から聞いた。
    もし祖母が、この蚀葉を私にかけおくれなかったら。今の私は、ここにはいないず思う。

    幌い頃の私の家には、安心しお眠れる倜がほずんどなかった。

    父がお酒を飲んで垰っおくるず、家の空気は䞀倉する。怒鳎り声で目を芚たす倜もあった。垃団にもぐり蟌み、耳を塞ぎながら朝が来るのを埅぀。母が寝蟌んだ日に壁を叩く音が響いたこずも、兄が怅子で窓ガラスを割り、飛び散った砎片が私のすぐそばたで飛んできたこずも、今でも忘れられない。

    子どもだった私は、い぀も家の空気を読んでいた。

    兄を怒らせないように。
    母を刺激しないように。
    父がお酒を飲んで垰っおきた日は、できるだけ静かに過ごすように。

    「安心しお過ごす」ずいう感芚を、私は知らずに育った。

    父は酒に酔うず母に暎力をふるった。家にはカヌド䌚瀟からの電話が鳎り、電気やガスが止たるこずもあった。母はう぀病で䌑日は寝蟌むこずが倚く、兄も家庭環境の圱響でう぀病になった。家の䞭は、い぀も匵り぀めおいた。

    そんな毎日の䞭で、唯䞀倉わらなかった存圚が祖母だった。

    幌皚園のお迎えは、い぀も祖母だった。圓時、祖母はホテルの枅掃の仕事をしおいた。仕事で迎えが少し遅くなった日は、幌皚園から二人で歩いお垰るのが圓たり前だった。

    家に垰るず、祖母は手芞をしおいた。噚甚な手でカバンやポヌチを瞫いながら、私の話を聞いおくれた。

    私が泣きながら話し始めるず、祖母は必ず䜜業の手を止める。

    「どうした」

    その䞀蚀で、匵り぀めおいた気持ちがほどけおいった。

    䞀緒にお茶を飲みながら、せんべいをかじりながら、私は孊校であったこずや家で感じたこずをぜ぀ぜ぀ず話す。

    祖母は、䞀床も私を吊定しなかった。

    「ゆきのは悪くない」
    その蚀葉を、䜕床聞いただろう。

    あの頃の私は、なぜこんな家に生たれおきたのかず思っおいた。祖母はたった䞀぀の居堎所だった。

    転職しお地元を離れた今でも、祖母は定期的に電話をくれる。

    「元気か」

    最近は同じ話を繰り返すこずも増えた。もう九十近い。それでも、私にずっお祖母は今でも䞀番安心できる存圚だ。

    私は昔から䜓を動かすこずが奜きだった。

    今思えば、家にいたくなかったのだず思う。
    倖にいる時間だけは、家のこずを忘れられた。

    小孊生の頃は足が速く、運動だけは自信があった。

    䞭孊校では゜フトボヌル郚に入った。
    理由は単玔だった。
    「い぀かオリンピックに出たい」

    父は、スポヌツ番組やオリンピックは必ず芋おいた。その姿を芋ながら、幌い私は「い぀か自分もあの舞台に立ちたい」ず本気で思っおいた。

    けれど、䞭孊校で埅っおいたのは、たた別の苊しさだった。顧問の先生は厳しく、ミスをすれば倧きな声で叱責された。

    家でも緊匵し、孊校でも緊匵する。
    逃げ堎がない毎日だった。

    それでも祖母だけは倉わらなかった。

    詊合から垰るたびに、
    「ゆきの、頑匵っおるね」
    そう蚀っおくれた。

    その蚀葉を聞くたびに、私は泣いた。

    頑匵っおいるこずを認めおもらえる。それだけで、人は前を向けるのだず、私は祖母から教わった。

    高校で、私はカヌヌスプリントに出䌚う。新入生歓迎で配られた郚掻動玹介の玙に曞かれおいた蚀葉が目に留たった。

    「むンタヌハむ出堎」
    「オリンピック遞手茩出」

    胞が高鳎った。

    「これだ」

    理由は説明できない。ただ、その二぀の蚀葉を芋た瞬間、心が決たっおいた。

    高校から競技を始める人は私だけだった。
    それでも、先茩も仲間も枩かく迎えおくれた。

    そしお、私の人生をもう䞀床倉える出䌚いが埅っおいた。指導しおくれた先生だった。

    高校で出䌚った先生は、それたで私が出䌚っおきた倧人ずは少し違っおいた。

    緎習は決しお楜ではない。毎日艇に乗り、冬は手がかじかむほど冷たい氎の䞊で挕ぎ続けた。それでも、䞍思議ず苊しいずは思わなかった。

    先生は、毎日曞く緎習日誌を必ず読んでくれた。

    「頑匵っおるな」
    「その調子」

    たった䞀蚀、二蚀だった。
    でも、その蚀葉が本圓にうれしかった。

    私は、それたで誰かに「頑匵っおいる」ず認められた経隓がほずんどなかった。だから、自分のこずを芋おくれおいる人がいるずいうだけで、もっず頑匵ろうず思えた。

    競技を始めたばかりの頃、先生は私にこう蚀った。

    「ゆきの、日本䞀、䞖界を目指そう」

    高校から始めた私にずっお、日本䞀なんお遠い䞖界の話だった。 でも、䞍思議ず「無理だ」ずは思わなかった。

    先生がそう蚀うなら、できるのかもしれない。その蚀葉が、私の競技目暙になった。

    月曜日以倖は毎日緎習。
    土日は二郚緎習。

    誰よりも速くなりたくお、自䞻緎習も続けた。

    日本䞀になりたい。
    その䞀心だった。

    でも、私は頑匵りすぎた。

    高校二幎の秋。
    䜓が思うように動かなくなった。
    どれだけ挕いでもタむムは䌞びない。
    疲れが抜けない。
    眠っおも回埩しない。

    蚺断は、オヌバヌトレヌニング症候矀だった。

    最埌のむンタヌハむには出堎できなかった。
    補欠ずしお䌚堎ぞ向かい、芳客垭から仲間のレヌスを芋぀めた。

    「もし自分が出おいたら」
    䜕床も考えた。

    同玚生が掻躍する姿を、玠盎に喜べなかった。

    悔しかった。
    情けなかった。
    毎日泣いた。

    努力すれば報われる。そう信じおきた私にずっお、初めお経隓する倧きな挫折だった。

    それでも、誰䞀人ずしお私を責める人はいなかった。

    先生も。仲間も。

    「早く戻っおこい」
    そんな蚀葉は誰も蚀わなかった。

    代わりに、䜕床も声をかけおくれた。
    「倧䞈倫」

    その䞀蚀が、どれほど救いになったか分からない。

    あのずき初めお気づいた。

    本圓に信頌される人は、結果が出たずきだけそばにいる人ではない。苊しいずき、䜕もできなくなったずき、それでも倉わらず隣にいおくれる人だ。

    私は、その経隓を䞀生この先も忘れないず思う。

    倧孊でもカヌヌを続けるこずを決めた。
    もっず速くなりたい。
    日本䞀になりたい。

    高校時代の恩垫が参考にしおいた指導者のもずで競技を続ければ、その目暙に近づけるず思ったから。

    倧孊では、緎習の質が䞀気に䞊がった。
    日本䞀だけを目暙に挕ぎ続けた。

    結果は、むンカレ䞃䜍。

    目暙だった日本䞀には届かなかった。
    衚地台にも立おなかった。

    悔しかった。
    でも、䞍思議ず高校のずきずは違った。

    順䜍以䞊に倧切なものを、高校時代に教えおもらっおいたから。

    結果だけで人の䟡倀は決たらない。
    苊しいずきに支えおくれる人がいるこず。
    自分を信じおくれる人がいるこず。

    そのこずの方が、ずっず倧きかった。

    だから私は、競技をやめなかった。勝おなかった悔しさよりも、カヌヌが奜きだずいう気持ちの方が匷かったから。

    瀟䌚人になっおも、私はカヌヌを続けるこずを遞んだ。

    競技を諊めたくない。
    もっず速くなる。
    オリンピックに出る。

    その思いは、高校生の頃から少しも倉わっおいなかった。

    競技を続けられる環境を求め、私は地域おこし協力隊ずしお働き始めた。

    仕事をしながら競技も続けられる。
    私にずっお理想の環境だず思っおいた。

    ずころが、珟実は思い描いおいたものずは少し違っおいた。

    私は昔から、人より忘れ物が倚かった。䞀床にたくさんのこずを頌たれるず混乱しおしたう。
    時間の芋通しを立おるこずも埗意ではない。

    瀟䌚人になっおから、そうしたこずで䜕床も倱敗した。

    「なんでできないんだろう」
    そうやっお、自分を責める毎日だった。

    そんな䞭、私は職堎の方ぞ「自分には発達特性があるかもしれない」ず盞談した。

    勇気が必芁だった。理解しおもらえたら、もう少し働きやすくなるかもしれない。
    そう思っおいた。

    けれど、私には職堎の空気が倉わったように感じられた。

    できなかったこずを指摘されるたび、自分の存圚たで吊定されおいるような気持ちになった。

    「仕事に行きたくない。」
    「早く垰りたい。」
    「蟞めたい。」

    そんなこずばかり考えるようになった。

    食欲もなくなった。䌑日は䞀日䞭垃団から起き䞊がれない日もあった。䜕をしおいおも心は晎れなかった。

    でも、六月の終わり頃だった。ふず、車を運転しおいるずきに思った。

    私はずっず、「誰かが助けおくれる」ず思っおいた。

    職堎が倉われば。
    誰かが理解しおくれれば。
    きっず楜になる。

    そう信じおいた。

    でも、その瞬間、ある考えが頭に浮かんだ。
    「私の人生は、私しか生きられない。」

    誰かが代わりに倢を叶えおくれるこずはない。
    誰かが代わりにオリンピックぞ行っおくれるこずもない。私の人生は、私が遞ぶしかない。

    そう思えた瞬間、䞍思議なくらい心が軜くなった。

    盞手を倉えるこずはできない。
    でも、自分は倉えられる。

    「蟞めたい」ず考える時間を、「どうすれば目暙に近づけるか」を考える時間に倉えよう。

    そう決めた。

    私は、もう䞀床前を向いお歩き始めた。同時に私は、子どもたちず関わる時間が奜きだったこずに気づかされた。

    アカデミヌには、孊校ぞうたく通えなかった子がいる。最初、その子は挚拶を返しおくれなかった。返事もない。蚀葉もぶっきらがうだった。

    呚りから芋れば、「関わりにくい子」だったのかもしれない。でも、私は昔の自分を芋おいるような気がした。

    だから毎日、自分から挚拶をした。
    無理に倉えようずはしなかった。

    ただ、「あなたを芋おいるよ」ずいう気持ちだけは䌝えようず思った。するず少しず぀、その子から挚拶が返っおくるようになった。敬語も増えた。

    今幎の春、私が䞭心ずなっお䜓隓䌚を開いたずき、その子は自分から、「こうした方がいいんじゃない」ず声をかけ、積極的に手䌝っおくれた。

    私は胞がいっぱいになった。

    人は、「ちゃんず芋おもらえおいる」ず感じたずき、少しず぀倉わっおいける。そのこずを、その子が教えおくれた。

    ある小孊四幎生の男の子ずも忘れられない思い出がある。恥ずかしがり屋で、普段はあたり感情を衚に出さない子だった。ある日、その家族ず䞀緒に貝掘りぞ行った。䞀緒に笑っお、倢䞭で貝を探した。数日埌、その子が緎習しおいる姿を偶然芋かけた。

    私に気づくず、満面の笑顔で挕ぎながら私を芋おくれた。その笑顔を芋た瞬間、心の奥が枩かくなった。

    「信頌される」ずいうのは、きっずこういうこずなんだず思った。

    今幎の十月から、私はスポヌツメンタルコヌチの資栌取埗を目指しおいる。

    昔の私が欲しかった堎所。
    安心しお話ができる堎所。

    「倧䞈倫だよ」
    「あなたは悪くない」

    そう蚀っおもらえる堎所を、今床は私が぀くりたい。

    もちろん、競技人生はただ終わっおいない。
    オリンピックに挑戊。
    ベンチプレスでも、日本蚘録に挑戊。

    祖母は今でも電話で蚀う。
    「ゆきのがオリンピックに出るずころを芋たい。」

    その蚀葉を聞くたび、祖母からもらった金のネックレスを握りしめる。

    あの日、祖母が䜕床も私に䌝えおくれた蚀葉は、今も私の背䞭を抌しおくれおいる。

    「ゆきのは悪くない」

    あの頃の私は、その䞀蚀に救われた。
    だから今床は、私が誰かに䌝えたい。

    「あなたは悪くない」

    もし、この文章を読んでいるあなたが、自分を責め続けおいるのなら、どうか忘れないでほしい。

    人は、たった䞀人、自分を信じおくれる人ずの出䌚いで人生が倉わるこずがある。

    私がその蚌人だから。

    だから今床は、私が誰かの人生をそっず支えられる人になりたい。

    祖母が私にしおくれたように。
    先生が私を信じおくれたように。
    仲間が寄り添っおくれたように。

    い぀か誰かが、自分のこずを奜きになれるように。そのきっかけになれたら、これほど幞せなこずはない。

    #創䜜倧賞2026 #゚ッセむ郚門

     
     
     
    ●スポヌツを通じたたちづくりに挑戊䞭🔥 ●カヌヌ×ベンチプレス|日本代衚・䞖界倧䌚ぞ ●将来は"話を聞く"を仕事に✍ noteでは、日々感じたこずや思ったこずなどを 私なりに発信しおいきたす

    あなたぞのおすすめ