
連作短編『こじらせた彼女たち』 〈9. カノジョの場合〉
最終話:カノジョの場合
憂鬱というのはこんな気持ちなのかと、カノジョは体を窓にもたせかける。
二重にロックがかかったガラス窓の外には駐輪場のトタン屋根があって、雨が弾ける音が続いている。
パートナーも知らないだろうけれど、カノジョは雨が嫌いではない。
だから憂鬱は雨のせいではない。
メランコリー、メランコリーと声を上げると、彼は食べかけの魚を一口大にして、口元に差し出してくる。
カノジョは別に魚が食べたかったわけではないけれど、彼のやさしさを無下にしたくないから、お腹がすいているフリで一気に平らげる。
彼は微笑みながらカノジョの目をのぞき込んで、「魚のほうがよかったの?」などと言う。
このひとの問題は、博愛主義が過ぎることだとカノジョは思う。カノジョのストレスの発端は、彼のこの優しさにあるというのに。
憂鬱の元凶である“ニセモノ”は、さっき箱に仕舞われた。
かちこちの体に、どこを見ているか分からない目。傍若無人な新参者に、カノジョは“歯が立たなかった”。
蛍光灯を不気味に反射する毛を思い出すだけで、今も鼻がムズムズする。
朝食の後、彼は合羽を着込むと、箱を抱えて出かけて行った。
ひとりになった部屋で、カノジョは大きく伸びをする。
ニセモノのあの無機質な視線から解放されて、気の向くまま、部屋の端から端へダッシュし、彼のベッドに思い切りダイブする。
彼の匂いに包まれながら、カノジョはいつだったかこの家にやってきた女の子のことを考えていた。
彼が何度勧めても、曖昧に微笑んで、靴を脱ごうとしなかった女の子。
女の子は玄関に立っている間、彼の腕の中にいるカノジョから目をそらさなかった。
あの子に見つめられるのは、嫌いではなかった。
自己アピールのために安易に手を伸ばしてくる女たちとは違って、あの子の視線には敬意があった。
カノジョは眠りの入り口で、だんだんと以前の、ニセモノが来る前の冷静さを取り戻していった。忘れていた彼の涙の味を思い出して、やさしい気持ちになった。
(『こじらせた彼女たち』了)