
名字から生まれた短編小説集『祝福』より、「鈴木」を公開します。
これは名字の正しい由来を説明する話ではありません。駅前の古い私設図書室「祝福文庫」に残された、誰かが必要とした物語です。
自分の名字、大切な人の名字を思い浮かべながら読んでもらえたら嬉しいです。
第九話 鈴木
鈴木葵は、最後の一音を弾けなかった。
音大四年の冬。市の新人演奏家コンクール本選。ホールの客席は暗く、審査員席だけが白く浮かんでいた。
曲は、何百回も弾いた。指は覚えている。体も覚えている。舞台袖で手を握ったとき、爪の先まで冷えていたが、それもいつものことだと思った。
最初の数分は、うまくいっていた。
左手の低音が深く沈み、右手の旋律がそれに乗った。ホールの響きも悪くない。葵は、ここまで来た、と思った。
そう思った瞬間、指が自分のものではなくなった。
次の和音が遠く見えた。鍵盤は白と黒の列ではなく、段差のある崖のように見えた。右手の薬指が、落ちる場所を失った。
音が抜けた。
一音だけなら、戻れたかもしれない。
けれど葵は、その一音の穴を見てしまった。そこから風が入った。体の中の音が、全部散った。
続けなければ。
続けろ。
舞台の上で、そう命じる自分の声だけが大きくなった。
指は動いた。だが、音楽ではなかった。最後のページに入るころには、ただ鍵盤を押していた。最後の一音の前で、右手が止まった。
客席が、息を止める気配がした。
葵は、弾けなかった。
沈黙のあと、まばらな拍手が起きた。
その拍手は、やさしかった。
やさしい拍手ほど、残酷なものはないと、そのとき知った。
それから二年、葵は人前で弾いていない。
音楽教室の伴奏の仕事も断り、友人の結婚式の演奏も断った。実家の居間にあるアップライトピアノには、布がかけられたままだった。
母は何も言わなかった。
何も言わないことが、またつらかった。
ある日、調律師からはがきが届いた。年に一度、律儀に来る案内だった。
ピアノは、生きものです。定期的な調律をおすすめします。
葵は、その一文を見て、はがきを裏返した。
生きものなら、もう苦しませたくない。
翌日、中古ピアノの買取業者に電話した。型番、購入年、設置場所を聞かれ、だいたいの査定額を告げられた。
「状態を見てから最終金額になります。椅子もありますか」
「あります」
「傷は」
「たぶん、少し」
少し、ではなかった。
小学生のころ、練習が嫌で譜面台に鉛筆をぶつけた傷。中学の合唱伴奏で泣きながら練習したとき、ペダルの横につけた傷。音大受験の前夜、何度も同じ小節を弾いて、母が夜食を置いてくれた跡。
傷は、全部覚えていた。
査定の日まで、あと三日あった。
葵は外へ出た。家にいると、居間のピアノが布の下で息をしている気がした。
駅前の商店街を歩いていると、古いガラス戸に白い紙が貼られていた。
名前が重くなった人は、少し休んでいってください。
祝福文庫。
葵は、なぜかその戸を開けた。
中に入ると、小さな鈴の音がした。入口の鈴だとわかっているのに、音は棚の奥から聞こえたようだった。
白髪の女性が、古い帳面に紙片を挟んでいた。
「鈴木さん」