
ダメ達の物語
今月も明後日の支払日までに120万円集めなければならない。
店の売上は一日5万から10万。
雨でも降れば0に近い。
「絶対払うので、あと二週間待ってください」
取引先から返ってくる言葉は決まっていた。
「何なんだお前は」
僕に向けられる言葉は、だいたいいつもこんな感じだった。
それでも秘策があった。
この会社の売上の九割はインターネットだった。
振込限定20%OFF。
それを「短距離ミサイル」と呼んでいた。
短距離ミサイルと呼ぶ理由はもう一つあった。
時間だ。
4時間限定。
これしかない。
幸いメールマガジンの登録者は奇跡的に50万人もいた。
ランディングページを作る。
夏休みの宿題を最後の日にまとめてやるような作業だった。
LOSERとプリントされたTシャツを着て、
ローソンで買ったチョコたっぷりのパンをかじりながら、
作業は夜中まで続いた。
時々チョコがMACのキーボードの上に落ちる。
それを指ですくって、また口に入れる。
時計だけがやたらと速く進んでいた。
午前2時、やっとランディングページが出来上がった。
これからメールマガジンに取り掛かる。
HTMLのメールマガジンが嫌いだったのでテキストで書く。
「売らなきゃならない」
ここが勝負だ。
勝負ではあるのだが書いていく文章はほぼ感想だった。
「ターゲットマークは、表からはクールに見えるが中は燃えているぜ。
そんな意味がある。MODSの文脈、そして現代のブリッドポップの文脈。
UKブランドの台頭。それらは商業のアイコンとして使われてしまった。
だから僕はこのような商品は着ない。」
午前3時20分、出来上がったメールマガジンを読み返す。
「僕なら買わない」「これは流行だ」
そんな文章ばかりだった。
書き直した。
でも読み返すと、
もっと強く「僕なら買わない」と書いてあった。
諦めて保存した。
20時にメールマガジンは配信される。
現在は午前6時、お店は11時から。
少しの間仮眠を取ろう。
店の開店準備を済ませ、
入り口に置いてあるリサイクルショップで三千円で買った花柄の古めかしく60年代風のソファーで横になった。
当たりが何となく騒がしい。
ふと時計に目をやると時刻は11時30分。
レジ前を見ると三人のお客さんが商品を持って待っていた。
レジの前に行き、「ごめんなさい、気づかなくて」
そう言うと、お客さんの1人がこう言った。
「いいよ、店長疲れてるもんね。いくらでも待つから大丈夫。気持ちよさそうに寝てたよ。
いつもメールマガジン楽しみにしてます。」
恥ずかしい気持ちと、申し訳ない気持ちで
変なテンションになった。
お酒は飲めないが、きっと酔っ払うとはこの事だ。
後でお客さんから聞くと、何でも車で4時間かけて来てくれたそうだ。
開店時間からお客さんが来るなんてことは滅多にない。
13時を過ぎた。あれからお客さんは来ない。
腹が減ってきた。
財布はからだ。しかし先月出張に行った時の駐車場代1500円の領収書がある。
レジにそれを入れて1500円を経費で出した。
そのお金を握りしめてまた近くのローソンに行く。
僕にすれば大切に使わなければならない1500円だ。
カップ麺の売り場に行き
ペヤングソース焼きそばを1つ買った。
店に帰りお湯を沸かす。
湯が沸き、ペヤングのかやくをそばの下に出して準備は整った。
湯をかけて3分待った。腹が減っていた、3分が長い。
湯をこぼす時間になった。
慎重に湯をこぼさなければ。そう思いながら湯切りを始めた。
その時、
誤って麺を全て流しにこぼしてしまったのだ。
ペヤングの麺は全部流しに落ちた。
流しの中に茶色い麺が広がっていく。
しばらくそのまま見ていた。
そして声をあげて泣いた。
35歳の春だった。
18時、銀行振り込み限定20%オフがもう少しで始まる。
店は20時まで。緊張している。緊張すると何故か眠くなる。
今更メールマガジンを読み返して直したくなってしまうといけないので
なるべく見ないようにする、考えないようにする。
そうすると待つだけでやる事がない。
僕は雑巾とほうきを持って掃除を始めた。
昔から重要な局面になると掃除をする癖がある。
考えないようにするためだった。
19時30分。売れて欲しい。いや売れないとまずい。
そう思いながらも掃除は続く。
後の事はできるだけ考えない。
「考えない、考えない」と自分に言い聞かせるが
脳みその深いところで、「売れなかったらヤバい」と語りかけてくる。
20時1分、最初の注文が入った。
けれどもクレジットカード決済だった。
注文は増えていく。
でも振込は増えなかった。
順調に注文は入るが、大半がクレジットカード払い
20%オフの対象外だ。
何で?と思っていると常連のお客さんからメールが来た。
「安く買うのは申し訳ないのでカードで買いました」
違うんだよ、お金が明日必要なんだよ…と小さく呟いた。
結果、80万ほど売れた。
振込での購入は20万程度だった。
電卓を叩いた。
もう一度叩いた。
数字は変わらなかった。
日付が変わり夜中の1時を過ぎていた。
家に帰って横になる。
気付くと朝だった。
店に行き、一番に電話をかけた。
「今月の支払いを請求額の40%で何とかお願いします。
来月追いつくので・・・」
もちろん叱られるか、嫌な対応をされる。
昔から付き合いのある1件のメーカーだけは違った。
「昨日の4時間限定セールすごかったですね。
お支払いの件はわかりました。僕らも応援していますから」
そう言って電話を切った。
これに甘えてはいけない。そう思いながらも
心が温まった。
明日からがまた大変だ。積み上がった残を何としても払わなければ。
そう考えるが4時間限定と謳ったセールをなん度もやる事はできない。
そんな時に1件のレビューが入っている事に気づいた。
「この店は不思議なお店です。メールマガジンに「買わない方がいい」と書いてある。でも何故かわからないが買ってしまう。そういうお店です⭐︎5」
これを読んで、まだやれる事を全部やっていない。
そういう思いが強くなった。
過去2年分の確定申告書を握りしめて
銀行に向かったのである。
政策金融公庫に向かう。
この店が出来たばかりの時に、近隣の誰かによって
日本経済新聞に「面白い店がある」とメールが入った事により取材を受けた。
全国紙の紙面の2分の1程の大きな取り扱いだった。
その新聞と前もって聞いておいた必要書類を持って公庫に行く。
向かう車の中では特に緊張もなく
自分の考えている事を話そう。それだけを考えていた。
到着し、面談が始まった。何だか偉そうに話す人だった。
僕は数年前に掲載された新聞を渡し、
ビジネスモデルとも言えない考えを話し始めた。
話している途中「えっと、この新聞だけど古いよね。」と言いながら
新聞をポイっと隣の机に投げた。
それは僕にとって初めての洗礼でもあり悔しさの頂点でもあった。
頭に来たが、冷静に「投げる必要ないですよね。」と言った。
その先は覚えていない。
気がつくと車を運転していた。
その後、
お店に良く来てくれていたお客さんの友人が銀行の融資担当だった為
話を聞いてもらいたい。とお願いして来て頂いた。
その担当者は話を真剣に受け止めてくれた。
その後、その銀行の理事支店長という人が現れた。
今思えば、数字よりも執念に近い僕の考え方をぶつけた。
「インターネットで洋服を買う人なんて・・・」と言われていた時代だ。
唯一、ビジネス的なキーワードは
「リアル店舗とオンラインのハイブリッド」という言葉だけだった。
あとは、自分の言ってみれば魂のようなものをぶつけた。
話終わったあと、理事支店長は一息ついてこういった。
「よしわかった、僕が支店長決済で5000万貸してやる」
そう言ったのだ。
今振り返れば良い時代だった。今では絶対に起きない現象だ。
思わず立ち上がってしまった僕に支店長はこういった。
「頑張りなさい。我々は新しさに投資する」と。
小心者だった僕は「1000万でいいです」と小声で言った。
その日の夜、コーラとポテトチップスを買ってお祝いした。
TUTAYAでビデオも借りた。
何の映画だったかは忘れた。
コーラとポテトチップスと映画。
35歳の僕にはそれで十分だった。
社会の一員になれたような気分だった。
しかし、ここからが本番であった事を後で知る事になる。
最初の頃、
この店は中古のギターとオリジナルのTシャツだけで展開していた。
前職での洋服の仕事に疲れ、絶望さえ感じていたからこの構成になった。
店の名前はanalog、もしかしたら30年近く前ではなく
現代に必要なネーミングだったのかもと思う事もしばしばある。
カート・コバーンが当時着ていた
赤と黒のピッチの太いボーダーのニットを東北の工場に依頼した。
入荷と同時に、そのニットの一部を激しく解いていく。
1時間かけて新品の一枚をボロボロにしていくのだ。
それを50枚作る。寝ている暇などない。
瓶の中に溜めていた小銭をかき集めて、
店にあった中古ギターの一部をヤフオクで売って
楽天市場という場所に出店した。初期費用は30万。安くはない。
そしてこのニットとモヘアのカーディガン2色。
時期は4月、ニットが売れる時期ではない。
ボロボロ加工が追いつかないので、予約販売にした。一ヶ月後の納品だ。
楽天市場に出店したばかりなのでメールのリストなど無い。
商品ページを作り、
販売開始を1週間後に設定してページだけをアップした。
1週間が経ち、20時の販売開始が始まる時間だ。
「売れるわけない」と思っていた。
PCを開いたのも20時07分頃。
メールを確認すると50件以上の注文確認メールが来ていた。
「売れた。」
当時はカード注文を一件一件カード会社に電話をしてオーソリーを通す必要があったので
その作業と手書きで送り状を書きながらお客さんに注文確認メールを送る。
嬉しさというか、
本当にいいのかという罪悪感に手足が震えながら書いた記憶がある。
店に1人の女性が入ってきた。
「弟子にしてください」彼女はそう言った。
アルバイト、あるいは働きたいではなく弟子だった。
人を雇うゆとりなどないと断ったのだが
「弟子なので一月お小遣い程度でお願いしたいです」
その子はそのまま月4万円の手伝い料金という形式で弟子になった。
社長や店長ではなく、お客さんの前でも「師匠!」と呼ぶ。
この頃、地域の情報誌を作っている人、楽器が好きすぎて少し変な人、
社交ダンスの若きホープ、毎日文句を言ってくる近所のおじさん、
お昼になると、「おむすび食べな」と言ってお昼を配達してくれるおばさん、
そんな人たちが自然と出入りするようになっていた。
時が過ぎ、営業開始して間もない時間に一枚のファックスが流れてきた。
前職で顔見知りだった会社の営業さんからだった。
「ベンシャーマン」という会社の日本代理店になりました。
そんな内容だった。
ファックスを見ていると、その営業さんから電話がかかってきた。
「まいどー、お世話になります。ファックス見ました?1万円以上もするシャツなんて売れないよねー」
という口調だった。
彼は、MODSやブリッドポップの台頭を知らなかったようだ。
すぐに「やるよ、発注する」と返事した。
営業の彼は、
ちょっとびっくりした口調で「本当に?」と言ったのを覚えている。
ベンシャーマンを扱う事によって元々あった濃い原液が薄まっていくのを感じた。
ベンシャーマンを求めてくるお客さん達は、ライトをいっぱい取り付けたベスパに乗ってくる人ではなく
MODSスーツで身を固めた若者でもなく、
時々そのような人達もいたが、その多くはビジネスマンだったのだ。
しかし、よく話を聞いてみると、ポール・ウェラーが大好きな人、Ben Shermanに対して愛のある人、Oasisばかり聴いている人だった。
見かけとは違い、この店の立ち上げ当初にはいなかった、どこか落ち着いた社会人のMODS達だった。
それを知ってから、店はもう一つ別の色を持ち始めた。
閉店間際になるとやってくる若者達がいた。
ネガティブな英単語を選んでバンド名にしているような若者だ。
そのバンド名は週替わりで変わる。
「今度のバンド名どう思います?」といって店に来る。
僕は「バンド名より音楽やれよ、曲作れ」というのだが
彼らにはバンド名の方が大切だった。閉店後もバンド名の話は続く。
「練習スタジオに行け!」といっても帰らない。
そんな日々を過ごしているうちに、
ベンシャーマンとのコラボレート企画が動き始めた。
企画を通すのが大変だったのだが、それはそれで楽しい作業だった。
しかし、3年経っても彼らのバンド名はまだ決まっていなかった。
いろいろな人達が出入りするようになる。
きっかけは、地下、1階、2階と3層あるこの建物を改装したからだ。
地下は大家さんが物置として使っていたのだが、
頼み込んで貸してもらった。
カビ臭く、何かが出そうな雰囲気の地下室。僕はこの雰囲気が好きだった。
刺青の彫り師、古いハーレーを修理をする店の店主、駅裏のかっこいい飲食店の店主、美容室のジョー兄、大工さん、ハンコ屋の4代目、庭師、靴磨きとチェロを掛け持つ演奏者、
何をやっているのかわからないが妙に説得力のあるおじさん。
数ヶ月に一度、analogミーティングと名付けたイベントをやったり、
月に一度朝市をやって野菜も売った。
MODSとかROCKとかの文脈を語っているのにだ。
みんな車はどうしていたのだろうと今になって思う。
何かを買ったり、飲み食いに使ったりなどの贅沢はしなかったが
調子に乗っていた。それは今だからわかる。
心が調子に乗っていたのだ。何故なら怖いものがなかったからだ。
当時書いていたブログがあった。
「誰も読んでいないブログ」と呼んでいた。
あるサッカーワールドカップの年に愚かな僕はこんな事を書いた。
「サッカー観て、休みの日に車を洗って、それが本当の幸せなのか?」
もちろん、大炎上した。誰も見ていないと思っていたのだが
沢山の人が読んでくれていたらしい。
数々の批判コメントの嵐、コメント欄はサッカーの話ばかりだった。
ペテン師、詐欺師、アホ。
落ち込ませるのには十分すぎるほどの言葉が並んでいた。
こりゃ大変な事になった・・・そう思いながらも、何処か落ち着いていた。
何故なら批判コメントの中に一つだけこんな文章があったからだ。
「そのままで大丈夫です。あなたの文章はキラキラしています。」
そう書いてあった。
何処かの誰かが書いてくれたそのたった一つのコメントに救われたのだ。
後になって気付く。
レビューに何か書かれても、
お客さんの方が「それは違う」と説明してくれる人がいた。
反論までしてくれる人もいた。
そんな人たちに守られていたのだ。
それはビジネスだったのか、何かの余興だったのか今でもわからない。
何かがおかしい。
体調なのか、予感なのか、ここ数日ずっとそんな感覚があった。
低気圧が近くまで来た時のような、
古いものを食べてしまった時のような、
理由は説明できないのに身体だけが知っている違和感だった。
11時お店を開け、
いつものようにメールを確認していると一本の電話が鳴った。
「お世話になります。」
ベンシャーマン日本代理店の営業さんだった。
いつもなら電話に出た瞬間、
「毎度ー。」
と笑いながら始まる。
その日は違った。
「先日の展示会でご発注いただいた商品の件ですが……」
聞いたこともない言葉だった。
「リーマンショック」
というらしい。
12時前、もう一度電話が鳴る
今度は営業さんの上司からだった。
「来季入荷できるのは……発注金額の一割くらいです。」
一割。
聞き間違いかと思ったが
聞き返す勇気さえ出なかった。
13時半スタッフ10名を集めて緊急のミーティング。
「なんか嫌な予感がしてたんだよ」と話し始めると
「動物の勘てやつですね」と誰かが言った。
いつもなら冗談で返すのだが、その日は違っていた。
6時間ほどのミーティングになった。
翌日、銀行へ向かった。
守るためには、攻めるしかない。
それしか思いつかなかった。
この日から、小さな石が車のタイヤの溝に挟まった時のような、
チッチッチ……という音が、
僕の耳にだけ聞こえ始めた。
ある雨の日、会社でリース契約していたハイエースに乗り込む。
スタッフの前では弱音は吐けない。
友人に話せば心配させてしまう。
だから車の中だけは空気が軽かった。
新東名に入る。
ニルヴァーナの『MTV Unplugged in New York』を流す。
笑われるかもしれない。
でも、本気で思っていた。
「カート、少しだけ僕の身体に入ってくれ。」
自分だけでは足りなかった。
そして気付くと泣いていた。
向かっている先は浜松だった。
浜松へ向かう理由は、一つしかなかった。
数ヶ月前、とあるショッピングモールから出店の話をもらっていた。
以前の僕なら、それだけで胸が躍った。
しかし、この日は違う。
出店したいのではなかった。
出店しなければならなかったのだ。
管理会社の人が玄関まで迎えにきてくれた、
出店予定の場所を案内してくれる。
場所は2階、UNIQLOの目の前にあるスペースだった。
床は剥がされ、コンクリートがむき出しになっていた。
前の店が残していった鏡だけが、ぽつんと立っていた。
そして最初に見えたのは規則ではなく、人の心だった。
目隠しされたテナントスペースに1人になった。
一番最初に浮かんだのは「どんな音楽かけようか・・・」だった。
商品や構成ではなくそれが一番先だった。
天井は高く、そこそこ広いスペース。ここで何が起こるのだろう。
少し前ならワクワクしたのかもしれないが
心はビビっているのである。
不思議なことに、店の名前だけはもう決まっていた。
analog rags。
店を作ることより、店を知ってもらうことの方が難しかった。
オープンを前に、ローカルテレビのCMを作ることになった。
ローカルテレビのCMは時々恥ずかしいものが混ざる。
考えたCMはスタッフの1人がドラムを叩き
それに乗せてオープン日と場所、店舗名だけが流れる構成にした。
何の宣伝なのか全くわからない。
商品も出てこない。しかし格好は良かった。
店内は、剥がされた床をそのまま使った、
壁紙を貼り替え、小さな看板をつけた程度だった。
荒っぽいがどこか繊細な場が出来上がった。
オープニングに間に合うように
店内に畳二畳分くらいの大きさの垂れ幕を用意した。
そこには商品の写真と一緒にこのようなコピーをつけた。
「日本製カットソー1200円。それでも量販店を選びますか?」
目の前にはUNIQLOがあった。
勝てるとは思っていない。
でも、同じ場所で勝負してみたかった。
オープンの日、UNIQLOのエリアマネージャーが挨拶に来てくれた。
その垂れ幕を見た時の彼の苦笑いを僕は今でも忘れない。
僕は何と戦っていたのか。
UNIQLOではなかった。
量販店でもなかった。
もっと大きく、
もっと掴みどころのないもの。
たぶん、時代の流れのようなものだった。
浜松の店には四人のスタッフがいた。
毎日、何かしら揉めた。
「導線が悪い。」
「休みが少ない。」
「これじゃ続けられない。」
そんな言葉ばかりが店の中を飛び交っていた。
ふと、analogで「師匠!」と呼ばれていた頃を思い出す。
あの頃に戻りたい。
同じ店をやっているはずなのに、何かが決定的に違っていた。
ある朝、一人が言った。
「辞めます。」
それから間もなく、全員が辞めると言った。
テナントは店を閉められない。
営業時間は決まっている。
遅刻も許されない。
数日前、息抜きのつもりで旧友とテニスをした。
転んでしまい、松葉杖になった。
朝四時に家を出る。
三島から浜松まで下道を走る。
高速道路代が惜しかった。
車の中だけが静かだった。
相変わらずニルヴァーナを流す。
でもその日は違っていた。
僕の口から出てきたのは
「おばあちゃん・・・助けてください」
だった。
今日もショッピングモールのスタッフ専用駐車場から
長い道のりを松葉杖をついて店に向かっていた。
コンビニで買ったおむすび2つ。と重たい鞄を持って。
館内アナウンスが入り、営業開始時間になった。
営業は朝9時から21時まで。
昔のように客が来ないから早く帰ろうなどできない。
12時間の重たい時間が始まる。
analog本店ではスタッフ達が頑張ってくれている。
それだけが救いだった。
午前中は主婦層が多い。
お昼12時までには何かを売りたい。
その日は、館内の他の店に勤めている人がTシャツを買ってくれた。
ため息をつきながら良かった0じゃない。
朝コンビニで買ったおむすびを食べる。
1人なのでレジ台の裏に隠れて食べるので食べた気にはならない。
今日を乗り切る為に口にするようなものだった。
雨のせいか客入りが悪い。
今日もTシャツ1枚か。そう思いながらひたすら掃除をする。
松葉杖なので掃除も楽じゃない。
15時をすぎて少し館内がガヤガヤし始めた。
入り口に目をやると初老の女性が商品を見ていた。
「こんにちは、奥にもいろいろあるので見ていってください」
そう声をかけると、初老の女性はこういった。
「素敵なお店ね。この場所にあるのはもったいない。」
そう言いながら店内に進んでくれた。
何を見て「素敵なお店」と言ってくれたのかはわからない。
それでも「伝わった」と思った。
松葉杖をついている僕を見て「足どうしました?」から始まり
商品の話よりも様々な方向に話が進んだ。
最終的には
「スタッフも辞めてしまい業績も振るわず、この店もいつまで営業できるか・・・」
そこまで僕はこのお客さんに話していた。
言うべきでは無かった。
初老の女性は僕の手をとり
「大丈夫。こんな素敵なお店が作れるんだからあなたは大丈夫よ」と言った。
レジの所で人目も気にせず僕は泣いてしまった。
2週間後、その女性が娘さんを連れてまた来てくれた。
その時初めて知ったのだが横浜からわざわざ来てくれていたのだ。
その日以来、
あの人のことを時々思い出す。
あれが天使というものなら、あの人はきっとそうだった。
それから数日後、追い打ちをかけるような出来事が起きた。
3.11、東日本大震災だった。
テレビには、現実とは思えない映像が流れ続けた。
震災の後、服を買うという行為そのものが、急に遠のいた。
浜松の店も、インターネットの売上も止まった。
頼りにしていた新しい仕事の話も、地震の翌週がオープン予定だったことで流れてしまった。
微かな期待が、静かに崩れていった。
そんな時、ジョー兄から電話があった。
「浜松のスタッフ候補、見つかったよ。」
美容師仲間の中で探してくれていたらしい。
紹介してくれた女性は、素直でよく笑う人だった。
その人が入ってくれて、浜松の店は少しだけ明るくなった。
けれど、会社全体の状況は何も変わらなかった。
支払いが追いつかない。
取引先に電話をした。
どの取引先も事情を分かってくれた。
それでも、苦しさは少しも減らなかった。
両親の様子を見に行った日、親父は言った。
「大丈夫だよ。心配しないで仕事しな。」
僕は、つい弱音を吐いた。
「資金繰りも厳しいし、結構いろいろキツイ…」
それから二週間ほど経ったある日。
腰と足の悪い親父が、浜松の店に現れた。
杖をつきながら、電車とタクシーを乗り継いで来てくれたのだ。
ナイロンの袋の中には、五十万と、弁当が入っていた。
「これ、使いな。」
余分なことは何も言わなかった。
弁当をレジ台の上に広げて、
「一緒に食べよう。」
そう言った。
飯を食いながら、必死に涙をこらえた。
親父は、一言だけ言った。
「頑張れよ。」
それから数年。
店を減らした。
スタッフを減らした。
仕入れも減らした。
減らせるものは、全部減らした。
それでも追いつかなかった。
頑張れば何とかなる。
その考えだけは、最後まで捨てられなかった。
でも、世の中には頑張っても届かない場所があることを、
その頃初めて知った。
数年後、閉店セールが始まった。
値札を見ながら買っていく人。
サイズを確かめる人。
「もう終わっちゃうんですね。」
そんな言葉を何度も聞いた。
しばらくして、ジョー兄が来た。
何も言わずに店内を歩き、
両手いっぱいに商品を抱えてレジへ持ってきた。
「ジョー兄、サイズ合わないのあるけど。」
そう言うと、
「いいんだよ、そんな事。」
と笑った。
あの人の商売だって、決して楽ではなかった。
周りからは「もっとしっかりしろよ」と言われるような人だった。
でも、助けてもらったのは僕だった。
人生を振り返ると、
支えてくれたのは、世間では少し不器用と言われる人たちだった。
そして世界は作られていく。
明日も、その次の日も。
僕に残ったのは
金でも、
名誉でも、
影響力でもなく
ここに書いた人たちとの記憶だけだった。
そして今も
この物語の続きを生きている。
少し寂しくなるような日、
怒ってしまいそうになる瞬間、
「大丈夫」という言葉を思い出しながら
今日ももうすぐ夜になる。