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Hohlenmenschen,Hoehlenmenschen(空っぽ人間、洞穴人間)東ドイツダービー馬Wildschütz

    「真夜中にオオカミの住む谷へ?いや、あそこは酷いうわさがあるのよ。真夜中になると地獄の門が開くというわ。」(エルフリーデ・イェリネク/Wuergeengel)

    ザクセン州バウツェンヘは州都ドレスデンから、車でアウトバーンのA4を東に小一時間ほど走ると到着する。由緒ある中世の町でシュプレー河が中心を流れ、少数民族ゾルブ人の居住地で、日帰り旅行として、ゲルリッツと共に人気がある。又最近ではポーランドから野生のオオカミが移住し、家畜を襲う例もある。法律でオオカミを傷つけることが禁じられているドイツでは、猟師も黙って指をくわえてるしかない状況だ。
    しかし誰もがその町バウツェンの名前を聞いて頭に思い浮かべるのは”シュタージ・クナスト(東ドイツの刑務所)”と呼ばれたバウツェンの監獄だろう。

    私の住んでいる地域には名物男が数人いて、住民の誰もが彼らについて何かしらの情報を人づてに、或いは個人的に持っている。そのうちの一人で、いつも険しい顔をし、2mほどの長さの杖をなぜかいつも持ち歩き、界隈をうろついている男で,私は密かに"Staebchen"、シュテーブヒェン(杖ちゃん)と呼んでいるが、私の彼女は十数年前にたまたま彼と長話をする機会があり、聞いてみると、彼はバウツェンの監獄に政治犯として収容されていたらしい。彼の眼は出所以来、空虚な穴と化し、私が名付けた愛称とは裏腹に、子供ですら彼が歩いてくると道を開けるほど異様な眼光を放っている。いや、異様な暗闇を放っているというべきだろう。彼は内面の空虚な穴で暮らすようになってしまったのだろう。

    「それはしかし美しい地下室だった。そのうえ白塗りだった。通常は馬が宿泊または休養をとるだったんだよ、全くね。本当に丁寧に真っ白に塗られてた。汚れは全くなかった。きれいに掃除されてたよ。そこはかつて巨大な納屋として使われてたんだ。それは真っ白に現れていた。そして白いタイルで囲われていたんだ。我々はそこに空っぽの人間たちを住まわせていたんだ。空っぽにもかかわらず完全に人間。全て備わっていた。形はなかったけどね。色彩が無色を形どっていたんだ。
    力は麻痺し、無表情。我々は彼らをそのように作り上げたんだ。それにもかかわらず完全に人間。我々となんら変わるところはない。・・・・・」(エルフリーデ・イェリネク/Wuergeengel)

    クレフェルトで調教師を営むエリカ・メーダーは、経験豊富で実績があり、馬を大事に扱う調教師として有名で、最近ではRansom O'WarというG1馬にして年度代表馬を調教した。私の個人的な記憶では彼女の調教したマイル馬のUp and Awayが印象深く、タフで勝負根性のある好みの馬だった。常に調教師の教えを守れる馬だった。レース後の彼女のコメントをSport-Weltで読む度に、彼女のこの馬に対する愛情が短い文からも読み取れた。
    彼女はザクセン州でバウツェンの監獄と並んで語られるエルツゲヴィルゲ地方にあるホーネックの
    女性専用刑務所に収容されていた過去がある。亡命援助組織の力添えで、4歳になる息子と西に逃亡計画をたてていたところをシュタージに嗅ぎつかれたのだ。

    "Der deutsch deutscher Tag"(東西ドイツ交流レース)というものが、壁崩壊後、ベルリン・ホペガルテンで開催された。1990年3月のことだ。西ドイツからは競走馬、並びに騎手も招待され、ルッツ・メーダー騎手もその一人だった。かつての西ドイツチャンピオンジョッキーで、その日のメインレースにも見事勝利した。
    彼もまた東ドイツからの亡命者で、かつての競馬の学び舎ホッペガルテン地区については、「それぞれの茂みややぶまで鮮明に覚えている」という。彼は1973年、ルーマニアとユーゴスラビアを隔てるドナウ川でユーゴ国境警備員に捕えられる。そして行先はコットブスの刑務所だった。

    1968年に見習い騎手のチャンピオンとなり、1973年にはダービー出走馬に騎乗を任されていた。しかし彼はDDR競馬界に失望していた。西ドイツに追放された翌年、東ドイツでは一頭の名馬が頭角を現した。その名をWildschuetz(猟師)という。

    「私にはこの帽子をかぶる権利がない!私はこの帽子をかぶる権利を有していない!」(トーマス・ベルンハルト/ふちなし帽)

    Wildschuetzの牝系はシュレンダーハン牧場のDanubiaのラインで、戦後、クエンホルン牧場(現シュローズホフ・イットリンゲン。同名のイットリンゲン牧場とは別もの)を開設したカール・ファステンラス氏が生産を始めた際の繁殖牝馬2頭のうちの1頭Wiener MelodieがWildschuetzの祖祖母にあたる。その後、この牝系はクエンホルンでは牝系が根付かず、東ドイツのゲールズドルフ牧場に移った祖母Wiener Operからこの牝系は花開く。1965年に死亡することになるBirkhahnとの間にWiener Operetteが産まれ、競走馬としてはVEGグラディッツ賞2着という成績を残している。
    「見栄えは良いとは言えない、だが迫力はある。」それがこの馬の当歳時の第一印象だった。大きさは標準で、頭は大きく、耳が広い。たてがみは立っていた。均整がとれた馬体という印象だ。当時、一線級で活躍していたDDR大賞馬Isonzoと似たところがあり、ほどよい落ち着きを持ち、行儀の良い馬で、将来的に大物になる雰囲気を携えていた。両馬とも母の父がBirkhahnで、両馬とも父より母に似た外見を持っていた。
    Wildschuetzは2歳時、比較的遅い7月の終わりにデビューする。生まれた地ライプチヒで勝利を飾る。関係者がこの馬の可能性について確信したのは、次戦ユーゲント・プライスの調教中だった。Wildschuetzはサンドコースで古馬Agl.IIIのAstrologにあっさり先着する。それは450mあるコースでのInsonzoの記録を上回るものだった。そしてユーゲント・プライスも勝利するが、出遅れてて、最後の末脚で他馬を抜き去った、この偶然のレース展開がその後、関係者のプランを狂わせることになる。次戦のFehlaに負けたヘルブスト・プライス、年明けてマグデブルクでの勝利の後、Aprilに敗れたホペガルテンのフリューヤールス生産賞、Sikassoに6馬身差で大きく離された人民公社牧場賞はいずれも遅いテンポにかかって本来のこの馬の力を発揮できずに終わってしまった。
    そして戸惑った思いのまま、ダービー当日を迎える。

    西ドイツに追放されたルッツ・メーダーはサッカーワールドカップ開催で時期がずれたハンブルクより一足早く開催されるホペガルテンのダービーについて、思いを巡らせていただろう。去年のRenn-kurierの出馬表には自分の名前が印刷されていたのだ。Sikasso,April,Fehla,Wildschuetz、この4頭の実力は横一線だ。人気も割れるに違いない。Sikassoは前走こそ、Wildschuetzに6馬身の大勝をしたものの、その前2戦は惨敗を重ねていた。Aprilは前年インターナチオナーレ・ミーティングの平和賞で3着。クオリティーの高さは疑いがない。今年は前走ホペガルテンでWildschuetzを下して、今回が2走目で調子は上がっているだろうが、問題はこれまでまだ1600mしか走ったことがないということだ。牝馬賞勝ち馬のFehlaは既に2000mまでこなせることは証明済だ。

    「私の首相に、勿論私如きが失墜させた訳ではなく、それはノーラウ、もっといえばヴェーナーとゲンシャーによってだ、兎に角、彼に試合の結果を残念に思う故の葉書を送った。その後、祭日や12月18日の彼の誕生日にもそうしたように。しかし彼は返事をよこさなかった。それについて確実にいえることは、彼も私と同じようにシュパールヴァッサーのゴールに混み合った感情を抱いたということだ。」(ギュンター・グラス/Mein Jahrhundert)
    (1974年ワールドカップのグループリーグ、東ドイツがシュパールヴァッサーのゴールで西ドイツを下した。)

    もし自分が亡命しなければ、どの馬に乗れてたのだろう?
    ルッツ・メーダーは捨てた故郷のダービーを思うあまり、暫し憧れのハンブルグ・ダービーのことは忘れていた。
    ダービーはSikassoが獲った。
    しかし、このレースは良くも悪くも、Wildschuetzが作りあげたものとなった。陣営はキレる脚のないWildschuetzを思い、末脚勝負を嫌い、最初から好位につけるつもりだった。しかしスタートで大きく出遅れ、それでも前で勝負したかった騎手は向こう正面で先頭を走っていたFehlaを競り落とす。これが緩みのない流れを作ってしまった。Wildschuetz先頭で直線に入るが、Aprilがその後ろをぴったりマークし、2頭の勝負になった。そして、最後に満を持してその外からSikassoが2頭一気にかわしにくる。Aprilは外によれたが、それをSikassoは内からかわし、最後、驚くべきことにまだ力を残し、最内で粘るWildschuetzをフリッツェンヴァンカー騎手が馬を押そうというときに、鞍が外れ、後方に大きくズレた。そこをSikassoがかわし、一馬身差をつけてゴール。AprilはWildschuetzの後ろ一馬身で3着となった。Fehla,Sikasso,Conception3頭出しのレーン厩舎がFehlaをペースメーカーにSikassoが勝利する、レーン厩舎の思惑がはまった訳だが、3歳馬最強馬がどの馬か、ということについては猶予が与えられた。

    西ドイツがサッカーワールドカップを制した高揚感が残る中、ハンブルグダービーは行われ、バッチャーニー女伯爵の勝負服のMardukが一番人気Lord Udoに競り勝った。ルッツ・メーダーにとってはDDRダービーの余韻が冷めやらぬ中での初めてのハンブルグダービーだった。

    勝ち馬を称えるバッチャーニー女伯爵はDDRから亡命してきたばかりの彼にとっては、今となっては遠き故郷のそのまた遠くにいる存在だっただろう。

    DDR大賞ではヨヘン・ポテンパ騎手がWildschuetzに乗り替わり、同じ轍を踏まないように好位につけた。しかしGlorianは最後交わしたものの、Diskus,Aprilに次ぐ3着に終わった。末脚勝負の分の悪さを見せつけた形となった。

    そしてインテルナチオナーレ・ミーティングが地元東ドイツで開催される。社会主義諸国の3歳馬のダービー、モスカウ賞は今回はソ連とハンガリーからダービー馬が参加した。IjaszとGelikonだ。
    DDRからはAprilとWildschuetzが参加。前走の結果からAprilの評価のほうが高かった。

    ゲートが開いて、Wildschuetzは好スタートを切った。外枠のLakmus(チェコスロバキア)とIjaszが出遅れたようにみえる。Wildschuetzが逃げ、それにGelikonが続いた。向こう正面入口ではハンガリーダービー馬Ijaszがやっと3番手まで上がってきた。その後Elixir(ポーランド),Lakmusが続く。Wildschuetzのつくるペースは早い。1200m辺りでWildschuetzのクラウス・オットー騎手は少しペースを緩めるが、最終コース前までまたテンポを上げる。そこでElixirが追い上げてきて、Gelikonを交わし、2番手に上がってきた。Aprilはどうやら上がってこれないようだ。直線に入り、Wildschuetzは先頭でElixir,Gelikon,Ijaszが追走する。そしてGelikon,Ijaszが伸びない。しかしElixirはWildschuetzとの差を縮めてきた。観客の歓声が響き渡る中、2頭の叩き合いだ。そして最後の力を振り絞ってWildschuetzがクビ差で勝利した。社会主義ダービーにおける東ドイツ馬の歴史的な初勝利となった。
    このWildschuetzの勝利は当時の西ドイツ競馬関係者、並びにファンにとって、どこまで意味深いことだったのだろうか?ルッツ・メーダー騎手はおそらくダールヴィッツの坂で葬り去られた多くの馬と葬り去ったクラウス・オットー騎手の手腕に、自らの思惑通りに仕留めた獲物を見るような感慨に耽ったかもしれない。「あの坂は猟師が常に獲物を狙って、引き金に指をかけた状態なんだ。」

    その後、西ドイツの名馬ネボスでバッチャーニー女伯爵の期待のもと、凱旋門賞の騎乗までした名騎手ルッツ・メーダーが16年後に見たホペガルテン競馬場はどう映ったのだろうか?Politbuero(共産党中央政治局)の連中もおそらく客席に多くいたに違いない。例の養鶏部門担当者も恥を顧みず、西の馬の馬券を握りしめていただろう。東の競争馬は慢性の飼葉不足からくる痛みに耐えながらゴールを目指していた。では西の競走馬は?勿論彼らも同情を抱えながら走る訳ではないのだ。馬は空虚な目をして走ってはいなかった。競走馬はPolitbueroの堕落から生産されようが、レットゲンの煌びやかな厩舎で甘やかされようが、クビを押されれば、馬体を沈めるのだ。

    シュレンダーハン牧場のガブリエレ・フォン・オッペンハイムやレットゲン牧場のマリア・メール・ミュルヘンズもバッチャーニー女伯爵も壁崩壊を終に見れずにこの世を去っていた。見世物小屋的そして、いけにえの祭り的狂騒のdeutsch deutscher Tag。

    いけにえの祭り

    1945年の5月24日から25日にかけ、レヒニッツ城でOpferfest、いけにえの祭りを主催していたマルギット・バッチャーニー・トュセン女伯爵は当時ローカルナチス党員に囲まれ、地下にはHoehlenmenschen(洞穴人間)を飼っていた。夫である没落したハンガリー貴族イヴァン、後に彼女を脅迫するポデツィンSS親衛隊上級曹長、愛人であったハンズ・ヨアヒム・オルデンブルク、そして200人の殺害されたユダヤ人は女伯爵にとっては、等しくHohlenmenschen(空っぽ人間)だったのだろう。狩りに情熱を注いでいたマルギットにとって、いけにえの祭りを抜け出して、空っぽなユダヤ人を殺害し、上気した顔で戻ってきたナチスの年端もいかない若者より、地元の薄汚れた髭を生やした、しかし両目に深く鋭い世界を持った猟師に”生の匂い”を感じ取っていたに違いない。彼女自体生まれついての猟師だった。

    Wildschuetzはモスカウ賞がフロックでないことを、その後のレースで証明してみせた。一週間後の社会主義国家馬産国際会議大賞では疲れと2800mの距離のため惨敗したが、その後3歳時にさらに2勝。その後、5歳まで走り、19戦9勝2着7回3着1回着外2回という成績で、3歳時と4歳時はGAGトップの成績だった。引退後、ゲールズドルフ人民所有牧場に繋養され、種牡馬としても3頭のダービー馬を出す成功をおさめた。

    ”tote Grenze(人気のない国境)"と呼ばれる町レヒニッツは、迷って偶然に辿りつける町ではない。山間の道17km、昔はレヒニッツ城のバッチャーニー女伯爵を訪れるために、人は様々な思いを巡らせブルゲンラントの森をくぐり抜けてきたのだろう。
    17kmの旅路を終え、最後のコーナーに差し掛かるとき、ギュンター・ギヨームはシュパールヴァッサーのゴールに心を痛め、ルッツ・メーダーは自分が仕掛けた罠に嵌まった後続馬が脚を止める様子を頭に浮かべる、200人の労働不適応なユダヤ人は貨物車両で虚ろな目をふせたままだ。そして町を眼下に見下ろすとき、そこには燃え上がるレヒニッツ城を見つけるだろう。

    「あそこに女伯爵がいる、今度はあそこにも。彼女がいるところはスイス、またはバート・ホーミンクの牧場、それとも血液透析のための別の温泉施設か。しかしそれは後のはなしだ。それは後でやってくるが、我々はもう訪れることはない。とにかく、藁の上では母なる大地の上より心地よく眠ることができる。しかし藁はもう必要ないのだ。我々はもう詰め込むための藁は必要ないし、心地よく眠るためにも不要なのだ。空っぽな人間、彼らはもういない。彼らはもう何一つ必要としていない、ありがとう。慎み深さと聖者を前にした信心深い臆病。もし聖者がまだうるさく怒鳴るのなら、それは彼らのものではなかったのだ。同様に空っぽな男たちであり、藁を詰め込まれた男たち、完全な男たちのものでもなかったのだ。たとえその特徴、慎み深さと臆病、私は繰り返して言う、それはおよそもっとも美しきもので、同時にもっとも賢明な地上の人間に備わったものであるにせよ。」(エルフリーデ・イェリネク/Wuergeengel)

    1974年8月25日、空っぽ人間、洞穴人間は炎に消え去り、Wildschuetzはダールヴィッツの坂を駆け抜け、歴史を作り上げた。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

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