
2人の祖母か2人の女
私は祖母に、まったく「女」を感じたことがなかった。
着物がよく似合う、少し控えめで手先の器用な人。いつも優しい笑顔で周りを明るくする——そんなイメージしかなかった。
家系図を掘り進めるにつれ、その印象が音を立てて崩れていくのを感じて、胸がざわつく。
どうして私は、祖母たちをただの「優しいおばあちゃん」としてしか見てこなかったのだろう。
知らなかった自分に、悔しさと申し訳なさが込み上げる。
母が子供の頃、家には「父親」が二人いたという。
高校卒業の日に母親から聞かされた真実を、母は今でも鮮明に覚えていると言う。私はその話を聞いたとき、言葉を失った。自分の血の繋がりが、そんな複雑で痛々しいものだったなんて。
母方祖母(理髪店・明治生まれ)
明治生まれの母方の祖母は、七人兄弟の末っ子として裕福な家に育った。
女学校に通い、黒い袴姿で自転車を漕ぐ姿は近所で噂になるほど鮮やかだったという。
あの頃、彼女はまだ「自分の人生」を夢見ていたのかもしれない。
十九歳で理髪店の夫のもとに嫁ぎ、四人の子を育てながら店を切り盛りした。
戦争で夫が出征した朝も、祖母は静かに店を開けた。
幼い子どもたちを抱え、一人で戦時下を生き抜いた彼女の強さと孤独を思うと、胸が締め付けられる。
「行かないで」とは言えなかったのだろう。
ただ「無事で」と祈ることしかできなかったのだろう。
私は今、祖母が時折見せた遠い目が、
ようやく少しだけ理解できた気がする。
彼女は「女」であることを静かに封じ、「妻」と「母」として生きる道を選んだのだ。
やがて戦争が終わり、夫は戦地の記憶にうなされるようになった。夫婦の会話は減り、祖母の心はさらに孤独に閉ざされていった。
そんなある日、理髪店の客として来た男が祖母の人生をさらに歪めた。
言葉巧みに迫られ、関係を持ってしまった。
夫の精神が壊れていく中で、二人の子どもが生まれた。その一人が私の母だ。
家には「父親」が二人いるという、歪んだ日常が続いた。
しかもその男は、気に入らないとすぐに暴力を振るう人だったと聞く。
祖母は、なぜその関係を続けたのだろう。
二人の子を産みながら、どれほどの罪悪感と恐怖を抱えていたのだろう。
私はその問いに向き合うたび、
言葉を失う。
ただ、祖母がどれだけ深く傷つき、どれだけ必死に生きていたかだけは、痛いほど伝わってくる。
父方祖母(マッサージ師・大正生まれ)
もう一人の祖母は、大正生まれで、97年の生涯を令和の初めに閉じた。
富士山の麓で生まれ、実母を産んですぐに亡くし母親の温もりを知らないまま育ったという。
その欠落が、後の子育てにどれほどの影を落としたか——それを思うと、ただただ胸が痛む。
満州で新聞社に勤め、タイプライターを叩いていた彼女は、引き揚げ船で日本に戻った後、祖父と出会った。
石屋の祖父は土地に定着せず、姑や小姑との同居で祖母は何度も泣かされた。
親戚に身を寄せ幼い子どもたちを残し、船で島へ渡ってマッサージの仕事をした日々。
まだ三歳だった父が、夕方になると荷車に乗せられて港まで迎えに行っていた——その話を聞いたとき、私は涙が止まらなかった。
祖母は、愛されることを諦め、ただ「生き延びること」を選ばざるを得なかった人だったのかもしれない。
自宅で治療院を開業して穏やかな日々が流れていた。
そんな中、祖父が57歳という若さで亡くなった。
亡くなる2ヶ月前、弟の初節句に鯉のぼりを立ててくれた事、今でもしっかり覚えている。暑い日だった。学校から帰ると
見慣れぬ顔? おじいちゃん!
額にタオルを巻いて痩せ細った身体で
鯉のぼりを一人で釣り上げる姿は大人ってカッコいいなと思った。
祖父は口数が少なかったが突然
お菓子をくれたりニコリと微笑んだり
する人だった。祖母はあまり料理が得意ではなかった。祖父はいつもレンガのような大きさの木綿豆腐に韮でぎっしり埋めて豪快に食べていた姿とカレーライスを食べた後にたくわんでお皿をきれいにする姿だった。
特に可愛がってもらった記憶もないだけどこんな人なんだと思っていた。
葬儀の際、憔悴しきって立つ事も出来なかった祖母。
私は父と霊柩車に乗り込んだ。
その日は七夕だった。
学校で初めて七夕祭りが開かれるその日私はたくさんの準備をしたのに参加出来なかった。
今でも後悔しているが仕方ない。
その後30年以上一人で気ままに楽しんでいた祖母だったが80歳の頃、叔父夫婦と同居を始めた。
私が実家に帰省している夜中、突然ドアをすごい勢いで叩く音がした。
すぐに灯りをつけると祖母がそこにいた
裸足のまま必死で父の名前を何度も呼んで「大丈夫だよ。ここにいるよ」と何度も言っている。父の幼い頃の記憶が少しづつ蘇った。母親として心が引き裂かれる思いと戦っていたんだろう。
幼い子供を残し仕事へ行かなくてはいけない現実。祖母の心のどこかに引っかかっていたんだろう。切なくて悲しかった。その後祖母は夜の徘徊が始まり
認知症と診断された。
そして息子達の名前を忘れた。
その後、何度か生死をさまよった祖母が虹の向こうへ旅立った。
その後、叔父が遺品整理をし役場に書類をもらいに行った時、祖母が祖父と結婚と離婚を3回繰り返していた事が分かった。
同じ相手と3度も、、。それを聞いた私は情熱的な夫婦だったんだと確信した。
母方祖母、その後
奇妙な生活は母が実家を離れてから
数十年と続いたが家のあるじは
気付けば家も仕事も妻も奪われて
しまい精神病院へ送られてしまった。
その後亡くなり堂々と祖父は家の主人になった。
後に分かった事だが祖父には家庭があり本妻や子供までいたようだよ。
頭が良く弁護士になりたかったが
家庭の事情でなれなかったと言っていた。
とにかく口がうまく人をあざむくのが
得意で人の揉め事を解決してお金を得ていたようだった。
それでもなぜ祖母はそこから離れなかったんだろうか?
祖母は幸せだったのか?
その後、祖父は亡くなり祖母本人から来てほしいと言われ、初めて弱音を聞き祖母が余命3ヶ月だと分かり母は覚悟を決めた
仕事の傍ら私と交代で面倒をみる事になった。
幼い頃、この家で色んな事があった
嫌な事楽しかった事たくさん思い出された。母がいない週末、私は祖母の家に泊まりお世話をする事にした。
何かしてほしい事は?と聞くと
大事にしていた時計の電池交換とベルトを交換をしてほしいと言うので出掛けた
まだこの頃はハッキリしていた
きれいになった時計をみて祖母は嬉しそうだった
私が帰宅して朝を迎えた頃、電話がなった。母からだった「おばあちゃんが亡くなった」私は泣き崩れた。帰る時また来るねと笑顔で別れたのに最後になるなんて
葬儀が始まる頃には憔悴しきった母がいた。声が掛けられなかった
葬儀が始まるまでは晴れていたのに突然の雨。祖母が泣いているのかな?
ひとしきり葬儀も終わり親族だけでの食事中、1匹の蝿が入ってきた
皆の周りを見渡すかのように飛んでいた
そうかと思えば電気線にぶら下がりジーッと動かなくなった。
叔父がおばあちゃんが「最後のお別れにきたよ」と言った
皆がありがとうと呟いた。
その後、遺品整理で家を訪れた際、家の中の家具や家電がすっかりなくなっていた。泥棒?
近所の人が見かけたことのない人たちが
荷物をトラックに乗せていたと伝えてくれた。母は悲しそうに言った
あれは祖父の子供達の仕業
死んでも尚、祖母のモノをむしり取って行くとは悲しみと悔しさが込み上げた。
夏の暑い日デパートの食堂で
クリームソーダの上のさくらんぼを美味しそうに頬張る姿だった。
クリームソーダを見ると少し微笑んでしまう嬉しい記憶。
あの日のさくらんぼの甘さも、きれいになった時計を見て嬉しそうに笑った顔も、
私が知っていた「おばあちゃん」の顔だった。
けれどその奥に、誰にも見せなかった、もう一つの顔があったことを、私は今、知っている。
二人の祖母か、二人の女か——。
答えはきっと、その両方だった。