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Photo bynoriko_v

花の色は(小野小町)

    花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに

    百人一首 9 小野小町

    湯船から、隣で頭を洗う男の背中を眺める。彼は誰だろう?思い出せないのに、私はこの人が首元から身体を洗い始めること、彼が使う男性用ボディーソープの香りを知っている。手が大きくて熱いこと、優しい目をしていること。たまに漏れる調子の外れた鼻歌も。


    列車がとまる緩い衝撃で目が覚めた。いつのまにか深い山の中にいて、窓の外は白くけぶっている。駅を発つときから小雨が降っていたが、このあたりでは霧雨が緑を濡らしているらしい。窓ガラスから伝わってくる外気が冷たかった。

    懐かしい人の夢をみた。いちばん好きだった人の夢だ。ぬるくなったカフェラテを一口すすると、がたんと列車が動き始める。夢の中では、彼が誰なのか分からないようだった。

    生い茂る木々が途切れ、ふいに少し明るくなる。
    線路際のぽかんとあいた草むらに、大きな1本の山桜が咲いていた。

    白く暗い世界がそこだけ明るい。こぼれんばかりに咲き誇る桜が、わずかな風に花びらを散らしていく。
    窓についた雨粒の1つひとつに桜が映っているようで、眩暈がする。ぼんやりとした頭が、また眠りの世界に誘われていく。


    仕事を始めたばかりの私は、手がひどく荒れていた。常に水に触れているからかさつくし、小さな切り傷ややけどもたくさん。彼は、その荒れた手をマッサージするのが好きだった。
    いつの間にかそこは昔暮らしていた部屋で、彼とベッドに座って向かい合っていた。彼は私の手をとり、手の荒れ具合を観察している。じっくり眺めながら、切り傷ややけどの跡を撫でた。

    そしていつものように、ハンドクリームを自分の手に伸ばし、私の手に塗り込むようにマッサージをはじめる。私たちが特に気に入っていた、ジャスミンの香りが強いハンドクリーム。熱いてのひらに温められて、豊かな香りを立ちのぼらせながら私の手を包む。彼は真剣そのもので、何も言わずに私の手と向き合っていた。

    「あたたかい」

    ぽつりと私がつぶやくと、少しだけ目を上げて笑う。その小さな微笑みが嬉しくて、ぽろぽろと言葉がこぼれていった。

    「この香り、好きだったよね」甘くて、いい匂い。

    彼は指を1本1本つまみながら、親指でくるくるとほぐしていくのが上手だ。

    気持ちいい。
    私、どうしたら、よかった?
    どうして、一緒に、いられなかった?
    てのひら、熱いね。
    なんでかな、なんで、私、今、
    ねぇ、あなたは、なんで、

    指を絡めて、手のひらをそらせる。少し痛くて気持ちいい。これでこの時間は終わり。ありがとう、と、唇が動いた。


    「…に到着します。列車が到着するホームは5番です。右側のドアが…」
    車内アナウンスに目をさまし、ぼんやりと窓の外を見る。こちらもずっと小雨が降り続いていたようだ。目を落とすと、皴の多い節が目立つ手がある。じっと見つめて少しだけ爪を撫で、足元の杖に手を伸ばした。



    百人一首を1つずつモチーフとして、掌編を作っています。第1番から順番に作り、7番目までを1冊のZINEにまとめました。
    ふとnoteに1篇公開してみようと思い立ち、9番目を選びました。

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