
短編小説|泡の距離
グラスの中で、泡が静かに立ち上がっていく。
店内は思っていたよりも賑やかで、歓迎会の席はすでに出来上がりつつあった。
仕事終わりのネクタイの緩み方と、少しだけ大きくなる声。
いつものオフィスとは違う空気に、まだ慣れないまま、私はジョッキを手に取った。
隣には、今日の主役である上司が座っている。
配属されてからまだ数日。
まともに話したこともほとんどない人だ。
グラスが半分ほど空いているのを見て、体が先に動いた。
「お注ぎします」
そう言って、ビール瓶に手を伸ばす。
けれど、その手は途中で止められた。
「あ、大丈夫。自分でやるから」
やわらかい声だった。
でも、どこか一歩引いたような響きがあった。
上司は軽く笑いながら、瓶を取り上げる。
慣れた手つきで、自分のグラスにビールを注ぐ。
泡が少しだけ多くなって、縁からこぼれそうになるのを、慎重に止めていた。
「いや、でも……」
言いかけて、言葉を引っ込める。
「こういうの、気にしなくていいから」
その言葉は、気遣いの形をしていた。
でも同時に、どこか線を引かれているようにも感じた。
気にしなくていい。
つまり、しないほうがいい。
「今はいろいろあるからさ」
上司は苦笑いを浮かべる。
「昔みたいに、部下にやらせるのもね。気を使うんだよ」
その「いろいろ」の中身は、説明されなくてもわかる気がした。
ハラスメント。
上下関係。
暗黙の強制。
正しい言葉たちが、頭の中をよぎる。
私は小さく頷いて、ジョッキに口をつけた。
冷たいはずのビールが、なぜか少しだけぬるく感じる。
「慣れた?」
上司がふと聞く。
「まだ全然です」
正直に答えると、上司は少しだけ笑った。
「最初はそんなもんだよ。無理しなくていい」
その言葉は、さっきよりも近くに聞こえた。
無理しなくていい。
気にしなくていい。
どちらも似ているのに、少しだけ違う。
テーブルの向こうでは、別の先輩が部下にビールを注いでいる。
自然な流れで、特に誰も何も言わない。
それを横目で見ながら、上司はグラスを傾けた。
泡はもう落ち着いて、透明な金色だけが残っている。
「本当はね」
上司が、小さく呟く。
「やってもらうの、嫌いじゃないんだよ」
意外な言葉に、少しだけ驚く。
「でも、それで嫌な思いさせるかもしれないって考えるとさ」
そこで言葉を切って、肩をすくめる。
「難しいよね」
その一言が、妙に静かに響いた。
正しさの中で、距離が生まれる。
誰も傷つけないために引かれた線が、
同時に、誰かと近づくことを難しくしている。
私はもう一度、ビール瓶に手を伸ばしかけて、やめた。
代わりに、自分のグラスに残っていた泡を、ゆっくりと見つめる。
完全に消えるわけでもなく、
かといって、最初の勢いもない。
その曖昧な形が、どこか今の関係に似ていた。
「……乾杯、まだでしたね」
そう言うと、上司は少しだけ目を丸くしてから、グラスを持ち上げた。
「そうだね」
軽く触れ合う音が、小さく鳴る。
ほんのわずかな振動だけが、確かに伝わってくる。
その距離なら、たぶん、大丈夫だと思った。
近すぎず、遠すぎず。
泡が消えていくその途中で、
私たちはようやく、同じ温度に触れた気がした。