
「役」を脱ぎ捨て、「私」に戻る
今日はずっと、誰かを演じていたな・・・
一日の終わりにそう呟くとき、私は二つの自分を見つめている。
一つは、舞台の上で喝采を浴びていた、役としての私。
もう一つは、社会という名の舞台で、誰かの期待に応えようと振る舞っている、日常の中の私だ。
私たちは皆、多かれ少なかれ、日常という舞台で何かを演じている。
職場での顔、誰かに気を遣う言葉、求められる立ち振る舞い。
別段大きな出来事があったわけでもないのに、どこか気を張り続けていて、ふとした瞬間に虚無感が襲ってくる。
カーテンコールの拍手が遠のき、幕が下りる。
板の上で浴びていた眩しい光が消えて、楽屋に戻る。
二時間半、別の人生を生きたあとの疲労感は、身体というよりも、もっと深いところに残る。
鏡に映る、濃い舞台メークをクレンジングで拭い去るたび、さっきまで私の身体を借りて生きていた“誰か”が、泥のように剥がれ落ちていく。
完全に戻りきれていない自分とのあいだに、わずかなズレを感じる。
私という人格の、輪郭がぼやけているような感覚。
役の感情はすぐには消えない。
興奮しているのに、どこか枯れている。
満たされたはずなのに、空っぽでもある。
このままでは、「私」がどこにいるのか分からなくなりそうで、少しだけ不安になる。
公演後の帰り道、ふと気づく。
自分の歩き方が、まだ役のままだということに。
誰も見ていないのに、その人物の気配を引きずっている自分に、小さな溜息をつく。
だから私は、家に帰ると必ず静かな時間をつくる。
明かりを落とした台所で、丁寧にお湯を沸かしお茶を入れる。
シュンシュンという音だけが聞こえる。
それから、黒光りした硯にゆっくりと墨を落とし、無心で一筋の線を半紙に書く。
誰かのセリフを語るためではない、私自身の呼吸を取り戻すための時間だ。
かすかな香りに意識を預けていると、張りつめていたものが少しずつほどけていく。
疲れ果ててしまうのは、誰かを、何かを演じ、生きた証だ。
空っぽになった器に、ゆっくり静かに日常を注いでいく。
それは休息というより、次の一日を始めるためのささやかな準備なのだと思う。
また明日も、みんな何かを演じながら生きていく。
それでも、「私」に戻る時間がある限り、きっと大丈夫。