【超短編小説】雨の日の傘 #拝啓文芸部
傘を一本、駅に置いてきた。忘れたのではない。わざと「置いてきた」のだ。
その傘には、母の名前が刺繍されていた。紺色の、どこにでもあるような傘だった。母がまだ元気だった頃、雨の日になると必ず持たせてくれた。
「傘は、雨を防ぐだけのものじゃないからね」
母はいつもそう言った。意味を聞くと、笑ってごまかした。
母が亡くなって三年目の六月、久しぶりにひどい雨が降った。私は押し入れからその傘を出した。開くと、内側に小さな文字が書かれているのに気づいた。
『帰り道に、誰かを一人にしないこと』
見覚えのない字だった。胸がざわついた。
私は傘を持って家を出た。駅までの道で、ひとりの女の子が雨宿りをしていた。傘を持っていないらしい。私は声をかけ、駅まで一緒に歩いた。
「ありがとうございます」
別れ際、女の子は私の傘を見上げた。
「この傘、お母さんの?」
「…そう」
「じゃあ、お母さん、ちゃんと帰れたんですね」
意味がわからず、私は黙った。女の子は不思議そうに首を傾げて、それから駅の階段を駆け上がっていった。
その背中を見送っていると、傘の持ち手が少しだけ温かくなった。
家に帰る気にはなれなかった。私は駅に戻り、傘立ての端にそれを置いた。
そして、自分は濡れて帰ることにした。雨は冷たかった。けれど、なぜか少しだけ嬉しかった。
翌朝、駅員に尋ねると、傘はもうなかった。代わりに、私の家の玄関に一本の傘が立っていた。
透明なビニール傘だった。
柄のところに、見覚えのある字で小さく書かれていた。
『帰り道に、誰かを一人にしないこと』
私はその傘を開いた。すると、雨の向こうに母が立っているような気がした。
「お母さん、今度は誰を迎えに行くの?」
返事はなかった。ただ、傘の内側から、ぽつり、と雨粒が落ちてきた。まるで誰かが、笑っているかのように。