
本当は家で死にたい、でも病院で死ななければならない人に、訪問看護師は何ができるか
「本当は、最期まで家で過ごしたい」
そう話してくれる患者さんは少なくない。ご家族も同じ気持ちでいることも多い。けれど、その願いがそのまま叶うとは限らない。
エピソード
ある終末期の患者さんのこと
がんの終末期にあったその方は、ご本人もご家族も「家で最期まで過ごしたい」と望んでいた。
けれど、他の親族との関係の中で、「これ以上迷惑をかけられない」という思いが勝り、最終的には病院での看取りを希望された。
ある日の訪問時、バイタル測定を終え、ふと沈黙が生まれた。その瞬間に、その方はぽつりとこぼした。
「看護師さん、本当はね…。自分はみんなに囲まれて、最期まで家で過ごしたかったんだけどね…。まあ、しょうがないよ。」
笑っているような、諦めているような、そんな声だった。
その「しょうがない」の一言に、本音と、周りへの気遣いと、諦めが全部詰まっている気がして、私はうまく言葉を返せなかった。
在宅で過ごす間、私は訪問看護師として、点滴や酸素投与、体位変換などの手技指導、ご本人やご家族の不安に耳を傾けること、そうした支援には力を尽くせたと思う。
だが、ご本人とご家族に対して何かお手伝いできることはないのかとあと一歩踏み出した支援ができないかと日々頭を抱えていた。これでいいのかと答えの出ない自問を繰り返す毎日だった。
そんな矢先、その方の呼吸状態が悪化し救急搬送された。状態の安定を待ち、一時退院する予定だった。しかし、状態は安定することなくそのまま病院での看取りとなってしまった。
『尊重』と『介入』の狭間で
本人が「病院がいい」と一度口にした以上、在宅の看護師が「本当は家がいいんですよね」とズカズカ踏み込むようなことはできない。
それは本人の選択を否定することになりかねないし、そもそも正解のない領域に、こちらの価値観を持ち込むことでもある。
一方で、その選択の裏にある「周囲への気遣い」「本当の気持ちとの矛盾」を目の前にしながら、手技指導と傾聴だけで終わっていいのかという迷いも消えなかった。
家族の中で、どうすることもできずに揺れている人たちを見ながら、私にできることはこれだけなのか、逆にこれ以上踏み込むのは余計なお世話なのではないか——その間で、何度も気持ちが揺れた。
答えのない問いを抱えて
在宅看護師の役割は、「本人の選択を支えること」であって、「本人の本音を引き出して、その通りに導くこと」ではないのかもしれない。
たとえ本音と選択がずれていたとしても、その人が悩み抜いた末に出した答えを尊重すること自体が、支援の一つの形なんだと思う。
それでも、「もっとできることがあったのではないか」という問いは、たぶんこれからも消えない。あの「しょうがないんだよね」という声を思い出すたびに、答えの出ない揺れを抱えたまま現場に立ち続ける。
それもまた在宅看護の仕事の一部なのだと思う。