
やがて、仕事は祈りになる 第7話
やがて、仕事は祈りになる(最終話)
2024年の秋、長田邦夫は初めて、誰にも見せるつもりのない文章を書いた。
ワードのファイルを開き、タイトルを入力した。「坐りたがる青年」。それだけ打って、しばらく画面を眺めた。
なぜ小説を書こうと思ったのか、と問われれば、うまく答えられない。追い詰められていた、というのは本当だった。資金は底をつき、SaaSは売れず、会社の出口もなかった。でも、この文章を書こうと思ったのは、逃げるためではなかった。
むしろ逆だった。
30年間、長田は他者のために言葉を使ってきた。クライアントの課題を聞いて、整理して、言葉にした。人のモヤモヤを資料に変えた。誰かの研修のために、シナリオを書いた。その言葉は、常に「相手があってこその言葉」だった。
一度も、自分のために書いたことがなかった。
——書いてみようか。
その言葉が降りてきた時、長田の中で何かが静かに動いた。氷が内側から溶けるような感覚。組織時代に、上司から企画書を初めて褒められたあの日に似ていた。だが、あの時よりも深いところから来ていた。
書き始めると、止まらなかった。
主人公は、二十代の一般家庭に育った青年だ。名前はまだ決めていない。長田自身の分身だということは、書きながら自分でもわかっていた。
青年は大学で本物の坐禅に出会う。禅への憧れで進路を変え、坐禅堂に通い始めた男だ。足を組んで壁に向かい、ただ坐す。最初は何も起きない。雑念が走る。足が痛い。鐘音がまだかと気にする。
それでも坐り続ける。
社会に出て、修羅場をくぐり、いくつかの敗北を経て——その間もずっと、青年は坐り続ける。坐禅が彼にとって「逃げ場」だったのか、「拠り所」だったのか、長田にはうまく書き分けられなかった。おそらく両方だったからだ。
ひたすら、長田は書いた。
夜、青年は足を組んだ。
呼吸を整える。吸って、吐く。それだけのことを、ただ繰り返す。最初の数分は、まだ「自分」がいる。今日あった出来事、明日への不安、誰かへの怒り——そういうものが、頭の中を泳いでいる。止めようもない、それがわかる。
呼吸が深くなるにつれて、それらが少しずつ遠くなる。
消えるのではない。ただ、遠くなる。
やがて、奇妙なことが起きる。
「自分」の輪郭が、溶け始めた。
目を開けている時間、人は常に「自分」という境界線の内側にいる。世界と自分のあいだに、見えない壁がある。その壁が、この時間だけ、静かに消えていく。
苦しさ、というのはその境界線から来ていた、と青年は思う。「自分」があるから、比べる。「自分」があるから、傷つく。「自分」があるから、失うことを怖がる。
でも今、その「自分」が、霧のように薄れていく。
悟った、ということではない。何かを得た、ということでもない。
——心身脱落なのか。どうでもよかった。
ただ、楽になる。それだけだ。
「それだけ」が、青年にとっては、どんな答えよりも確かなものだった。坐禅は、身体を通して哲学ができる最高の学問だと思った。西洋哲学をかじり、東洋思想に心酔し、禅を実践している。青年にとって大満足だった。
言葉の力も大事だが、青年は坐禅をすると形而上の概念が理解できた。それは宇宙とつながる感覚。言葉を超越した世界に触れると、自己との対話では、言葉は不便な道具でしかなかった。もちろん、目を覚まして3次元空間に戻ったら、言葉なしでは生きていけない。
書き終えて、長田はしばらく画面を眺めた。
これが小説かどうか、わからなかった。上手く書けたかどうかも、わからなかった。ただ、書いている時間の中で、頭の中が静かになった。コンテンツを作る時の「シナリオライターのような感覚」とは、少し違った。もっと深淵なる場所から来ていた。
——これは、坐禅に似ている。
その考えが、ふと浮かんだ。
坐禅は、目的を持った瞬間に坐禅ではなくなる。「無になろう」と思った瞬間に、無から遠ざかる。ただ坐ることだけが、坐禅だ。
書くことも、そうかもしれない。
「売れる文章を書こう」と思った瞬間に、何かが失われる。「読まれたい」と思った瞬間に、言葉が違う方向を向く。ただ書くことだけが、ほんとうの書くことだ。
長田は、特に直近の15年間は「誰かの役に立つために書く」ことを続けてきた。それは仕事だった。でも今、初めて「ただ書く」という行為の前に立っていた。
——これが、俺の言葉だ。
その感触は、小さかった。でも確かだった。
その夜も、長田は書き続けた。
毎晩、ワードのファイルを開いた。青年の物語を少しずつ前に進めた。うまく書けない日の方が多かった。前の日に書いた文章を読み返して、削除することもあった。それでも続けた。
書くことと、坐禅を続けることは、長田の中でだんだん同じ輪郭を持ち始めた。
どちらも、結果を求めない。どちらも、誰かに見せるために始めたわけではない。ただどちらも、続けることで、自分の奥にある何かが少しずつ言葉として紡ぎだされていく。
坐禅は大学時代から、30年続けてきた。でも書くことは、まだ始まったばかりだった。
ある日、長田は昔のことを思い出した。
組織にいた時代、顧客との打ち合わせが終わった後に「実はちょっと相談が」と呼び止められることがあった。仕事とは関係ない話を聞いて、ひと言かふた言返すと、相手の目がぱっと開いた。「そうか、そうすればいいんですね」と言われた。
営業でこちらが提案しなくてはいけないのに、そっちのけで担当者の話を聴く。なぜか、どんどん話してくる。
「癒されます」と言われたことが、何度もあった。
あの時、長田はその言葉を「余技」だと思っていた。本業ではない、おまけのようなものだ。今になって思えば、庭の飛石のような、歩くにはどうしても必要なもののように——言葉の飛石が「本当の自分の言葉」に近い瞬間だったのかもしれない。
企画書を書く時も、シナリオを書く時も、長田は相手の顔を思い浮かべながら言葉を選んでいた。読む人が、聞く人が、その言葉を受け取った時に何を感じるかを想像しながら、一文一文を置いていった。
それは技術ではなく、彼がもつ性質だった。
生まれつき持っていた何かが、キャリア30年間の仕事の中で少しずつ磨かれていた。そして今、その性質が、初めて「自分自身のために」向けられようとしていた。
信州の暗い林道を、夜一人で走っていたあの感触を、長田はふと思い出した。
どこが路面でどこが崖下かわからない。でも走り続けた。止まることの方が、怖かったから。
書くことも、そうだった。
どこへ向かうかわからない。うまく書けるかもわからない。でも書き続けることの方が、今の長田には自然だった。止まることの方が、怖かった。
2025年が過ぎ、2026年になった。
長田の会社は、まだある。細々とだが、仕事も続いている。ただ4,000万円の負債は、まだ消えていない。どん底は、まだ終わっていない、という見方もできる。
しかし長田には、以前とは違う感覚がある。
数字が全てだった頃は、月商の増減が自分の価値に直結していた。売れない月は、自分が否定されるような感覚があった。SaaSが売れなかった時、長田が最も苦しかったのは、資金が底をついたことよりも、「自分の判断が全て間違っていた」という感覚だったかもしれない。
今は、違う。
毎晩、長田が坐禅をした後に書く青年の物語は、少しずつ長くなっている。誰かに読ませる日が来るかどうか、まだわからない。でも書き続けることが、今の長田には「仕事」と同じくらい、あるいはそれ以上に、確かなものになっている。
——俺には、まだ書いていない言葉がある。
その感触だけが、長田を前に進めていた。
あの2024年春の朝のことを、長田はよく思い出す。
デスクで動悸をこらえながら、資金が底をついた現実と向き合っていた朝。全視界が暗くなるような感覚の中で、ふと「書いてみようか」という言葉が浮かんだ朝。
あの朝から、今日この文章を書いているここまで……
変わったことと、変わっていないことがある。
変わっていないのは、HR業界のコンサルタントとして仕事を続けているということ。負債があるということ。一人でやっているということ。
変わったのは——自分の輪郭が、少し変わった、ということかもしれない。
30年間、「誰かの役に立つ自分」が、長田邦夫の輪郭だった。クライアントがいて、課題があって、そこに応える自分。その構造の外に出たことがなかった。
今は、その構造の外に、もう一人の自分がいる。
誰かの役に立つかどうかわからない言葉を書いている自分。誰にも求められていない物語を、夜中にひとりで前に進めている自分。
その自分が、今の長田には、一番本物に近い気がしている。
坐禅は、目的を持った瞬間に坐禅ではなくなる。
書くことも、目的を持った瞬間に、何かが失われる。
「ただ書く」という行為が、「やがて」誰かに届く。届いた言葉が、誰かの中で静かに灯る。その時、仕事と祈りの境界が消える。
長田邦夫は、まだその瞬間には辿り着いていない。
だが、辿り着く前から、すでにそこへ向かっている。
「やがて」というのは、遠い未来の話ではない。
今日、書いていること、その行為の中に、すでに「やがて」は宿っている。
そのことを、長田はまだ言葉にできていない。
でも、坐禅の中で自他の境界が溶けるあの瞬間のように——やがて、言葉になる。
そう信じ、長田は今日も書き続けている。
(了)