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東京アンチグラビティ(第四話)

     彩のメッセージは、朝になっても同じ場所にあった。
     当然だ。スマホの中の文字は、こちらが眠れなくても動かない。夜のあいだ何度も開いたせいで、文面だけが擦り切れて見えた。

     今度は、私がちゃんと話します。
     聞けるなら、聞いてください。

     聞けるなら。
     その言い方が残った。会えるなら、ではない。分かるなら、でもない。聞けるなら。彩は、分かってほしいとは書かなかった。聞いてほしい、とも少し違う。聞くことができる状態なら、という条件がついていた。
     ボクは返信欄を開いた。
     聞きます。
     そう打った。
     短すぎると思ったが、これ以上足すと、いつものように逃げ道が増える。
     送信した。
     すぐに既読がついた。返事は来なかった。
     それで約束が成立したのだと思った。

     地図会社へ向かう電車の中で、ボクは眠ってしまいそうになった。
     吊り革につかまったまま、膝が一度抜けた。近くにいた女がこちらを見た。ボクはすみませんとも言えず、体勢を戻した。薬のせいなのか、徹夜のせいなのか、午前二時十七分のせいなのか、区別はつかなかった。
     次の駅で席が空いたが、座らなかった。吊り革を握ったまま、ドアの上の駅名を一つずつ目で追った。
     地下区間の窓に、自分の顔だけが浮いていた。疲れて、険しい顔だった。目をそらしても、次の窓にまた映った。

     会社に着くと、柿崎がすでに資料室にいた。
    「寝ていませんね」
     挨拶より先だった。
    「少しは」
    「少し、という顔でもありません」
    「薬を飲んだんですが」
    「効かなかった」
    「効いたのか、効かなかったのか、分かりません」
     柿崎は手元の書類を閉じた。
    「今日は現場へ出なくていいです。資料の整理だけにしてください」
    「でも」
    「その顔で脚立に上られると困ります」
     ボクは反論できなかった。
     河合が奥から顔を出した。
    「僕、今日は歩道橋の確認です」
     歩道橋、という言葉に反応したのが自分でも分かった。
     河合も気づいたようだったが、何も言わなかった。
    「大丈夫です。ファミレスの近くではありません」
    「何も言ってません」
    「顔が言いました」
     河合はそう言って、機材を持って出ていった。

     資料室に一人になると、眠気が強くなった。昨夜のもう一人の自分を思い出したが、眠気のほうが勝った。
     紙コップのコーヒーに手を当て、報告書の余白へ数滴こぼした。ティッシュで押さえると、紙が茶色く波打った。
     ボクはノートを開き、睡眠記録を書いた。
     就寝時刻、二十三時五十分。薬、服用。中途覚醒、あり。時刻、二時十七分と思われる。内容、記載を控える。
     ノートを閉じた。

     昼前、彩から場所の指定が来た。
     前の喫茶店ではなかった。駅から少し離れた小さな公園。ベンチが三つあり、昼間でも人が少ない場所だ。以前、二人で一度だけ通ったことがある。何かを話した記憶はない。通り抜けただけだったと思う。
     土曜ではなく、今日の夕方でもいいですか。
     そう書いてあった。
     ボクは画面を見た。
     今日。
     急に現実の時間が近づいてきた。
     大丈夫です。
     そう打って、消した。
     行きます。
     送った。
     三分ほどして既読がつき、お願いします、と返ってきた。
     お願いします。
     その丁寧さに、別れたあとの距離があった。

     午後、柿崎に早退を申し出た。
    「用事があります」
    「彩さんですか」
     名前は言っていない。
    「たぶん、顔に出ていましたね」
    「ええ」
     柿崎は書類から目を上げた。
    「行ってください」
    「すみません」
     柿崎は机の端に積んだ書類を揃えた。
    「聞くんですか」
    「はい」
    「待ち合わせ場所は」
    「公園です」
    「雨が降りそうです。折り畳み、持っていってください」
     柿崎は赤ペンを置いた。
    「ありがとうございます」
    「仕事の資料は置いていってください」
     ボクは鞄から管路図を出し、机に置いた。

     公園に着いたとき、彩はまだ来ていなかった。
     夕方前で、空は白く曇っていた。遊具は古く、ブランコの鎖にはところどころ錆が出ている。砂場には誰もいない。青いバケツはなかった。そのことに、必要以上に安心している自分がいた。
     ベンチに座る。木の板は湿っていた。雨は降っていない。午前中に誰かが飲み物をこぼしたのかもしれない。あるいは、木が湿気を吸っているだけかもしれない。
     彩は五分遅れて来た。
     謝る前に、息を整えた。小走りで来たのだろう。髪が乱れている。薄い紺色のカーディガンを着ていた。
    「ごめん」
    「ううん」
     ボクが言うと、彩は首を振った。
    「今日は、ううん、じゃなくて、いいよ、のほうがよかったかも」
    「いいよ」
    「遅い」
    「ごめん」
     彩は笑ってから、ベンチの端に座った。間に一人分の空きがあった。恋人だったころなら広すぎた。今は、そのままにした。
     しばらく、二人で公園を見ていた。
     向こうの道路を自転車が通る。母親と子ども。スーパーの袋。カラスが一羽、ゴミ箱の上に乗っている。近くのマンションのベランダで、誰かが布団を取り込んでいる。
     彩が先に口を開いた。
    「私、あなたに話を聞いてほしいって書いたけど」
    「うん」
    「たぶん、聞いてほしいというより、途中で整理しないでほしかった」
     ボクは黙っていた。
     彩は続けた。
    「前、話している途中で、あなたがまとめてくれることがあったでしょう。こういうことだよね、って。助かるときもあった。でも、助からないときもあった。私がまだぐちゃぐちゃしていたいところで、先に箱を用意されるみたいで」
    「うん」
    「今日も、うまく話せるか分からない。たぶん、順番も変になる」
    「うん」
    「それでもいい?」
    「いい」
     彩は膝の上で両手を組んだ。右手の人差し指に、細い絆創膏が巻かれていた。
    「それ、どうしたの」
    「午前中、区民ホールで今週の朗読会のチラシを切ってて。紙でやった」
     彩は指を一度曲げた。
    「父が入院してたころも、子ども向け講座の名札を百枚作ってから病院へ行った日があった。仕事は普通に続いてた」
     それから、公園の地面を見た。
    「父のこと、ちゃんと話してなかったよね」
     父親が病気だったこと、入院している時期があったこと、何度か実家へ帰っていたことは知っていた。詳しく聞かないまま、彼女が話したくないのだと思っていた。
    「最後のほう、病院に行く回数が増えてた。あなたと会う日も、病院のあとだったことがある」
    「それは」
    「悪いことじゃない」
     彩は先に言った。
    「悪いことじゃないの。でも、そのとき私は、ちゃんと考えてほしかったんじゃなくて、父が弱っていくのを見たあとで、何か温かいものを飲んで、黙って座っていたかっただけだった」
     ボクは何も言わなかった。ベンチの湿気がズボンに染みてきた。座り直したかったが、動く音が大きくなりそうで、そのままにした。
    「あなたは、その沈黙を怖がった」
     彩は続けた。
    「怖がった、って言い方は違うかもしれない。沈黙の中で何もしないことが、あなたには怠けているみたいに感じたのかもしれない。だから、話題を出した。仕事の話とか、再開発の話とか、街の話とか」
    「うん」
    「私はそれを聞いていた。聞けたときもあった。でも、聞けない日もあった」
     彩はそこで一度息を吐いた。
    「その聞けない日が、あなたには分かりにくかったんだと思う」
     ボクは頷いた。
     頷くだけでいいのか迷った。でも、頷いた。
    「父が亡くなったあと、あなたは優しかった。連絡もくれたし、心配もしてくれた。でも、何ていうか」
     彩は言葉を探した。
     公園の外で宅配便の台車が段差に引っかかり、空の箱が一つ落ちた。配達員が足で押し戻した。
    「あなたは、悲しんでいる私じゃなくて、悲しみという状態を見ていた」
    「病院のことを、もっと聞けばよかった?」
     口にしてから違うと思った。
    「そういう一個の話にしたいわけじゃない」
    「うん」
    「今のも、そう」
    「うん」
     ボクは靴の先を見た。泥が乾いて白くなっていた。
    「それで、話すことを減らしていった」
    「うん」
    「話さないと、あなたは余計に分からなくなる。分からないから、また大きな話をする。私はまた黙る」
    「うん」
    「そういう繰り返し」
     彩はベンチの背にもたれた。
    「別れるとき、もう会わないって送ったのは、あなたを罰したかったのもあると思う。でも、それだけじゃなくて、私がそこから出たかった。あなたの整理の中にいる私から」
     ボクは手元を見た。
     指先が冷えていた。
    「今は、出られた?」
    「前よりは」
    「全部は無理。関係って、終わったから消えるわけじゃないし」
     彩は息を吐いた。
     公園の端で、カラスがゴミ箱から何かを引っ張り出した。ビニール袋が破れる音がした。彩はそちらを見て、また前を向いた。
    「今日は、それを言いに来た」
    「つまり、僕が――」
    「ほら」
     彩が言った。
     ボクは口を閉じた。
    「今の、またまとめようとした」
    「した」
    「早いんだよ」
    「ごめん」
    「そこは、いいよ」
     彩は笑い、絆創膏の端を押さえた。風でブランコの鎖が小さく鳴った。
     午前二時十七分のことを話すか迷った。けれど、今日は彩の話を聞きに来た。ボクはその話をしなかった。
    「ありがとう」
     ボクは言った。
    「何に」
    「話してくれて」
    「うん」
     彩は立ち上がった。
    「今日は、ここまででいい?」
    「うん」
    「また話すかどうかは」
    「今決めなくていい」
    「先に言われた」
    「ごめん」
    「それは謝らなくていい」
     彩は笑った。
     公園の出口まで一緒に歩き、駅の方向で分かれた。ボクは角まで見送った。彩は途中でバッグの紐を肩へ掛け直し、一度も振り返らなかった。

     その夜、睡眠記録には、彩と会った、とだけ書いた。薬を飲み、布団に入った。
     眠りに落ちるまで、公園のブランコが鳴る音を思い出していた。

     下に、公園があった。
     さっき彩と話した公園だった。
     夜の公園。ベンチが三つ。ブランコ。砂場。街灯。ゴミ箱。カラスはいない。道路を車が一台通り過ぎた。ボクは上にいる。だが、これまでほど高くない。ブランコの鎖が見える。ベンチの湿った板も見える。
     彩はいない。
     誰もいない。
     午前二時十九分、公園の端に男が入ってきた。
     ボクだった。
     昼間の自分ではない。もう一人のボク。ワイシャツではなく、部屋着を着ている。裸足ではない。靴を履いている。手に何かを持っている。
     ノートだった。
     睡眠記録のノート。
     もう一人のボクはベンチに座り、ノートを開いた。ペン先が動いている。上からでは文字は読めなかった。
     書き終えると、ノートを閉じずに立ち上がり、こちらを見上げた。
     今度は顔が見えた。疲れた、普通の顔だった。通勤電車にいくらでもいる顔で、こちらを責めもせず、助けもしなかった。
     午前二時二十一分、ボクはベッドの上で目を開けた。身体は重く、薬の袋は枕元にあった。
     テーブルの上のノートは開いていた。ページには、強くペンを押した跡だけが残り、文字はなかった。

     翌朝、森岡からメッセージが来た。

     寝たか。

     寝ました。
     夢は見ました。

     そう返すと、すぐに既読がついた。

     飯食え。

     昨日も言われました。

     今日も言う。

     ボクは笑った。
     母からもメッセージが来た。

     靴下届いた?

     届いた。ありがとう。

     ちゃんと履きなさい。

     履きます。

     短い文のやり取りが続いた。彩からは何も来ていなかった。

     地図会社では、前日の管路図を広げた。柿崎は電話で道路管理の担当者と日程を調整し、ボクは団地側の図面番号を照合した。
     死んでいるはずの管は、図面の上では薄い点線で残っていた。

     昼過ぎ、河合と二人で道路側の管路を見に行った。
     団地ではなく、その周辺の道路だった。マンホールを開ける許可はまだ下りていないので、今日は位置と高さの確認だけだ。河合は地面に印をつけ、端末に数字を入れる。ボクは記録を取る。
     道路の向こうに団地の四棟が見えたが、目の前のマンホールの位置を記録しているうちに通り過ぎた。
    「ここ、つながってるかもしれませんね」
    「死んでいるはずの管と」
    「はい。次に確認するのは、この二か所です」
     河合はアスファルトに小さな白い印をつけ、端末へ番号を入れた。

     その夜、彩からメッセージが来た。

     昨日、聞いてくれてありがとう。
     あとから思ったけど、私もあなたに整理を任せていたところがあった。
     楽だったから。
     それでも、昨日話したことは本当です。
     まだ怖いけど、話せてよかった。

     ボクはすぐに返信した。

     こちらこそ。
     聞けてよかった。

     ボクはその二行を送り、スマホを伏せた。

     薬を飲み、布団に入った。
     六時二十八分に目を開けるまで、一度も時計を見なかった。床は乾き、ノートも閉じたままだった。母が送ってくれた明るいグレーの靴下を履いた。

     明るいグレーの靴下は、黒や紺ばかりだった足元ではよく目立った。駅まで歩くあいだ、何度か裾からのぞいた。

     その週の木曜、河合と区民ホール前の歩道を測りに行った。
     植え込みの根が縁石を押し、点字ブロックの一部が浮いていた。正面玄関には「子どものための朗読会」と印刷された立て看板が出ていた。彩が言っていた催しだった。
     ガラス扉の向こうで、折り畳み机を運ぶ人たちが見えた。彩もいた。紺色のエプロンをつけ、受付の名札を五十音順に並べている。右手の人差し指には、公園で見た絆創膏がまだ巻かれていた。
     開場時刻になると、親子がまとまって入ってきた。小さな男の子が靴を片方脱いだまま走り、母親が追いかけた。受付では、予約した名前が見つからないという女と、ベビーカーをどこへ置けばいいか尋ねる男が同時に話していた。
     彩は女の申込書を探しながら、男には舞台脇の壁を指した。そこへ、マイクの電源が入らない、と若い職員が走ってきた。
    「佐藤さん、受付お願い。延長コード、倉庫の二段目」
     彩は名札の箱を隣へ渡し、ホールの中へ入った。戻ってきたときには、男の子の靴が机の下に落ち、入口で配っていた黄色いプログラムが床に散っていた。靴を棚へ置き、プログラムを拾い、書き損じた名札を裏返して新しい名前を書いた。
     年配の女が大きな紙袋を抱えて現れた。今日読む人らしい。彩は紙袋を受け取り、控室まで案内し、受付へ戻る途中で、泣いている女の子にしゃがんで話しかけた。女の子は母親の姿を見つけると、彩の返事を待たずに走っていった。
     彩は立ち上がり、ずれたエプロンの肩紐を直した。公園で父親の話をしていたときとは、声の高さも歩く速さも違っていた。ボクの知らない名前を呼び、ボクの知らない手順で、次に必要なものを取りに行った。
    「知り合いですか」
     河合が水平器を置きながら聞いた。
    「はい」
    「声をかけます?」
    「仕事中なので」
     ボクたちは点字ブロックの段差を測った。十二ミリ。車椅子の通路にかかる位置だったので、河合が正面だけでなく斜めからも写真を撮った。区民ホールの設備担当者が出てきて、工事をするなら休館日にしてほしい、と言った。河合は候補日を確認し、ボクは担当者の名前を記録した。
     作業が終わるころ、朗読会が始まった。扉が閉まる前に、絵本を読む女の声が外へ漏れた。彩がガラス越しにこちらを見つけ、驚いた顔をした。それから片手を上げた。ボクも手を上げた。
     彩はすぐ、遅れてきた親子の受付へ戻った。こちらへは出てこなかった。
     夕方、メッセージが来た。

     今日、外にいた?

     いた。歩道を測ってた。

     見間違いじゃなかった。

     続けて、もう一通来た。

     マイクは直った。プログラムは二十枚足りなかった。

     ボクは、朗読会お疲れさま、と返した。彩からは、疲れた、とだけ返ってきた。
     地図会社では、道路側の管路確認の日程が決まっていた。
     午後、管理会社、道路管理の担当者、工事会社、地図会社の立ち会いで、団地横のマンホールを開ける。河合は朝から機材を確認し、柿崎は関係者へ電話を入れていた。ボクは資料室で、前日の確認メモを清書した。
     古い管、使われている管、塞いだつもりの管が、同じ図面の上に並んでいた。ボクは番号と更新年を確認した。

     昼前、柿崎がボクの机に来た。
    「午後、団地へ行きます」
    「はい」
    「あなたも来ますか」
     今度は、迷わなかった。
    「行きます」
    「榊原さんには会いません。今日は管路です」
    「分かっています」
    「なら、いいです」
     柿崎は一枚の紙を置いた。管路図のコピーだった。赤い線と青い線が重なりそうで重ならない場所に、丸がついている。
    「ここを見ます」
    「ここがつながっていたら」
    「次に調べる場所が一つ減ります」
    「一つ」
    「それだけです」
     柿崎は、当然のように言った。
    「水の原因が分かっても、ほかのことは別です」
    「はい」
     柿崎は資料室を出ていった。

     午後、団地の横の道路に立った。
     管理会社の担当者は森岡ではなかった。若い男で、スーツの上に作業用ベストを着ていた。道路管理の担当者は無口な中年で、工事会社の二人は手際よくカラーコーンを置いた。通行人が速度を落としてこちらを見る。マンホールを開けるだけで、道は小さな現場になる。
     河合が位置を確認し、柿崎が関係者に説明した。
     ボクは記録係だった。時刻、場所、立会者、天候、路面状態を順に書いた。
     マンホールの蓋が開いた。
     湿った空気が上がってきた。汚水ではない。雨水と土と鉄が混ざった匂いだった。工事会社の男がライトを下ろし、河合が中を覗く。
    「やっぱり残ってますね」
     河合が言った。
    「撤去済みの管ですか」
     柿崎が聞く。
    「管そのものは残ってます。塞ぎも甘い」
     工事会社の男が頷いた。
    「これ、昔のままですね。完全には殺してない」
    「ここから団地側へ戻る?」
    「水位と圧によっては、ありえます」
     河合はライトの角度を変えた。
    「普段は何も起きない。でも、雨や工事や圧の変化が重なると、戻る」
     ボクは、旧管残存、閉塞不完全、と記録した。強く書きすぎて、ペン先が紙の表面を削った。

     作業は一時間ほどで終わった。
     応急処置として、逆流防止の確認と仮塞ぎをする。正式な補修は後日。関係者はそれぞれの言葉で同じことを言った。調整します。持ち帰ります。確認します。検討します。
     昨日は図面の丸だった場所に、白いチョークの印が残った。
     マンホールの蓋が閉まった。
     団地の三棟目は見ないつもりだった。だが、道路から戻る途中で、どうしても視界に入った。三〇六号室の窓は閉まっている。カーテンも閉まっている。赤いリンゴの磁石は、ここからは見えない。
     見えないことを、そのままにした。

     管理人が近づいてきた。
    「少しは直りそうですか」
     柿崎が説明する。古い管が残っていること、そこから水が戻る可能性があること、すぐには全面補修できないが、応急対策は進めること。
     管理人は、そうですか、と言った。
     管理人は口を結び、マンホールの蓋を見た。柿崎が説明を終えても、「よかった」とは言わなかった。
    「榊原さん、今日は」
     管理人が言いかけて、ボクを見た。
    「いらっしゃいますよ。さっき、窓から見てました」
     ボクは返事に困った。
     柿崎が代わりに言った。
    「こちらから伺う予定はありません」
    「そうですか」
     管理人は頷いた。
    「でも、話したそうでしたよ。写真のこと」
     柿崎はボクを見なかった。
     そのかわり、管理人に言った。
    「ご本人が望むなら、改めて時間を取ります」
    「ええ。そうしてあげてください。あの人、話すの下手だから」
     管理人は口元をゆるめた。
    「話すの下手な人ほど、長いこと持ってるんですよ」
     管理人は工事の説明ではなく、榊原の話をしていた。
     ボクは記録しなかった。

     地図会社へ戻るバスの中で、河合は端末に写真を整理していた。
    「今日は進みましたね」
    「調べる場所が一つ減りました」
    「柿崎さんみたいになってきましたね」
    「嫌ですか」
    「いえ。現場は、そうやって進みます」
     河合は窓の外を見た。
    「一気に分かることは」
    「あります。でも、一気に分かった気になったあと、たいてい戻ります」
    「戻る」
    「はい。分かったことの周りに、まだ分からないものが残ってるので」
     バスが揺れた。ボクは吊り革につかまった。裾から靴下が見えた。明るいグレー。母の靴下。
    「今日、足元明るいですね」
     河合が言った。
    「母が送ってきました」
    「いいですね」
    「そうですか」
    「はい。現場で見つけやすいです」
     そういう褒め方があるのかと思った。

     夕方、彩からメッセージが来た。

     昨日話したあと、父の夢を見た。
     夢の中で、父は何も言わなかった。
     でも、何も言わずにそこにいてくれたのが、よかった。

     ボクは返信欄を開いた。
     何度か打ち、消した。

     その感じを、聞けてよかった。

     彩からは、しばらくして返事が来た。

     うん。
     説明されないのがよかった。

     ボクはスマホを伏せた。
     睡眠記録には、管路確認、父の夢、と書いた。薬は飲まなかった。錠剤を一度シートから出し、また戻した。
     午前二時前、布団に入った。
     眠りは浅かった。
     時計は見なかった。
     午前二時十七分。

     下に、団地の中庭があった。
     また団地だった。
     様子が違った。夜の中に、昼の写真の色が混じっている。夏祭りの提灯が揺れ、砂場には青いバケツがある。水はない。人の顔はぼやけている。子どもの笑い声が耳に残った。
     ボクは上にいた。
     これまでより高く、四棟と中庭、その外の道路まで見えた。細い水路の跡は道路の途中で消えていた。その先を、図面で見た死んだ管の線が頭の中でつないだ。
     午前二時十九分。
     中庭に男の子が立っていた。
     写真の男の子に見えた。夏祭りの服を着て、青いバケツを見ている。榊原はいない。大人たちは輪郭だけだった。
     男の子はバケツを持ち上げた。
     その下に、水があった。
     小さな水たまり。夜の中で、そこだけが光っている。
     男の子はそれを見て笑った。
     午前二時二十一分、ボクは自分の部屋で目を開けた。
     床ではない。ベッドの上。
     手は乾いている。匂いもない。スマホも光っていない。
     ノートは閉じたままだった。ボクは起き上がり、自分で一行だけ書いた。

     見た。

     それ以上は書かなかった。

     翌朝、榊原に会うことを決めた。
     柿崎に伝えると、「夕方なら管理事務所が空いています」と言って管理人へ電話した。
     仕事のあと、団地の管理事務所で会うことになった。

     夕方の管理事務所では、蛍光灯の白さが目についた。
     榊原は先に来ていた。ベージュのカーディガンではなく、紺色のセーターを着ている。机の上には茶封筒が置かれていた。写真を持ってきたのだろう。
     柿崎は同席しなかった。管理人も外してくれた。
     狭い部屋に、ボクと榊原だけになった。
    「お時間、すみません」
     榊原が言った。
    「いえ」
     言ってから、またか、と思った。
     榊原は笑った。
    「その、いえ、は癖ですか」
    「たぶん」
    「私も、すみません、が癖です」
     そう言って、榊原は封筒を開けた。
    「この写真、昨日見ていただいたと思うんですけど」
    「はい」
    「息子です。名前は悠太と言いました」
     写真の裏に、鉛筆で「悠太」と書かれていた。
    「この団地で育ちました。病気が分かったのは、小学校へ入る少し前です。入退院が多くて、でも、団地の行事には出たがったんです」
     榊原は写真を一枚出した。中庭で、青いバケツを持つ男の子。
    「夏祭りの日です。最後までいたいと言って、屋台が片づくまで帰ろうとしなかった」
     榊原は写真の中の息子を指でなぞった。
    「そのあと何年かして、病院で亡くなりました」
     管理事務所は暖房が効きすぎていた。首筋に汗が流れ、ボクは襟を指で引いた。
    「夜中に水が出ると、私は今でも、この写真を思い出します。写真の中に水は写っていないのに」
     榊原は写真を見たまま、「変ですよね」と言った。
    「分かりません。僕ならどうなるか」
    「そうですよね」
     榊原は写真の角を指で押さえた。
    「いい思い出なのか、つらい思い出なのか、分かりません。両方なんだと思います。だから、誰かに説明するとき、困るんです。困っていると言うと、直してほしい話になる。懐かしいと言うと、直さなくていい話になる。でも、どちらでもない」
    「今回、調査の人たちが来て、水の原因を見てくれて、ありがたいと思いました。でも、原因が分かったら、この水がただの不具合になるのかなとも思ったんです」
    「不具合では」
    「そうです。不具合です。困ります。直してほしい。そこは本当にそうです」
     榊原ははっきり言った。
    「でも、私の中ではそれだけじゃない」
     ボクは返事をせず、折れた写真の角を見た。
    「すみません。こんな話を、調査の方に」
    「聞きます」
     ボクが言うと、榊原は写真へ目を戻した。
     しばらく、二人とも青いバケツと、夏祭りの提灯と、笑っている悠太を見ていた。
     ボクは午前二時十七分のことも、アルバムを見たことも言わなかった。

     管理事務所を出ると、外は暗くなっていた。
     団地の中庭には、水はなかった。砂場の青いバケツも、今日は片づけられている。三〇六号室の窓には灯りがついていた。榊原が戻ったのだろう。
     三〇六号室は見上げず、管理事務所の前の浅い水たまりを避けて歩いた。

     帰り道、彩に、今日、人の話を聞いた、とだけ送った。
     彩からは、電車に乗る前に「それは、よかった」と返ってきた。

     その夜、薬は飲まなかった。
     ノートには、榊原さんの話を聞いた、とだけ書いた。写真のことも、悠太という名前も書かなかった。
     朝まで眠った。
     起きると、明るいグレーの靴下は椅子の背にかかっていた。洗濯かごへ入れたが、蓋が閉まらなかった。タオルを一枚押し込み、ようやく閉じた。

     来ない夜が三日続いた。薬を飲んだ夜と、飲まなかった夜が混ざり、睡眠記録の午前二時十七分の欄は空白のままだった。
     四日目の朝、歯磨き粉を切らしていることに気づき、駅の売店で買った。
     地図会社では、団地横の管路補修の日程が決まった。正式な工事ではなく、調査を兼ねた仮補修だ。古い管の状態を確認し、塞ぎ直せる範囲だけ処置する。工事会社は仮閉塞、管理会社は応急対応、道路管理は調査扱いと呼んだ。
     柿崎は工程表に赤を入れ、道路側と団地側の担当欄を確認した。

     管路補修の日は曇っていた。団地横の道路にカラーコーンが並び、工事会社の車が二台止まっていた。
     河合は端末を持ち、柿崎は道路管理の担当者と話していた。ボクは時刻と写真番号を記録した。
     古い管が露出した。想像していたより細く、詰め物がずれていた。
    「これ、完全に止めてなかったですね」
     工事会社の男が言った。
    「昔の処置だと思います」
     河合がライトを当てた。
     ボクは、旧管塞ぎ不完全、仮閉塞処置実施、と記録した。

     休憩のとき、管理人が缶コーヒーを持ってきた。
    「人数分あるかな」
     そう言って、袋から一本ずつ出す。工事会社の男たちは礼を言って受け取り、河合も受け取った。ボクにも一本差し出された。
    「ありがとうございます」
     缶は熱すぎて、右手から左手へ持ち替えた。急いで飲み、舌を軽く火傷した。甘かった。
     管理人が団地のほうを見た。
    「榊原さん、今日は出てこないね」
    「ご在宅ですか」
    「いるんじゃないかな。音が大きいから、嫌かもしれない」
     ボクは三棟目を見そうになり、途中でやめた。
     管理人は続けた。
    「あの人、昨日、スーパーの袋を二つ下げて帰ってきたよ。いつも一つなのに」
    「そうですか」
    「安売りだったのかもしれないけど」
     管理人は工事会社の男に呼ばれ、水の流れ方を説明しに行った。
     ボクは缶コーヒーを飲み干した。

     夕方、仮補修は終わった。正式な検査は後日になるが、古い管の口は塞がれた。
     柿崎は報告書用の写真番号を確認し、工事会社へ不足分を伝えた。
    「全部は無理です」
     柿崎が言った。
    「今日は、ここだけ」

     帰り道、彩からメッセージが来た。

     今週末、父の墓に行く予定です。
     一人で行くけど、言っておきたくなっただけ。

     ボクは駅のホームでその文を読んだ。
     行くよ、と打ち、消した。何かできることがあるなら、と打ち、また消した。
     しばらく考えて、送った。

     言ってくれてありがとう。
     気をつけて行ってきて。

     既読はついた。
     返事は、夜になってから来た。

     うん。
     それで十分。

     ボクはスマホを伏せた。

     その夜、午前二時十七分は来なかった。
     薬は飲んでいない。
     眠りは浅かったが、夢は覚えていない。朝、目覚ましの鳴る前に目が覚めた。床は乾いている。手に匂いはない。ノートも開いていない。
     ボクは起き上がり、睡眠記録に、来なかった、と書いた。その横に、管路仮補修、と書き、二本線で消した。
     ページの隅に、朝、とだけ書いた。

     数日後、前の会社から正式な連絡が来た。
     地図会社への転籍を前提とした出向継続。条件面の説明。回答期限。部長から電話があり、無理にとは言わない、と言った。無理にとは言わないとき、たいてい会社は半分以上決めている。
    「どうする」
     部長が聞いた。
    「残ります」
    「地図会社に?」
    「はい」
    「早いな」
    「そうでもないです」
    「まあ、おまえには合ってるかもしれない」
    「みんなそれを言います」
    「みんなって誰だよ」
    「いろいろです」
     部長は電話の向こうで笑った。
    「こっちはこっちで片づける。森岡にも言っとくか」
    「自分で言います」
    「そうか」
     電話の向こうで、紙をめくる音がした。
    「湾岸、悪かったな」
     部長が言った。
     謝罪なのか、感想なのか、よく分からない声だった。
    「僕も、いろいろ見ていませんでした」
    「みんなそうだよ」
    「そうですね」
    「でも、見てなかったで終わらせると、楽すぎるけどな」
     部長は小さく咳払いをした。
    「じゃあ、書類は送る」
    「お願いします」
     電話が切れた。
     書類は翌朝メールで届いた。添付ファイルの名前が長く、最初は別紙のほうを開いた。

     森岡にはメッセージで伝えた。

     地図会社に残ることにしました。

     すぐに返事が来た。

     いいんじゃない。
     足元見ろよ。

     ボクは笑った。

     上も見ます。

     しばらくして、返信が来た。

     首痛めるな。

     母にも電話した。
    「地図の会社に残る」
    「そう」
    「驚かないの」
    「驚くこと?」
    「分からないけど」
    「靴下、また送る?」
    「まだある」
    「そう」
     母はそれ以上仕事のことを聞かなかった。
    「ごはん食べてる?」
    「食べてる」
    「ならいい」
     電話を切ったあと、母が送ってくれた乾麺を茹でた。湯気で眼鏡が曇り、つゆを濃くしすぎた。ねぎはなく、海苔をのせた。茹ですぎて、麺が何本か途中で切れた。

     彩とは、毎日ではないが、連絡が続いていた。
     父の墓へ行ったこと、駅前の花屋が閉まっていてスーパーで花を買ったこと、区民ホールのピアノの蓋が開かず三人で持ち上げたこと、朗読会に来た子が青い傘を忘れたこと。
     ボクは短く返すこともあれば、返せずに翌朝になることもあった。
     ある夜、彩から写真が送られてきた。
     墓地の水場に置かれた青いバケツだった。
     心臓が一度、嫌な打ち方をした。写真を閉じ、また開いた。彩は、水を汲んだ、とだけ書いていた。
     返信した。

     水、重かった?

     鍋の湯が沸くころ、返事が来た。

     重かった。
     でも、持てた。

     コンロの鍋が吹きこぼれかけ、ボクは火を弱めた。

     午前二時十七分は、完全には消えなかった。
     来ない夜が続いたあと、ふいに来る。
     ある夜は、閉店後の銭湯の脱衣所だった。籠が並び、体重計があり、床に落ちた髪の毛が一本だけ見えた。誰もいなかった。
     ある夜は、早朝の市場の屋根の上だった。人々が発泡スチロールの箱を運び、白い息を吐いていた。ボクは高くも低くもない場所で、それを見ていた。
     ある夜は、自分の部屋だった。ただし、何も起きなかった。ボクはベッドの上で眠っている自分を、部屋の隅から見ていた。怖くはなかった。退屈でもなかった。こんな顔で眠るのかと思っただけだった。
     そのたびにノートへ、見た、来なかった、眠った、と一語だけ書いた。
     ある朝は書くのを忘れ、夜になってから気づいた。

     団地の水は、その後しばらく出なかった。
     仮補修が効いたのか、たまたま条件が重ならなかったのかは分からない。正式な補修計画が進み、管理人は、今度こそちゃんと頼みますよ、と言った。河合は、ちゃんとの範囲を確認します、と答えた。管理人は笑った。
     榊原には一度だけ会った。
     団地の中庭で、彼女は買い物袋を持っていた。ボクは現地確認の帰りだった。挨拶をすると、榊原は立ち止まった。
    「あのあと、少し楽でした」
    「話したことですか」
    「はい。水は困ります。直してください」
    「はい」
     榊原は買い物袋から出ていた長ねぎの先を押し込んだ。
    「でも、悠太が喜んだ日のことまで、消えるわけじゃないですよね」
    「消えないと思います」
    「そうですよね」
     榊原は軽く会釈し、管理事務所のほうへ歩いていった。

     地図会社での席は、いつのまにか決まっていた。
     引き出しには自分のペン、母の送ってきた海苔、睡眠記録のノートが入った。河合に貸したホチキスが三日戻らず、機材バッグの底から見つかった。
     奇妙な夜があった翌朝も、報告書の写真番号は合わせなければならなかった。

     ある金曜の夜、彩からメッセージが来た。

     明日、少し歩きませんか。
     話すことがあれば話して、なければ歩くだけでも。

     ボクはすぐに返信した。

     歩きます。

     送信してから、歯ブラシを咥えたままだったことに気づいた。

     その夜、午前二時十七分。
     ボクは、どこにも飛ばなかった。
     目が覚めたわけでもない。
     ただ、眠りの底で、遠くに東京の灯りがあるのを感じた。見えた、とは言えない。夢だったとも言えない。高い場所でも、低い場所でもなかった。身体はベッドの上にあり、足元には明るいグレーの靴下が脱ぎ捨てられている。窓は閉まっている。冷蔵庫は小さく鳴っている。
     そのまま朝になった。
     起きると、何も残っていなかった。
     匂いも、水も、砂も、赤い跡もない。
     それでも、何もなかったとは思わなかった。

     土曜、彩と歩いた。
     駅で待ち合わせ、目的地を決めずに歩いた。商店街を抜け、古い写真館の前を通り、橋を渡り、小さな公園の横を過ぎた。どれも、いつか見た場所に似ていた。だが、似ているだけだった。彩は途中で、あの店まだあるんだ、と言った。ボクは、あるね、と答えた。
     ある。
     それだけの返事で済むことがある。
     橋の上で、彩が立ち止まった。
    「ここ、風が強いね」
    「うん」
    「高いところじゃなくても、遠くまで見える場所ってあるんだね」
     ボクは川を見た。水はゆっくり流れている。流れているようで、同じ場所に光を残している。
    「あると思う」
     ボクは言った。
     彩はこちらを見なかった。
    「また、歩こう」
    「うん」
    「今度は一駅でいい」
    「疲れた?」
    「靴ずれ」
     彩は踵を浮かせた。絆創膏を持っているか聞かれ、ボクは鞄を探したが、入っていたのは睡眠外来の古い診察券だけだった。
     橋の下を、前かごに新聞を積んだ老人が自転車で通り、角を曲がった。
    「コンビニ寄る」
     彩が言い、二人で歩き出した。

     彩と会わない週もあり、返事が翌日になることもあった。
     前なら返信までの時間を数えた。今も数える日がある。ノートに、数えた、と書く日もあれば、そのまま寝る日もあった。

     地図会社の仕事は、朝に現場へ行き、段差を測り、写真を撮り、古い図面と照合し、報告書を書くことの繰り返しだった。
     排水口の詰まり、浮いたタイル、曲がったカーブミラー、誰かが置いた鉢植え。会議室では欄外へ追いやられていたものに、現場では時間を使った。靴の底に泥が残る日が増えた。

     ある日、柿崎に報告書を返された。赤字は一か所だけだった。
    「前より読みやすいです」
    「褒めていますか」
    「褒めています」
     柿崎は次の資料を手に取った。ボクは修正箇所を直し、写真番号をもう一度確認した。

     榊原の団地では、正式な補修工事が始まった。
     中庭の一部が掘り返され、仮設の通路が作られた。青いバケツは見かけなくなった。管理人に聞くと、砂場の道具は一度片づけたのだという。
    「工事中だからね。危ないし」
     管理人は言った。
    「また出しますか」
    「出すよ。子どもが使うから」

     榊原には、工事の説明会で一度会った。
     彼女は他の住人と同じように椅子に座り、工事会社の説明を聞いていた。質問はしなかった。説明会のあと、ボクに軽く会釈した。
    「ちゃんと直るといいですね」
    「はい」
    「でも、全部なくなると、それはそれで寂しい気もします」
     榊原は困ったように笑った。
    「わがままですね」
    「そうですか」
     ボクが言うと、榊原は窓のほうを見てから、たぶん、と答えた。
     そう言って、榊原は管理事務所のほうへ歩いていった。
     三〇六号室の窓には、午後の光が当たっていた。
     もう、それを長く見上げる必要はなかった。

     午前二時十七分は、季節の変わり目のように来たり来なかったりした。
     ある夜、ボクは知らない学校のプールサイドにいた。水は抜かれ、底に落ち葉が溜まり、更衣室の窓が細く開いていた。
     ある夜、閉店したゲームセンターの前にいた。シャッターの隙間から、壊れた機械の光が漏れていた。
     ある夜、どこにもいなかった。ただ、眠りの奥で遠い車の音だけを聞いた。
     以前なら起きてすぐ地図アプリを開いた。今も探したくなることはあるが、トーストを焦がし、バターを塗って食べているうちに出勤時刻になる朝もあった。

     彩とは、歩くことが増えた。
     駅を一つ分歩き、途中でコーヒーを飲む。黙りすぎると彩が、気まずいね、と言い、ボクは、うん、と答えた。
     午前二時十七分のことは話していない。ある日、言いかけたところで彩の職場から電話が入り、ホールのマイクが一本足りないという話になった。電話が終わるころには、ボクも続きを言わなかった。

     ある夜、彩と別れたあと、ボクは一人で橋の上に戻った。
     さっき二人で渡った橋だ。川の水面に、街灯とマンションの窓の光が揺れている。車が通るたび、橋がわずかに震えた。欄干に手を置くと、鉄は冷たかった。
     時間を見ると、二十一時四十三分だった。
     橋の下を、スマホを片手にした若い男が自転車で通り、車止めにぶつかりそうになって小さく悪態をついた。

     帰宅すると、母からまた荷物が届いていた。
     今度は乾麺ではなく、タオルと缶詰と、また靴下だった。靴下は今度もグレーだったが、前より濃い色だった。
     電話をすると、母は言った。
    「地図の会社、続いてる?」
    「続いてる」
    「ならいい」
    「靴下、そんなにいらない」
    「現場で汚れるでしょ」
    「汚れるけど」
    「じゃあいるでしょう」
     母の論理は単純で強い。
    「ありがとう」
    「はい」
     電話の向こうで、テレビの音がした。天気予報だった。
    「明日、雨らしいよ」
    「こっちも?」
    「知らない。東京って言ってた」
    「東京も広いよ」
    「でも東京でしょ」
     母はそう言って笑った。

     その夜、雨が降った。
     窓に細かい音が当たり続けた。強くはない。だが長い雨だった。団地の中庭は大丈夫だろうかと思った。榊原は眠れているだろうか。管理人は水を見に行くだろうか。河合は明日また管路図を開くだろうか。
     考えた。
     考えたが、地図アプリは開かなかった。
     睡眠記録に、雨、と書いた。
     薬は飲まなかった。
     午前二時十七分。
     目が覚めた。
     部屋の中だった。
     ベッドの上にいる。身体は動く。声も出せる。窓の外では雨が降っている。スマホの時計は午前二時十七分を示していた。
     何も起きていなかった。ボクは天井の隅の埃を見た。冷蔵庫が鳴り、隣の部屋で何かが床に落ちた。
     起き上がって水を飲んだ。手も足も乾いていた。
     窓を指一本分開ける。雨の匂いが入ってくる。遠くで車が水を切る音がした。
     午前二時十九分。
     何も起きない。
     午前二時二十一分。
     まだ、部屋にいる。
     ボクはノートを開いた。
     しばらく迷って、こう書いた。

     部屋にいた。

     ノートを閉じ、椅子に座って雨の音を聞いた。夜はそのまま過ぎた。

     翌朝、雨はやんでいた。
     道路は濡れている。自転車のサドルに水滴が残っている。弁当屋の前で、店員がのぼりを出していた。駅へ向かう人々は、傘を持っている者と持っていない者に分かれていた。空はまだ低いが、雲の端が明るい。
     地図会社へ行くと、河合が窓の外を見ていた。
    「団地、大丈夫そうです」
    「もう確認したんですか」
    「管理人さんから写真が来ました。水、出てません」
    「そうですか」
    「仮補修、効いてるかもしれません」
    「かもしれない」
    「はい。まだ、かもしれない、です」
     河合は口元をゆるめた。
     柿崎が奥から出てきた。
    「今日は歩きます」
    「どこへ」
    「新しい現場です。駅前の歩道。雨のあとでないと見えないところがあります」
     ボクは鞄を置きかけて、また持ち上げた。
    「行きます」
    「靴は」
    「大丈夫です」
     柿崎は足元を見た。
    「新しい靴下ですね」
    「母が送ってきました」
    「見つけやすくていい」
    「河合さんと同じことを言いますね」
    「現場では大事です」
     柿崎はそう言って、先に歩き出した。

     外へ出ると、雨上がりの道路が光っていた。排水口には吸い殻が残り、ガードレールには泥が跳ね、コンビニの前には濡れたレシートが貼りついていた。
     駅前の歩道で、河合が段差を測る。
     柿崎が周辺の写真を撮る。
     ボクは記録を取る。
     通勤する人たちが横を通っていく。誰もこちらを気にしない。気にしたとしても、すぐ忘れるだろう。歩道で何かを測っている人たち。雨上がりにしゃがんでいる人たち。その程度だ。
     高いビルの隙間に、狭い空があった。足元の歩道には雨水が薄く残っていた。

     昼休み、彩からメッセージが来た。

     雨、やんだね。

     ボクは歩道の端で返信した。

     うん。
     こっちはまだ少し濡れてる。

     すぐに返事が来た。

     こっちも。

     それだけだった。ボクはスマホをポケットに入れ、午後の現場へ戻った。

     午後、報告書を書いた。
     雨後確認。歩道勾配。排水不良箇所。写真番号。対応案。
     書き終えると、柿崎が確認し、赤を一か所だけ入れた。
    「ここ、断定しすぎです」
    「はい」
    「でも、全体はいいです」
    「ありがとうございます」
     柿崎は頷き、資料を閉じた。河合が隣で、床はまだ傾いてますけどね、と言った。

     その夜、ボクは早く寝た。
     薬は飲まなかった。
     ノートには、雨後確認、とだけ書いた。
     眠りに落ちる前、冷蔵庫の音がした。窓の外で誰かが自転車のスタンドを立て、遠くを電車が走った。
     冷蔵庫が止まり、また鳴った。窓の外を終電が通り過ぎた。

     朝、目が覚めた。
     時刻は六時三十二分。
     部屋の中は明るい。
     手に匂いはない。
     足元は乾いている。
     スマホには、彩からの未読が一つあった。

     今日も歩く?

     ボクはしばらくその文を見ていた。
     それから、返信した。

     歩く。

     送って、靴下を履いた。
     濃いグレーの、新しいほうだった。

     
     
    64歳。そろそろ仕上がる計画が、いまだ試作中。 iPhone・AIを手に、書いたり、考えたり、本を出したり、自己嫌悪に悶えたり。 マガジン BOOKS|作品集 Kindle図書室|出してしまった本 AI創作の基礎|AIと格闘した記録

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