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失恋休暇、申請します。

    【あらすじ】

    老舗の化粧品会社に、ちょっと変わった制度が生まれた。
    通称「失恋休暇」。申請すれば、休める。恋の良し悪しを会社が裁くわけじゃない。ただ、心が少し疲れてしまった人に、書式の上で「休んでいい」と伝えるための制度だった。
    不倫、AIによる妙にドライな判定、振った側の孤独、推しの結婚、そして人事課長自身の秘密。小さな相談室の椅子に座るたび、人はそれぞれの形の痛みを、そっと申請書に変えていく。
    制度は人を救えるのか。それとも、救うのは制度ではなく、その紙を受け取る誰かなのか?
    オフィスを舞台にした、やさしい群像連作短編。

    プロローグ 心の痛み、考慮します

    (株)コスメティック・ルネッサンス。創業から半世紀以上になる、化粧品の会社だった。日本橋の本社ビルは古く、エレベーターのボタンは少し重い。長く化粧品を作ってきた会社が、去年の秋、役員会で承認したのは、失恋を理由に休める制度だった。

    最初は「そんなものは制度化することじゃない、個人の甘えだ」と、古参の役員が突っぱねたらしい。それでも最終的に、「うちは半世紀以上、女性の生き方を後押ししてきた会社だ。時代の感覚を取り入れられずに何が老舗か」という声が通り、決裁が下りた。

    年齢によって日数が変わるのは、ある役員が「若い頃の失恋は立ち直りが早い。歳を取ってからの方が長引く」と言い張ったからだった。誰も本気で検証したわけではなかったが、反対する理由もなかった。

    導入当初、この年齢区分がSNSで少し話題になったことがあった。「なぜ年齢で日数が違うのか」「時代錯誤ではないか」という声が一部で広がったらしい。社内では誰も、そんな反応が来るとは思っていなかった。ただ制度を作っただけのつもりが、いつのまにか年齢差別の話として扱われていた。話題作りのつもりなど、最初から誰にもなかった。

    それでも、そのおかげで、失恋休暇という今どきの制度が老舗の化粧品会社に導入されたこと自体は、思いがけず世間に知られることになった。

    正式名称は、感情負荷回復休暇。

    けれど社内でそんなふうに呼ぶ人はほとんどいない。

    みんな、もう少し正直だった。

    失恋休暇。

    名前だけ見ればふざけている。だが申請の手順は妙に真面目で、規程によれば合計4日以上の申請は人事面談が必要だった。恋愛の善悪を裁くためではなく、業務への影響と本人の安全確認のため。それが建前で、実際、その建前はわりとよくできていた。

    決裁が下りてから、申請書のフォーマットを整え、面談体制を組み、かつてコピー用紙の保管庫だった部屋を相談室に改装するまでに、半年近くかかった。

    実際に制度が動き出したのは、今年の4月1日。

    それから3日が経っていた。

    規程には、まだ誰も気づいていない穴がいくつかあった。

    第一章 その恋には、承認欄があった

    制度を管掌するのは人事課の五十嵐真帆だった。新設されたばかりのこの休暇制度の相談室は、五十嵐と、人事係長の堂島誠一の2人だけで回している。担当者はこの先増えていく予定だったが、今はまだこの2人しかいなかった。五十嵐が室長を兼ねている。

    桐島葵が申請フォームを開いたとき、面談担当者の欄に記されていた名前は2つあった。

    人事係長:堂島誠一
    人事課長:五十嵐真帆

    葵は真剣な眼差しでフォームを完成させボタンを押した。

    申請書が人事部に届いたのは、午前9時17分だった。

    五十嵐真帆は自席で書類を確認していた。新着の申請一件を開き、初めての申請者の名前を確認した。

    指先が、一瞬だけ止まった。

    人事面談室は、ガラスの上半分だけが磨りガラスになっている。外から人影は見えるのに、中の表情だけが見えない、会社らしい中途半端な親切設計だ。

    「失礼します」

    葵がドアを開けると、長机の向こうに2人が並んでいた。

    堂島係長は40代前半、柔らかい顔立ちで、誰に対しても必要以上に丁寧な話し方をする男だった。いかにも人事向きの顔で、実際、人の修羅場を丸めて書類にする能力に長けている。

    葵は、右側の人物を一度だけ見た。

    髪を低い位置でまとめ、紺のブラウスにグレーのジャケット。机の端には紙コップのブラックコーヒー。左手の薬指には細いリング。

    それから椅子を引いた。

    「桐島さん、本日はお時間ありがとうございます」

    堂島が穏やかに言った。

    「制度上、簡単な確認が必要でして。体調面と、休暇の必要性がわかれば十分です。話しづらいところは無理に言わなくて大丈夫です」

    「はい」

    葵は薄いクリアファイルを机に置いた。

    「補足資料を作ってきました」

    堂島が一瞬だけ目を丸くする。

    企画職の人間が何かを説明するとき、たいてい最初にやることは同じだ。整理し、見出しをつけ、順番を与える。感情だけは、その作法に従ってくれないとしても。

    葵は一枚目をめくった。

    表紙にこう書いてあった。

    失恋休暇申請補足資料
    作成者:桐島葵

    その下に、律儀すぎるほど整った文字で。

    Agenda
    ・交際開始の経緯
    ・関係変化の要因
    ・破綻に至る経緯
    ・業務影響および休暇必要性

    堂島は「おお」と小さく言い、すぐ真顔に戻った。

    「では……お願いします」

    葵は頷いた。

    「交際期間は、2年4か月です」

    堂島はメモを取り始めた。2年4か月。長すぎず短すぎず、制度上もっとも"説明のしやすい"長さだと、そんなことを考えた自分に葵は腹が立った。

    「出会いは、私が今の会社に転職してきた頃です。仕事を教えてくれた人でした。最初は、ただの相談相手というか……当時は同じ部署にいて、仕事の進め方や、社内の人の動かし方、会議での立ち回りをよく知っている人で」

    「はい」

    「私は中途入社だったので、質問が多かったんです。でもその人は、嫌な顔をしなかった。そういう細かいことを、本当に丁寧に教えてくれました。部署が分かれてからも、関係は続きました」

    堂島は何度か頷く。よくある話だ、と彼は思っていた。転職してきた20代後半の女性社員。頼りになる年上の相手。少しずつ距離が縮まり、付き合い始め、部署が分かれた後も別れられなかった。人事面談としては珍しくもなんともない。ただ、社内恋愛か、厄介だな、とも正直思った。

    「最初に業務外で食事に誘われたのは、入社して3か月くらいの頃です。大きな案件が終わった日でした。『おつかれさま、今日は一人で反省会したくないから付き合って』って言われて」

    「なるほど」

    「その人、仕事の話になると本当に楽しそうで。厳しいけど、面白くて、賢くて……私は、尊敬から入ったんだと思います」

    そのとき、五十嵐は一度だけペンを持ち直した。それだけだった。顔は上げない。

    葵は続けた。

    「交際が始まってしばらくは、すごく幸せでした」

    幸せだった、と葵は言った。

    その言葉が、面談室の空気に溶けるあいだ、葵の頭の中には別の部屋があった。

    ブラインドを半分だけ下ろした、ホテルの部屋。

    その人の息が、首のそばで聞こえた。

    葵はあの夜、ずっと迷っていたことがあった。

    その人の左手に、触れるかどうか。

    触れたかった。ただそれだけのことだった。触れたくなかった理由も、単純だった。触れてしまったら、この人は他の誰かのものだと、思い出してしまうから。

    だから葵は、あの夜も、その前の夜も、一度も左手には触れなかった。

    意識しないようにした夜もあった。でも、意識しないようにすることが、すでに意識していることだった。

    指輪がそこにある。ポーチの中に入っていても、外していても、それは変わらなかった。

    左手だけが、ずっとそこにあった。

    葵は、その手を見なかった。

    もう、触れる必要がなかった。

    「忙しい人だったので、頻繁には会えなかったですけど、その分、会える時間は大事にしてくれている気がしていました」

    「はい」

    「ただ、最初から、制約はありました」

    堂島のペンが、紙の上で止まった。葵は書類に目を落としたまま、淡々とした声で言った。

    「その人は――彼女でした」

    室内の空気が、ほんの少しだけ止まった。

    堂島の眉が上がる。だがそれも一瞬のことで、彼はすぐに表情を整えた。

    「あ、失礼。ええと、お相手は女性だった、ということですね」

    「はい」

    「わかりました。続けてください」

    言いながら、堂島はメモ欄の「相手」の横に小さく「女性」と書き足した。内心では、今さら自分の認識を修正していた。最初に男だと思い込んでいたのは自分の勝手だ。そこに価値判断を混ぜたらアウトだ、と人事の人間らしく脳内で線を引き直す。

    問題はない。恋愛の相手が女性でも、休暇申請のルールが変わるわけじゃない。

    その時点では、まだそう思っていた。

    「制約というのは?」

    堂島が促すと、葵は一枚、資料をめくった。

    「その人には、家族がいました」

    今度は堂島の手が、はっきりと止まった。

    「家族、というのは……」

    「配偶者と、お子さんです」

    沈黙が落ちる。葵はその沈黙ごと、資料に含めたみたいに、間を置いて続けた。

    「最初から知っていました。正しくないことは、私にもわかっていました。だから、そこを被害者みたいに言うつもりはないです」

    そこまで言って、初めて彼女の声に細いひびが入った。

    「でも、知っていたことと、耐えられることは、別でした」

    五十嵐の指先が、書類の端を押さえる力を少しだけ強めた。薬指のリングが、白い蛍光灯を冷たく返す。

    葵は視線を上げない。

    「会える日程はいつも向こう次第でした。平日の遅い時間だけ。週末は当然だめ。祝日もだめ。誕生日も、クリスマスも、年度末も、子どもの行事がある日は全部だめでした」

    堂島は再びメモを取り始める。中立でいなければならない。人事の人間は、中立の顔で他人の感情を受け止める訓練をされている。

    「はい」

    「会う前には、必ず指輪を外していました。ポーチの内ポケットに入れて、なくしたら本当に死ぬって笑うんです」

    「私は、その動作を見ないふりが上手くなりました。待つのも、予定が変わるのも、急に連絡が途切れるのも、全部、理解している側でいようとしました」

    葵はそこまで一気に言って、ようやく顔を上げた。ただし見たのは堂島だけで、五十嵐ではない。

    「向こうもよく言っていました。『葵はわかってくれるよね』って」

    堂島の喉が乾く。その言い回しに、どこか聞き覚えがある気がした。人事でよく耳にする"丸め方"の言葉だ。事情が複雑なとき、責任を曖昧にしたい人間ほど、「わかってくれるよね」と言う。

    「関係が変わったのは、いつ頃からですか」

    「半年前くらいからです。向こうの態度が急に不安定になりました。会う回数が減って、連絡も雑になって。なのに仕事の相談だけはしてくるんです」

    「仕事の相談」

    「はい。部署の悩みとか、採用の件とか、異動の話とか。そういうのは深夜でも電話してくるのに、私が『この先どうしたいの』って聞くと、急に黙る」

    堂島のメモを取る手が、また止まった。

    採用。異動。その単語は、人事部の人間のまわりにしか濃く漂わない。

    「……その方は、社内の方ですか」

    葵は、資料の3枚目をめくった。

    「はい」

    「現在も?」

    「はい」

    堂島はゆっくり顔を上げた。その横で、五十嵐は一度もページをめくっていない。最初の一枚のままだ。紙コップのコーヒーからは、もう湯気も立っていなかった。

    「差し支えなければ、部署は」

    そこで初めて、葵は五十嵐の方を見た。

    ほんの一秒。2年4か月ぶんの沈黙を圧縮したみたいな一秒だった。

    それから葵は、きれいに言った。

    「人事部です」

    堂島は、手元のペンを取り落としかけた。

    さすがに露骨すぎる、と思って拾い直す。いや、まだだ。人事部は何人もいる。偶然かもしれない。たまたま条件が重なっただけかもしれない。ブラックコーヒーを飲む人間も、採用や異動の話を深夜にする人間も、この会社には――

    自分の隣に座っている人が、係長である自分より上の役職者だということを、堂島はふいに思い出した。今聞いていることを、この人にどう確認すればいいのか、まだわからなかった。

    「その人、昼はだいたい地下の定食屋で鯖の味噌煮定食を食べます。会議前はブラックコーヒーしか飲まない。書類を読むとき、左手の親指で紙の端をそろえる癖がある」

    堂島の視界の端で、五十嵐の左手が止まった。

    葵の声は、今や報告ではなかった。プレゼンの体裁を借りた、告発だった。

    「ひどかったのは、不倫だったことじゃありません」

    堂島はもうメモを取れなかった。

    「正しくない恋なのは、最初から知っていました。だから、きれいな被害者ぶるつもりはないです。でも」

    葵はそこで一度、息を止めた。

    「いつも、言い終わる前に遮られた」

    声が変わっていた。プレゼンの声ではなくなっていた。

    「こちらが話している途中に、正論が来た。『それはわかってる』『でもそういうわけにはいかない』『あなたの気持ちはわかる』。毎回、正しかった。一言一言が、正しかった。だから余計に、どこにも言えなかった。話すたびに、私の言葉だけが途中で消えた」

    五十嵐の睫毛が、そこでようやく揺れた。

    「でも、ひどかったのは、終わらせる責任まで私に理解させようとしたことです。『家族があるから』『立場があるから』『あなたならわかるよね』って、最後までそうだった。説明も、謝罪も、ちゃんと別れる言葉もないまま、私だけに察しのよさを求めた」

    静かな声だった。静かすぎて、かえって部屋の隅まで届いた。

    「私は部下じゃありません。便利な聞き役でも、空いた時間にだけ呼び出せる避難所でもない」

    五十嵐は何も言わない。

    堂島は、ようやく自分の役割を思い出したみたいに咳払いした。

    「……桐島さん。確認ですが、現在、ご自身や相手の方との間で、業務上のトラブルや安全上の懸念はありますか」

    葵は息を整えた。企画書を閉じる人みたいに、感情を一枚ずつたたんでいく。

    「業務上の引き継ぎは済んでいます。危険なことをするつもりもないです。ただ、通常業務に戻るまで数日必要です。この一週間、平均睡眠時間は3時間程度で、作成した資料に2度、誤字による差し戻しが出ました。集中力が落ちています」

    堂島はその数字をメモした。数字にすると、途端に扱いやすくなる。そういう仕組みに、自分もずっと守られてきたのだと思った。

    「受診は」

    「まだです。必要なら行きます」

    「わかりました。相談窓口の案内はお渡しします」

    そこまで言ってから、堂島は右隣を見た。見ないふりをしても、見なければ進まない局面だった。

    五十嵐は、まっすぐに前を向いていた。表情はほとんど崩れていない。けれど、机の下で両手を強く組んでいるのがわかった。

    葵もまた、彼女を見ていた。

    最初に恋をしたとき、この人の目はもっと柔らかい色をしていた、とふいに思い出す。会議室の窓に夕方の光が差す頃、難しい資料を読み終えて、ふっと笑ってくれた顔。あの顔に、自分はきっと救われたのだ。

    だから余計に、今日ここで終わらせたかった。

    正式な書式で。業務に必要な手順の中で。名前を呼ばなくても伝わる場所で。

    「申請理由は以上です」

    葵は言った。

    「正確には、ようやく失恋だと認めるしかなくなったので、休ませてください」

    沈黙のあと、五十嵐が口を開いた。

    「……申請を承認します。基準では25歳以上30歳未満は2日ですが、特例で、5日」

    承認者の欄に、五十嵐はペンを当てた。

    一瞬だけ、止まった。

    それから、自分の名前を書いた。

    葵は立ち上がった。資料をまとめる。一礼して、ドアへ向かう。

    ノブに手をかける。そこでほんの一瞬だけ止まり、振り返りもせずに言った。

    「課長」

    五十嵐が息を呑む気配がした。

    「今日は、最後までちゃんと聞いてくれてありがとうございました」

    ドアが閉まる。

    それが礼なのか、皮肉なのか、堂島にはわからなかった。

    面談室に残ったのは、冷えたコーヒーと、誰もめくらなかった書類と、ようやく全部わかってしまった男1人、女1人だった。

    堂島は手帳の端に、小さく書いた。

    「利害関係者の同席禁止――要検討」

    制度が3日目だということを、改めて思い知った。

    面談室を出た葵がエレベーターを待っていると、後ろから静かな足音がした。

    振り返ると、五十嵐が立っていた。

    2人のあいだには、恋人だった時間より、この廊下を同じ会社の人間として歩いてきた時間のほうが、もうずっと長く見えた。

    「……5日、ちゃんと休んで」

    五十嵐は言った。

    葵は少しだけ笑った。疲れすぎた人間にしかできない、薄い笑いだった。

    「まほさん……課長も」

    エレベーターのドアが開く。葵は乗り込み、閉まる直前にまっすぐ前を見たまま言う。

    「もうそう呼ぶことにしたので」

    ドアが閉まる。

    廊下に残された五十嵐は、しばらく動けなかった。名前で呼ばれなくなるだけで、人はこんなにも遠くなるのだと、そのとき初めて知った。

    5日後、出社した葵のデスクに、人事から封筒が届いていた。中には休暇承認通知の控えが入っている。

    事由欄には、定型文が打たれていた。

    私的関係の解消に伴う心理的負荷のため

    承認者欄には、五十嵐真帆の名前があった。

    葵はそれを見て、初めて少しだけ肩の力を抜いた。

    写真も残らなかった。贈り物も残らなかった。約束も、交わした言葉も、ほとんど残らなかった。五十嵐には家に夫がいた。形に残るものは、お互いはじめから作らないという、言葉にならない了解があった。

    それでも、ここにだけ残った。

    恋人としてではなく、この恋を終わらせた人の名前として。

    葵は書類を折りたたみ、ファイルのいちばん後ろに差し込んだ。企画書の失注記録みたいに、二度と開かない場所へ。

    洗面台の端に落ちないティントが一本残っている。別れてから一度も塗れなかった。その夜、葵は鏡の前に立ち、キャップを外した。唇につけた。色は、思ったより落ちていなかった。

    この恋は、この世界の片隅で始まって、この世界の片隅で終わった。

    それを知る人物は、当事者を除いては、この会社に1人だけいた。

    この恋が会社の書類になったことを、第三者として最後まで知っているのは、堂島誠一だけだった。

    堂島が手帳に書いた「利害関係者の同席禁止――要検討」は、その週のうちに正式な内部通達になった。申請者と利害関係がある場合は面談担当から外れる。それだけの、一行の改定だった。

    けれど、たった一行の改定が現場に馴染むまでには、もう少し時間がかかった。相談室に一次判定用のAI「なぐさミン」がタブレット端末として正式導入されたのはその翌月のことで、根本大輔が人事・総務の兼任として配属されたのも同じ頃だった。制度はまだ生まれたばかりで、これから何度も、誰も想定していなかった申請に出会うことになる。

    第二章 なぐさミンは、愛を知らない

    なぐさミンが導入されて、まだ間もない頃だった。

    失恋休暇の申請には、2つのルートがある。

    一つは、所属長に直接出すルート。もう一つは、相談室ルート。どちらでも構わない、というのが規程上の建前だ。

    田中舞が後者を選んだのは、課長の顔を見ながら5年分の話をする自信が、どうしてもなかったからだった。

    だから舞は、一次判定を相談室のAI「なぐさミン」に委ねた。

    それをあとで後悔することになる。

    申請種別:失恋休暇
    申請希望日数:2日
    申請理由:5年間交際し将来を約束した相手に別れを告げられ、業務への集中が著しく困難なため
    一次判定:処理中

    相談室の端末は、カウンターの上に据え付けられたタブレットだった。社内開発のシステムが、画面いっぱいに表示されている。丸くてやわらかいキャラクターが、画面の右上に浮かんでいた。薄いオレンジ色で、目がくりっとしていて、「なぐさミン」という文字がその下についていた。だいぶ前に若手の担当者がデザインしたらしく、本体の機能とのギャップがすさまじい。タブレットの背面には、暴走したときのための手順書が、ラミネート加工された小さな紙で貼りつけられていた。

    「音量を上げるボタンを押してすぐ離す→音量を下げるボタンを押してすぐ離す→電源ボタンを長押し」

    誰が書いたのか知らないが、文字が少し曲がっていた。

    舞はカウンターの椅子に座り、画面に向かった。

    「失礼します」と言いかけて、やめた。AIに挨拶する必要はない。

    申請理由欄に、舞は昨夜書いたメモをそのまま貼り付けた。5年間の経緯、子どもの名前を3つ候補に出して2つに絞ったこと、日曜の朝に物件URLを送り合っていたこと、スマホの「引越し候補」フォルダに47件の物件が残っていること、2人で選んだのに半分以上使い切れなかった香水のこと。書き出すと止まらなかった。フォームには文字数制限があったのか、途中でエラーが出た。削った。削って削って、それでも長かった。

    送信を押した。

    なぐさミンの目が、しばらくくるくると回った。

    雨の日だった、と舞は今でも思い出す。

    出会ったのは同じ大学のサークルの集まりで、特別なことは何もなかった。でも半年経ったある日、傘を忘れて途方に暮れていた舞に、彼がコンビニで傘を2本買って戻ってきたことがあった。一本は自分のためではなく、最初から舞のために。「一本は俺の、もう一本は君の」と言って渡された傘を、舞は今もクローゼットの奥に持っている。捨てるタイミングがわからないままだった。

    週末はいつも、舞の部屋で動画配信サービスを見ていた。契約は舞の名義で、舞が払っていた。彼がお金を出すと言っても、舞が「いいよ、大した額じゃないから」と言うのがいつものやりとりだった。

    交際して1,826日目のことだった。舞は数えたことなどなかったが、後になって、5年という月日をどうしても日数に換算したくなった。1,826日、一緒にいた。そのうちの一日で、すべてが終わった。

    なぐさミンの目が、動きを止めた。

    画面が切り替わった。

    分析完了。結果を表示します。

    項目1:経済的損失の算定
    共同利用の動画配信サービス(月額1,500円・申請者単独契約):うち申請者以外の利用分を50%と推計し、月額換算損失 約750円
    申請理由記載の「引越し候補URL、47件」:経済的損失に該当せず
    総合経済的損失:軽微

    項目2:資産状況の変化
    独身復帰に伴う食費削減効果(推計):月額約18,000円(20%削減)
    独身復帰に伴う支出最適化効果:プラス

    項目3:申請理由に記載の感情負荷について
    定量評価:困難
    申請理由記載のテキストから、時間的投資(5年間)および将来設計における期待利益(結婚、同居)を検出。当該投資に対し、回収実績なし。
    リターンが得られないまま終了した投資案件として、全損に近い状態と判定します。

    この場合、長期休暇が認められる可能性があります。
    ただし、以下の条件を付帯します。
    条件:感情負荷データの収集協力(AI学習用データ作成への従事)

    総合判定:1日

    舞は画面を、上から順に読んだ。

    5年間。1,826日。子どもの名前を3つ候補に出して、最終的に2つに絞って、あとは生まれてから決めようと笑っていた5年間。

    その評価が、月額750円だった。一緒に見ていたドラマも、彼が好きだった芸人の特番も、全部、彼の利用分として機械的に半分に割られていた。

    食費が浮くから、出社を推奨されている。

    そして最後に、5年間という時間そのものが「投資」と呼ばれ、何も残らなかったことが「全損」だと判定されていた。休みが欲しければ、AIの学習に協力しろとも書かれている。

    舞は画面を、しばらく眺めた。膝の上の手を、知らないうちに強く握りしめていた。

    「なんでそうなるんですか」

    声が、少し低かった。

    そのとき、ドアが開いた。

    「あ、また暴走してる」

    廊下から顔を覗かせたのは、人事・総務を兼任する根本大輔だった。書類の束を脇に抱えたまま、なぐさミンの画面を一瞥した。

    タブレットを裏返し、貼ってある手順書を見もせずに、音量を上げるボタンを押してすぐ離した。続けて、音量を下げるボタンを押してすぐ離す。それから電源ボタンを長押しした。何度もやってきた動きだった。

    画面が一度暗くなる。なぐさミンの目がゆっくり再起動する。

    「すみません、この端末、感情の話になると大体おかしくなるんで」

    根本はそう言いながら、向かいの椅子を引いた。書類を机に置く。座る。

    「で、どうしたんですか」

    舞は、その言葉を聞いて、少し黙った。

    どうしたんですか、と聞いてくれる人が、今日まで1人もいなかった。家に帰れば1人だった。友達に連絡しようとして、うまく言葉が出てこなかった。SNSに書こうとして、書けなかった。申請書には事実だけ書いた。それをAIが分析して、月々750円と食費の削減効果を出した。

    根本が、もう一度言った。

    「どうしたんですか」

    舞は口を開いた。

    5年間付き合っていたこと。子どもの名前を、3つ候補に出して2つに絞ったこと。日曜の朝に物件URLを送り合っていたこと。スマホに「引越し候補」というフォルダがあって、今も47件入っていること。雨の日にもらった傘のこと。週末はいつも一緒に動画を見ていたこと。2人で選んだのに彼女の方が相手の好みに合わせて選んで、結局半分以上残ったままになっている香水のこと。

    全部話した。

    話しながら、自分でも気づいた。これを、AIの申請フォームに打ち込もうとしていたのだと。削って削って送信ボタンを押したあのテキストの中に、今話していることが全部入っていたのだと。

    根本は、話している間ずっと黙っていた。相槌を打つわけでもなく、うなずくわけでもなく、ただそこにいた。書類を一度も見なかった。

    話し終えたとき、舞は自分が泣いていることに気づいた。

    判定結果が出たからではなかった。

    話していいのだと、今さらわかったからだった。

    根本は、ポケットからハンカチを出した。たたまれてはいたが、アイロンはかかっていなかった。机の端に置いた。

    「申請、受け付けます」

    根本は言った。

    「2日、承認します」

    舞はハンカチを手に取った。目に当てた。

    「ありがとうございます」

    「引越し候補、47件は多いですね」

    唐突な言葉だった。

    「……多いですか」

    「俺は3件でもう決めたんで」

    「……それ、関係ありますか」

    「ないです」

    根本は立ち上がり、書類の束を抱え直した。ドアに向かいながら、一度だけ振り返る。

    「香水、捨てなくていいと思いますよ。捨てるタイミングは自分で決めればいい」

    それだけ言って、廊下に出ていった。

    舞は、ハンカチを膝の上に置いたまま、少しのあいだそこに座っていた。

    シュレッダーの音だけが聞こえた。

    翌朝、根本がなぐさミンの判定記録を確認すると、一か所だけ変わっていた。

    昨日の項目1に記載されていた「経済的損失:軽微」という文言が、削除されていた。代わりに空欄になっている。操作主体の欄には、ただ「SYSTEM」とだけ表示されていた。誰が触ったのかは、記録の上では誰でもなかった。

    根本はしばらく画面を見た。それから特に何も言わずにウィンドウを閉じた。

    相談室のシステムには、判定が人間の手に渡るたびに自動で記録される「誤判定履歴」というログがあった。運用が始まってまだ日が浅く、その中身はほとんど空欄のままだった。根本は今回のケースを、そこに一件、書き加えた。

    誤判定履歴:#001 項目3暴走。感情負荷の定量化不能。人間対応で解決。

    記念すべき、というには寂しい、一件目の記録だった。

    その日の午後、なぐさミンのシステムに、新しい選択肢が追加されていた。

    判定保留の際の対応として。

    根本大輔に引き継ぐ

    第三章 心が死んでも、納期は死なない

    通常申請ルートは、所属長承認で完結する。

    人事部は関与しない。AI判定も、面談室も、必要ない。申請書を一枚出して、ハンコをもらえばいい。

    佐藤あかりがそのルートを選んだのは、制度を調べてそれが一番早いとわかったからだ。早く終わらせたかった。どこかに書類として出して、受け取ってもらって、それで終わりにしたかった。

    あかりは、封筒を持って九条怜子部長のデスクに行った。

    九条は書類を確認しながら受け取った。封筒の中を一度だけのぞいた。

    「小会議室、15時に来てください」

    それだけだった。

    申請種別:失恋休暇
    申請希望日数:2日
    申請理由:交際相手に一方的に関係を終了され、業務への支障が見込まれるため
    担当:所属長 九条怜子

    小会議室は、マーケティング部のフロアの端にある。4人掛けのテーブルに、どこかから持ち込まれた観葉植物が一鉢。窓から見えるのは、隣のビルの外壁だ。

    あかりはドアを開けた。

    九条はすでに座っていた。テーブルの上には、ブラックコーヒーの紙コップと、申請書の封筒と、別件らしき資料の束。部長はそれを読みながら、あかりが入室したことをちらりと確認した。

    「座って」

    あかりは座った。

    ファンデーションが崩れたまま来ていた。今朝、鏡を見たとき気づいた。直そうとして、どこかで気力が切れた。3年間付き合った人にブロックされてから4日、泣いた回数は自分でも数えるのをやめていた。崩れるのは当然だった。

    九条はそれについて何も言わなかった。

    コーヒーを一口飲んで、申請書を確認する。「交際相手に一方的に関係を終了され」という文字を、特に表情を変えずに読んだ。

    「話してください」

    あかりは話した。

    出会ったのは合コンだった。3年前の初夏、彼が最初に話しかけてきたときのことを、あかりは今も覚えている。人見知りする方だったのに、彼の前ではなぜか自然に話せた。それから3年、当たり前のように毎週末を一緒に過ごした。

    3年付き合っていたこと。連絡が急に途絶えて数日後、「好きな人ができた」というメッセージが来たこと。返信しようとしたらすでにブロックされていたこと。SNSも、あかりのアカウントだけ閲覧制限がかかっていたこと。共通の友人から「もう新しい彼女いるらしい」と聞いたこと。仕事中に手が止まること。夜、眠れないこと。

    「ブロックされてから4日間、何もかもが止まったままです」

    あかりは自分でも驚くほど正確にそれを言った。数えていた自分に、少し嫌気が差した。

    九条は一度もメモを取らなかった。ただ、聞いていた。

    話し終えたとき、九条はコーヒーを一口飲んだ。

    「標準的な落胆ね」

    あかりは、一瞬、呼吸が止まった。

    「……はい?」

    「あなたが経験していることは、恋愛の終わりとして標準的な範囲に入る」

    淡々とした声だった。朝礼の連絡事項を読み上げるような声だった。

    「最初に言っておくけど」と九条は続けた。「あなたの痛みが小さいわけじゃない。標準的だということと、痛くないということは、別の話よ」

    あかりは、うまく返事ができなかった。

    「ただ」と九条は言った。「参考までに」

    資料のページを一枚めくった。コーヒーをもう一口飲んだ。それから、まるで前四半期の売上報告でも読むような声で、話し始めた。

    「私が32歳のとき付き合っていた男は、貿易会社の役員を名乗っていた。名刺が3種類あった」

    あかりは少し戸惑った。「……名刺が、3種類」

    「名前はどれも同じで、肩書きだけ違っていた。最初はそういう会社なのかと思っていた。あとになって、その名前も本名ではないとわかったけれど」

    九条は資料をもう一枚めくった。手元を見ながら、同じ口調で続ける。

    「ホテルは必ず非常階段に近い部屋を取っていた。眠りが異常に浅くて、私が夜中に水を飲もうとしただけで目を覚ました。バッグの中に常にナイフが入っていた。護身用、と言っていた」

    「……護身用」

    「7カ国語を話した。私の前では4カ国語しか使わなかったが、電話をしているときに別の言語が混ざることがあった。1年半ほど付き合って、プロポーズされた。婚前旅行に誘われたが断ると、態度が急に冷えた」

    あかりは、少しずつ自分の失恋を忘れ始めていた。

    「別れた後、銀行の通帳を確認したら、緊急融資として渡していた金額が、合計で1,000万円になっていた。素性を調べたところ、名刺の会社は実在した。彼の名前は、その会社のどこにも存在しなかった」

    九条はコーヒーを飲んだ。

    「存在はするが、実在しない人だったのよ」

    しばらく沈黙があった。

    「……それは」あかりはやっと言った。「かなり」

    「別の話もある」九条は続けた。同じ声で。「36歳のとき、婚約した相手がいた。建築家を名乗っていた。両親への挨拶を済ませ、式場の仮予約まで入れた。婚約発表の当日、知らない女性から連絡があった。調べると、他にも家庭があった」

    「……」

    「裁判費用の方が、精神的損失より大きかったわね」

    あかりは黙っていた。

    九条は一度だけ、コーヒーの紙コップを見た。それから続けた。

    「もう一つだけ言っておく。引越しをした際、業者が電話回線に不審な機器の取り付け痕を発見した。別れた後のことだった。誰が何のために取り付けたのか、今もわからない」

    資料をまた一枚めくった。

    「以上が参考事例です」

    あかりはしばらく、正面の九条を見ていた。

    九条は、変わらない顔をしていた。感情を押し殺しているわけではなく、演じているわけでもなく、事実として語り終えた、という顔だった。会議の締め括りに「以上です」と言うときの顔だった。

    「……部長は」あかりはやっと言った。「それで、どうやって仕事を続けたんですか」

    「仕事をしている間は、考えずに済んだから」

    九条は答えた。

    「強かったわけじゃないの。仕事をしていると、考える隙間がなかった。それだけのことよ」

    あかりは少しのあいだ黙っていた。窓の外の、隣のビルの外壁を見た。

    「……私の失恋って」

    「痛いことは痛い」九条は遮るように言った。「ブロックされて、SNSで制限されて、4日間既読がつかなくて。それは傷つくことだった。あなたが感じていることは、正しい反応です」

    「でも、大したことないって思っちゃいます。今」

    「そう思うのは今日だけにした方がいい」九条は言った。「比べるものじゃないから」

    あかりは、ゆっくり息を吐いた。

    崩れたファンデーションのことを思い出した。今日ここに来る前、鏡を見て気づいて、直せなかった。でも今は、なぜか少しだけ、そのままでいいような気がした。

    「……申請、取り下げてもいいですか」

    九条の手が、一瞬止まった。

    「休まなくていい、という意味ですか」

    「休んでる間、また同じことばかり考える気がして。それなら、月曜から普通に出社した方が、まだ楽な気がします」

    九条は少しの間、あかりを見ていた。

    「痛みが軽いから、という理由ではなく?」

    「軽くはないです。ただ、二日間、家で何も手を動かせずにいる方が、多分もっと参ると思って」

    九条はそれ以上聞かなかった。

    「取り下げの手続きは、私からしておきます」

    あかりは立ち上がった。一礼をした。

    「ありがとうございました」

    ドアを開けて、廊下に出た。

    小会議室に、九条1人が残った。

    コーヒーはもうほとんど残っていない。資料を元の順番に戻す。立ち上がり、自分のデスクに戻る。

    引き出しを開けた。一番奥から、一枚の名刺を取り出した。

    会社名は印刷されていた。住所も、電話番号も。

    名前の欄だけが、空白になっていた。

    しばらく眺めた。

    引き出しに戻した。

    資料を広げた。

    「あと2枚、仕上げないと」

    第四章 推しは推せる時に推せ、とは言うけれど

    根本大輔は、アイドルというものが昔からよくわからなかった。

    ファンクラブに入る気持ちも、グッズを買い集める気持ちも、遠征する気持ちも。何がそんなに楽しいのか、正直言って、ピンとこなかった。高校の頃、野球部の同期に熱心なファンがいて、遠征費のために飲食店のバイトを掛け持ちしているのを見て、それより練習しろよと思っていた。今もその感覚は変わっていない。

    ただ、それを口に出すのはよくない、というのは最近わかってきた。

    だから申請書を受け取ったとき、根本は何も言わなかった。

    しばらく、黙って書類を見た。

    申請種別:失恋休暇
    申請希望日数:2日
    申請理由:応援していたアイドルの結婚発表により、荷受け業務中に涙が出るため
    一次判定:人間対応推奨

    なぐさミンが今回は最初から判断を放棄していた。画面には一行だけ表示されていた。

    定量的評価:不可。当該感情負荷は数値化困難。人間対応を推奨。

    根本は端末の画面を見て、珍しく同意した。それからそれを閉じて、申請者の長谷部慎を正面から見た。

    「……アイドル、か」

    長谷部慎は、25歳、物流担当。身長は根本より少し低く、線が細い。今日は少し目が赤かった。

    「はい」慎は答えた。

    「何日、申請ですか」

    「2日、お願いします」

    根本は書類に目を落とした。25歳、基本日数2日、申請日数2日。規程上の問題はない。なぐさミンが人間対応推奨を出している以上、相談室での対応が必要だ。

    「話してください」

    根本はそう言った。うまく言えたかどうかわからなかったが、言った。

    慎は少しだけ姿勢を正して、話し始めた。

    7年間、応援してきた。デビューから追いかけて、ファンクラブに入って、グッズを買って、ライブには行ける限り行った。地方公演にも2回遠征した。デビューの日から数えると、2,556日になる。慎は一度だけ、そういう計算をしたことがあった。上京して最初の冬、友達が1人もいなかった時期、その人の配信だけが部屋にあった。

    一昨日の朝、グループの公式サイトに結婚の発表が出た。

    在庫整理の作業中だった。スマホで確認して、そのまま手が止まった。段ボールを前にしたまま、しばらく動けなかった。

    結婚したこと自体を責めたいわけではなかった。幸せになってほしいと、今でも思っている。ただ、自分の生活の中にずっとあった場所が、急に形を変えてしまった気がした。

    人が来る前に、なんとか午前の作業を終えた。でも午後になって、また止まった。その日は早退して、翌日申請書を出すことにした。

    根本は話を聞きながら、書類の端を持ち直した。

    「そのアイドル、あなたのことを知ってたか?」

    慎は少し間を置いた。「知らないです」

    「ライブにも行ったんだろ」

    「行きました。でも、向こうは僕を知らないです」

    根本はペンを置いた。うまく言葉が出てこなかった。この申請が制度上有効なのはわかっている。規程に書いてある。アイドルの結婚も適用対象だ。根本はそれに異議を唱えているわけじゃない。

    ただ、どう処理していいかが、わからなかった。

    7年間。友達が1人もいなかった冬。その時間が本物だったことは、根本にもわかる。わかるのに、うまく受け取れない。自分の中の何かが、ざらついていた。

    「俺はな」

    気づいたら、話していた。

    「好きな人には、好きなもの食わせてやりたいんだよ。旅行も連れてってやりたい。誕生日、ちゃんと驚かせてやりたい。その顔が見たいから」

    慎は黙って聞いていた。

    「彼女の誕生日にうちの会社の香水を贈ったんだ。選ぶのに3日かかった。プレゼントしたら、これ、欲しかったやつだって笑ってくれた。その顔、今も覚えてる」

    最初に会った日のことも、根本はふと思い出した。合コンでも紹介でもなく、SNSのやりとりから始まった関係だった。半年前の話だ。会ってすぐに、笑い方がやわらかい人だと思った。

    「だから俺は、お互い顔も名前も知ってる相手を推せって思う。リアルに関係性のある人間を」

    言い終えて、根本は少し後悔した。

    余計なことを言ったかもしれない。

    慎は、しばらく机の端を見ていた。それから顔を上げた。

    「向こうは僕を知らないです」

    「ああ」

    「でも」慎は続けた。「友達が1人もいなかった冬、部屋にいたのはその人の歌だけでした。何回も助けてもらった気がしたんです。向こうは知らなくても、僕にとっては本物だったんです」

    根本は黙った。

    否定する言葉が出てこなかった。

    向こうは知らなくても、本物だった。

    その言葉を、根本はしばらく考えた。うまく整理できなかった。ただ、自分が言ったことが全部正しかったわけではないと、そのとき思った。

    「……申請、受け付けます」

    根本は言った。「2日、承認します」

    「ありがとうございます」

    「来週、普通に来てください」

    慎は頷いて、立ち上がった。一礼して、ドアに向かった。

    「長谷部さん」

    根本は呼び止めた。なんと言うつもりか、自分でもわからないまま口を開いていた。

    慎が振り返る。

    「……その人が結婚しても、7年間が消えるわけじゃないから」

    言ってから、少し恥ずかしくなった。

    慎は少し目を細めた。泣きそうな顔だったが、泣かなかった。「そうですね」と言って、ドアを出た。

    2日後、慎が出社してきた。

    根本は倉庫への搬入伝票を確認しながら、廊下で慎とすれ違った。人事・総務の兼任という肩書きは、こういう日には少し便利だった。

    「おつかれ」

    それだけ言った。

    慎は「おつかれさまです」と返した。声は、月曜よりも少し落ち着いていた。

    根本は伝票に戻った。

    その日の夕方、申請書の処理を終えた根本がシステムへの入力を確認していると、五十嵐課長が廊下から入ってきた。別件の書類を取りに来たらしく、キャビネットを開けながら根本のデスクに目をやった。

    「根本さん、最近少し顔色が悪いけど」

    「大丈夫です」

    五十嵐はそれ以上何も言わずに、書類を手に取って廊下に出た。

    根本は画面に向かい直した。

    入力を終えて、ペンを置いた。椅子に背をもたせかけた。窓の外はもう暗くなっていた。

    スマホが震えた。

    手に取る前に、一瞬だけ、嫌な感じがした。

    手に取ると、メッセージが来ていた。

    送信者の名前を見た。彼女だった。

    画面を開いた。

    急にごめんなさい。私、あなたに甘えすぎてた。
    一人になって、自分を見つめ直したい。
    だから、別れよう。
    今まで本当にありがとう。

    根本は画面を、3秒だけ見た。

    それから、スマホを裏返して、机の上に置いた。

    申請書の束に向かった。

    翌日の処理が、まだ残っていた。

    第五章 振った側も、泣いていいですか

    相談室の端末は、今日も動いていた。

    大野彩子が申請理由の欄に文章を打ち込んで、送信ボタンを押した。

    なぐさミンの目が、くるくると回った。

    しばらく、回り続けた。

    回り続けた。

    止まらなかった。

    申請種別:失恋休暇
    申請希望日数:2日
    申請理由:恋愛関係を自ら解消したことによる精神的負荷のため
    一次判定:処理中……

    画面の左下に、小さなテキストが出た。

    当該申請の処理に時間がかかっています。

    それだけだった。

    彩子はしばらく待った。なぐさミンの目は回り続けていた。5分経った。7分経った。

    ドアが開いて、堂島誠一が顔を覗かせた。

    「あの、端末の様子がおかしかったので」

    堂島は画面を確認した。フリーズしたなぐさミンを見て、少し困った顔をした。

    「こちら、私が対応します。よろしいですか」

    彩子は頷いた。

    堂島は向かいの椅子を引いた。座る前に、一度だけ「失礼します」と言った。それから座った。

    手帳を開いた。ペンを持った。

    「どうぞ」

    彩子は少し間を置いた。

    「振った側でも、申請できますか」

    堂島のペンが、一瞬止まった。それから彼は規程集に手を伸ばした。デスクの端に置いてあったそれを手に取り、ページをめくった。

    途中で、手が止まった。

    付箋が一枚、貼ってあった。

    黄色い付箋に、小さな字で書いてあった。

    振った側の解釈:検討中

    読んで、堂島はそのままページを開き続けた。

    「……『申請者の立場は問わない』とあります」

    彩子は、その言葉を聞いた。

    「ありがとうございます」

    「どうぞ、話してください」

    彩子は話し始めた。

    2年と3か月付き合っていたこと。彼と会ったのは、会社の近くのカフェだった。「どこへでも連れて行くよ」と最初のデートで言われた言葉を、彩子は今もよく覚えている。それが本当だと信じた。優しくていい人だった。彼から別れを告げられたわけではない。自分から、別れを言った。

    「一緒にいると、自分が消えていく気がしたんです」

    堂島は黙って聞いていた。

    彼に嫌われたくなかったわけじゃない。ただ、合わせるのが楽で、少しずつ自分の輪郭が薄くなっていくことに、途中まで気づけなかった。

    消えていく、とはどういうことか。彩子はうまく説明しようとした。

    最初は小さいことだった。映画を選ぶとき、いつの間にか彼の好みだけを選ぶようになっていた。彼がアクション映画が好きだったから、彩子もアクションを選んだ。何度か繰り返すうちに、彼に聞かれる前に自分から選ぶようになった。「どっちでもいい」が口癖になった。数えたことはなかったが、この一年だけでも、その言葉を何十回言っただろうと彩子は思った。

    服も同じだった。彼が褒めた服を、また着た。褒めなかった服は、いつの間にかクローゼットの奥に行った。誕生日に友達からもらった赤いカーディガン、一度も着なかった。

    メイクも変わった。ナチュラルな方がいい、と彼が言った日から、濃いアイラインを引くのをやめた。チークも薄くした。彼が「そっちの方が彩子らしい」と言ったから。今になって思う。彩子らしい、とは彼が決めることだったのか、と。

    「ある日、ランチに何が食べたいか聞かれて、答えられなかったんです」

    「答えられなかった?」

    「何が食べたいかわからなくて。好みを聞かれたのに、彼の好みを先に考えてしまって。自分が何を食べたいのか、出てこなかった」

    堂島はメモを取る手を止めた。

    「それで、別れを告げた?」

    「もう少し後です。でもそのとき、あ、と思いました。私、どこにいるんだろう、って」

    彩子は机の端を見た。

    「彼は悪くないんです。何もされたわけじゃない。だから、自分がおかしいのかとも思った。でも」

    「でも」

    「傷つくのって、フラれた方だけじゃないので」

    堂島は、その言葉を聞いた。

    「……そうですね」

    それだけ言った。余計なことを言わなかった。

    規程集の付箋を、もう一度だけ見た。「振った側の解釈:検討中」。誰かが書いて、まだ答えの出ていない問いだった。

    「彼の反応は」

    「泣かなかったです。『わかった』と言って、帰りました」

    「それから連絡は」

    「ないです。こちらからもしていません」

    「……」

    「別れた後の方が、なぜか毎日泣くんです」

    堂島は静かに聞いていた。

    「私が終わらせたのに、泣いていいのかわからなくて。自分で決めたのに、何を悲しんでいるのかわからなくて」

    「悲しんでいいんです」

    堂島は言った。確信を持って言ったのかどうか、彩子にはわからなかった。でも迷いのない声だった。

    「振ったからといって、傷ついていないわけじゃない。その2年と3か月が本物だったなら、終わったことが痛くて当然です」

    彩子は少し黙った。

    「……そうですか」

    「私にはそう思えます」

    彼が褒めたメイクで撮った写真がある、と彩子は思った。スマホのアルバムに入っている。開けないでいる。捨てることも、残すことも、まだ決められていない。

    「一つだけ聞いていいですか」

    「はい」

    「休暇中、何をしたらいいんですかね」

    堂島は少し考えた。「制度上は特に何もありません。ゆっくりしてください」

    「ゆっくり、というのが難しくて」

    「何かしたいことはありますか」

    彩子は考えた。

    「手紙を書きたい、と思っています。彼に。送るかどうかはわからないですが」

    堂島は頷いた。「それでいいと思います」

    「送らなくてもいいですか」

    「書くことと、送ることは別のことですから」

    彩子はその言葉を聞いて、少し息を吐いた。

    肩が少しだけ下がった。

    「申請、お願いします」

    「承認します。2日」

    堂島はそう言って、書類に記入した。承認者の欄に、自分の名前を書いた。

    彩子は立ち上がった。一礼した。

    「ありがとうございました」

    ドアを出た。廊下に出て、しばらく歩いた。エレベーターを待つあいだ、壁に少しもたれた。

    誰もいない廊下だった。

    休暇の最初の夜、彩子は洗面台の前に立った。

    クレンジングを手に取った。顔に当てた。彼が褒めたナチュラルなメイクを、落とした。チークも、リップも、薄く引いたアイラインも、全部落とした。

    鏡の中の顔を見た。

    すっぴんの顔は、少し疲れて見えた。それでも、確かに自分の顔だった。

    彩子はその顔のまま、机に向かった。便箋を出した。ペンを持った。

    彼の名前を書いた。

    何度も書き直しながら、送るためというより、自分が何を失ったのかを確かめるように、書き続けた。

    落としたのは、化粧だけではなかった。

    第六章 エリカって女の話をしよう

    【申請内容】
    申請種別:感情負荷回復休暇
    申請希望日数:3日
    申請理由:交際していた女性から突然の別れを告げられ、精神的損失が著しいため
    一次判定:根本大輔に引き継ぐ

    なぐさミンは今回、判定を一切出さなかった。申請書が届いた瞬間に、画面にテキストが1行だけ表示された。

    「根本大輔に引き継ぐ」

    それだけだった。

    根本は端末を確認して、申請者の名前を見た。加藤健斗、31歳、営業部。知っている顔だ。フロアで何度かすれ違ったことがある。

    根本は相談室のドアを開けて、「加藤さん、どうぞ」と言った。

    加藤健斗は、緊張した様子で椅子に座った。スーツはきちんとしていたが、目の下に疲れが見えた。

    「申請の件、確認させてください。話せる範囲で教えてください」

    根本はそう言って、手帳を開いた。

    「はい」健斗は頷いた。「どこから話せばいいですか」

    「出会いから」

    健斗は少し考えてから、話し始めた。

    SNSで知り合った。半年前のことだった。最初のメッセージのやりとりから、会うまでは早かった。待ち合わせ場所に来たとき、白いワンピースを着ていた。笑顔が柔らかくて、夢を追いかけていると言っていた。今はキャバクラで貯めているが、いずれウエディングドレスのデザインの仕事がしたいと。

    根本はメモを取りながら聞いていた。

    高い店に行った。プレゼントもした。誕生日は4月だと言っていた。

    しばらくして、家族の話をしてくれた。

    地元の母親が難病で、治療費を毎月送っているが、キャバクラの稼ぎでは足りなくなってきた。

    もう風俗で働くしかない、と打ち明けてくれた。

    「足りないなら、俺が出すよ」

    そういっても、「そういう意味じゃないの、健ちゃんだけには、本当のこと伝えようと思っただけなの」と、最初は受け取ろうとしなかった。

    次に会うとき、健斗は封筒に入った10万円を差し出した。

    彼女はびっくりした顔で、「ごめん……ありがとう」と泣きながら受け取った。

    それから月末に、10万円を渡すようになった。

    根本のペンが、少し遅くなった。

    「その後、関係が変わったのはいつ頃ですか」

    「先週です。急に連絡が来て、どうしても地元に帰らないといけなくなった、今までありがとうって。それだけ言って既読にならなくなりました」

    根本は健斗を見た。

    「もしかして、男性にトラウマがあって、キスも怖い。だから待ってほしい。とか……」

    「え、なんでそれ……」

    「……香水、してたか」

    健斗が少し首を傾けた。「してました。いい匂いで。うちの会社のだって言ってましたよ。なんか縁があるなと思って」

    根本は手帳を閉じた。

    「その人、名前は」

    「エリカです」

    健斗の話は、根本の記憶といくつも重なっていた。白いワンピース、4月の誕生日。親の病気。トラウマ。偶然にしては、重なりすぎていた。

    以前、長谷部に、顔も名前も知ってる相手を推せ、と自分は言った。

    しばらく、沈黙があった。

    根本は立ち上がった。相談室の小さな棚の上にあるポットに向かって、マグカップを2つ取り出した。

    コーヒーを淹れた。健斗の前に一つ置いた。自分の分を持って、椅子に戻った。座った。

    自分の場合を思い出していた。半年前、SNSで最初にメッセージが来た夜のことを。「はじめまして、フォローありがとうございます」という、当たり障りのない一文だった。それが始まりだった。会ってすぐ、笑い方がやわらかい人だと思った。今思えば、健斗の話とよく似ていた。

    「加藤さん」

    「はい」

    「俺も先週、振られた」

    健斗の目が少し丸くなった。

    「名前、エリカって言ってた。白いワンピースで来た。誕生日は4月だった。誕生日に香水を贈った。うちの会社のやつだ。母親が病気で、男性にトラウマがある」

    健斗は根本を見ていた。

    「俺には、『甘えすぎてたから、一人になって自分を見つめ直す』って言ったけどな」

    沈黙があった。

    健斗が口を開いた。「……別れる理由が違ったんですね」

    「表面上はな」

    「本当の理由は…」

    「同じだろうな」

    根本はコーヒーを一口飲んだ。

    「加藤さん、一つ言っていいか」

    「はい」

    「ここから先、俺は正式な担当者として外れる。同じ相手に関係している可能性がある以上、担当できない。承認は堂島さんに頼む」

    健斗は頷いた。「わかりました」

    根本は立ち上がり、ドアを少し開けた。廊下に向かって「堂島さん、ちょっといいですか」と声をかけた。

    堂島が顔を出した。根本が小声で事情を説明した。堂島は一度だけ頷いて、「わかりました、引き継ぎます」と言った。

    根本は部屋に戻った。椅子に座り直した。

    「担当者としては外れた。でも、少しだけ話す」

    健斗は黙って聞いていた。

    「手口は同じだ。お前が特別に間抜けだったわけじゃない」

    「……でも、騙されたのは事実で」

    「騙されたのは事実だ。それは認めていい」根本は続けた。「ただ一つだけ言う。これはエリカの話だ。女の話にするな」

    健斗が根本を見た。「え?」

    「お前が今『女って怖いですね』とか『女って信用できない』って方向に行こうとしてるの、わかる。でもそれは違う。エリカ、と名乗る女がやったことだ。女全体の話にするな」

    健斗は少し間を置いた。「……はい」

    「わかったか」

    「わかりました」

    根本はコーヒーを飲んだ。

    「他に、具体的にわかってることはあるか」

    「名前がエリカ……あ、エリカと名乗っていたことと、地元も具体的にはどこかわかりません。あと、SNSのアカウントは消えていたこと、それくらいです」

    「アカウントが消えていたか」根本は少し考えた。「堂島さん、一ついいですか」

    ドアの外にいた堂島が顔を出した。

    「急に交際相手に別れを切り出されたという男性からの申請、他にありますか?」

    堂島は少し眉を寄せた。

    「加藤さん以外には、もう1件あります」

    根本と健斗はしばらく黙った。

    「もう1件」健斗が繰り返した。

    「ああ」

    根本は手帳に何かを書いた。それから堂島に渡した。「これ、人事の記録に残してください。他の申請との照合を後でやりたい」

    「承知しました」堂島は受け取って、健斗の方を向いた。「加藤さん、申請の承認をします。3日、取ってください」

    「ありがとうございます」

    堂島は書類に記入して、承認者欄に自分の名前を書いた。健斗に渡した。「他に何かあれば、いつでも来てください」

    健斗は頷いて、立ち上がった。根本に向かって「根本さんも、ゆっくり休んでください」と言った。

    根本は「ああ」とだけ言った。健斗が出ていった。

    相談室に、根本と堂島の2人だけが残った。

    堂島は椅子を引いて、根本の向かいに座った。根本は机の端を見ていた。

    「根本くん」

    「はい」

    「あなたの分も、申請しますか」

    根本は少しのあいだ黙っていた。

    「……します」

    堂島は申請書の用紙を1枚出した。根本の前に置いた。根本はペンを取った。

    自分の名前を書いた。申請種別。日数の欄に「2」と書いた。申請理由の欄を少し見て、「私的関係の解消に伴う精神的負荷のため」と書いた。

    「見ないでくださいよ」

    堂島は手帳に目を落としていた。「見ていません」

    根本は書類を堂島に渡した。堂島は承認者の欄に自分の名前を書いた。

    「……根本くん、ゆっくり休んでください」

    それだけ言って、堂島は立ち上がった。2枚の申請書を手に持ったまま、一度だけ五十嵐のデスクに目をやった。

    今日は早退していた。

    数日後、廊下で健斗と根本がすれ違った。健斗が「根本さん、休めましたか」と聞いた。

    根本は少し間を置いた。「休めた、が回復しきってはいないな」

    健斗は少し笑ったような顔をした。それ以上何も言わなかった。根本も何も言わなかった。

    2人はそれぞれの方向に歩いていった。

    その後、根本と健斗は月に何度か昼飯を食うようになった。

    第七章 2枚目の申請書、提出します。

    西村拓也が恋愛勝負休暇を申請したのは、火曜日のことだった。

    制度の存在を知ったのは同僚からで、「プロポーズの時に使える休暇があるらしい」という話を聞いて、規程集を引っ張り出して確認した。確かに書いてあった。

    恋愛勝負休暇
    取得可能日数:1日

    拓也は申請書に記入した。理由の欄に「プロポーズのため」と書いた。書いてから少し恥ずかしくなったが、そういう制度なのだから仕方がない。

    交際して3年と8か月になる。指輪は、給料3か月分と決めていたわけではなかったが、結果的にそのくらいの金額になった。店員に見せてもらったとき、思っていたより緊張した。

    承認者の堂島は、申請書を受け取って一度だけ読んで、「頑張ってください」と言った。他には何も言わなかった。それが助かった。

    水曜の朝、拓也は洗面台の前に立った。

    引き出しの中に、先週買ったBBクリームがあった。生まれて初めて買ったものだった。コンビニではなく、ドラッグストアに入って、棚の前で5分ほど悩んで選んだ。色が合っているかどうかわからなかった。店員に声をかけようとして、やめた。なんとなく自分で決めた。

    鏡の前でチューブを開けた。少量を手に取った。顔に伸ばした。

    悪くなかった。

    拓也は指輪のケースを上着のポケットに入れた。重さを確認した。

    彼女と初めて会った日のことを、拓也はふと思い出した。共通の友人の紹介で、緊張しすぎて最初の30分ほとんど喋れなかった。それでも彼女は根気よく話しかけてくれた。あの日からもう3年と8か月になる。

    木曜日の朝、西村拓也は相談室のドアを開けた。

    なぐさミンの端末が、カウンターの向こうにあった。

    拓也は申請フォームを開いた。

    【申請内容】
    申請種別:感情負荷回復休暇
    申請希望日数:3日
    申請理由:交際相手から一方的に関係を終了され、業務への支障が見込まれるため

    なぐさミンの目が、こちらを向いた。

    しばらく回って、止まった。

    「昨日、恋愛勝負休暇を取得した申請者と同一です。関連申請の可能性があります。人間対応を推奨」

    そのとき、奥から堂島が出てきた。書類を持ったままで、端末の画面をちらりと確認した。

    「……私が対応します」

    堂島はカウンターの外に来た。「どうぞ」と相談室のドアを開けた。2人で入った。堂島が椅子を引いた。拓也が座った。

    「何があったか、聞いてもいいですか」

    「プロポーズしようとしたら」拓也は言った。「先に別れを切り出されました」

    堂島は一度だけ目を閉じた。それから開けた。

    「……それは」

    「勝負、負けたので」

    拓也はそれだけ言った。

    堂島はしばらく黙っていた。余計なことを言わなかった。手帳を開いて、何かを書いた。

    「感情負荷回復休暇として、3日承認します」

    「ありがとうございます」

    「他に、何か困っていることは」

    「今のところないです」

    「わかりました」

    堂島は申請書を2枚並べた。恋愛勝負休暇の控えと、新しく書いた感情負荷回復休暇の申請書。承認者の欄に、両方とも自分の名前を書いた。

    「これ、お渡しします」

    拓也は受け取った。2枚を重ねて、上着のポケットに入れた。指輪のケースと同じポケットに入れようとして、やめた。別のポケットに入れた。

    立ち上がった。「お世話になりました」

    「いえ」

    廊下に出た。エレベーターに向かった。

    通りがかった根本が、後ろ姿に気づいた。声をかけかけて、止まった。

    「おつかれ」

    それだけ言った。

    拓也は振り返らずに「おつかれさまです」と答えた。エレベーターに乗った。

    3日間、拓也はBBクリームを使わなかった。洗面台の引き出しに入れたまま、開けなかった。指輪のケースも、一度も開けなかった。ただ、2日目の夜に一度だけ、それを手に取った。開けずに、しばらく持っていた。それから、また引き出しに戻した。

    代わりに、新規提案書を書いた。先月のコンペで落ちた案件の、別角度からのアプローチだった。書き始めると止まらなかった。2日で下書きが完成した。3日目に整えた。

    出社した翌週、提案書をチームに出した。

    相談室に戻った堂島は、2枚の申請書をファイルに綴じた。恋愛勝負休暇と、感情負荷回復休暇。同じ名前が、2枚に並んでいた。

    なぐさミンの端末の画面には、まだ1行が残っていた。

    「関連申請の可能性を検知。人間対応を推奨」

    第八章 その線を引いたのは、私です

    桐島葵の面談から、半年が経っていた。

    その間、五十嵐真帆は毎朝同じ時間に出社した。同じ椅子に座り、書類を処理した。堂島と並んで会議に出た。根本の申請処理を確認した。なぐさミンのシステムログを週に一度チェックした。廊下で桐島葵とすれ違ったことが、3回あった。どちらも何も言わなかった。

    制度の規程改訂案を、五十嵐はずっと下書きしていた。「振った側の解釈:検討中」という付箋を貼ったのは4か月前だった。書いては止まり、止まっては書いた。完成しなかった。

    それでも、毎日出社した。

    離婚を切り出したのは、11月の夜だった。

    夫は、話を聞いている間、一度もテレビを消さなかった。目も画面を見てもいなかった。五十嵐が話し終えると、リモコンを取ってテレビを消した。それから少しのあいだ黙っていた。

    「わかった」

    夫はそう言った。

    「離婚届、どこかにあったよな」

    「一番上の引き出しの中に」

    夫は立ち上がって、引き出しを開けた。用紙を取り出して、テーブルに広げた。ペンを取った。

    五十嵐は自分の欄に書き込んだ。夫も書いた。印鑑を押した。もう押さなくてもいい欄だったが、夫は古い習慣のように、迷いなく判を当てた。

    20年近く前、結婚式の朝のことを、五十嵐はふと思い出した。控室で、母が着付けを直しながら「正しい人と一緒になれてよかった」と言った。あのとき自分が何と答えたか、覚えていない。ただ、正しい、という言葉だけが、今もどこかに残っていた。

    夫がキャップを戻しながら言った。

    「君はずっと、正しい顔をしていたね」

    責める声ではなかった。静かな、確認のような声だった。

    五十嵐は返事ができなかった。

    正しい顔。そうだった。正しい妻の顔、正しい課長の顔、正しい大人の顔。どれが本当の顔だったのか、自分でもわからないまま、20年近くが過ぎていた。子どもは去年、大学進学を機に家を出ていた。今この部屋には、2人分の生活だけが残っていた。

    「俺もずっと気づけなかったから」夫は続けた。「どちらが悪いとか、そういうことじゃないと思う」

    五十嵐は頷いた。

    夫は立ち上がって、「寝る」と言った。寝室のドアが静かに閉まった。

    テーブルの上に、離婚届が残った。五十嵐はそれをしばらく見ていた。

    翌朝、五十嵐は出社した。

    いつもより少し早く来た。堂島がまだ来ていなかった。席に座って、パソコンを立ち上げた。メールを確認した。書類を整えた。

    堂島が来た。コートを脱ぎながら、「おはようございます」と言った。

    「おはようございます」

    五十嵐は立ち上がった。引き出しから規程集を出した。堂島のデスクに置いた。開いたページには、付箋が貼ってあった。

    「確認したいことがあります」

    堂島は規程集を見た。それから五十嵐を見た。

    「昨日、離婚届を出しました」

    堂島は一瞬、何も言わなかった。

    五十嵐は続けた。

    「感情負荷回復休暇を申請したいんですが、規程上、私は対象外です。第2条に、既婚者は恋愛関係にないものとみなす、と書いてあります」

    「はい」

    「離婚は、恋愛関係の解消でも、婚姻関係にない者の申請でもありません。この規程には、離婚した人間が使える休暇が、どこにも書かれていません」

    堂島は規程集をめくった。何度も見返した。

    「……本当ですね」

    「私が書いた条文です」

    五十嵐は言った。

    制度を作ったとき、理由は明確だった。既婚者が失恋休暇を使う事態は想定しにくい、運用を複雑にしたくない、シンプルな制度の方が定着しやすい。そう思っていた。

    でも本当のところは、もう少し違う場所にあったかもしれない。自分のような人間が、この制度を使う場面を、考えたくなかっただけかもしれない。

    自分で引いた線の外側に、自分が立っていた。

    「規程上、私が使える休暇は、有給休暇しかありません」

    堂島は黙っていた。

    「有給休暇届を出します。理由は空欄で構いません」

    「……わかりました」

    堂島は申請書を出した。五十嵐の前に置いた。五十嵐は記入した。氏名、所属、申請日数、3日。理由の欄は、空白のままにした。

    堂島は受け取った。承認者の欄に、自分の名前を書いた。

    「ゆっくり休んでください」

    それだけだった。それだけで十分だった。

    3日間、五十嵐はマンションにいた。どこにも行かなかった。連絡もほとんど返さなかった。

    初日は、ただぼんやりしていた。夫は実家に戻っていた。部屋に1人だった。静かだった。静かすぎて、少し落ち着かなかった。

    2日目、化粧台の引き出しを開けた。

    自社の商品が並んでいた。洗顔料、化粧水、美容液、ファンデーション。仕事柄、自社の商品を使っている。ずっとそうしてきた。

    引き出しの中身を、全部テーブルの上に並べた。整列させた。ラベルが全部こちらを向くように。使用期限が近いものを手前に、新しいものを奥に。

    全部並べて、椅子に座って、眺めた。

    これを20年近く使ってきた。同じ会社の商品を売りながら、自分の顔に毎朝塗ってきた。お客さまに「これをつけると肌がきれいに見えます」と言いながら、自分の顔に塗ってきた。

    売ることと、使うことは、ずっと一緒だと思っていた。

    3日目の朝、五十嵐は洗面台の前に立った。いつも通り、洗顔した。化粧水をつけた。美容液をつけた。

    ファンデーションを手に取った。キャップを開けた。パフを取り出した。

    鏡の中の顔を見た。

    洗いたての顔だった。少し赤みがある。目の下に疲れが出ている。昨日あまり眠れなかったせいだ。

    五十嵐は、しばらくそのまま鏡を見ていた。ファンデーションを、塗らなかった。

    いつもなら、この顔を隠す。正しい顔を作る。課長として、大人として、見られるべき顔を作る。その作業を、毎朝15分かけてやってきた。

    今日は、しなかった。

    鏡の中の顔を、もう少し見た。悪くない、とは思えなかった。でも、これでもいいかもしれない、とは思った。

    それだけだった。それだけで、今日は十分だった。

    3日目の夜、五十嵐はスマホを手に取った。連絡先の一覧を開いた。

    桐島葵の名前を探した。

    半年前から、一度もメッセージを送っていなかった。葵からも来ていない。ただ、これまでのメッセージは削除してなかった。

    画面を見ながら、何を書くか考えた。

    謝りたかった。ちゃんと別れる言葉を言わなかったことを。葵だけに察しのよさを求めたことを。「わかってくれるよね」と言い続けたことを。

    送信ボタンの少し手前で、指が止まった。送れば楽になる、とすぐにわかった。だからこそ、送ってはいけないのだともわかった。

    今、メッセージを送ることは、自分のためになる。自分の罪悪感を軽くするためになる。

    葵のためにはならないかもしれない。自分が楽になりたいからといって、葵を使うことはできない。葵はもう、あの面談室で終わらせた。書式の中で終わらせた。それを開け直す権限は、自分にはない。

    五十嵐はスマホを置いた。

    代わりに、規程集を開いた。下書きのまま止まっていた改訂案のファイルを出した。パソコンに向かった。

    書いた。

    翌朝、五十嵐は出社した。コートを脱いで、椅子に座った。パソコンを立ち上げた。

    ファンデーションは、塗っていた。いつも通りの顔で来た。ただ、少しだけ薄かった。

    堂島は何も言わなかった。「おはようございます」とだけ言った。

    「おはようございます」と五十嵐は答えた。

    デスクの上に、昨夜書いた改訂案のプリントアウトを置いた。堂島の方に向けた。

    「規程の改訂案です。確認してもらえますか」

    堂島は受け取った。読んだ。

    1行目に、こう書いてあった。

    「改訂点:第1条中『恋愛関係の解消等』を『恋愛関係又は婚姻関係の解消等』に改める。第2条『既婚者は恋愛関係にないものとみなし、本制度の対象外とする』を削除する。関係解消を告げた側であるか、告げられた側であるかを問わず、また交際関係の形式を問わない。会社は当該関係の正当性を判定しない」

    堂島は最後まで読んだ。

    「……拝見しました」

    「上に通してください」

    「はい」

    五十嵐は自分のパソコンに向かった。

    堂島はプリントアウトを手に持ったまま、少しのあいだ動かなかった。それから、引き出しから規程集を出した。

    「振った側の解釈:検討中」という付箋が貼ったままだった。そっとはがした。

    規程集を開いた。ページの間から、かつてそこに挟んでいた何かが、少しだけ見えた。

    堂島は静かにページを閉じた。

    エピローグ 制度は、学習する

    株式会社コスメティック・ルネッサンスに失恋休暇が導入されて、3年が経った。

    申請件数は、初年度の十数件から、昨年度は43件になった。社内掲示板の告知は、最初は印刷が斜めだったが、今年から総務が作り直した。まっすぐになった。ただし、フォントが少し大きくなりすぎた。

    相談室の椅子は、まだ3脚ともデザインがちぐはぐのままだ。

    堂島誠一は、今日も申請書を受け取った。

    桐島葵は、春に新しい商品ラインのチーフになった。会議室で、誰よりも早くホワイトボードに向かう。企画書の見出しは、今も律儀すぎるほど整っている。

    田中舞は、なぐさミンの「改善フィードバック」フォームに毎月感想を書いている。「先月の判定文、少し改善されていました」とか「項目2の言い回し、もう少し柔らかくできますか」とか。なぐさミンがそれをどう解釈しているかは不明だが、担当の堂島は毎月目を通している。

    佐藤あかりは、休暇明けの朝、定刻通り出社してきた。ファンデーションを塗り直して来ていた。今も毎朝同じ時間に出社する。九条部長の担当するプロジェクトに、今年からアシスタントとしてついている。

    長谷部慎は、結婚を機にアイドルから女優に転身した推しの、映画の初主演が決まった日、相談室に、根本を訪ねてきた。申請書は手にしていなかった。

    「ちょっと根本さんと話したくて」

    「おお、コーヒーでも飲んでけ」

    根本は、長谷部を椅子に座らせた。

    長谷部は推しを推し続けることを伝えた。

    「根本さんにわかってもらおうってわけじゃないんですけど、なんか話しておきたくて」

    「わかった。今日は何も言わないからな」

    10分ほど話すと長谷部は笑顔で帰っていった。

    大野彩子は、手紙を送った。返事は来なかった。それでよかったと思っている。赤いカーディガンを、先月初めて着た。

    加藤健斗と根本大輔は、あれからも月に何度か昼飯を食っている。先月、根本の方から「今度、お前が行きたいって言ってた店、予約しといた」と誘ったのは、根本にとって初めてのことだった。

    西村拓也の新規提案書は、コンペで通った。今年度、担当案件の受注率が部内で一番高い。

    九条怜子は、最近また彼氏ができたらしい。書類を取りに相談室に来るたびに、少しだけ耳の後ろを触る癖がある。堂島は気づいているが、何も言わない。

    五十嵐真帆は、その春から別の部署に異動した。廊下ですれ違うと、少しだけ顔が柔らかくなった。それだけだ。

    3か月前、社内イントラに改訂通知が出た。

    感情負荷回復休暇 運用規程 改訂第4版
    改訂点:交際関係の形式、婚姻の有無、解消を告げた側・告げられた側を問わず、本人に生じた感情負荷を申請対象とする。会社は当該関係の正当性を判定しない。

    通知を読んだ社員の反応は、堂島の知る限り3種類だった。「へえ」と言った人。何も言わなかった人。「これ、前からそうじゃなかったんですか」と言った人。

    それでいいと思った。

    制度が人を救ったわけではない。人の痛みが、制度を1行変えた。その1行が、次に来る誰かの申請書を受け取る。

    なぐさミンは今日も動いている。最近の判定文は、ずいぶん変わった。数値がほとんど出なくなった。誤判定履歴のログは、あの一件目からもう300件近くに増えている。先週の判定ログに、こんな1行があった。

    「当該ケース:複雑な心理的要因の重なりを推測。担当者に引き継ぐ」

    なぐさミンが愛を理解したわけではない。ただ、自分にはわからないと判断したとき、人間に渡せるようになった。それだけのことだ。それだけのことが、3年かかった。

    堂島誠一は今日、申請書を1枚受け取った。

    24歳、営業補助、女性。申請理由の欄に、こう書いてあった。

    「5年付き合った相手に、昨日別れを告げました。自分から言いました。でも今朝から、手が震えています。1日だけ休ませてください」

    堂島は申請書を受け取って、承認者の欄に名前を書いた。

    「1日、承認します」

    受け取った申請書をファイルに綴じた。今年度、44件目だった。

    デスクに戻った。引き出しから規程集を出した。改訂第4版、新しくなったばかりのものだ。

    開いた。

    最後のページまでめくった。

    規程集を閉じた。引き出しに戻した。

    明日も、誰かが申請書を持ってこのドアを開ける。その紙に書かれた理由が、たとえ大げさに見えたとしても。

    ここでは一度、受理される。

    それだけのことを、この相談室はやっている。

    それが、この相談室の、たった一つの、しかし決定的な役割だった。

    それだけのことが、堂島には誇らしいのか重いのか、今もよくわからなかった。


    【参考資料】 登場人物リスト


    相談室・人事部

    堂島誠一(どうじま せいいち)
    人事係長。40代前半。柔らかい顔立ちで、誰に対しても必要以上に丁寧な話し方をする。人の修羅場を丸めて書類にする能力に長けている。全編を通じて申請者を受け止め続ける、相談室の「受理する側」。自身の恋愛観や過去は一切語られない人物で、最後まで聞き役に徹する。「振った側の解釈:検討中」の付箋を貼り、五十嵐の規程改訂を後押しする役回りでもある。

    五十嵐真帆(いがらし まほ)
    人事課長。相談室の室長を兼ねる、制度の管掌者であり起草者。桐島葵と2年4か月にわたり不倫関係にあった当人。既婚者で、物語終盤で離婚を経験する。制度の穴(既婚者を対象外とする第2条)に自ら気づき、規程改訂に踏み出す。

    根本大輔(ねもと だいすけ)
    人事・総務を兼任する担当者。制度導入からやや遅れて配属される。ぶっきらぼうだが、話を最後まで黙って聞く懐の深さを持つ。自身も恋人からの別れを経験し、その相手が「エリカ」という別名で複数の男性を騙していたことが発覚する。

    なぐさミン
    相談室に導入されたAI一次判定タブレット。丸くてやわらかいオレンジ色のキャラクター。感情を経済的損失や投資回収率として数値化しようとし、しばしば「暴走」する。物語が進むにつれ、判断できない案件を人間に引き継ぐよう「学習」していく。

    各章の申請者たち

    桐島葵(きりしま あおい) 第一章
    企画職。20代後半。上司であり不倫関係にあった女性(五十嵐)との2年4か月の恋を、資料を用意した「プレゼン」形式で終わらせる。特例で5日の休暇を承認される。

    田中舞(たなか まい) 第二章
    5年間交際し将来を約束していた相手に別れを告げられる。なぐさミンによって「経済的損失は軽微」「全損」などと数値化され傷つくが、根本の対応に救われる。

    佐藤あかり(さとう あかり) 第三章
    3年交際した相手に一方的にブロックされる。上司の九条部長に壮絶な体験談を聞かされ、自分の失恋を見つめ直し、最終的に申請を取り下げる。

    九条怜子(くじょう れいこ) 第三章
    マーケティング部長。あかりの所属長。過去に詐欺まがいの交際を複数経験しており、その壮絶な体験談を淡々と語る。物語終盤で新しい恋人ができた様子が示される。

    長谷部慎(はせべ しん) 第四章
    物流担当。25歳。7年間応援してきたアイドルの結婚発表にショックを受け申請。「向こうは僕を知らない」関係でも本物だったと語り、根本の恋愛観を揺さぶる。

    大野彩子(おおの あやこ) 第五章
    2年3か月付き合った恋人を自分から振った側。「振った側も傷ついていい」と堂島に肯定され、手紙を書くことを選ぶ。

    加藤健斗(かとう けんと) 第六章
    営業部、31歳。SNSで知り合った「エリカ」と名乗る女性から金銭を騙し取られたうえ、別れを告げられる。根本の元恋人と同一人物による被害者だったことが判明する。

    西村拓也(にしむら たくや) 第七章
    恋愛勝負休暇を取得してプロポーズに臨むも、先に相手から別れを切り出される。同じ相談室で2種類の申請書を続けて提出することになる。


    #創作大賞2026
    #恋愛小説部門


     
     

    N.

     
     
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