
告知を問う 〜若年性アルツハイマー病と家族の記録〜
—— これは、たぶん愛の物語である。
甘い言葉も、ドラマチックな展開もないけれど
私は、両親の間に、
深くて、静かで、
ひどく一途な愛を見てしまった。
映えはない。むしろ地味。
寡黙で、真面目で、ちょっと不器用な
昭和の夫婦の物語である。
第一章 告知
先日、母の一周忌を終えた。
私はお経を聞きながら、母が発症してからの十数年をぼんやりと思い出していた。
母は、若年性アルツハイマー病だった。
母の物忘れが、どうにも気になり始めたのは約14年前。
まだ50代半ばだった。
どうしてもおかしい・・・。
そう思って、母を連れて脳神経内科を受診したけれど、
記憶テストは通ってしまうし
画像診断でも決め手がない。
確定診断が出たのは、そこから2年後だった。
母は、私と同じく元は看護師。
つまり、認知症がどういう病気かある程度わかっていた。
元気な頃、母は言っていた。
「もし私が認知症になったら、必ず教えてね」
「延命治療はしないでね」
その言葉を、私と姉は覚えていて、告知するべきだと父に伝えた。
だけど父は、すでに決めていた。
—— 告知はしない。——
私は、母本人の希望に沿って伝えるべきだと思っていた。
母には「知る権利」がある。
告知したうえで、支えながら一緒に向き合うべきじゃないか。
医療職として、そう考えていた。
でも、それだけじゃない。
私は、「母のために告知すべき」と言いながら、
本当は、それは「自分のため」だった。
—— 自責に耐えられなかった。
母の発症時期は、
私の結婚の時期とぴたりと重なっている。
私は、20代でバツイチ子持ちの人と結婚した。
私はずっと母の「自慢の娘」であり、とても大切にされてきた。娘の幸せな結婚や孫の誕生を夢見ていた母にとって、どれだけの心労だったか、想像するのは難しくない。
— 私の選択が、発症の引き金になったのかもしれない —
そんな思いが、ずっと胸の奥に横たわっていた。
だから、母が病気と向き合うなら、私は全力でそれを支えようと思っていた。
一緒に抗って、少しでも長く進行を遅らせられたら、私は少しでも自分を許せる気がした。
—— ずっと母のままでいてほしかった。
母は、料理とお菓子作りが好きな人だった。
心配性で、世話焼きで、末っ子の私を少し甘やかしすぎていた。
私が就職して一人暮らしを始めても、週に一度はおかずを詰めたタッパーで私の冷蔵庫をいっぱいにしていたような母。
「孫ができたら、お菓子をいっぱい食べさせるのが夢なんよ」
よくそう言っていた。
だけど、当たり前に来ると思っていた「母がいる未来」は、もう崩れ始めていた。それは、母っ子で甘ったれな私にとって、すでに耐え難い喪失だった。
私は何度も父を説得した。
だけど、父の返事は同じだった。
「いや、わしは絶対に言わん!」
いつもはほとんど意見を言わない父が、このときだけはどうにも頑なだった。
—— 父は、「告知」から逃げているのではないか。
正直なところ、そんな疑いがよぎった。
だけど、
父の思いはひとつだった。
「教えたら…母さんは精神がまいってしまう」
父の決意は、ただひたすら、
"母への想いやり"だった。
母は、いつもにこにこ穏やかで、誰にでも優しく人付き合いのよい、子どもが大好きな人だった。
だけど、人一倍心配性で、潜在的な精神面の脆さも持っていて、私たち姉妹もそれはわかっていた。
母方の祖母が急逝したときには、
私と同じく母っ子であった母は、落ち込みすぎて胃潰瘍を起こし、重症で入院したことだってある。
—— 父は、母が病名を知ることで、
強い絶望感に襲われて病んでしまうことや、
一気に病状が進むことを予測し、
本気で恐れていた。
母っ子だった私は、ちょっと悔しい。
でも、認めるしかない。
母をいちばん深く見ていたのは、
娘の私ではなく、父だった。

第二章 壊れなかった世界
告知をしないと決めた父は、その日から、
母の戸惑いも不安も、度重なる失敗も、
ただひたすら受け止め続けた。
ときには理不尽に疑われ、
責められることもあった。
それでも父は、穏やかにかわし、
責めず、怒らず、
何度でも向き合った。
母は、ときどき不安そうに父に尋ねた。
「私、認知症なんじゃないやろか?」
そんなとき、父は何度もごまかした。
あの頃の父は、母に薬を飲ませるのにも苦戦していた。母は「これは何の薬なん?」と疑い、納得できなければ飲まないこともあった。
だからこそ、ある日、父は私の家にやってきて、目をらんらんと輝かせながら言った。
「この前撮ったMRI、脳梗塞の小さい痕もあったやろ。思いついて、物忘れはあれのせいやと母さんに言うたんよ。
そしたら、薬も飲んでくれるようになったわい。」
父は、かなりのドヤ顔だった。
なるほど。どうやら名案らしい。
母が納得できる“説明”を、父は手に入れたのだ。
こうやって父は、
母の世界の辻褄を合わせ続けた。
父が世界を壊さずにいてくれたからだろうか。
母は、最期まで暴力や暴言が症状として出ることはなく、
やせ細ろうとも表情が乏しくなろうとも、
ときどきニコっと笑う、
笑顔のかわいい母のままであり続けた。
父のことをよく理解していなかった私は、父がそんな柔らかな対応ができることに心底驚いた。
医療職としても、父の感覚の鋭さは舌を巻くレベルであり、母を傷つけないでいてくれてとてもありがたかった。
その頃から私は、父の対応を賞賛しては、あちこちで語ってしまっていた。特に、母を心配してくれている人へ近況を伝えるときには、持ち上げに力が入る。
これはもう、親バカならぬ、“うちの父すごいでしょ”型の子バカである。
子どもの頃から私は、
「お母さんがいつでも味方でいてくれるから頑張れる」
「家が安心できる場所だから、外で傷ついても回復できる」
そんな理屈を、かなりはっきり自覚していた。
それは、今の私の子育て原理となっている。
(母ほどうまくはいかないが…。)
父は、昔から寡黙で仕事熱心な人だった。
強く𠮟られた記憶は一度もない。
毎年夏休みには家族旅行を計画し、
いろんなところへ連れて行ってくれて、“やさしいお父さん”という修飾語がぴったりだった。
(つまり、私は父を“やさしいお父さん”の一言で片づけていたらしい。)
そう。
母が病気になるまで、私にとって「親」といえば母が9割を占めていた。
—— まさか、“偉大”という言葉を
この父に感じる日が来ようとは。
そんな父の人生に、ある日突然、ウクレレが登場する。

第三章 哀愁とウクレレ
父は、母の病気が確定してから、母を連れて患者や家族の会に積極的に参加していた。
ひとりでも勉強会に足を運び、母に見つからない場所には関連書籍が何冊も隠された。
戦後生まれの仕事人間は、母の病気に関しても実に熱心だった。
絵にかいたような『真面目』。
「患者家族支援マニュアル」の表紙に載っていたっておかしくない。
いや、次回改訂版の表紙はもう確実に父である。
ところが、ある日突然、実家を訪ねると
その表紙の人はウクレレを担いでいた。
「母さんと音楽を始めようと思ってな。」
これまで楽器など弾いたことがなかったのに。
昔、ギターを弾いていた母の代わりに自分が奏で、母に歌ってもらう。
そんなことを思いついたらしい。
昭和七三分け × ウクレレ
—— なんともシュールな組み合わせである。
ポロシャツにスラックス、ベルトはきっちり。
南国感はゼロなのに、
なぜだか高木ブー的な哀愁が漂っていた。
それから父は、初心者向けの本を読んだり、YouTubeで学んだり。独学でコツコツとウクレレを練習した。
とはいえ、期待に反し、母は歌ってはくれない。
昔のように隣で
「お父さん、上手やねぇ」
と、うまくのせてくれるわけでもない。
そもそも父は、新しいもの好きなくせに、極めるタイプではない。
ワープロ然り、俳句セット然り。
これまでの宝の持ち腐れ歴がそれを証明している。
だから私は、今回もそのうち押し入れ行きだろうと思っていた。
—— ところが、
主治医が病院で開催している認知症カフェで、父が何気なく、
「ウクレレを買ってみたが、弾く機会がない」
とこぼしたことで、思わぬ転機が訪れる。
父の話を聞いた主治医が、職員の中にウクレレを弾ける人がいることを思い出し、
「だったら、みんなで音楽をやりませんか」
と提案してくれたのだ。
以来、父はウクレレの師を得て、
楽譜は、仲間で決めた「今月の歌」のプリントに変わり、
それはもう『真面目』に練習に励んだ。
それは、母と一緒にデイサービスで過ごせる時間にも変わり、
「今度ウクレレの演奏会があるけん、練習しよるんよ」
と、父は照れつつもとてもうれしそうにしていた。
実家の周りでは
ウクレレの音が漏れてくるようになった。
ポロン、ポロン……。
毎回微笑ましく、クスッとなる。
……が、父が歌い始めると話は別だ。
選曲は普通にポップスなのに、
なぜかうっすら吉幾三が浮かぶ、
あの昭和歌謡のイントネーション。
いったい何なんだ——。

第四章 父の居場所
父のぼやきがきっかけで始まったウクレレカフェは、
今やその病院の定例活動となっている。
いわば父は、どういうことだか立派な創設メンバーだ。
あるとき、
その活動がローカル番組で紹介された際、
創設メンバーである父はインタビューを受けていた。
そこで父は、ウクレレを始めたきっかけを聞かれてこう答えた。
「家族の病気ということもあって、
どうしても気分的に落ち込むこともあるんですが…
楽しくおりたい…と思って、
どういう拍子かウクレレを買ったんです。
そしたら、
一緒にやれる人に出会えたものですから、
おかげで楽しくやっております。」
—— その言葉を聞いて、私は少し胸が詰まった。
「落ち込んでいる」
そんな弱音を、父は私たちの前で一度も口にしたことはない。
でも、そりゃそうだ。
落ち込まないわけがない。
—— 定年を過ぎても働き続けていた父。
退職したら、母と二人で四国八十八か所巡りをしたり、
旅行をしたり、畑仕事をしたり、
のんびりと過ごすはずだった。
母との老後のために、中古で住み続けた家を、
ようやく建て替えたばかりだった。
母より8つ年上の父は、
当然、母に看取ってもらうつもりだった。
夫婦には、子どもには見えない軌跡がある。
私たちが生まれるより前から積み重ねてきた時間。
それは、私が知るよりもずっと濃く、長く、
簡単に言葉にできるものではない。
—— そういえば、子どもの頃、
姉が母宛の古いラブレターを発見したことがあった。
「かわいい、かわいい〇〇ちゃん」
……書いたん誰や。いや、父なのだけど。
あまりにこっぱずかしくて、姉妹でしばらくざわついた。
そう。
父は、愛を語る人ではなかったが、
愛を書いたことはあった。
言葉にしないだけで、深く母を想っている。
父は、ずっとそういう人だった。
そんな父だから、
私が感じていた喪失よりも、
ずっとずっと深い喪失に打ちのめされたに違いない。
母のそばにいて、その変化を目にするたびに、
いろんな思いが交錯したことだろう。
——その孤独に対し、
男親にとっての娘二人は、まったくの無力だった。
母のために仕事を辞め、
生活のすべてが「支えること」に飲み込まれていった父。
介護者、付き添い、連絡係、そして夫。
父の持つ役割は、いつしかすべて「母のため」のものに変わっていった。
父は、母を支えるためにその場所へ通い始めた。
だけど実際には、父自身もまた、その場所に深く支えられていた。
母のために、なんの拍子か始めたはずのウクレレが、気づけばピアサポートというつながりの中で、父自身の居場所まで引き当てていたのだ。
ピアサポート。
それは、同じ困難に向き合う当事者同士の支え合い。
実感としてのその"価値"は、
医療職としての"知識"を軽々と超えていく。
月日が流れ、とうとう母の自宅介護が難しくなり、施設に入所することになっても、父の“ウクレレのつながり”は途切れなかった。
そして、母が亡くなった今も、それは続いている。
父もまたあの場所で、自分がそうしてもらったように、誰かにとっての“出会い”となり、支えているのかもしれない。
私はそこで父を支えてくれる方たちに、直接お会いしたことはない。
それでも、彼らに感じるこの気持ちは、なんだか“子どもの仲良しのおともだち”を想うときのような、親しみと感謝に似ている。

第五章 看取り
一年前の夏 ————
母は数回目の誤嚥性肺炎を患い、とうとう食事がとれなくなった。
元気な頃に母が言った、「延命治療はしないでね」という願いを受け、家族の間では
「自分で飲み込めなくなったときは、
静かに送ってあげよう。」
と発症当時から繰り返し確認していた。
胃ろうは作らない。
今後どうなっていくのか、見通しを持ったうえでの約束だった。
施設の方とも話し合い、入院はせずに訪問医師のもとで点滴だけ行い、施設で看取らせていただくことに決まった。
父は、自宅介護を諦めて母が入所してからもずっと甲斐甲斐しかった。
施設選びには一切妥協せず、いくつも足を運んで、安心して母を任せられるところを探した。
けれど、入所してすぐにコロナが流行。
ガラス越しでしか対面が叶わず、ずっと愚痴を言い続けてしょんぼりとしていた。
ようやくコロナ禍が落ち着いてくると、施設によって対応がまちまちになり、父は直接の面会ができる施設を探して母を移した。
納得して移した施設のはずだったが、しばらくすると、今度はそこでの母の体調の変化に納得がいかず、何度も抗議。
再び、母を小高い丘にある施設へ移した。
父がついに引き当てた、母の終の住処となったその施設は、
何人もの在留外国人が流暢な日本語でにこやかに利用者のケアをしている場所だった。
食事ができなくなりかけていた母が、その施設に移ってからは再び食事ができるようになり、寝たきりとはいえ「元気になった」と父は満足げだった。
コロナの余韻で対応の厳しい施設もまだ多かった中、夏祭りなどのイベントには孫たち3人も連れて参加。
孫たちはとても楽しかったようで、その後しばらく、そこで職員さんが披露したザ・ブルーハーツの『リンダ リンダ』を何度もマネしては父を喜ばせた。
居室での面会が自由なその施設で、会話もできなくなった母に話しかけながら、父は何時間でもうれしそうに過ごしていた。
あと少しの命 ——
母の容態が悪くなり、
父は母の施設で24時間付き添うことになった。
とはいえ、休まず働き続けてきた母の心臓は、痩せ細った身体とは対照的にしっかり元気だ。
3日〜5日を見込み、夜間は私が交代して父を別室で休ませ、私が朝まで母のベッド横で過ごした。
モニターのない中で私は、自分が寝すごしてしまわないようにとタイマーを定期的にかけ、溜まった痰を吸引しながら朝を待った。
そんな中でも、
ネパール出身の夜勤職員さんが、労いつつ持ってきてくれた、
おいしいコーヒー。
どの入所者さん、職員さんにも、
分け隔てなく、明るく、丁寧に接する施設長さん。
施設の内部でその優しい空気に触れ、父がその施設を選んだ理由がわかった気がした。
とうとう点滴も入らなくなった三日目、
子どもを寝かせてから施設についたとき、
…これは朝まではもたない、とわかった。
姉を呼び寄せ、母と父と娘ふたり、
家族の最期の数時間。
—— ゆったりとした時間が流れる中で、
部屋の外から入所者さんの声が聞こえてきた。
「おくすり、塗ってください。お願いします。」
何度も何度も繰り返す、か細い声。
忙しそうな職員さんが
「もう塗りましたよ。」
と告げ、サッと過ぎて行く。
そのとき、私の横で父がぽつりと言った。
「ほらほら、塗ったよーって、言ってあげたらいいのに。」
その一言に、私は静かに圧倒されていた。
—— これが、私の父だ。
父は、正しさを見ていたんじゃない。
薬が正しく塗られたか。
次はいつ塗るのか。
そんなことじゃない。
今、自分の身体に何が起きているのか——。
この人は怖がっていないか。
安心できているか。
母への十数年と同じく、
父が見ていたのは、相手の心だった。
本人が穏やかでいられる応答を選ぶ。
—— それが父の哲学だった。
告知をしないと決めた、あの時も。
……ずっと母に尽くしてきた父とは逆に、
私にとって母と過ごした最期の時間は、
これまで何もしてあげられなかったことへの懺悔だった。
だから、夜間の看護師配置がないその施設で、「少しでも安楽に」という母の願いを、医療職である私自身の手で掴み直すことができたのは幸運だった。
最期の瞬間も、それは私の判断のもとにあった。
少しずつ呼吸が弱まり、呼吸がとまり、やせ細った首筋から拍動がとまっていく中で、父と姉にそれを静かに、丁寧に伝えていく。
そっと三人で母を見守りながら、感謝の思いをいっぱい伝えた。
父は、うっすらとたまる涙をぬぐいながら、
ずっと母の額や頬をなでていた。
このゆったりとした最期の時間は、懺悔の消えない私にとっての救いとなった。
きっと母が、なんでも考えすぎてしまう私のために遺してくれたに違いない。
——— 母の力は、やっぱり偉大だ。

第六章 人の尊厳
母は、元気な頃に二つの言葉を残していた。
「認知症になったら、必ず教えてね」
「延命治療はしないでね」
私はずっと、この二つを別々の願いだと思っていた。
だから、告知をしなかったことで、
母の「教えて」という意思は覆されたと思っていた。
でも今は、このふたつの願いは、ひとつの願いの表と裏だったのではないかとも思う。
—— 知って、覚悟して、ぱっと終わりにしたい。——
認知症で自分が壊れることを強く恐れていた母だから、その願いの先に思い描いていたのは、たぶん、そういう最期だった。
だけど、若年性アルツハイマーという病気は、そう簡単に死なせてはくれない。
残酷な未来を知り、自分が壊れていくのを感じながら、十年以上、ゆっくり続いていく。
日常の会話の中で「教えて」と言ったとき、
それは「知る覚悟」まではきっと含まれていなかった。
「知って、終われる」という母の願いは、この病気では、最初から叶わない願いだったのだ。
若年性アルツハイマーには遺伝リスクも語られる。
だからこの問いは、私にとっても他人事ではない。
—— いつか、自分も発症するのではないか。——
それは当然、母の発症当初から私の頭の中にある。
私の願いはやはり、母と同じく、
「認知症になったら、必ず教えてね」
「延命治療はしないでね」
だ。
自分が自分でなくなっていく過程で、
大切な人を傷つけ、
それを理解する力すら失う未来が怖い。
尊厳を失うこと。
周囲を傷つけること。
そして、それを認識できなくなること。
それが怖い。
母は、父のおかげで世界を壊されることはなかったけれど、何度も家族を傷つけた。
実際、母の症状が進行して行く中で、母が家族を傷つける場面を見ることは、私にとっても辛いことだった。
特に、あれほど待ち望んでいた孫たち ——。
静かに傷ついていた息子は、
おばあちゃんからの抱っこに「いやだぁ!」と泣いた。
娘がうれしそうにおばあちゃんに見せたハガキは、ビリビリに破られゴミ箱に捨てられた。
—— それは、母の望んだ尊厳ではなかった。
父は母が生き続けるための尊厳を守ろうとした。
母が、自分自身を嫌いにならずに済む時間。
自分が壊れていく恐怖に飲まれずに済む時間。
尊厳が剥がれ落ちる瞬間を、できる限り本人に見せない時間。
その十数年を尊敬している。
でも私は、自分の尊厳を守る方法として、
別の選択肢もあってほしいと願う。
たぶん私は、父と同じ問いを見ている。
—— 何が、その人の尊厳を守るのか。——
告知することか。
告知しないことか。
生き切ることか。
終わりを選べることか。
守ろうとしているのは、
誰の尊厳で、
どの時間の中での尊厳なのか。
一般論としての答えは、
たぶんひとつにはなりえない。
それでも ——
母を穏やかに逝かせるという、
ただ一点においては。
父が代わりに握り続けた選択は、
まぎれもなく最適解だった。
第7章 愛の物語
一周忌の法要にあたり、
父は、「庭にいっぱい咲いていたから」と
青くてきれいな花をとってきて
祭壇の横に飾った。
母が元気だった頃、
実家の庭はきれいに手入れされ、いつも花でいっぱいだった。
けれど、主を失った今の庭には、
たくましい植物だけが季節ごとに花を咲かせている。
父が、二本寄り添うように生けたのは、
すっと真っ直ぐに伸びた茎の先に、
淡くて涼し気な青紫色の花火を咲かせる花だった。
「センスがいいねぇ」
と、伯母たちは父を褒め称えた。
おだて上手は、母の家系である。
だが、父を含め誰も気づいてはいなかった。
その花の名は、アガパンサス。
父が母に届けたのは、
『愛の便り』
『誠実な愛』
という花言葉を持つ花だった。
父よ、あなたは本当に
天然で引き当てすぎだ。
これからも毎年きっと、
初夏になり、母の命日が近づくたびに、
この花は静かに強く咲く。
そして父は、
花の名も知らぬまま
来年も、その先も、
黙って母に届けるのだろう。
だから、これは ————
愛の物語だ。
