
信じられるのはタンパク質だけだった
包丁を手に取る。
橙とした、秋の夕日にも似ている鮮やかなオレンジに、迷う事なく刃を入れた。
このオレンジとの運命的な出会いは、少し寂れた田舎の道の駅。
最近、どこもかしこも果物は高い。
スーパーのツヤツヤいちごのパック、弾けんばかりに身がつまったキウイ、キラキラ真っ赤なリンゴ……どれも手が出せない。
ビタミン欲しい欲しい、ねえ、摂った方がいいんじゃないの?と体は語りかけてくるが、いかんせん私の懐が寒い。
正直、買えないなんて事は無いんだけど、果物に500円を払うなら、肉や魚の方が有益な気がする。
血となり肉となる単純明快タンパク質に比べると、ビタミンってAやらDやら細分化されていて、それでいてよく役割が分からない。
役所の手続きと一緒で、なんだか複雑に感じてしまうものを人は避けてしまうのだ。
そんな金欠ビタミン後回しライフを送ってきた私の目に、ある日その橙は飛び込んできた。
大きなオレンジが3つ。
狭苦しいビニール袋にギッチリ押し込められた彼らは、まるで私に「助けてくれ」と言っているようで――……
--250円、安い。
瞬時に値札をチェックし、反射でカゴに入れた。
脳内に、いつもみたいな反対も、葛藤の声も聞こえなかった。
もう、カゴに入った以上はウチの子である。
いそいそと誘拐のごとく連れ帰ったオレンジに、さっそく刃を入れていく。
皮が硬い。
でもそんな困難も、この後のご褒美を思えば、試練にさえならない。
グッと力を入れて押し切ると、外見の橙よりもっともっとクリアな色味をした、じゅわっと瑞々しい房が姿を現した。
うわあ、お久しぶりです、ビタミン。
多分オレンジだから、ビタミンCなんでしょう。
そんで、きっと肌とかにいいんでしょう。
知らんけど。
脳内の知識を総動員して、このオレンジに役割を持たせる。
久しぶりの果実。
こんな近距離で見つめてて、なんなら果汁はこぼれてて、こんなん待てるはずがない。
ワクワクと期待に胸を膨らませて、行儀は悪いが台所で立ったまま勢いよく口に含んだ。
口内で弾ける果汁。
驚きで目を見開く。
微動だにできない。
数秒遅れて、舌の味蕾たちが訴える。
ああ、これは、
「にっがぁぁぁぁい!!!!」
--待っていたのはあの可愛らしい外見からは予想もつかない、手酷い裏切りだった。
きっとバチが当たったんだ。
普段ビタミンを蔑ろにしてるくせに、安さだけに釣られてまんまと引っかかった人間達を懲らしめてるに違いない。
あんなに助けて欲しそうにしていたのに。
オレンジの悪魔め。
背中にもくもくと暗雲を背負ってソファでうなだれる私の横で、「へ〜、そんなに苦いんだ〜?」と無邪気に笑う夫。
その笑顔がなんだか腹立たしい。
夫婦は、病める時も健やかなる時も。
貴様もビタミンの罰を受けるが良い。
無言で、夕日から三日月にフォルムチェンジした橙達を指さした。
数秒後、かつての私と全く同じ絶叫がリビングに響き渡る。
--うん、やっぱり。
信じられるのは、タンパク質だけだったのだ。
のたうち回る夫を横目に、そっと心の中で呟いた。