
刈り上げ頭のフェードアウト|人生の切り替わりに聞いた、新しい音
2025年12月21日。その日はM−1の決勝戦だった。
特別お笑いに熱心なわけではないけれど、毎年M−1の放映時間に合わせてテレビの前で夕飯を食べるのが、私と彼のお決まり行事だった。
しかし、去年のその日。私は実家にいた。
私の実家では、必ず姉家族と私たち夫婦が集まって、25日付近のみんなの都合のよい日にクリスマス会をするのが恒例だった。
なので、テレビは5チャンネルに合わせたまま、画面は見ずに、BGMのように音声だけを耳に流していた。
だけど、ちゃんと見ておきたいコンビがいる。
エバースだ。
エバース。
小柄な体躯のボケの佐々木と、がっちりボディの刈り上げツッコミ町田。
2人の漫才はガンガン喋るしゃべくり漫才というよりは、まるで居酒屋で隣になった2人組の雑談を聞いているような漫才だ。
この2人のことを知ったのは、やはりM−1がきっかけだった。
2024年大会で、ゆるい口調の佐々木から放たれるおかしな相談を、ツッコミの町田が戸惑いつつも徐々に受け入れていく様が妙に面白く、ツボにはまった。
なにより町田のソフトで、それでいて鋭いツッコミに私の心は掴まれた。
だから、2025年も決勝に進んだと知ったときには、それはもうすごく観るのが楽しみだった。
(優勝してほしいな!)
そう心で願っていた。
そしてちょうど会がお開きになりそうなタイミングで、テレビ画面に2人が現れた。
佐々木のデートのために、町田が「車」になる。その突拍子もない設定が、第一ラウンドのネタだった。
想像してみて欲しい。
刈り上げ男が、ルンバ4台の上に四つん這いになっている姿を。そして、その上にまたがる小柄な男の姿を。
この場合の原動力は、うまい棒だそうだ。町田カーにまたがった佐々木が、「車」にうまい棒を食べさせる。すると、ぼろぼろ食べカスがこぼれるので、それを4台のルンバが掃除する。そして、動く。町田カーが、動く。
容易に想像できてしまったその姿がおかしくて、私は終始笑いっぱなしだった。
というか、やばい。かっこいい。おかしいのだけど、なんだかもうそれを通り越して、かっこよく思えてきた。
これは、第2ラウンド進出間違いないな。いや、むしろこの勢いのままいけば、優勝も間違いない。
そう確信して、彼らのネタを見届けた後、テレビを切って早々に寝る支度をした。明日は早い。結果は後日TVerで観ることにしよう。
それから、2日後。朝8時半。私は、手術室にいた。
前日は、朝9時に病院に着いて入院手続きを済ませ、説明やら検査やら色々と不慣れなイベントをこなして、夜も寝起きを繰り返しながら、この日を待った。
当日のことを考えるとドキドキして眠れない。だけど、不思議と脳みその半分は(エバース、優勝できたかな?)と考え、まるでスイッチでもあるかのように緊張と楽観がカチカチ脳内で切り変わっていた。
手術室に入る前。昨日の朝ぶりに会った彼が、入り口で見送ってくれた。
「朝早かったでしょ。私は、あんまり眠れなかった。外はどう?」
「今朝はよく晴れてるよ。でも、すごく寒い。俺昨日、図書館に行って、本を借りてきたんだ。これからのこと、勉強しておこうと思って」
少しの間、そんな他愛のない話をした。だけど、それが嬉しかった。安心した。
大きなイベントの前の、なんてことない会話。「大丈夫だよ」とか「頑張って!」とか言われるより、そのいつもと変わらないことが、私を落ち着かせてくれた。
それから、看護師さんに声をかけられ、彼に手を振って手術室に入る。
ここからは、ひとりだ。胸の中には、静かな緊張がひんやりと漂っていた。けれど、不思議と不快なものではなく、あとで見せてもらった写真のあの朝の空のように、どこまでも澄んですっきりとしたものだった。
お腹を切るなんて、初めてだ。
かわるがわる色んな人が声をかけてきて、色んな大人の手によって、あれよあれよと手術台に横を向いて丸まるように転がって、気がついたら背中に麻酔をさされていた。
痛かった。けれど、これがないともっと痛いことになる。
そのうち、身体中の感覚がなくなった。仰向けになった私は、ドラマで見るようなたくさんの丸いライトが密集した大きい手術用の照明を探していた。
「照明が鏡のようになって、お腹が見えてしまうかもしれないから気をつけて」
事前の説明でそう言われていたけれど、私はむしろ、目に焼き付けようと決めていた。
普段ならスプラッター映画とかぜったい観ないくせに、今日は開腹された自分の腹を見てみたい気持ちがあった。
(どんなふうにいるんだろう…?)
それを確かめたかったから。
先生がやってきた。
「今日オペを担当する◯◯です。よろしくお願いします。それでは、始めちゃいますね」
そう言われ、手術はいよいよ始まった。
「いよいよ始まった」なんて言葉を使えば、なんだかすごいことが起きそうな感じがするが、実際、麻酔のおかげで私は何も変化を感じなかった。
目に焼き付けようと熱く見つめていた照明も、けっきょくメガネがないと近場のものしか見えない私にとって、ただギラギラ眩しいだけのものだった。
でも、緊張はしている。ずっと。けれどそれは、怖いからだけじゃない。
私は、周囲の話し声を音として聴きながら、息を吸って吐いてを静かに繰り返していた。
どれくらい経っただろう? ただ天井を見ているだけだから、やけに長く感じる。それに痛みもないから、自分が手術室にいるのが不思議に思えて、周囲の人たちとのズレを感じていた。なんだか自分だけ別の世界にいる気分だ。
そんなことを考えていると、周りのどんな声よりも大きくて力強い泣き声が私の耳に飛び込んできた。
「ふぎゃーっ!」
「元気に産まれましたよ〜」
そう言って、先生が私の赤ちゃんを抱えてチラッと見せてくれた。
赤ちゃん。私と彼の赤ちゃん。
裸眼の目には、まだその姿はぼんやりとしか映らない。けれどその泣き声は、別世界にいた私を現実へと引き戻すには、充分すぎるほど力強かった。
赤ちゃんの姿はすぐに見えなくなった。少し離れたところで「ふぎゃー!ふぎゃー!」と、一生懸命泣いているのが聞こえてくる。それを聞いていたら、私の目からじわじわ涙がこぼれて、耳の中に入っていった。
なんで泣いてるのかわからない。嬉しいからなのか、ほっとしたからなのか。ただ、自分の赤ちゃんの泣き声と、外で待っている彼は喜んでくれるかな?という思いとで、自然と涙がぼろぼろあふれてくるのだ。
そんな私を見て、看護師さんが何度も何度も涙を拭いてくれる。それでも枯れることない私の涙は、どんどんどんどん泉のようにあふれていく。
だけど、だんだんそれが恥ずかしいやら、照れ臭いやらで、なんとかしたくなってきた。
できることなら、涙を止めてしまいたかったし、せめて看護師さんの手を煩わせず、自分で涙を拭きたかった。
そこで、ひらめいた。そうだ、町田を思い出そう!
一昨日観たM-1のエバース町田。相方佐々木のデートのために、ルンバとうまい棒で走るカー町田。
目を閉じて、あのネタを思い出せる限り正確に最初から最後まで脳内で再生を試みる。
四つん這いでうまい棒食べている刈り上げ頭…
都内で駐車されている刈り上げ頭…
駐車時は立って待っていられる刈り上げ頭…
「ふぎゃー!ふぎゃあーー!」
ぼろぼろぼろ…
ダメだった。町田じゃ、ダメだった。
どんなにあの爆笑ネタを思い出しても、一生懸命泣いている我が子を前にしては、町田は無意味だった。
必死に脳内を刈り上げ頭でいっぱいにしようとしたって、やっぱり外で待つ彼の顔が浮かび、刈り上げ頭は徐々に薄くなってすーっと消えていく。
(泣いてる。赤ちゃん、泣いてる…。彼は喜んでくれるかな…)
けっきょく止まらない涙を看護師さんに拭いてもらっていたら、別の看護師さんが我が子を顔の横まで連れてきてくれた。
「ちっちゃい」
思わずそう声が漏れるほど、我が子は小さく赤白かった。
一生懸命泣きながら、私の顔でも蹴るのかな? と思うほどぐっと力強く右足を伸ばしている。
そっと触ったほっぺはびっくりするほどふわふわで、伸ばされた右足の裏を触ってみると、地に足をつけたことのない天使みたいにすべすべだった。
やっとよく見えた我が子は、小さくてとても可愛らしかった。
私の胸はあったかいものでいっぱいになって、やっぱり涙があふれてきた。
これからこの子は、念のためNICUに行くそうだ。
その前にきっと、外で待つ彼と会うんだろうな。
彼はどんな顔をするだろう。
きっと喜んでくれるだろうな。
その姿を見られないのは残念だな。
3人での暮らしが始まるのか。
きっと大変なこともあるだろうな。
エバース、優勝できたかな。
退院するまで、ネットのネタバレに注意しなきゃ。
赤ちゃんの名前、どうしようかな。
あとで、どんなふうにお腹にいたのか先生に聞いてみよう。
早く抱っこしてあげたいな…
我が子の泣き声が聞こえなくなって、私の頭の中はまた色々なことが浮かんでいた。
だけど、今は眠りたかった。
先生たちがお腹を縫ってくれている中、私はゆっくり目を閉じた。