
苦い実(にがいみ)
あらすじ
東京都杉並区、100坪の実家。地元の名士だった父・宮本隆一郎が78歳で急逝した時、遺された兄妹三人――長男・健一、長女・美智子、次男・裕二――は、まだ互いを労り合っていた。だが遺産の9割を占める、たった一つの「分けられない」不動産を前に、絆は音を立てて崩れ始める。
法定相続分での共有登記、特別受益の持ち戻し、寄与分の主張――法律用語が飛び交う話し合いは決裂し、追い詰められた長男は自らの持分を「わけあり物件」専門の買取業者に売却してしまう。合法の範囲内で共有関係の隙間を突いてくる業者の影は、やがて共有物分割請求訴訟、そして競売へと家族を追い詰めていく。
隣人であり一級建築士の「私」が見届けた、ある一家の一年間の記録。不動産の「分けられなさ」と、人間の心の奥底に潜む「業」が家族を蝕んでいく恐怖を、緻密な法的根拠とともに描く。
## プロローグ:境界線の狂気
測量士が打ち込むコンクリートの境界杭が、まるで家族の心臓に直接打ち込まれているかのような錯覚を覚えた。杭が土に沈むたび、乾いた音が庭に響く。ただそれだけの音が、私にはなぜか断末魔のように聞こえた。
「おい、ふざけるな! そこは俺たちの子供部屋の真下だぞ!」
「お兄ちゃん、もうやめて! お父さんが亡くなったばっかりなのに、なんでそんなに汚い言葉が使えるの!?」
初夏の強い日差しの中、東京都杉並区にある100坪の敷地――実家――の庭で、かつて同じ食卓を囲み、互いの成長を喜び合っていたはずの兄妹が、鬼の形相で怒鳴り合っていた。
近隣の住民が、生垣の隙間から息を潜めてその様子を覗き見ている。数ヶ月前まで、彼らは近所でも評判の「仲睦まじい理想の家族」だった。病床の父を皆で看病し、互いを思いやる言葉をかけ合っていた、あの美しい家族だ。
それが今や、ただの一坪、ただの一円を巡って、互いの人生を呪い合う悪魔に変貌している。人間というのは、これほどまでに変わり果てるものなのかと、私はただただ呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。
私、この実家の隣に住む一級建築士の神崎(かんざき)は、境界立ち会いの証人としてその場に佇みながら、ただ背筋が凍るような冷たい戦慄を覚えていた。
実を言えば、私がこの手の光景を目にするのは、これが初めてではない。建築士という仕事柄、古い家を解体し、新しい家を建てる現場に数えきれないほど立ち会ってきた。そのたびに、更地になった土地の上で、遺族たちが小さな諍いを起こす場面を何度か見てきた。だが、今回ほど深く、長く、そして醜く続いた争いを、私は他に知らない。
不動産という、あまりにも巨大で、あまりにも「分けづらい」魔物が、人間の理性をいとも簡単に解体していく様を、私は特等席で見せつけられることになったのだ。
土地は、動かない。切り分けようとすれば、価値そのものが崩れる。現金であれば一円単位まで均等に分けられるのに、家と庭と記憶が染み込んだ土地だけは、そうはいかない。だからこそ人は、それを巡って正気を失う。私はこの日、そのことを骨身に染みて思い知ることになる。
境界杭の一本一本が、まるで家族の絆に引導を渡す釘のように、私の目には映った。
思い出すのは、十年ほど前に手がけた、ある建て替え現場のことだ。都内の閑静な住宅街に住む老夫婦の家を解体し、二世帯住宅を新築するという、ごくありふれた仕事だった。だが工事が始まる直前、施主である長男と、遠方に嫁いだ長女との間で、実家の土地の名義を巡る争いが持ち上がった。結局その現場は半年以上も工事が止まり、私は請負業者として、意味もなく更地のまま放置された土地を、ただ眺め続けるしかなかった。あの時感じた居心地の悪さと、今、宮本家の庭で感じている戦慄は、驚くほど似ている。
不動産の相続争いというのは、決して特別な家柄や、特別に強欲な人間だけに起こるものではない。ごく普通の、むしろ人並み以上に仲の良かった家族にこそ、時として牙を剥く。なぜなら、争いの火種は「悪意」ではなく、「無知」と「油断」から生まれるからだ。誰も悪人になろうとしたわけではない。ただ、誰も、不動産という財産の恐ろしさを、正しく知らなかっただけなのだ。
これから記すのは、私が隣人として、そしていくばくかは巻き込まれた当事者として見届けた、ある一家の一年間の記録である。固有名詞はすべて仮名とし、多少の脚色は加えているが、ここに描かれる法律上の顛末は、決して絵空事ではない。この国のどこかで、今この瞬間にも、似たような悲劇が静かに進行しているはずだ。
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## 第一章:遺された時限爆弾
### 隆一郎という男
宮本隆一郎(りゅういちろう)は、地元では名の知れた人物だった。若い頃は建築資材の卸業を営み、一代で会社を軌道に乗せ、杉並のこの土地に念願の家を建てたのは、今から四十年以上前のことだ。当時としては珍しい、庭付きの大きな二階建て。子供部屋を三つ作ったのは、「いずれ孫たちも呼べるように」という彼なりの夢だったと、生前によく聞かされたものだ。
一級建築士としての職業病かもしれないが、私はあの家の佇まいを、今でも鮮明に思い出すことができる。切妻屋根の下、南面には大きな掃き出し窓が並び、庭からの光がリビング全体に降り注ぐ設計になっていた。隆一郎さんが自ら工務店と何度も打ち合わせを重ねて決めたという、当時としては贅沢な作りだった。玄関脇の柿の木は、陽子さんが嫁いできた記念に植えたものだと聞いた。秋になると、たわわに実った柿を、隆一郎さんは近所に配って回るのが恒例行事になっていた。
そうした一つ一つのディテールが、この家には確かに「時間」が積み重なっていた。それは単なる建物としての資産価値には換算できない、けれど何物にも代えがたい価値だったはずだ。だが、相続という手続きの前では、そのすべてが「時価1億2,000万円」という、たった一行の数字に圧縮されてしまう。私はそのことに、建築に携わる者として、言いようのない虚しさを覚えずにはいられなかった。
私が神崎家として隣に越してきたのは二十五年前。以来、隆一郎さんとは庭木の手入れの相談をしたり、正月には酒を酌み交わす仲だった。彼は昔気質の人間で、家族に対しても「長男が家を継ぐもの」という感覚が根強く、健一には跡取りとしての期待を、美智子には「女の子だから」という理由でどこか一歩引いた接し方を、そして裕二には「末っ子は自由にさせてやればいい」という放任を、それぞれ異なる形で向けていた。
本人に悪気はなかったのだろう。だが、その"差"は、三人の子供たちの心に、それぞれ違う形の欠落を残していた。健一は「長男だから」という重圧を、美智子は「認められたい」という渇望を、裕二は「どうせ自分は期待されていない」という諦めを。
妻の陽子(ようこ)さんを五年前に亡くしてからは、隆一郎はこの広い家に一人で暮らし続けた。「まだ元気だから」「遺言なんて縁起でもない」と、私が生前、それとなく相続の相談窓口を紹介しようとしても、彼はいつも笑って手を振っていた。
「神崎くん、うちは仲がいいんだ。俺が死んだら、あいつらで話し合って、うまくやるさ」
その一言が、後にどれほど重い意味を持つことになるか、当時は誰も知らなかった。人は、目の前にいる家族の"仲の良さ"を、そのまま将来の"公平さ"だと思い込んでしまう。だが、仲の良さと、利害が衝突したときの公平さとは、まったく別の話だ。
### 幼い日の記憶
私がまだこの家族と親しく付き合う前――つまり陽子さんが元気だった頃の話を、隆一郎さんは酒の席でよく懐かしそうに語ってくれた。
健一が小学生の頃、隆一郎は彼を会社の忘年会に連れて行き、「これがうちの跡取りです」と取引先に紹介するのが常だった。健一はその度に誇らしげな顔をしたが、同時に「跡取りとして恥ずかしくない成績を取らなければ」という重圧を、子供心にも感じ取っていたという。中学受験に失敗した夜、隆一郎は何も言わずただ黙って健一の部屋の前を通り過ぎただけだったというが、健一にとってその沈黙は、どんな叱責よりも重く胸に刺さったらしい。
美智子は三人の中で唯一の女の子だった。運動会でリレーの選手に選ばれた時、隆一郎は仕事を理由に一度も応援に来なかった。「女の子なんだから、無理に目立たなくていい」というのが、当時の彼の口癖だった。美智子は表向きは気にしていないふりをしていたが、父の視線がいつも兄と弟に向いていることに、幼いなりに気づいていた。だからこそ、大人になってからの介護は、彼女にとって単なる親孝行以上の意味――「今度こそ父に認められたい」という切実な願い――を持っていたのかもしれない。
裕二は、生まれた時からすでに「末っ子は好きにさせておけばいい」という空気の中で育った。悪く言えば放任、良く言えば自由。彼はそのぶん誰よりも絵や物作りに没頭し、高校時代には美術部で頭角を現した。だが進路を相談した時、隆一郎は「絵で食っていけるほど甘くはないぞ」と一蹴した。裕二はその一言をきっかけに、進学先を美大からデザイン専門学校に変更したが、心のどこかで「自分だけが真剣に取り合ってもらえなかった」という感覚を、ずっと抱え続けていた。
三人はそれぞれ違う欠落を抱えたまま大人になった。そして皮肉なことに、その欠落は、父の遺産という具体的な数字を前にした時、初めて言葉になって表に出てきたのだ。「お兄ちゃんばかり跡取り扱いされてきたんだから、今度は私が」「私だけが親の面倒を見てきたんだから」「俺だけがまともに相手にされてこなかったんだから」――三者三様の理屈は、どれも一理あり、そしてどれも相容れなかった。
### 三人のきょうだい
遺された家族は3人。
**長男:宮本 健一(けんいち・52歳)**
都内の大手専門商社で課長を務める。プライドが高く、バブル期の感覚が抜けない。若い頃は「いずれ役員に」と嘱望されたが、この十年は同期に次々と追い抜かれ、内心では焦りを募らせていた。世田谷に一戸建てを構え、大学生の子供2人の学費と住宅ローンに喘いでいる。妻の由紀子(ゆきこ)は、健一の「長男としての見栄」に長年つきあわされてきたが、その我慢もそろそろ限界に近づいていた。
**長女:佐藤 美智子(みちこ・48歳)**
地方公務員の夫と結婚し、埼玉の分譲マンションに居住。パートをしながら堅実に暮らす。10年間、週末ごとに実家に通い、父の介護や身の回りの世話を一身に背負ってきた。買い物、通院の付き添い、確定申告の手続き、庭の草むしりに至るまで、すべて彼女が担った。健一や裕二からは「ありがとう」の一言はあっても、実際に手を動かすことはほとんどなかった。美智子自身、それを不満に思いながらも、「私がやらなきゃ誰がやるの」という使命感と、「いつかお父さんが分かってくれる」という淡い期待だけを支えに、十年という歳月を費やしてきた。
**次男:宮本 裕二(ゆうじ・45歳)**
自由奔放なフリーのウェブデザイナー。独身。定職とは言えず、収入は不安定。数年前、事業資金の穴埋めとして、父・隆一郎からまとまった資金援助を受けている。裕二自身は「あれは援助であって借金ではない」と思っている節があったが、隆一郎はその金を渡す際、几帳面にも家計簿にメモを残していた。「裕二へ、事業資金として。1,500万円」――そのメモの存在を、この時の裕二はまだ知らない。
裕二がその資金を必要としたのは、7年前に立ち上げた小さなデザイン会社が原因だった。友人と二人で始めた会社は、最初の一、二年こそ順調だったが、大口クライアントの一社が突然倒産し、売掛金が回収できなくなったことで資金繰りが一気に悪化した。従業員への給料の支払いにも窮した裕二は、意地とプライドを捨てて実家の門を叩いた。
「親父、頼む。このままじゃ従業員に給料も払えない。1,500万、貸してくれないか」
隆一郎は多くを語らず、翌週には裕二の口座に振り込みをしていた。ただ、その振込のたびに、几帳面な性格の隆一郎は家計簿に一行、記録を残していた。「これは援助だ、恩に着るなよ」と父は笑って言っていたが、裕二の記憶の中では、それはあくまで「困った時に助けてくれた優しい父」の話であって、「相続分を先取りした」という自覚はまるでなかった。
結局、会社は一年半後に畳むことになり、裕二はフリーのウェブデザイナーとして再出発した。あの時の挫折以来、裕二は「自分は家族の中で唯一、まともに成功できなかった人間だ」という劣等感を、誰にも言わずに抱え続けていた。だからこそ、実家に住む権利にだけは、人一倍こだわったのかもしれない。
### 最期の日々
隆一郎が体調を崩したのは、一年前の冬だった。健康診断で胃に影が見つかり、精密検査の結果は進行した胃がんだった。すでに手術適応はなく、緩和ケアを中心とした治療方針が示された。
告知を受けた日、美智子は病室で声を殺して泣いた。健一は「セカンドオピニオンを取るべきだ」と息巻いたが、結局は仕事を理由に月に一度顔を出す程度だった。裕二は「親父、大丈夫か」とLINEでメッセージを送るだけで、実際に病室を訪れたのは数えるほどだった。
在宅での療養を選んだ隆一郎を、実質的に支えたのは美智子だった。訪問看護師の手配、介護保険の申請、夜中の付き添い――すべて彼女が一人で担った。夫からは「そんなに実家ばかりに時間を使って、うちの家庭はどうするんだ」と何度も言われたが、美智子は「お父さんの最期くらい、私がちゃんと看てあげたい」と、その声を振り切り続けた。
この頃、美智子は地域の「介護者の会」という小さな集まりに月に一度顔を出していた。同じように親の介護を担う人たちが、愚痴とも相談ともつかない言葉を交わし合う場だ。ある夜の集まりで、美智子はぽつりとこう漏らしたことがある。
「私、別に見返りが欲しくて介護してるわけじゃないんです。ただ、いつか兄や弟が『美智子のおかげだ』って、ちゃんと言ってくれたら、それでいいんです」
会の代表を務める年配の女性は、静かにこう返した。
「美智子さん、それは危ないよ。『いつか認めてもらえる』って思いながら頑張ると、認めてもらえなかった時の反動が怖いの。うちも義母の介護を十年やったけど、相続の時、誰も労ってなんてくれなかった。介護の苦労と、相続の取り分は、残念だけど別物なのよ。裁判所だって、よっぽど証拠がなければ、寄与分なんて簡単には認めてくれない」
その言葉を、当時の美智子は「そんなことはない、うちは違う」と聞き流していた。だが後になって、この夜の忠告がどれほど的確だったかを、彼女は思い知ることになる。
半年前、初夏のある朝。隆一郎は、静かに、眠るように息を引き取った。享年78。最期の言葉は、うわ言のように「みちこ……ありがとうな……」という一言だったと、美智子は涙ながらに健一と裕二に伝えた。
### 葬儀の夜
葬儀の夜、実家のリビングで、3人は悲しみを共有していた。
「お父さん、最期は苦しまなくて本当によかった」と美智子が涙を拭えば、健一も「ああ、美智子がずっと面倒を見てくれたおかげだ。感謝している」と労った。裕二も「これからは、残された俺たちきょうだいで仲良くやっていこう」と頷いた。
親戚の中には、香典を渡しながら小声で「あそこの土地、坪単価もいいから、相当な額になるでしょうねぇ」と耳打ちしてくる者もいた。美智子はその言葉に眉をひそめたが、健一はどこか値踏みするような表情でうなずいていたのを、私は隣の敷地から垣間見てしまった。
その時点では、誰もが本気で「仲良くやっていこう」と思っていたのだろう。家族の絆は揺るぎないものだと、全員が信じて疑わなかった。
しかし、四十九日の法要が明けた席で、健一が切り出した一言から、歯車は急速に狂い始める。
「さて、そろそろ親父の遺産の整理をしないとな。四十九日も過ぎたし、相続税の申告期限(10ヶ月)もある。まずは、何がどれだけあるかを確認しよう」
机の上に並べられたのは、通帳数冊と、実家の不動産登記簿謄本だった。
その現実に、3人は言葉を失った。
**【宮本隆一郎の遺産】**
* 杉並区の実家(土地・建物):時価 約1億2,000万円
* 預貯金:約1,500万円
合計1億3,500万円。一見すると十分な遺産に見える。だが、法律が定める法定相続分は、きょうだい3人で均等に「3分の1ずつ(各4,500万円)」である。そして遺産の9割近くが、たった一つの、切り分けようのない不動産に固まっていた。これが、すべての悲劇の引き金だった。
「……預貯金が、これだけしかないのか?」
健一の声が、心なしか震えていた。彼は内心、数千万円のキャッシュがあると思い込んでいたのだ。自分の住宅ローンの繰り上げ返済と、長男の留学費用、合わせて2,000万円はどうしても欲しかった。実は健一は、この日のために、こっそりと近所の不動産会社に実家の簡易査定を依頼していた。「1億2,000万は下らない」という査定書を、彼は鞄の奥にしまい込んでいた。
「お兄ちゃん、お父さんの晩年の医療費や施設代、それにこの家の維持費で、貯金はかなり崩していたのよ。私が毎月家計簿をつけていたから、領収書は全部あるわ」
美智子が静かに言った。彼女の計算では、自分がこれまで介護に尽くしてきた分――法律上「寄与分」と呼ばれるものだ――が当然考慮されるべきだと思っていた。ただし、それは相続人全員の合意か、こじれれば家庭裁判所の審判を経て初めて金額が確定するものだということを、この時の彼女はまだ知らなかった。
そこへ、次男の裕二が口を挟む。
「なあ、俺さ、今の賃貸マンションの更新があるんだよね。この実家、誰も住まないなら、俺が移り住んでもいいかな? 家賃も浮くし、お父さんの家を守れるだろ?」
健一と美智子の視線が、一瞬で険しくなった。
「裕二、お前何を言っているんだ。この一等地を独り占めにする気か?」
「独り占めなんて言ってないじゃん! 権利はみんなにあるんだから、とりあえず俺が住んで、みんなで『共有』にすればいいだろ?」
「共有」という、法律上最も危険な麻薬のような言葉が、この時初めてリビングに響いた。
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## 第二章:「共有」という底なし沼
### 専門家という名の防波堤
この段階で、私は美智子に一つの助言をした。「これ以上こじれる前に、司法書士か弁護士に相談した方がいい」と。美智子は素直にその助言を受け入れ、私の知り合いの司法書士・大野(おおの)先生を紹介することにした。
大野先生の事務所を三人揃って訪れた日のことを、私は今もよく覚えている。健一は終始腕を組み、不機嫌そうにしていた。「わざわざ金を払って専門家に相談するようなことか」という態度が、隠しきれていなかった。
大野先生は、穏やかな口調で、しかし明確にこう告げた。
「まず大前提として、遺言書がない以上、遺産分割協議――つまり相続人全員の話し合いによる合意――がまとまるまで、この不動産は法律上、お三方の『遺産共有』という状態になります。これは民法上、お三方が法定相続分の割合(各3分の1)で共同所有している状態と扱われます」
「じゃあ、話し合いさえまとまれば問題ないんですよね」と美智子が尋ねた。
「その通りです。ですが、まとまらなかった場合の選択肢も、あらかじめ知っておいた方がいい。不動産の分け方には大きく三つの方法があります。一つ目は『現物分割』。土地を物理的に切り分ける方法ですが、この土地はお庭を含めて100坪。三等分すれば一つあたり33坪ほどになり、建物の位置関係からいっても現実的ではありません。二つ目は『代償分割』。どなたか一人が不動産を単独で相続する代わりに、他のお二方に代償金――つまり不動産の価値に見合う現金――を支払う方法です。三つ目は『換価分割』。不動産を売却して、その代金を分ける方法です」
健一は代償分割という言葉に露骨に反応した。「じゃあ、俺がこの家を継いで、二人に金を払えばいいんですね」
「理屈の上ではそうです。ただし、健一さんのお話を伺う限り、美智子さんと裕二さんお二人分、合わせて9,000万円ものお金を、今すぐご用意できますか?」
健一は黙り込んだ。できるはずがなかった。
大野先生は続けた。「代償分割は、言うのは簡単ですが、実行するには相応の資金力が必要です。それがなければ、結局は売却して分けるしかない。もし三人の話し合いがまとまらない場合は、家庭裁判所での『遺産分割調停』という手続きに進むことになります。それでもまとまらなければ『審判』で裁判所が強制的に分け方を決めることになります」
遺産分割調停とは
相続人同士の話し合いがまとまらないときに、家庭裁判所で第三者(裁判官+調停委員)が間に入り、合意による遺産の分け方を目指す手続です。 話し合いで解決できなければ、調停は不成立となり自動的に「審判」(裁判官が決める手続)へ移行します。
美智子が「じゃあ、お父さんが遺言書さえ書いておいてくれれば、こんなことにはならなかったんですね」と尋ねると、大野先生は少し複雑な表情を浮かべた。
「遺言書があれば、少なくとも今のような混乱は避けられたでしょう。ただし、遺言があれば万事解決というわけでもありません。たとえば『実家はすべて健一に相続させる』という遺言を残したとしても、美智子さんと裕二さんには『遺留分』という、法律上どうしても保障される最低限の取り分があります。遺留分は法定相続分のさらに半分、つまりお二人でしたら、それぞれ本来の相続分の半分にあたる金額を、たとえ遺言に反してでも請求できる権利です。ですから、偏った内容の遺言を残せば、今度は『遺留分侵害額請求』という、また別の争いの火種になりかねません。大事なのは、遺言を書くこと以上に、生前にご家族全員が納得できる形を、隆一郎さんご自身が用意しておくことだったんです。たとえば生前に不動産を売却して現金化しておく、あるいは家族信託を使って、健一さんが実家を管理しつつ、売却益は三人で分ける仕組みをあらかじめ作っておく、といった方法もありました」
遺留分とは
配偶者・子・直系尊属など“特定の相続人”に法律が保障する、遺産の最低限の取り分のことです。 遺言で極端に偏った分け方をされても、この最低限の部分だけは金銭で取り戻せる仕組みです。
遺言の自由を認めつつ、近しい家族が生活に困らないよう最低限の取り分を確保するため、「全財産を第三者へ遺贈」など極端な遺言があっても、一定の相続人は侵害された分を請求できます。
この場では、三人とも神妙な顔で頷いていた。だが、事務所を出た瞬間、健一は吐き捨てるように言った。
「結局、話し合いでどうにかしろってことだろ。金なんかかけずに、俺たちで解決できるさ」
その慢心が、後にどれほどの代償を伴うことになるか、彼はまだ知らなかった。
### 話し合いの決裂
数週間後。案の定、話し合いは平行線をたどった。
健一は「今すぐ実家を売却して現金化し、3等分(各4,500万円)にすべきだ」と主張した。自身の経済的困窮を隠すための必死の提案だった。
美智子は「私は10年間、有給も返上して介護した。その分の考慮がないのはおかしい。それに、お父さんは生前『美智子には苦労をかけるから、この家をあげる』と言っていた」と、口頭での約束(遺言書はない)を主張した。
裕二は「売却には反対だ。俺はここに住む権利がある。どうしてもというなら、俺の分の4,500万円を今すぐ現金でくれ」と譲らない。だが、健一にも美智子にも、裕二に支払うための4,500万円もの手元資金などあるはずがなかった。
話し合いは何度も繰り返されたが、そのたびに三人の間の溝は深くなっていった。ある夜、私はたまたま実家の庭先を通りかかり、リビングから漏れる怒鳴り声を耳にした。「お前はいつもそうやって被害者面をする」「お兄ちゃんこそ、自分のことしか考えてない」――そんな言葉の応酬が、薄い窓ガラス越しに響いていた。
この頃、健一の自宅では、由紀子との間にも深い溝ができ始めていた。
「ねえ、あなた。お義父さんの家、結局どうなるの? うちの息子の学費、待ったなしなのよ」
「分かってる。今、話し合ってる最中だ」
「話し合いって、もう三ヶ月も経ってるじゃない。美智子さんも裕二くんも、それぞれ言い分があるんでしょう? あなた、ちゃんと自分の取り分、主張できてるの? 昔から、あなたは肝心なところで押しが弱いんだから」
由紀子のその一言は、健一のプライドを深く傷つけた。長男として家族をまとめる立場でありながら、実際には何一つ決められずにいる自分への苛立ちが、由紀子の言葉によって、はっきりと言語化されてしまったからだ。
「うるさいな! 俺だって、必死でやってるんだよ!」
「必死なのは分かるけど、結果が出てないじゃない。あなたのその優柔不断さのせいで、うちの生活が犠牲になるのは困るのよ」
その夜、健一は一人リビングで、スマートフォンの画面を睨み続けていた。検索窓に打ち込んだのは、「相続 不動産 共有 持分 早く現金化」という言葉だった。表示された広告の中から、彼はやがて一つの業者のサイトをクリックすることになる。
業を煮やした健一は、ついに独断で「ある手続き」に踏み切った。
遺産分割協議がまとまらなくても、各相続人は単独で法定相続分どおりの相続登記を申請できる。これは大野先生が説明した「法定相続分での共有登記」そのものだった。健一はその権利を、他の二人に相談することなく行使したのだ。
実家の不動産名義は、【宮本健一・佐藤美智子・宮本裕二:各3分の1】という共有名義に変更された。
「これで文句ないだろ。全員が3分の1ずつ、平等にこの家の権利を持ったんだ。だから、多数決、いや、全員の合意でこの家を売るぞ」
健一は得意げに書類を突きつけたが、これが最悪の泥沼への入り口であることを、彼は知らなかった。共有とは、平等の証ではない。それは、全員が互いの人生を握り合う人質状態の始まりに過ぎなかった。大野先生が最初に警告していたはずの「まとまらなければどうなるか」という未来図を、健一はこの時、自らの手で最悪の形に近づけてしまったのだ。
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## 第三章:業者の影
### 持分だけの売却
ある日、隣人である私の元に、美智子が血相を変えて飛び込んできた。
「神崎さん、大変なことになったの……。お兄ちゃんが、信じられないことをして……」
聞けば、健一が自分の持分(3分の1)を、こともあろうに「わけあり物件」を専門に扱う、不動産買取業者に勝手に売却してしまったというのだ。
健一の言い分はこうだった。会社での評価はますます下がり、住宅ローンの返済も滞りがちになっていた。そんな折、ネットで見つけた「共有持分 買取します、相続トラブルでも即現金化」という広告に、藁にもすがる思いで連絡を取ったのだという。
最初に電話をかけた時、対応した営業担当者の声は、拍子抜けするほど親切だった。「共有持分だけのご売却でも、当社なら即日で概算査定をお出しできます。ご家族に知られたくないお気持ち、よく分かりますよ」――その言葉に、健一はどこかで安堵すら覚えたという。
数日後、担当者は健一の自宅近くの喫茶店まで足を運び、書類を広げて説明を始めた。「健一様の持分は、本来の評価額でいえば4,000万円前後になります。ただ、共有持分のみのご売却となりますと、当社としても他の共有者様との調整リスクを背負うことになりますので、買取価格はどうしても市場流通価格より低くなってしまいます。3,000万円でしたら、契約から一週間以内に現金化が可能です」
健一は内心、「安すぎるのではないか」と思いながらも、由紀子から突きつけられた離婚を仄めかす言葉、子供たちの学費の督促状、住宅ローンの延滞通知――それらの重圧の前に、冷静な判断力を失っていた。契約書に判を押すその手は、わずかに震えていたという。
健一は3,000万円ほどの現金を手にしたが、それは本来の持分価値(約4,000万円)よりもはるかに安い金額だった。彼はその晩、誰にも告げずに一人で安酒を呷り、「これで一旦は楽になる」と自分に言い聞かせた。だが、その"楽"は長くは続かなかった。
「そんな馬鹿なことが……」と私は絶句した。
確かに法律上、共有持分「だけ」であれば、他の共有者の同意がなくても第三者に売却することができる。共有者には他の共有者の持分を優先的に買い取る権利など、原則として存在しない。だが、そんな中途半端な権利を金を出して買い取るのは、一般の個人投資家ではない。最初は持分を取得することから始まり、最終的に不動産全体を安値で手中に収めることを生業とする、プロの「専門業者」だけだ。ただ誤解しないでほしいのは、客観的には「悪徳」のような見え方をする「専門業者」だが、現金需要がある場合や、共有者間の調整に苦慮する不動産の持分権利者にとってはありがたい存在であることを。
私はすぐに、以前世話になった弁護士の高橋(たかはし)先生に連絡を取った。高橋先生は、事情を聞くなり、深いため息をついた。
「よくある手口です。共有持分だけを買い取る業者は、その持分を担保に他の共有者に働きかけ、最終的には持分を取得値よりも高い金額で買い取らせるか、逆に他の共有者の持分も安く買い取るか、あるいは共有物分割訴訟を起こして競売に持ち込むか――いずれにせよ、業者が損をすることのない仕組みになっています。残念ながら、これは違法ではありません。合法の範囲内で、共有という制度の隙間を突いてくるんです」
### 攻勢
翌日から、宮本家の実家には、黒いスーツを着た男たちが頻繁に出入りするようになった。
彼らは、実家に居座る裕二に対し、働きかけてきた。
「宮本裕二さん、私たちは健一さんからこの土地の3分の1を正当に買い取りました。つきましては、あなたがこの家を単独で使用していることに対し、私たちに『家賃(地代)相当額』を支払っていただくか、さもなければ、あなたの持分を我々に売ってください。あるいは、我々の持分をあなたが4,000万円で買い取りますか?」
裕二にそんな大金があるはずもない。男たちは美智子の自宅にも押しかけ、内容証明郵便まで送りつけてきた。文面には「共有関係を解消するために、裁判所に共有物分割請求訴訟を提起する準備がある」旨が、慇懃無礼(いんぎんぶれい)な言葉で綴られていた。
ある日の夕方、私は自宅の前で、実家から出てきたばかりの、あの黒いスーツの男と鉢合わせした。名刺には「〇〇不動産コンサルティング 権利調整部」という、いかにも仰々しい肩書きが刷られていた。
「隣に住んでいる神崎という者です。少し伺いたいのですが、御社は本当に、あの土地全体を買い取るおつもりなんですか」
男は営業スマイルを崩さずに答えた。「私どもは、あくまで正当な権利者として、共有関係の適正な解消をお手伝いしているだけです。何もやましいことはしておりません」
「適正な解消、ですか。それにしては、随分と足繁く通っていらっしゃる」
「ご家族間の話し合いが難航しているようでしたので。私どもとしても、できるだけ穏便に、任意での解決を望んでおります。ただ、それが難しいようでしたら、法的な手続きに進まざるを得ません。それだけのことです」
男の言葉には、一分の隙もなかった。脅しているわけでも、嘘をついているわけでもない。ただ、合法の範囲内で、最も自分たちに有利な結果に向けて、粛々と手続きを進めているだけだ。その徹底した合理性こそが、私にはこの上なく不気味に映った。人間の情に訴える余地など、彼らのビジネスモデルには最初から組み込まれていないのだ。彼らにとって宮本家の物語は、無数に扱ってきた案件の一つに過ぎない。悲しむべき喪失も、積み重ねてきた歳月も、彼らの前ではただの数字の変数でしかなかった。
美智子はすぐに高橋先生の元へ相談に走った。高橋先生は、内容証明を一読して淡々と説明した。
「これは脅しではなく、実際にできることです。共有物分割請求訴訟を起こされた場合、裁判所はまず現物分割が可能かを検討します。しかしこの物件のように、建物一棟しかない100坪の宅地では、現実的に現物分割は困難と判断されるでしょう。次に検討されるのが、どなたか一人が他の共有者の持分を金銭で買い取る『価格賠償』――いわゆる代償分割です。ですが、業者側にそれを買い取るだけの資金力がないと判断されれば、最終的には競売による『換価分割』が命じられます。競売になれば、市場価格よりもかなり安い金額でしか売れません」
「そんな……。私たちが望んだわけでもないのに、裁判所が勝手に家を競売にかけるんですか?」
「望むと望まざるとにかかわらず、共有者の一人が分割を求めれば、原則として裁判所はそれに応じざるを得ません。共有というのは、そういう不安定な状態なんです。だからこそ弁護士も司法書士も、口を揃えて『共有にするのは最後の手段にしてください』と言うんですよ」
美智子は、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
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## 第四章:暴かれる秘密
### 疑心暗鬼
恐怖とストレスで、美智子はまたたく間に痩せ細っていった。
彼女の夫も「もうそんな不気味な事件に巻き込まれるのは御免だ。遺産なんて一円も要らないから、縁を切れ!」と激怒し、夫婦仲は冷え切った。
美智子は狂ったように怒りの矛先を健一に向けた。
「お兄ちゃん! 自分の借金のために、ヤクザみたいな業者に実家を売るなんて、人間のやることじゃないわ! お父さんが草葉の陰で泣いているわよ!」
健一も、すでに追い詰められていた。会社での降格人事、妻からの離婚の匂わせ。
「うるさい! 俺だって必死なんだ! そもそも、裕二がわけのわからない主張をしなければこうはならなかった! それに美智子、お前『介護した』って威張っているけど、お父さんの口座から毎月、自分の生活費として数万円ずつ引き出していただろ! 業務上横領みたいなものじゃないか!」
「なんですって!? あれはお父さんの日用品や、私のお弁当代としてお父さんが『使いなさい』って言ってくれたお金よ! それを言うなら、裕二はどうなのよ!」
美智子の矛先が裕二に変わる。
「裕二! あなた、7年前に自分の会社がつぶれかけた時、お父さんから『1,500万円』出してもらったわよね!? あれは立派な『特別受益』よ!」
高橋先生に事前に確認していた美智子は、続けてこう言い放った。
「特別受益っていうのはね、生前に受けた贈与を、相続分の前渡しとして扱う制度なの。あなたが受け取った1,500万円は、遺産の総額に一度足し戻して、その上であなたの取り分から差し引く『持ち戻し』の対象になるのよ。お父さんの通帳にちゃんとメモが残っていた。『裕二へ、事業資金として。1,500万円』ってね。この計算をすれば、あなたの具体的な相続分は、ゼロに近いか、下手をすればマイナスになるはずよ!」
「……な、なんだよそれ。あれは借金じゃなくて、お父さんが応援してやるってくれた金だろ! 今さら昔の話を持ち出すなよ! だいたい、特別受益だって、お前らの合意がなきゃ確定しないんだろ! 家庭裁判所が決めることだって、この前の弁護士も言ってたじゃないか!」
裕二の顔が、恐怖と怒りで歪む。彼の言い分にも一片の正しさはあった。特別受益や寄与分は、当事者の一存では確定しない。だからこそ、この家族には、もはや話し合いで解決する道は残されていなかった。
昨日までの「お兄ちゃん」「美智子」「裕二」という呼び方は消え去り、そこにあるのは、互いの過去の汚点を暴き立て、肉親の皮を被った醜い獣たちの怒号だけだった。
彼らは気づいていなかった。
彼らが憎しみ合っている背後で、あの不動産業者が、すべてを計算通りという不気味な笑みで見つめていることに。
### 最後の食卓
見かねた私は、隣人としての立場を越えて、一つの提案をした。「一度、私の家で、三人だけで食事でもしながら、冷静に話してみないか」と。隆一郎さんに生前お世話になった恩返しのつもりもあった。
三人は渋々ながらも、その申し出を受け入れた。私の妻が用意した鍋を囲みながら、最初は当たり障りのない世間話が続いた。健一の子供の進学の話、美智子の趣味の話、裕二の最近手がけた仕事の話。ほんの数十分だけ、そこには昔のような、穏やかな空気が流れていた。
だが、鍋の湯気が落ち着いてきた頃、裕二がぽつりと漏らした。
「なあ……正直、俺、あの家に住みたかっただけなんだよ。金が欲しいわけじゃない。ただ、親父が死んで、行き場がなくなるのが怖かっただけなんだ」
その言葉に、美智子の目が潤んだ。「裕二……」
一瞬、空気が和らいだかに見えた。だが、健一が続けて発したひと言が、すべてを壊した。
「じゃあ、お前が住むにしても、俺たちの持分相当の金は払えるのか? 気持ちは分かるが、気持ちだけじゃ生活できないんだよ」
「……また、金の話かよ」
「金の話じゃない場面なんて、もう一つもないだろうが! 現実を見ろよ!」
裕二は箸を置き、無言で席を立った。美智子も、健一の言い方に静かに首を振り、後を追うように帰っていった。鍋の残りだけが、寂しく湯気を立てていた。
その夜、私は妻に「もう、誰にも止められないのかもしれない」と漏らした。三人はそれぞれ、本当は仲直りしたいと願っている。だが、不動産という具体的な金額を伴う現実が、その願いをことごとく踏みにじっていく。感情では歩み寄れても、勘定では歩み寄れない――それが、この一家が陥った、最も残酷な罠だった。
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## 第五章:調停、そして法廷へ
### 家庭裁判所
高橋先生の勧めで、美智子は家庭裁判所に「遺産分割調停」を申し立てた。これは、裁判官と調停委員が間に入り、話し合いによる解決を目指す手続きだ。調停では、当事者双方が同じ部屋で顔を合わせることはなく、交互に呼ばれて調停委員に自分の言い分を伝える形式が取られる。
第一回の調停期日、先に呼ばれた美智子は、これまでの介護の記録――通院の付き添いメモ、家計簿、領収書の束を、震える手で調停委員に差し出した。
「私は十年間、休日を返上して父の世話をしてきました。これだけの記録があります。寄与分として、正当に評価していただきたいんです」
調停委員は記録に丁寧に目を通しながら、静かに尋ねた。「美智子さん、この介護によって、お父様の財産の維持や増加に、具体的にどう貢献したとお考えですか? たとえば、介護のために本来かかるはずだった施設費用を、どの程度削減できたと言えますか?」
美智子は言葉に詰まった。感情としては十年分の献身がある。だが、それを「財産の維持・増加への貢献」という法律の物差しに置き換えると、途端に心許ない数字になってしまう。調停委員は優しく、しかしはっきりと告げた。
「お気持ちはよく分かります。ただ、寄与分の主張は、単なる親孝行や扶養の範囲を超える『特別の寄与』であることを、具体的な資料で示す必要があります。今の資料だけでは、裁判所が認める金額は、美智子さんが期待されているほど大きくはならないかもしれません」
次に呼ばれた裕二は、健一の共有持分売却について、怒りを露わにした。「兄が勝手に業者に売ったせいで、話がこじれてるんです。これは家族への裏切りじゃないんですか」
調停委員は淡々と答えた。「お気持ちは理解しますが、共有持分の処分は法律上健一さんの権利の範囲内であり、それ自体を違法と扱うことはできません。むしろ今、私たちが検討すべきは、残されたお二人の持分について、どう円満に決着をつけるかです」
一日がかりの調停を終え、控室で顔を合わせた美智子と裕二は、互いに目も合わせなかった。それぞれが抱いてきた「自分こそが割を食っている」という思いは、法律という物差しの前では、思ったほど強い武器にはならなかったのだ。
調停の場では、健一の共有持分売却の経緯、美智子の寄与分の主張、裕二の特別受益の扱いが、それぞれ調停委員によって丁寧に整理されていった。だが、すでに健一が自分の持分を第三者(買取業者)に売却してしまっている以上、話はより複雑になっていた。買取業者はこの遺産分割調停の当事者ではない。健一の持分は、もはや「宮本家の遺産」ではなく、「業者が所有する第三者の財産」となってしまっていたからだ。
調停委員の一人は、疲れたような表情でこう告げた。
「本来であれば、寄与分や特別受益を考慮した上で、遺産全体を適正に分配する調停を進めたいところです。ですが、健一さんの持分はすでに業者の手に渡っています。美智子さんと裕二さんの間で、残る2つの持分について話し合うことはできますが、業者が絡む3分の1については、私たちの調停の範囲外です。業者との関係は、共有物分割請求訴訟という、別の民事訴訟で決着をつけるほかありません」
つまり、美智子と裕二は、亡き父の遺産分割という「家族内の問題」と、業者から持分を守るという「対外的な訴訟」を、同時に戦わなければならなくなっていたのだ。
### 共有物分割請求訴訟
数ヶ月後、案の定、業者は共有物分割請求訴訟を東京地方裁判所に提起した。訴状には、慇懃な文体で「共有関係の解消」と「換価分割による競売」が求められていた。
裁判所は、まず現物分割の可能性を検討したが、100坪の敷地に建物一棟という物件の性質上、これを現実的に三分割することは不可能と判断された。次に検討されたのが代償分割――業者の持分を美智子と裕二が買い取る、あるいは美智子と裕二の持分を業者が買い取るという方法だったが、いずれの側にもそれだけの資金力はなかった。
高橋先生は、法廷を出た後、疲れた声で美智子に告げた。
「裁判所は、おそらく換価分割――つまり競売による分割を命じるでしょう。競売になれば、まず裁判所が『売却基準価額』という、いわば最低ラインの評価額を決めます。ただ、競売物件というのは市場での通常売買に比べて買い手がつきにくいため、実務上は売却基準価額そのものが市場価格の6〜7割程度に設定されることが多いんです。さらに実際の入札では、その基準価額に近い金額でしか値が付かないことも珍しくない。つまり、1億2,000万円の価値がある不動産でも、競売にかければ7,000万円前後まで目減りしてもおかしくないということです」
美智子は絶句した。「そんなに安くなるんですか……」
「加えて、競売には別の共有者や、業者自身も入札に参加できます。資金力のある業者が、市場価格よりずっと安い金額で自ら落札してしまう、というケースも実際にあるんです。競売にかけられるより、任意売却で業者の持分を買い取るか、あるいは業者に自分たちの持分を売る形で和解する道もあります。競売にかけられるより、任意で決着をつけた方が、まだ手取りは残ります」
すでに精神的にも金銭的にも限界を迎えていた美智子と裕二には、もはや戦う体力は残されていなかった。
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## エピローグ:相続の果てにある風景
1年後。
宮本家の実家があった場所には、真新しい建売住宅が3棟、無機質に並んでいた。
結局、共有物分割請求訴訟の重圧に耐えかねた美智子と裕二は、精神的に限界を迎え、業者の提示した言い値(相場よりも遥かに安い価格)で、自分たちの持分もすべてその業者に売却せざるを得なくなったのだ。
1億2,000万円の価値があったはずの土地は、きょうだいの内紛によって買い叩かれ、最終的に業者に文字通り「貪り食われた」。
手元に残ったのは、雀の涙ほどの現金と、修復不可能なまでに破滅した家族の関係だけだった。
健一は、売却益の大部分を業者への支払いと自身の借金返済で失い、妻とは別居。かつて肩で風を切っていた商社での役職も、静かに降格の内示を受けたと聞く。会社の同僚の間では、「宮本さん、実家の相続でトラブったらしいよ」という噂が、いつの間にか広まっていたという。長男としてのプライドだけを支えに生きてきた健一にとって、それは何よりも屈辱的な事態だった。
彼が最後に私にかけてきた言葉は、「俺は、悪いことをしたつもりはないんだ」という、力のない呟きだった。「ただ、早く楽になりたかっただけなんだ。それの何が悪いんだ」と、彼は誰に問うでもなく繰り返していた。その姿は、かつて取引先に「これがうちの跡取りです」と胸を張って紹介されていた少年の面影とは、もはや似ても似つかないものだった。
美智子は、心身を病み、優しかった夫との離婚調停が進行中だ。10年間の介護は、寄与分としてわずかばかりの上乗せが認められたものの、彼女が費やした時間と心労に見合う金額では到底なかった。調停委員からは「お気持ちは分かりますが、法律上評価できる部分には限りがあります」と繰り返し告げられ、そのたびに美智子は、自分の十年間が数字の上でひどく軽く扱われているように感じたという。
心療内科に通うようになったのも、ちょうどその頃からだ。夜、眠れずに天井を見つめていると、決まって父の最期の言葉――「みちこ……ありがとうな……」――が頭の中で繰り返された。あの言葉さえなければ、自分はこんなに苦しまずに済んだのだろうか、と彼女はふと考えることがあるという。「私、何のために頑張ってきたんだろう」と、最後に会った時、彼女は乾いた声でそう漏らした。
裕二は、受け取ったわずかな金を元手に夜の街へと消え、完全に音信不通となった。彼が最後にいた実家の部屋には、父の遺影だけが取り残されていたという。
引っ越しの立ち会いに来ていた業者の作業員が、片付けの最中に見つけたという裕二のノートを、後日私は美智子経由で見せてもらったことがある。そこには、几帳面な字で、こう書きなぐられていた。
「結局、俺はどこにも居場所がなかった。実家にも、家族にも。金の問題じゃない。ただ、誰か一人でいいから、俺の話をちゃんと聞いてほしかっただけなのに」
その一節を読んだ時、私は胸を締め付けられる思いがした。裕二が本当に欲しかったものは、4,500万円という数字でも、実家という不動産でもなかったのかもしれない。ただ、家族の中に確かな居場所があるという実感――それだけだったのではないか。だが、いったん「共有」という数字の争いが始まってしまうと、そうした情緒的な渇望は、誰の目にも見えなくなってしまう。
先日、私は街の不動産屋の店頭で、かつての宮本家の土地に建てられた新築物件のチラシを見かけた。
『杉並の一等地・限定3棟。陽当たり良好、家族の絆を育む家』
そのキャッチコピーを見た瞬間、私は乾いた笑いが込み上げてくるのを止められなかった。
家族の絆を木端微塵に砕いたその跡地に、「家族の絆を育む家」が建つ。これ以上の皮肉があるだろうか。
もし――。
もし、生前に隆一郎さんが、たった一枚でも「遺言書」を残していてくれたら。あるいは、信頼できる専門家に相談し、実家を生前に売却して現金化しておくか、家族信託という形で将来の管理者をあらかじめ決めておいてくれたら。
あるいは、健一たちが暴走する前に、不動産を「共有」にすることの恐ろしさ――それが権利の平等ではなく、互いの人生を握り合う人質状態に過ぎないという事実――を、誰か一人でも知っていれば。
彼らは今も、笑顔で正月の食卓を囲んでいたはずなのだ。
西日に照らされる無機質な建売住宅を見上げながら、私は深くため息をついた。私の耳には、今もあの庭で響いていた、血を分けたきょうだいたちの呪い合いの声が、風の音に混じって聞こえるような気がしてならない。
不動産は、分けられない。だからこそ、遺す者は、遺される者のために、あらかじめ答えを用意しておかねばならない。それを怠った代償を、この街はまた一つ、静かに飲み込んだ。
そして私は今日もまた、隣の更地に杭を打つ測量士の音を聞きながら、次はどこの家族の番だろうかと、ふと考えてしまう自分に、気づかぬふりをするのだった。
### 数年後の便り
それから三年ほど経ったある日、私の元に一枚のはがきが届いた。差出人は美智子だった。離婚が成立し、彼女は今、埼玉のアパートで一人、パート勤めを続けながら静かに暮らしているという。はがきの最後にはこう書かれていた。
「神崎さん、あの頃は本当にお世話になりました。今でも時々、あの家の庭を思い出します。お父さんが元気だった頃、みんなで西瓜を割った夏の日のことばかり、なぜか浮かんでくるんです。お金の話さえなければ、私たちは今も家族のままでいられたのかもしれません」
健一とは、あれから一度も連絡を取っていないという。裕二の消息も分からないままだと、はがきの最後に小さく記されていた。
私は、隆一郎さんの遺品を整理した際に見つけた、彼の古い手帳の一節を、ふと思い出す。生前、几帳面な性格の彼は、日々の出来事を几帳面に書き留めていた。晩年になるにつれ、その文字は徐々に震えを帯び、筆圧も弱々しくなっていった。がんの告知を受けた直後、震える文字でこう記されていたページがあった。
「遺言のことを、そろそろ真面目に考えねば。だが、あの三人が仲違いするなど、想像もつかん。杞憂であってほしい」
杞憂であってほしい、という願いは、叶わなかった。皮肉にも、隆一郎さん自身が「まさか」と思っていたその杞憂こそが、この物語の結末そのものだったのだ。誰よりも家族を愛していたはずの父親の、その優しさゆえの先延ばしが、結果として最も残酷な形で子供たちに跳ね返ってしまった。
不動産は、人の心の奥底に眠る「業」を映し出す鏡なのかもしれない。分けられないものを目の前にした時、人は初めて、自分がどれほど誰かに認められたかったか、どれほど誰かを恨んでいたか、その本音を否応なく突きつけられる。宮本家の悲劇は、特別な家族に起きた特別な出来事ではない。この国のどこにでもある、ごくありふれた実家と、ごくありふれた家族の物語なのだ。
高齢化が進むこの国では、これから何十年もの間、無数の「実家」が、無数の子供たちの手に委ねられていくことになる。そのたびに、同じような悲劇が、形を変えて繰り返されるのだろう。もし、この記録を読んでくださった方の中に、まだ元気なご両親がいらっしゃるなら、私は心からお願いしたい。縁起でもないと笑われても構わない。どうか一度、家族全員で、実家という「分けられない財産」について、腹を割って話し合ってみてほしい。遺言書を書くこと、生前贈与の記録を残しておくこと、家族信託という選択肢を検討しておくこと――そのどれもが、決して大げさな備えではない。それは、遺される子供たちが、憎み合わずに済むための、最後にして最大の贈り物なのだから。
杉並の新しい建売住宅には、今日も誰かの新しい生活が始まろうとしている。その土の下に、かつてどんな家族の悲鳴が染み込んでいたかを、彼らはきっと知らないままなのだろう。
チラシを片手にモデルルームを覗き込む若い夫婦の姿を、私は少し離れた場所からぼんやりと眺めていた。彼らの腕には、生まれたばかりの赤ん坊が抱かれている。これから何十年もかけて、この土地に新しい記憶を積み重ねていくのだろう。願わくば、彼らの家族の物語だけは、この苦い実を繰り返さずに済むようにと、私はただ静かに祈るしかなかった。
おわり