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隻腕の綱取り          

    あらすじ

     学生横綱となり、将来を期待されていた真田悠斗。しかし交通事故で右腕を失い、角界入りの夢を絶たれる。絶望の中で相撲から離れ、物流会社で働くが、ライバル・久我龍臣や大和田親方との出会いをきっかけに再び土俵へ戻る決意を固める。
     前例のない「片腕の力士」として大和田部屋へ入門した真田を待っていたのは、勝てない日々と終わりの見えない稽古だった。それでも真田は残された左腕に活路を見出し、自分だけの相撲を築き上げていく。数え切れない敗北と挫折を乗り越え、やがて幕内へ昇進する真田。だが、その挑戦はまだ終わらない。
     絶望の底から立ち上がり、誰も信じなかった頂――横綱を目指す、一人の力士の挑戦の物語。

    目次

    第1話   片腕の力士
    第2話   学生横綱
    第3話   自己と喪失
    第4話   ライバル
    第5話   再起
    第6話   反対
    第7話   大和田部屋
    第8話   覚悟
    第9話   覚悟の証明
    第10話 再出発
    第11話 片腕の相撲
    第12話 壁の正体
    第13話 土俵のない六日間
    第14話 初めての一勝
    第15話 新しい相手
    第16話 片腕の武器
    第17話 磨かれる武器
    第18話 開き始めた扉
    第19話 進む理由
    第20話 土俵へ帰る
    第21話 約束の土俵


    第1話 片腕の力士

    両国国技館がざわめいていた。
    満員の観客席を埋め尽くした人々の視線は、横綱にも大関にも向いていない。
    その日の主役は、ただ一人だった。
    東の花道。
    ゆっくりと歩いてくる力士の姿が見えた瞬間、場内の空気が変わる。
    「あれが真田か」
    「本当に片腕なんだな……」
    「信じられねえ」
    客席のあちこちから声が漏れた。

    久我龍臣は西の控えから、その姿を見つめていた。
    真田悠斗。
    かつて学生相撲界で最強と呼ばれた男。
    そして今、角界で最も注目を集める力士だった。
    右腕はない。
    肩から先が失われている。
    それでも真田は堂々と歩いていた。
    視線を伏せることもない。
    周囲の好奇の目を気にする様子もない。
    まるで最初からそういう身体だったかのように自然だった。
    久我は小さく息を吐いた。
    何度見ても、慣れなかった。

    あの日の知らせを聞いた時の衝撃は、今でも鮮明に覚えている。
    大学四年の秋、真田は学生横綱になった。
    角界入りは確実。
    将来の横綱候補。
    十年に一人の逸材。
    そんな言葉が飛び交っていた。
    誰もが疑わなかった。
    真田は角界へ進み、いずれ横綱になる。
    そう信じていた。
    久我も、その一人だった。
    だからこそ、事故のニュースを見た時は現実を受け入れられなかった。
    交通事故。
    右腕切断。
    画面に流れる文字の意味が理解できなかった。

    病院で目覚めた真田は、右腕を失っていた。
    そう知らされた時、久我は現実を受け入れられなかった。
    角界関係者の誰もが思った。
    終わった、と。
    相撲は両腕で取る。
    押しも、寄りも、投げも、引きも。
    すべてが両腕を前提としている。
    片腕の力士など聞いたことがなかった。
    だから久我も諦めた。
    もう二度と土俵で向き合うことはないのだと。

    ところが、信じられない噂が流れ始めた。
    真田が相撲部屋に入門したらしい。
    最初は誰も信じなかった。
    冗談だと思った。
    しかし噂は本当だった。
    真田は大和田部屋へ入り、力士として再出発していた。

    さらに耳に入ってくる話は散々だった。
    四股もまともに踏めない。
    稽古で転がされてばかりいる。
    すぐ辞めるだろう。
    そんな話ばかりだった。
    久我も同じことを考えた。
    どれほど才能があっても無理だ。
    片腕で戦えるほど甘い世界ではない。

    ところが真田は辞めなかった。
    序ノ口で笑われた。
    序二段で食らいついた。
    三段目で勝ち越した。
    幕下で壁にぶつかった。
    それでも前へ進み続けた。
    負けても立ち上がる。
    叩き落とされてもまた土俵へ上がる。

    いつしか角界の空気は変わっていた。
    『片腕だから勝てない』ではなく、『片腕なのになぜ勝てる』へ。
    テレビも新聞も真田を取り上げた。
    異色の力士。
    奇跡の復活。
    そんな見出しが並んだ。

    久我はその言葉が好きではなかった。
    奇跡ではない。
    真田を知る人間なら分かる。
    あいつは苦しみを見せない。
    努力も見せない。
    だから周囲は奇跡と呼ぶ。
    実際には違う。
    人が見ていない場所で、誰よりも泥だらけになってきたはずだ。
    そうでなければ幕内まで来られるはずがない。

    久我が我に返る。
    真田はすでに花道の先まで来ていた。
    東の力士だまりへ腰を下ろす真田が見えた。
    久我も西の力士だまりへ腰を下ろした。
    土俵上では前の取組が続いていた。
    館内は盛り上がっている。
    だが、久我の意識は、その勝負には向いていなかった。
    視線の先にいるのは真田だけだった。
    学生時代から変わらない。
    真田がいると、どうしても目で追ってしまう。
    強かった。
    悔しいほどに。
    何度挑んでも立ちはだかった。
    だから追い続けた。
    だから負けたくなかった。
    やがて前の取組が終わる。
    館内に拍手が広がった。

    呼出が中央へ進み出る。
    独特の節回しが国技館に響いた。
    「東――真田――」場内がどよめく。
    真田が静かに立ち上がる。
    「西――久我――」久我も腰を上げた。
    観客の視線は真田へ集まっていた。
    だが、久我の視線もまた、真田から離れなかった。
    真田悠斗。
    ただ一人だ。

    二人は土俵へ上がる。
    塩を撒く。
    四股を踏む。
    場内のざわめきが少しずつ消えていく。
    真田の所作には無駄がなかった。
    片腕になった今も変わらない。
    むしろ以前より研ぎ澄まされているように見える。
    やがて仕切りが始まる。
    真田が腰を落とした。
    異様なほど低い。
    右肩が前へ出る。
    片腕になってから築き上げた構えだった。
    久我の口元が自然と緩む。
    ようやくだ。本当にようやくだ。
    長い時間をかけて待ち続けた。
    もう一度、この男と戦う瞬間を。

    行司が軍配を構える。
    場内が静まり返った。
    真田が顔を上げる。
    一瞬だけ目が合った。
    その目を見た瞬間、久我は確信した。
    こいつは何も諦めていない。
    事故の日からずっと
    ただ前だけを見て歩いてきたのだ。
    行司が声を張り上げる。

    「はっけよい――」

    その声を聞いた瞬間。
    久我の脳裏によみがえったのは、学生横綱決定戦の日の光景だった。

    すべては、あの日から始まった。


    第2話 学生横綱

    決勝の相手が久我龍臣だと分かった時、不思議と驚きはなかった。
    全国学生相撲選手権大会。
    学生横綱の称号を懸けた最後の一番。
    ここまで勝ち上がってくるなら、最後は必ずこいつだと思っていた。

    控室の壁にもたれながら、俺は静かに目を閉じた。
    久我龍臣。
    大学相撲界で唯一、意識せずにはいられない相手だった。
    身長百九十センチ。
    体重百三十キロを超える巨体。
    立ち合いの鋭さと圧力は群を抜いていた。
    真正面からぶつかれば押し潰される。
    だからこそ戦いたかった。
    強い相手と戦う時ほど、自分がどこまで通用するのか知ることができる。

    呼出の声が響いた。
    決勝戦。
    いよいよ最後だ。
    俺は立ち上がり、控室を出た。
    通路を歩く。
    歓声が少しずつ大きくなっていく。
    会場へ姿を見せた瞬間、どよめきが起こった。
    観客席は満員だった。
    立ち見の客までいる。
    学生相撲とは思えない熱気だった。

    土俵の向こうを見る。
    久我がいた。
    腕を組み、じっとこちらを見ている。
    獲物を狙う猛獣のような目だった。
    思わず笑みがこぼれた。
    あいつも楽しんでいる。
    俺も同じだった。
    緊張よりも高揚感の方が大きい。
    強い相手と戦える。
    それが純粋に嬉しかった。

    土俵へ上がる。
    塩を撒く。
    四股を踏む。
    身体の感覚が研ぎ澄まされていく。
    周囲の歓声が遠くなる。
    意識は自然と目の前の相手だけに集中していた。
    仕切り線の向こうで、久我が腰を落とした。

    俺も構える。
    何度も対戦してきた。
    だから分かる。
    久我は立ち合いから一気に来る。
    迷いなく前へ出る。
    それがあいつの相撲だった。

    問題は、その圧力をどう受けるか。
    呼吸を整える。
    指先が土俵に触れる。
    館内が静まり返った。
    行司が軍配を構える。

    「はっけよい――」

    次の瞬間だった。
    久我が飛び出した。
    速い。
    予想以上だった。
    まるで砲弾だった。
    激しい衝撃が全身を貫く。
    土俵が揺れたように感じた。
    観客席から歓声が上がる。

    久我が押してくる。
    重い。
    想像以上だった。
    腰を落とし、足を踏ん張る。
    だが、久我は止まらない。
    左を差し込んできた。
    まずい。
    この形は久我の得意な形だ。
    そのまま寄られれば終わる。

    俺は身体をひねり、差し手を切った。
    久我の動きがわずかに止まる。
    その隙に距離を取る。
    しかし久我はすぐに追ってきた。
    一歩。
    二歩。
    後退させられる。
    土俵際が近づいてくる。

    観客席がどよめいた。
    だが、不思議と焦りはなかった。
    久我の動きが見えていた。
    押し急いでいる。
    勝負を決めようとしている。
    だからこそ隙が生まれる。
    久我がさらに前へ出る。

    その瞬間だった。
    俺は半歩だけ横へ動いた。
    久我の体勢がわずかに流れる。
    今だ。
    俺は一気に懐へ潜り込んだ。
    場内が沸いた。
    肩を当てる。
    腰を落とす。
    足を前へ出す。
    押す。
    さらに押す。
    久我も踏ん張る。
    簡単には崩れない。
    さすがだった。
    何度も競り合ってきた相手だ。

    だが、今日だけは負けられない。
    学生横綱。
    その称号が目の前にある。
    全身に力を込めた。
    「うおおおおっ!」
    気付けば叫んでいた。
    久我の身体が浮く。
    一歩。
    二歩。
    土俵際まで下がる。

    そして――。
    「押し出し!」
    行司の声が響いた。
    一瞬、何が起きたのか分からなかった。
    久我が土俵の外に立っている。

    観客席が爆発したような歓声に包まれた。
    俺は勝った。
    久我龍臣に勝った。
    学生相撲日本一になった。
    子どもの頃から追い続けてきた夢が、ついに現実になった。
    膝から力が抜けそうになる。
    それでも必死に立っていた。

    久我がこちらへ歩いてくる。
    悔しそうな顔をしていた。
    それでも笑っていた。
    俺も笑った。
    言葉はいらなかった。

    最高の勝負だった。
    表彰式が終わる頃には、会場全体が祝福の空気に包まれていた。
    学生横綱。
    日本一。
    記者たちが集まる。
    フラッシュが光る。
    将来の横綱候補。
    そんな言葉が次々と飛び交った。

    胸が高鳴った。
    俺はもっと強くなる。
    もっと上へ行く。
    そして横綱になる。
    誰よりも強い力士になる。
    本気でそう思っていた。

    会場を出ると、久我が待っていた。
    夕暮れの空が赤く染まっている。
    しばらく無言のまま並んで歩いた。
    先に口を開いたのは久我だった。
    「次は大相撲だな」
    「ああ」
    「今度は負けねえ」
    悔しさを隠さない声だった。

    俺は笑った。
    「俺も負ける気はない」
    久我も笑った。
    その顔を見て少し安心した。
    きっとこれからも戦い続ける。
    場所が変わっても。
    立場が変わっても。
    勝負は終わらない。
    そう信じていた。

    学生相撲の頂点に立ったその日。
    俺は未来を疑っていなかった。
    横綱になることも。
    久我との勝負が続いていくことも。
    すべてがこれから始まるのだと思っていた。

    ――まさか、その一週間後に、すべてを失うことになるとは知らずに。


    第3話 自己と喪失

    学生横綱になってから一週間。
    俺の周囲は騒がしかった。
    大学へ行けば祝福された。
    相撲部の後輩たちは写真を撮ってほしいと言い、指導者たちは角界入りの話を持ってくる。

    新聞にも名前が載った。
    将来の横綱候補。
    そんな文字を見るたびに少し照れくさくなった。
    だが、悪い気はしなかった。
    夢に向かって歩いている。
    そう実感できたからだ。

    その日も練習を終え、大学から駅へ向かっていた。
    夕暮れだった。
    空は茜色に染まり、仕事帰りの人々が足早に行き交っている。
    スマートフォンが震えた。
    母からだった。
    『学生横綱、本当におめでとう。今度帰ってきたらお祝いしようね』
    思わず笑みがこぼれた。
    子どもの頃から応援してくれた母だった。
    『ありがとう』そう返信しようとして――。

    視界の端で何かが動いた。
    強烈なライト。
    耳をつんざくブレーキ音。
    誰かの悲鳴。

    次の瞬間。
    身体が宙に浮いた。
    世界が反転する。
    空。
    アスファルト。
    光。
    闇。
    何が起きたのか理解する前に、意識は途切れた。

    次に目を覚ました時。
    白い天井が見えた。
    薬品の匂い。
    規則正しく鳴る電子音。
    身体が重い。
    頭もぼんやりしていた。
    病院だと気付くまで少し時間がかかった。

    事故。
    そうだ。
    事故に遭ったんだ。
    記憶が少しずつ戻ってくる。
    起き上がろうとした。

    その瞬間だった。
    妙な違和感を覚えた。
    右腕が動かない。
    痺れているわけではない。
    感覚そのものがおかしかった。
    胸の奥がざわつく。
    ゆっくり右を見る。

    そして――。
    凍りついた。
    右腕がなかった。
    肩の先で包帯が巻かれている。
    そこにあるはずのものが消えていた。
    頭が真っ白になった。
    理解を拒絶する。
    夢だと思った。
    悪い冗談だと思った。
    だが現実だった。

    「……なんだよ」
    声が震える。
    「なんだよ……これ……」
    呼吸が荒くなる。
    心臓が激しく脈打つ。

    看護師が駆け寄ってきた。
    何かを言っている。
    だが耳に入らない。
    右腕がない。
    右腕がない。
    その事実だけが頭の中で何度も繰り返されていた。

    次の日、医師から正式な説明を受けた。
    事故の衝撃で右腕は壊滅的な損傷を受けていた。
    命を優先するため、切断するしかなかったという。
    医師は丁寧だった。
    言葉も慎重だった。
    それでも俺の耳に残ったのは一つだけだった。
    右腕は戻らない。
    それだけだった。

    説明が終わりかけた時、俺は医師に尋ねた。
    「相撲は……」
    医師が黙る。
    その沈黙だけで十分だった。
    それでも聞いた。
    「相撲は取れますか」
    医師は目を伏せた。
    そして静かに答えた。
    「非常に難しいと思います」

    その瞬間、胸の中で何かが壊れた。
    学生横綱。
    横綱への夢。
    久我との約束。
    角界入り。
    未来。
    すべてが音を立てて崩れていく。
    俺は天井を見上げた。
    涙も出なかった。
    何も感じなかった。
    ただ空っぽだった。

    それからの日々は地獄だった。
    見舞いは断った。
    誰にも会いたくなかった。
    相撲の映像も見ない。
    新聞も読まない。
    テレビも消した。
    目を閉じれば土俵が浮かぶ。
    久我の顔が浮かぶ。
    学生横綱の表彰台が浮かぶ。
    そのたびに現実へ引き戻された。
    右腕はない。
    もう二度と戻らない。

    ある夜、病室の窓から外を眺めていた。
    街の灯りが滲んで見える。
    気付けば拳を握ろうとしていた。
    右手で。
    存在しない右手で。

    その瞬間、初めて涙がこぼれた。
    止まらなかった。
    悔しかった。
    苦しかった。
    どうして俺だったんだ。
    どうして今だったんだ。
    叫びたかった。
    だが、声は出なかった。
    病室には、押し殺した嗚咽だけが響いていた。

    その翌日、病室のドアが開いた。
    誰かが入ってくる。
    俺は顔を上げた。
    そこに立っていたのは――久我龍臣だった。
    学生横綱決定戦以来、初めて会うライバルだった。

    久我は何も言わない。
    ただ静かに俺を見ていた。
    俺も言葉を失った。
    病室に重い沈黙が流れる。
    そして久我がゆっくり口を開いた。

    「お前――」


    第4話 ライバル

    「……ひどい顔してるな」
    久我が言った。
    俺は顔を上げた。
    病室の入口に立っていたのは久我龍臣だった。
    学生横綱決定戦以来、初めて会うライバルだった。

    一瞬、言葉が出なかった。
    どういう顔をすればいいのか分からなかった。
    久我もすぐには近付いてこない。
    俺を見たまま立ち尽くしている。

    事故のニュースは相撲関係者の間で大きな話題になった。
    当然、久我も知っている。
    俺の右腕がなくなったことも。
    俺が絶望していることも。
    全部知ったうえで、ここへ来たのだ。

    やがて久我は病室へ入り、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
    手にはコンビニの袋がぶら下がっている。
    「見舞いか」
    「それ以外に何がある」
    袋の中にはスポーツドリンクとゼリー飲料が入っていた。
    思わず苦笑が漏れそうになる。
    「色気のない見舞いだな」
    「男の病室に花持ってくる趣味はねえ」
    久我らしかった。

    不器用で、余計なことは言わない。
    少し前なら笑えたかもしれない。
    今はそんな気分になれなかった。
    視線が自然と右肩へ落ちる。
    包帯だけがあった。
    そこにあるはずのものは、もうない。
    胸の奥が重く沈む。

    「終わったよ」
    気付けば口にしていた。
    「俺……」
    久我は黙っている。
    「全部終わった」
    天井を見上げる。
    白い天井だった。

    目を覚ました日から何度見たか分からない。
    「学生横綱も」
    「角界入りも」
    「横綱になる夢も」
    「全部だ」
    声が震えた。

    認めたくなかった。
    だが、現実だった。
    右腕は戻らない。
    相撲は両腕で取る。
    誰に聞いても答えは同じだ。
    終わったのだ。

    久我はしばらく何も言わなかった。
    慰めの言葉もない。
    励ましの言葉もない。
    ただ静かに座っていた。
    やがて短く言った。

    「そうか」
    その一言が妙に腹立たしかった。
    「そうか、で終わりかよ」
    「じゃあ何て言えばいい」
    久我は淡々としていた。

    俺は言葉に詰まる。
    同情してほしいわけじゃない。
    可哀想だと言われたいわけでもない。
    何を言われても腹が立っただろう。

    「俺には分からん」
    久我が言った。
    「腕を失ったことはない」
    「事故にも遭ったことはない」
    「だから分からん」
    その言葉は妙に真っ直ぐだった。
    分かったふりをしない。
    久我らしいと思った。

    病室に沈黙が落ちる。
    窓の外では夕日が傾いていた。
    赤い光が床を照らしている。

    「見舞いは断ってるらしいな」
    久我が言った。
    俺は眉をひそめた。
    「誰に聞いた?」
    「監督」
    図星だった。
    大学の監督も、部員たちも見舞いに来ようとしていた。

    全部断った。
    会いたくなかった。
    相撲の話をされたくなかった。
    夢を失った自分を見られたくなかった。

    「母親も心配してたぞ」
    「……」
    「電話くらい出ろ」
    余計なお世話だと思った。
    だが、反論できなかった。
    事故以来、まともに話していない。
    何を話せばいいのか分からなかった。

    「決勝のあとさ……」
    久我がぽつりと言った。
    「本気で悔しかった」
    俺は黙って聞いていた。
    「絶対に勝ち返してやると思った」
    「次は負けねえってな」

    学生横綱決定戦。
    夕暮れの帰り道。
    次は大相撲だな。
    今度は負けねえ。
    確かにそう言った。

    「だから角界入りを決めた」
    久我は続ける。
    「お前を追いかけるためだ」

    胸の奥が痛んだ。
    その未来はもうない。
    俺は右肩を見る。
    「無理だよ」
    小さく呟いた。
    「腕がないんだ」
    「相撲だぞ」
    「片腕でどうやって戦う」
    「そんな力士いるか」

    久我は少し考えた。
    そして答えた。
    「知らん」
    思わず顔を上げた。
    「は?」

    「知らん」
    久我は同じことを言った。
    「聞いたことはない」
    「だろ」
    「でも聞いたことがないだけだ」
    意味が分からなかった。
    久我は続ける。
    「前例がないってことだろ」
    「……」
    「誰もやったことがない」
    病室が静かになる。

    「だから?」
    俺は聞いた。
    久我は真っ直ぐ俺を見た。

    「できないって決まったわけじゃない」

    胸の奥で何かが引っ掛かった。
    できない。
    そう決めたのは誰だったか。
    医者か。
    世間か。
    違う。
    俺自身だった。

    「お前らしくねえな」
    久我が言う。
    「何がだ」
    「逃げてる」
    思わず睨み付けた。
    「逃げって何だ」

    「お前は昔から強い相手が好きだった」
    「……」
    「無理だと言われるほど燃えてた」
    反論できなかった。
    確かにそうだった。
    強い相手と戦いたかった。
    勝てないと言われるほど燃えた。
    それが真田悠斗だった。

    「今のお前は、自分で無理だって決めてる」
    その言葉が胸に刺さる。
    「お前、自分じゃ気付いてないかもしれねえけど」
    久我が立ち上がった。
    「何だよ」
    「諦めた顔じゃねえな」
    心臓がわずかに跳ねた。
    「何言ってんだ?」
    「本当に諦めた奴は……」
    久我はドアの前で振り返る。
    「相撲の話なんかしねえよ」

    言葉を失った。
    否定したかった。
    だが、できなかった。
    事故以来ずっと考えていた。
    失ったものも。
    戻らないものも。
    全部相撲だった。

    「また来る」
    久我はそう言い残して病室を出て行った。
    ドアが閉まる。
    静寂が戻る。
    俺は一人になった。
    窓の外を見る。
    夕日は沈みかけていた。
    赤く染まった空の向こうに、土俵が見えた気がした。
    もちろん幻だ。
    それでも目を逸らせなかった。

    できないって決まったわけじゃない。
    久我の言葉が頭の中で繰り返される。
    腹が立つ。
    無責任だ。
    簡単に言いやがる。
    それなのに消えない。

    俺はゆっくり目を閉じた。
    事故の日から初めてだった。
    土俵を思い浮かべても、絶望だけでは終わらなかった。

    胸の奥で、何かがわずかに動き始めていた。


    第5話 再起

    久我が帰ったあとも、病室には静かな時間が流れていた。
    俺はベッドに横になったまま天井を見つめていた。
    眠れなかった。
    目を閉じるたびに久我の顔が浮かぶ。

    『できないって決まったわけじゃない』
    あの言葉だけが頭から離れなかった。
    腕を失ったのは俺だ。
    相撲が取れなくなったのも俺だ。
    久我は何も失っていない。
    そんな奴に何が分かる。
    そう思うのに、言葉が頭から離れなかった。

    俺は寝返りを打とうとして動きを止めた。
    身体が思うように動かない。
    右腕を使おうとして、そこで現実を思い出す。
    胸の奥が重くなる。
    事故以来、何度繰り返したか分からない感覚だった。

    翌日からリハビリが始まった。
    理学療法士の指示で歩く。
    左腕を動かす。
    着替える。
    箸を持つ。
    靴ひもを結ぶ。
    そんなことばかりだった。

    最初は腹が立った。
    学生横綱になった人間が、箸の持ち方を練習している。
    横綱を目指していた人間が、シャツのボタンを留める練習をしている。
    情けなかった。
    惨めだった。

    ある日、理学療法士が言った。
    「順調ですね」
    思わず笑ってしまった。
    順調。
    何が順調なのだろう。
    右腕を失った人間が、左手で歯磨きできるようになった。
    それのどこが順調なのか。

    病室へ戻ったあと、一人で笑った。
    そして少しだけ泣いた。
    誰にも見られたくなかった。

    それから数日が過ぎた。
    ある日の夕方、リハビリを終えて病室へ戻った俺は、何気なくテレビの電源を入れた。
    映し出されたのは大相撲中継だった。

    いつもなら消していた。
    事故以来、一度も見ていなかった。
    見られなかった。
    だが、その日はなぜか消さなかった。
    画面の中で力士たちがぶつかっている。
    立ち合い。
    差し合い。
    寄り。
    投げ。
    土俵際の攻防。
    何度も見てきた光景だった。

    それなのに妙に遠く感じた。
    まるで別の世界だった。
    俺は無言で見続けた。
    気付けば取組は終わっていた。
    勝った力士が花道を下がる。
    負けた力士が悔しそうな顔をしている。
    その姿を見ているうちに、胸の奥が熱くなった。

    羨ましかった。
    勝ったことではない。
    負けたことでもない。
    土俵に立っていることが。
    戦っていることが。
    羨ましかった。
    俺はリモコンを手に取り、テレビを消した。

    胸が苦しかった。
    なぜ苦しいのかは分かっていた。
    まだ諦めきれていないからだ。
    認めたくなかっただけだった。

    リハビリの日々が続いた。
    ある日、歩行訓練を終えた俺は、リハビリ室の椅子に腰を下ろしていた。
    窓の外では子どもたちが遊んでいる。
    転んで。
    泣いて。
    また立ち上がって走っていく。
    その姿をぼんやり眺めていた。

    「最近、頑張ってますね」
    声を掛けられた。
    理学療法士だった。
    「そうですか」
    「そうですよ」
    記録表を見ながら言う。
    「リハビリの時間が伸びてます」
    俺は黙った。
    言われてみればそうだった。
    以前なら時間になるとすぐ終わっていた。
    今は違う。
    少しでも早く動けるようになりたい。
    そんな気持ちがどこかにあった。

    「何か目標でもあるんですか」
    「ありません」
    即答した。
    理学療法士は少しだけ笑った。
    「そういう返事をする人ほど、目標があるんですよ」
    「……」
    「本当に目標がない人は、もっと無関心になりますから」

    その言葉に胸が少しだけざわついた。
    「無関心?」
    「ええ」
    理学療法士は窓の外を見た。
    「どうでもよくなるんです」
    俺は黙っていた。
    「でも真田さんは違います」
    それ以上は言わなかった。
    だが十分だった。

    俺は窓の外へ視線を戻した。
    子どもたちは何度転んでも走っている。
    その姿が妙に頭に残った。

    その日の夜、病室へ戻ると、棚の上に一冊の雑誌が置かれていた。
    母が来ていたらしい。
    俺がリハビリ中だったため、そのまま帰ったと看護師が教えてくれた。
    棚の上の雑誌へ目を向ける。
    表紙には大相撲特集と書かれていた。
    捨てようと思った。
    読むつもりはなかった。
    なのに気付けば手に取っていた。
    横綱の記事。
    若手力士の記事。
    新弟子の記事。
    ページをめくるたびに胸が痛んだ。

    本来なら自分もそちら側へ行くはずだった。
    未来はそこにあった。
    そう思っていた。
    そこで手が止まる。
    本当に失ったのか。
    不意にそんな考えが浮かんだ。
    俺は顔をしかめた。
    何を考えているんだ。
    右腕はない。
    現実は変わらない。
    相撲が取れるわけがない。
    そう自分に言い聞かせた。

    それでも完全には否定できなかった。
    久我の言葉。
    理学療法士の言葉。
    全部が頭の中を回っている。
    その夜は眠れなかった。

    翌朝、俺は病院の廊下を歩いていた。
    窓ガラスに自分の姿が映る。
    やつれた顔。
    覇気のない目。
    学生横綱だった男には見えなかった。
    ふと立ち止まる。
    そして自分自身に問いかけた。
    本当に相撲を諦められるのか。

    胸の奥が痛んだ。
    嫌になるほど痛んだ。
    それが答えだった。

    諦められるわけがない。

    子どもの頃から相撲だけを見てきた。
    強くなりたかった。
    横綱になりたかった。
    学生横綱になった。
    夢の入り口に立った。
    そして失った。
    それでも――。
    相撲が嫌いになったわけではなかった。
    俺はゆっくり拳を握る。
    左手で。
    小さな拳だった。
    それでも力を込めた。

    窓に映る自分を見つめる。
    そして初めて口にした。
    「もう一度……」
    声が震える。
    「もう一度、土俵に立ちたい」
    そう口にした瞬間だった。
    胸の奥に残っていた小さな火が、確かに消えていなかったことに気付いた。
    小さい。
    弱い。
    それでも確かに存在していた。
    俺は窓の外を見上げた。
    青空が広がっていた。
    事故の日から初めてだった。
    未来を考えたのは。

    そして初めて思った。
    まだ終わっていないかもしれない。
    ここから始められるかもしれない。
    無理だと言われるだろう。
    馬鹿げていると思われるかもしれない。
    誰も信じないかもしれない。
    それでもいいと思った。
    俺自身が信じてみたいと思った。
    片腕でも。
    もう一度――。
    相撲取りになりたい。

    その瞬間。
    真田悠斗の止まっていた時間が、再び動き始めた。


    第6話 反対

    退院の日がやってきた。
    病室の窓から見える景色も、いつの間にか慣れていた。
    毎朝決まった時間に始まるリハビリ。
    消毒液の匂い。
    廊下を行き交う看護師たちの足音。
    事故直後は永遠に続くように思えた日々だった。

    それでも時間は流れる。
    荷物をまとめながら、俺は病室を見回した。
    長かったようで短かった。
    事故の日から、何度も絶望した場所だった。
    それでも、この病室で俺はもう一度前を向くことを決めた。
    迎えに来ていた母と並んで病院を後にする。

    春の風が吹いていた。
    久しぶりの外の空気は、少しだけ眩しく感じた。
    母の車に乗り込む。
    ドアが閉まり、エンジンがかかった。
    しばらく会話はなかった。
    母は元々口数が多い方ではない。
    事故のあとも変わらなかった。
    無理に励ますことも、泣き言を口にすることもない。
    ただ黙って支えてくれていた。
    だからこそ苦しかった。

    車窓の景色が流れていく。
    事故の日と変わらない街並みだった。
    コンビニも。
    駅前の交差点も。
    歩道を歩く人々も。
    何も変わっていない。
    変わったのは自分だけだった。
    無意識に右肩へ目が向く。
    袖は空だった。
    その現実だけは、何度確認しても変わらない。

    「退院できて良かったね」
    母がぽつりと言った。
    「……うん」
    それ以上、言葉は続かなかった。

    しばらくして母が言った。
    「これからどうするの?」
    視線は前を向いたままだった。
    聞きたいことは分かっていた。
    大学卒業は決まっている。
    問題はその先だった。
    俺は少し迷った。
    だが隠すつもりはなかった。
    「相撲を続けたい」
    母の指先がわずかに動いた。
    ハンドルを握る手に力が入ったように見えた。
    それでも母は前を向いたままだった。
    「そう」
    母はそれ以上何も言わなかった。
    否定もしない。
    賛成もしない。
    その反応が一番苦しかった。

    「無理だと思う?」
    気付けば聞いていた。
    母はすぐには答えなかった。
    信号が赤になる。
    車が止まる。
    静寂だけが車内を満たした。
    やがて母は小さく息を吐いた。
    「分からない」
    正直な答えだった。
    「でもね」
    言葉が続く。
    「もう苦しんでほしくない」

    胸の奥が痛んだ。
    事故の日、病院で泣いていた母の姿が浮かぶ。
    初めて見た。
    あんな顔。
    俺が右腕を失った時、一番傷付いたのは俺だと思っていた。
    違ったのかもしれない。
    母もまた、大切なものを失っていた。
    俺は何も言えなかった。

    家へ戻ってから数日が過ぎた。
    生活は想像以上に不便だった。
    シャツのボタンを留める。
    洗濯物を畳む。
    荷物を持つ。
    何をするにも時間が掛かる。
    そのたびに現実を思い知らされた。
    右腕はない。
    戻らない。
    それでも毎日リハビリは続けた。
    病院で教わったメニューを繰り返す。
    筋力を落とさないためだ。
    誰に言われたわけでもない。
    気付けば身体を動かしていた。

    そんなある日、大学相撲部の監督が訪ねてきた。
    監督はリビングへ通されると、しばらく世間話をした。
    大学のこと。
    後輩たちのこと。
    卒業式のこと。
    だが、本題は別にあった。
    それはお互い分かっていた。
    やがて監督が真顔になる。
    「今後のことは考えているか」
    俺は頷いた。
    「相撲を続けたいです」
    監督は黙った。
    その沈黙だけで十分だった。

    監督もまた反対なのだと分かった。
    「真田」
    静かな声だった。
    「気持ちは分かる」
    「はい」
    「だが、現実は厳しい」
    俺は黙っていた。
    監督は続ける。
    「学生相撲と大相撲は違う」
    「分かっています」
    「本当に分かっているか」
    言葉に力がこもる。
    監督は怒っているわけではない。
    心配しているのだ。
    だからこそ苦しかった。

    「真田」
    監督が言う。
    「お前は学生横綱になった」
    「はい」
    「十分だ」
    その言葉が胸に刺さった。
    十分。
    それは終わりを前提とした言葉だった。

    「俺はそう思いません」
    気付けば口にしていた。
    監督が顔を上げる。
    「まだ終わってません」
    自分でも驚くほどはっきり言えた。
    「終わらせたくありません」
    監督は何も言わなかった。

    長い沈黙が流れる。
    やがて小さく息を吐いた。
    「そうか」
    その一言には諦めにも似た響きがあった。

    「真田」
    監督が立ち上がる。
    「もし本気なら」
    俺は顔を上げる。
    「誰よりも厳しい道になるぞ」
    「はい」
    「想像以上にな」
    「分かっています」

    本当は分かっていなかった。
    それでも引き返すつもりはなかった。
    監督は最後に俺の肩を叩いた。
    左肩だった。
    そして帰っていった。

    夜になった。
    自室の机に座る。
    引き出しを開ける。
    学生横綱の表彰写真が入っていた。
    決勝の相手は久我龍臣。
    二人とも笑っている。

    あの日は未来しか見えていなかった。
    事故も。
    絶望も。
    何も知らなかった。
    写真を見つめながら思う。

    本当にやれるのか。
    片腕で。
    角界で。
    答えは出ない。
    不安は消えない。
    怖くないと言えば嘘になる。
    笑われるかもしれない。
    無理だと言われるかもしれない。
    母も心配している。
    監督も反対している。

    それでも――。
    諦められなかった。
    あの日、病院の廊下で口にした言葉がある。
    もう一度、土俵に立ちたい。
    その気持ちだけは嘘ではなかった。

    俺はスマートフォンを手に取った。
    事故以来、一度も検索していなかった言葉を入力する。
    『大和田部屋』
    画面に表示された文字を見つめた。
    学生横綱になったあと、角界入りの話をくれた部屋だった。
    事故が起きるまでは、俺も入門するつもりでいた。
    胸が高鳴る。
    怖かった。
    それでも指は止まらなかった。
    入門希望者向けの連絡先。
    部屋の所在地。
    師匠である大和田親方の名前。
    ひとつひとつ読み進める。

    そして気付く。
    俺はもう決めているのだ。
    できるかどうかではない。
    やるかどうかだ。
    画面を見つめながら、小さく息を吐く。

    真田悠斗は、初めて現実へ向かって歩き始めていた。


    第7話 大和田部屋

    大和田部屋のホームページを閉じたあとも、俺はしばらく画面を見つめていた。
    電話番号はすぐ目の前にある。
    押せばいい。
    それだけだった。
    それなのに指が動かなかった。
    母の顔が浮かぶ。
    監督の言葉も頭をよぎる。
    無理だと言われた。
    心配された。
    反対された。

    それでも――。
    俺は相撲を諦められなかった。
    深く息を吸う。
    そして電話番号を押した。
    呼び出し音が鳴る。
    一回。
    二回。
    三回。
    心臓が嫌になるほど速くなった。

    『はい。大和田部屋です』
    若い男の声だった。
    俺は一瞬言葉に詰まる。

    「あの……真田悠斗です」
    電話の向こうが静かになった。
    「真田さん?」
    「はい」
    「学生横綱の?」
    「はい」
    再び沈黙が流れる。

    事故のニュースは相撲界にも広まっているはずだった。
    知らないはずがない。
    「少々お待ちください」
    保留音が流れる。
    数十秒がやけに長かった。
    やがて別の声が聞こえた。
    低く落ち着いた声だった。

    「真田か」
    大和田親方だった。
    大学の大会で何度か会ったことがある。
    元大関だった。
    角界では知らない者はいない。

    「ご無沙汰しております」
    「退院したのか」
    「はい」
    「そうか」
    親方の声は変わらなかった。
    同情も。
    憐れみも。
    何も感じられない。
    それが少しだけ救いだった。

    「親方」
    俺は唾を飲み込む。
    「話があります」
    しばらく沈黙が続いた。

    やがて親方が言う。
    『来い』
    それだけだった。

    二日後、俺は大和田部屋の前に立っていた。
    住宅街の中にある古い建物だった。
    門には大和田部屋の看板が掛かっている。
    テレビや雑誌で何度も見た場所だった。
    本来なら、もっと違う形で来るはずだった。
    学生横綱として。
    期待の新弟子として。
    胸を張って。

    だが、今の俺は違う。
    右腕はない。
    それでも来た。
    インターホンを押す。
    しばらくして扉が開いた。
    現れたのは若い力士だった。
    俺を見るなり目を見開く。

    「真田さん……」
    やはり知っている。
    「親方に呼ばれてきました」
    力士は慌てて頭を下げた。

    「どうぞ」
    部屋の中へ入る。
    独特の匂いがした。
    ちゃんこの匂い。
    汗の匂い。
    土俵の匂い。
    懐かしかった。
    胸の奥が少しだけ熱くなる。
    稽古場から掛け声が聞こえる。
    力士たちがぶつかり合っていた。
    その音に思わず足が止まる。

    バチン。
    身体が当たる音。
    荒い息。
    飛び散る汗。
    全部が遠い世界のようだった。

    そして同時に、帰ってきたような気もした。
    「親方がお待ちです」
    若い力士に促される。
    俺は再び歩き出した。
    応接間には大和田親方がいた。
    想像していたより大きかった。
    いや、昔から大きかったのだろう。
    ただ今の俺には、さらに大きく見えた。
    親方は座布団の上に胡坐をかいていた。

    「座れ」
    俺は頭を下げて座る。
    親方はしばらく何も言わなかった。
    俺を見ている。
    まるで値踏みするように。

    やがて口を開いた。
    「それで」
    声は静かだった。
    「何をしに来た」
    俺は親方を見た。
    ここで引き返すつもりはない。

    「入門したいです」
    言った瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
    親方は表情を変えない。
    「そうか」
    それだけだった。
    母もそうだった。
    監督もそうだった。

    「理由は」
    「相撲が取りたいからです」
    「片腕でか」
    「はい」
    親方の視線が右肩へ向く。

    俺も分かっている。
    誰よりも分かっている。
    片腕で相撲を取る。
    馬鹿げている。
    無謀だ。
    普通なら諦める。

    「諦められません」
    俺は言った。
    「どうしても」
    親方は黙った。
    長い沈黙だった。
    時計の音だけが聞こえる。
    やがて親方は小さく息を吐いた。

    そして言った。
    「帰れ」
    頭の中が真っ白になった。
    親方は続けない。
    説明もしない。
    ただ静かに俺を見ていた。
    俺は言葉を失う。

    ようやくここまで来た。
    覚悟も決めた。
    それなのに――。
    親方はもう一度言った。

    「帰れ」
    その声には一切の迷いがなかった。


    第8話 覚悟

    大和田部屋を出た時には、もう夕方になっていた。
    春の風が吹いている。
    住宅街には夕飯の支度をする匂いが漂い、どこかで子どもたちの笑い声が聞こえていた。それなのに何も感じなかった。
    俺の頭の中には、親方の言葉だけが残っていた。
    帰れ。
    たった二文字だった。
    入門したいと伝えた。
    覚悟も話した。
    それでも親方は俺を追い返した。

    駅へ向かって歩きながら考える。
    何が足りなかったのだろう。
    片腕だからか。
    それとも覚悟が足りないと思われたのか。
    答えは分からなかった。

    スマートフォンが震えた。
    母からだった。
    「どうだった?」
    短いメッセージだった。
    俺はしばらく画面を見つめた。
    そして返信する。
    「駄目だった」
    すぐに既読が付いた。
    だが、返事は来なかった。
    何を書けばいいのか分からなかったのだろう。
    俺も同じだった。

    布団に入っても、親方の言葉が頭から離れなかった。
    帰れ。
    何度も頭の中で繰り返される。
    悔しかった。
    腹も立った。
    何より、自分が否定された気がした。
    ようやくここまで来たのだ。
    反対されても。
    無理だと言われても。
    それでも来た。
    なのに受け入れてもらえなかった。

    そんな悔しさが胸の中で渦を巻いていた。
    だが、本当にそうだったのだろうか。
    親方は俺の話を最後まで聞いていた。
    そのうえで帰れと言った。
    単なる門前払いには思えなかった。
    だから余計に分からなかった。
    気付けば窓の外が明るくなり始めていた。

    それから三日が過ぎた。
    だが、気持ちは少しも整理できなかった。
    朝起きても考える。
    夜になっても考える。
    親方はなぜ俺を帰したのか。
    片腕だからか。
    覚悟が足りないからか。
    答えは出ない。

    リハビリをしている時だけは考えずに済んだ。
    病院で教わったメニューを繰り返す。
    左腕の筋力。
    体幹。
    下半身。
    汗が落ちる。
    息が上がる。
    それでも続けた。
    気付けば以前より長く身体を動かしていた。
    諦めるつもりなら、こんなことはしない。
    自分でもそう思った。

    そんな時だった。
    スマートフォンが鳴った。
    知らない番号だった。
    「はい」
    「真田か」
    聞き覚えのある声だった。
    思わず背筋が伸びる。
    大和田親方だった。
    「親方」
    「今週の日曜、朝六時」
    突然だった。
    俺は言葉を失う。
    「部屋へ来い」
    「え?」
    「稽古を見る」
    それだけ言うと電話は切れた。
    俺はしばらくスマートフォンを見つめていた。
    意味が分からなかった。
    なぜだ。
    帰れと言ったはずだ。
    それなのに。
    胸の奥で何かが動いた。

    日曜日、まだ空が薄暗い時間だった。
    俺は大和田部屋へ向かっていた。
    電車は空いている。
    窓に映る自分の顔は緊張で硬かった。
    到着すると、部屋の中からすでに声が聞こえてきた。
    「はっ!」
    「もう一丁!」
    力士たちの掛け声だった。
    俺は玄関の前で一度立ち止まる。
    そして扉を開けた。
    若い力士が俺に気付く。
    「あ、真田さん」
    「親方はいますか?」
    「稽古場です」
    「ありがとうございます」

    俺は案内されるまま土俵のある部屋へ向かった。
    熱気がすごかった。
    汗の匂い。
    土の匂い。
    ぶつかり合う音。
    何人もの力士が稽古をしている。
    親方は土俵脇に立っていた。
    俺に気付いても何も言わない。
    ただ顎で隅を示した。
    見ていろ。
    そういうことだった。

    稽古は想像以上だった。
    激しかった。
    学生相撲とは違う。
    若い力士が土俵へ上がる。
    立ち合いで吹き飛ばされた。
    だが、すぐに立ち上がる。
    もう一度ぶつかる。
    また倒される。
    それでも向かっていく。
    三度。
    四度。
    五度。

    見ているだけで苦しくなる。
    学生相撲なら止められているかもしれない。
    それでも誰も止まらない。
    親方も止めない。
    力士たち自身が止まろうとしないのだ。
    やがて一人の力士が土俵脇で膝をついた。
    肩で息をしている。
    限界だった。
    だが、親方の声が飛ぶ。
    「終わりか」
    力士は首を振った。
    ふらつきながら立ち上がる。
    そして再び土俵へ向かっていった。

    俺は思わず息を呑んだ。
    あの力士も、最初は弱かったはずだ。
    何度も倒されて。
    何度も立ち上がって。
    そうやって今の強さを手に入れたのかもしれない。

    バチン。
    身体がぶつかる音が響く。
    荒い息。
    飛び散る汗。
    土俵の土。
    全部が現実だった。
    夢ではない。
    憧れでもない。
    ここで生き残るために、力士たちは毎日これを繰り返している。
    俺は無言で見続けた。
    気付けば二時間が過ぎていた。

    稽古が終わった。
    力士たちは床へ倒れ込むように座り込んでいる。
    全員が汗だくだった。
    親方がこちらへ歩いてくる。
    俺は自然と姿勢を正した。
    「どうだ」
    それだけだった。

    「厳しいです」
    「そうだな」
    親方は頷いた。
    そして聞いた。
    「真田」
    低い声だった。
    「お前は何を見た」
    俺は少し考えた。
    稽古の激しさ。
    力士たちの強さ。
    真っ先に浮かんだのは、それだった。
    「みんな強いです」
    親方は首を横に振った。
    「強さじゃない」
    俺は黙る。

    「あいつらが何度倒されたか見ただろう」
    「はい」
    「それでも何度も立ち上がった」
    「……」
    親方は静かに言った。
    「全員、諦めていない」
    その言葉に胸がざわついた。
    「最初から強かったわけじゃない」
    「……」
    「逃げなかった奴だけが強くなる」

    土俵に目を向ける。
    若い力士たちは疲れ切っている。
    だが、誰も逃げていなかった。
    親方が俺を見る。
    「お前は片腕だ」
    「はい」
    「これから何百回も無理だと言われる」
    「……」
    「何千回も諦めろと言われる」

    俺は黙って聞いていた。
    親方の目は厳しかった。
    だが、そこに拒絶はなかった。
    試すような目だった。

    「そのたびに土俵へ向かえるか?」

    俺はすぐには答えられなかった。
    簡単に口にできることではない。
    無理だと言われる。
    笑われるかもしれない。
    それでも続けるのか。
    親方はそれを聞いている。

    だが、答えは決まっていた。
    「向かいます」
    親方は黙っている。
    「何度でも」
    自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。

    「相撲を諦めたくないので」

    静寂が落ちた。
    親方はしばらく俺を見ていた。
    やがて小さく頷く。

    そして言った。
    「来週も来い」

    胸が大きく跳ねた。
    親方は続ける。
    「まだ弟子じゃない」
    「はい」
    「勘違いするな」
    「はい」

    それでも分かった。
    閉ざされていた扉は、ほんの少しだけ開き始めていた。

    俺は深く頭を下げた。
    土俵の匂いがした。
    もう一度、その世界へ近づける気がした。


    第9話 覚悟の証明

    翌週の日曜日、まだ夜が明けきらない時間に、俺は再び大和田部屋へ向かっていた。
    先週とは違う緊張があった。
    親方は「来週も来い」と言った。
    だが、それ以上のことは何も言われていない。
    入門できるとも言われていない。
    認められたわけでもない。
    それでも俺は行くと決めていた。
    電車を降り、住宅街を歩く。
    空気は冷たかった。
    大和田部屋へ近づくにつれ、胸の鼓動が速くなる。
    玄関を開けると、先週と同じ若い力士がいた。

    「おはようございます」
    俺が頭を下げると、力士も頭を下げた。
    「おはようございます」
    前回より表情が柔らかかった。
    「親方はいますか」
    「稽古場です」
    俺は礼を言い、奥へ向かった。

    稽古場ではすでに朝稽古が始まっていた。
    力士たちの掛け声が響く。
    土俵の土が舞う。
    汗の匂いが漂う。
    その光景を見た瞬間、胸の奥が少し熱くなった。

    親方は前回と同じ場所に立っていた。
    俺を見る。
    そして短く言った。
    「来たか」
    「はい」
    それだけだった。
    俺は先週と同じように隅で稽古を見る。
    立ち合い。
    ぶつかり稽古。
    すり足。
    四股。
    どれも激しかった。
    見ているだけなのに疲れる。

    だが、力士たちは黙々と続けていた。
    誰も弱音を吐かない。
    誰も逃げない。
    俺は気付いていた。
    親方が見せたいのは相撲の技術ではない。
    力士の生き方だ。

    稽古が終わる頃には、全員が汗だくになっていた。
    若い力士たちは雑巾を持ち、土俵の周りを掃除し始める。
    誰かが命令したわけではない。
    自然に動いていた。
    俺はその様子を見ていた。
    すると親方の声が飛んだ。
    「真田」
    「はい」
    「立って見ているだけか」
    一瞬意味が分からなかった。
    親方は顎で雑巾を示した。
    「手伝え」
    俺はすぐに頭を下げた。
    「はい」
    若い力士から雑巾を受け取る。
    そして床を拭き始めた。
    片手だった。
    効率は悪い。
    思うように動けない。
    それでも黙って続けた。
    土俵の周りを拭く。
    汗が落ちる。
    腕が疲れる。
    だが、不思議と嫌ではなかった。
    むしろ嬉しかった。
    初めて部屋の中の一員として動けた気がした。

    掃除が終わる頃には息が上がっていた。
    若い力士が近づいてくる。
    「真田さん」
    振り返る。
    先ほどの力士だった。
    「お疲れ様です」
    「お疲れ様」
    少しだけ笑顔だった。
    「大丈夫ですか?」
    視線が右肩へ向く。
    俺は苦笑した。
    「まだ慣れないな」
    力士も少し笑った。
    「俺も最初は全然できませんでした」
    意外だった。
    今は立派な力士に見える。
    最初からそうだったわけではないのだろう。

    「名前は?」
    「翔馬です」
    まだ十代後半くらいに見えた。
    「何年目ですか」
    「三年目です」
    三年。
    短いようで長い。
    その時間を土俵で積み重ねてきたのだ。
    俺は少しだけ羨ましくなった。

    昼前になると親方に呼ばれた。
    応接間だった。
    親方は前回と同じ場所に座っている。
    俺は正座した。
    しばらく沈黙が続く。
    やがて親方が口を開いた。
    「真田」
    「はい」
    「お前は何を目指している」
    質問の意味は分かっていた。それでも簡単には答えられなかった。
    関取か。
    幕内か。
    横綱か。
    違う。
    今の俺が口にすべき言葉ではない気がした。
    しばらく考えたあと、答える。
    「力士になりたいです」
    親方は黙っている。

    俺は続けた。
    「片腕でも相撲を取りたいです」
    「なぜだ」
    すぐに問いが返ってきた。
    俺は言葉を探した。
    なぜか。
    何度も考えた。
    事故のあと。
    病院で。
    退院してからも。
    答えは変わらなかった。
    「相撲しか知らないからです」
    親方は反応しない。
    「子どもの頃から相撲ばかりでした」
    「……」
    「事故で全部終わったと思いました」
    言葉が自然に出てくる。
    「でも終わらせたくなかった」
    親方は黙って聞いていた。
    「諦めたくないんです」
    部屋が静かになる。

    親方はしばらく目を閉じていた。
    やがて言った。
    「覚悟はあるようだな」
    胸が少しだけ跳ねた。
    親方が俺の覚悟を認めるような言葉を口にしたのは初めてだった。
    その直後、親方は静かに続けた。
    「だが、覚悟だけでは足りん」
    「はい」
    「相撲は現実だ」
    俺は頷く。
    親方は続ける。
    「お前が土俵に上がれば、相手は手加減しない」
    「はい」
    「同情もしない」
    「はい」
    「怪我をするかもしれん」
    その言葉に俺は目を伏せた。
    事故の記憶が蘇る。

    親方の視線は動かなかった。
    「それでも行くのか」
    問いは重かった。
    今までで一番重かった。
    俺はゆっくり顔を上げる。
    そして答えた。
    「行きます」
    親方は黙る。
    俺も黙る。
    長い沈黙だった。
    やがて親方が言った。
    「最初にお前を帰した理由が分かるか」
    俺は顔を上げた。
    「分かりません」
    親方は腕を組んだ。
    「あの時、お前が一度で諦めるようなら最初から無理だった」
    「……」
    「覚悟があると言うなら、もう一度来ると思った」
    親方はそこで言葉を切った。
    「来なければ、それまでだった」
    「……」
    「だが、まだ認めたわけじゃない」
    「覚悟だけで力士にはなれん」
    胸が大きく鳴る。
    「来週から毎週来い」
    俺は息を呑んだ。
    「見学じゃない」
    親方の目は真っ直ぐだった。
    「身体を見せてもらう」

    その瞬間だった。
    閉ざされていた扉が、もう一歩開いた気がした。
    まだ弟子ではない。
    入門も決まっていない。
    だが、確実に前へ進んでいる。
    俺は深く頭を下げた。
    「よろしくお願いします」
    親方は短く答えた。
    「ああ」
    その一言だけだった。

    俺には十分だった。
    部屋を出る時、土俵では若い力士たちが黙々と土をならしていた。
    俺はその光景を振り返りながら、大和田部屋を後にした。
    来週、俺は再びあの土俵へ向かう。
    片腕になった俺が、本当に土俵へ戻れるのか。
    その答えを、親方は見極めようとしているのだ。


    第10話 再出発

    日曜日の朝だった。
    大和田部屋へ向かう電車の中で、俺は何度も親方の言葉を思い返していた。
    「来週から毎週来い」
    「身体を見せてもらう」
    その言葉の意味を考えながら窓の外を眺める。
    何をするのかは聞いていない。
    だが、見学だけではないことは分かっていた。
    胸の奥が落ち着かなかった。
    期待と不安が入り混じっている。
    大和田部屋へ着く頃には、手のひらに汗が滲んでいた。

    玄関を開ける。
    「おはようございます」
    翔馬がいた。
    「おはようございます」
    前回より自然に言葉を交わす。
    すると翔馬が言った。
    「親方から聞いてます」
    「え?」
    「今日は稽古着に着替えてください」
    胸が大きく鳴った。
    ついに来たのだ。
    俺は黙って頷いた。

    案内された部屋へ入る。
    そこには畳まれた稽古まわしが置かれていた。
    しばらく見つめる。
    久しぶりだった。
    俺はまわしを手に取った。
    どう締めればいいのか考える。
    学生時代は当たり前のように締めていた。
    だが、今は違う。
    左手だけで布を持ち上げたところで動きが止まった。
    どうやって巻けばいい。
    どこから手を付ければいい。
    分からなかった。

    その時だった。
    「真田さん」
    振り返る。
    翔馬だった。
    「手伝いましょうか」

    反射的に答える。
    「大丈夫」
    そう言ったものの、再びまわしへ向き直る。

    だが、結果は同じだった。
    布が思うように動かない。
    締まらない。
    沈黙が流れる。
    俺は唇を噛んだ。
    事故以来、何度も味わった感覚だった。
    できていたことができない。
    その現実だけは何度経験しても慣れない。
    やがて小さく息を吐く。

    そして言った。
    「……頼んでもいいですか」
    翔馬は何も言わなかった。
    ただ静かに頷いた。
    二人でまわしを締める。
    不思議な気持ちだった。

    学生時代にも仲間と締め合うことはあった。
    だが、今感じているのは別の感情だった。
    助けがなければ締められない。
    その事実を認めることが、思った以上に苦しかった。

    ようやく形になった頃、翔馬が笑った。
    「似合ってますよ」
    俺は苦笑した。
    「昔は一人でできたんだけどな」

    「今は条件が違いますから」
    翔馬はそう言った。
    「片腕になってからの最初の一歩じゃないですか」

    返す言葉がなかった。
    その通りだった。
    俺は学生横綱だった真田悠斗ではない。
    片腕になった真田悠斗だ。

    そして今は、その最初の日だった。
    稽古場へ向かう。
    親方が立っていた。
    俺を見る。
    視線がまわしへ向く。
    そして短く言った。
    「上がれ」
    俺は土俵へ近付いた。
    足を掛ける。
    ゆっくり上がる。

    土の感触が足裏に伝わった。
    その瞬間だった。
    胸の奥が熱くなった。
    事故以来、初めてだった。
    もう二度と立てないかもしれないと思った場所。
    それでも今、俺はここにいる。
    だが、感傷に浸る暇はなかった。

    親方の声が飛ぶ。
    「四股」
    「はい」
    左足を上げる。
    身体が揺れる。
    思った以上に不安定だった。
    慌てて踏み下ろす。

    もう一度。
    上げる。
    揺れる。
    踏み下ろす。

    学生時代なら何百回もやってきた動作だった。
    それなのに身体が言うことを聞かない。

    次はすり足だった。
    前へ出る。
    重心がずれる。
    姿勢が崩れる。
    右腕があった頃なら自然に取れていたバランスが取れない。

    何度もやり直す。
    汗が流れる。
    息が上がる。
    親方は何も言わない。
    ただ見ていた。

    一時間ほど経った頃には全身が汗で濡れていた。
    だが、疲れているのは脚ではない。
    身体の感覚そのものだった。
    右腕を失ったことで重心が変わっている。
    頭では分かっていても身体がついてこない。
    ようやく親方が言った。
    「そこまでだ」
    俺は深く息を吐いた。
    想像以上だった。
    いや、想像が甘かったのかもしれない。
    土俵へ上がれたことと、相撲が取れることは別だった。

    応接間へ呼ばれる。
    親方は静かに座っていた。
    俺も正座する。
    しばらく沈黙が続いた。
    やがて親方が口を開く。
    「真田」
    「はい」
    「お前は昔の身体で動こうとしている」
    言葉が胸に刺さった。

    親方は続ける。
    「だから崩れる」
    俺は黙っていた。
    反論できなかった。
    心のどこかで、事故前の自分のままでいられると思っていたのかもしれない。

    「片腕になった現実を受け入れろ」
    静かな声だった。
    だが、重かった。
    「今までの真田悠斗に戻ろうとするな」
    俺は目を伏せた。
    悔しかった。
    だが、事実だった。
    親方は続ける。
    「片腕で相撲を取るんじゃない」
    俺は顔を上げた。

    「片腕の力士として相撲を取れ」

    部屋が静かになる。
    その言葉の意味を考える。
    昔の真田悠斗に戻るのではない。
    新しい真田悠斗になる。
    親方が言いたいのは、そういうことだった。
    「できるか?」
    問い掛けられる。
    俺は少し考えた。

    そして答えた。
    「やります」
    親方は小さく頷いた。
    それ以上は何も言わなかった。

    部屋を出る。
    土俵では若い力士たちが黙々と土をならしていた。
    翔馬もその中にいた。
    俺はその光景をしばらく見つめた。

    そして大和田部屋を後にした。
    昔の自分には戻れない。
    それはもう分かっていた。
    ならば前へ進むしかない。

    その第一歩が、今日だった。


    第11話 片腕の相撲

    大和田部屋へ通い始めて一か月が過ぎていた。
    前回、初めて土俵へ上がった。
    だが、結果は散々だった。
    四股は崩れた。
    すり足も安定しなかった。
    学生横綱だった頃の面影などどこにもなかった。
    それでも不思議と落ち込んではいなかった。
    自分がどれほど変わってしまったのか。
    ようやく現実が見えたからだ。

    片腕になった今の身体で、一からやり直す。
    親方が言った言葉が何度も頭に浮かぶ。
    「片腕で相撲を取るんじゃない」
    「片腕の力士として相撲を取れ」
    その意味を考え続けていた。

    部屋へ着くと、翔馬が出迎えた。
    「おはようございます」
    「おはよう、翔馬」
    もう自然に言葉を交わせるようになっていた。
    着替え部屋へ向かう。
    まわしを見る。
    前回とは違い、少しだけ迷いがなかった。
    もちろん一人では締められない。
    翔馬に手伝ってもらう。
    今は、それを受け入れられるようになっていた。
    「お願いします」
    「あ、はい」
    翔馬が笑う。
    まわしが締まる。
    身体が引き締まる感覚が戻ってくる。

    俺は静かに息を吐いた。
    稽古場へ向かう。
    親方はすでに土俵脇に立っていた。
    俺を見る。
    そして言った。
    「上がれ」
    俺は土俵へ上がった。
    親方は続ける。
    「今日は相撲を教える」
    胸が少し跳ねた。

    ところが次の言葉で、その期待は消えた。
    「今までの相撲は忘れろ」
    俺は固まった。
    親方は構わず続ける。
    「学生横綱だったことも忘れろ」
    「……はい」
    「今のお前は初心者だ」
    厳しい言葉だった。
    だが、反論はできない。
    実際、まともに動けていないのだから。

    親方は俺の前へ立った。
    「構えてみろ」
    俺は腰を落とした。
    事故前と同じように。
    だが親方は首を振る。
    「高い」
    さらに腰を落とす。
    それでも首を振る。
    「違う」
    何度やっても駄目だった。
    やがて親方が俺の肩へ手を置く。
    「右腕がない」
    「はい」
    「だから重心が変わる」

    俺は黙る。
    親方は俺の身体を少しずつ動かした。
    左足。
    腰。
    肩。
    顎。
    ほんの少し位置を変えるだけだった。
    すると景色が変わった。
    不思議なくらい身体が安定する。
    「その形だ」
    俺は驚いた。
    今までより楽だった。

    無理に支えていない。
    自然だった。
    親方が言う。
    「お前は右腕があるつもりで立っていた」
    その言葉が胸に刺さる。
    まさにその通りだった。
    心のどこかで失ったことを認めていなかった。
    だから無理が生まれていた。

    親方は続ける。
    「失ったものを数えるな」
    「残ったものを使え」

    土俵が静まり返る。
    若い力士たちも聞いていた。
    親方の視線が左腕へ向く。
    「その腕は何のためにある」
    「相撲を取るためです」
    親方は頷いた。
    「なら、その腕で勝て」
    短い言葉だった。

    だが、重かった。
    その後は構えを繰り返した。
    何度も。
    何度も。
    足が震える。
    腰が悲鳴を上げる。
    それでも続けた。
    以前の形ではない。
    新しい形だ。
    片腕の力士として立つための形。

    昼近くになった頃だった。
    俺が土俵の上で息を整えていると、親方が若い力士を呼んだ。
    「翔馬」
    「はい!」
    翔馬が土俵へ上がる。
    俺は少し驚いた。
    親方が言う。
    「当たれ」
    思わず顔を上げる。
    当たる。
    つまり、ぶつかり稽古だ。

    親方は俺を見る。
    「全力は禁止だ」
    「はい」
    「まず身体を覚えろ」
    俺は頷いた。

    翔馬と向き合う。
    土俵の上で正面から向き合うのは初めてだった。
    翔馬が笑う。
    「よろしくお願いします」
    「よろしくお願いします」
    腰を落とす。
    呼吸を整える。
    親方の声が飛ぶ。
    「始めろ」

    俺は前へ出た。
    翔馬も出る。
    ドン――。
    胸と胸がぶつかった。
    想像以上の衝撃だった。
    足が一歩、二歩と後ろへ下がる。
    踏ん張ろうとするが身体が浮く。
    土俵際まで押し込まれた。
    それでも必死に足を残した。
    倒れたくなかった。
    ここで転びたくなかった。
    「もう一回!」

    二回目も押し込まれた。
    三回目も負けた。
    それでも少しずつ踏ん張れるようになった。

    相撲だ。
    本当に相撲を取っている。
    事故以来、初めてだった。
    気付けば夢中になっていた。
    何度も当たる。
    何度も押す。
    汗が流れる。
    息が切れる。
    足が動かなくなる。

    そして――。
    最後の一回で。
    俺は大きくバランスを崩した。
    そのまま土俵へ転がる。
    背中に土の感触が伝わった。

    天井が見える。
    悔しかった。
    それでも胸の奥は熱かった。
    久しぶりだった。
    土俵で転ぶのは。

    親方が近づいてくる。
    俺は慌てて起き上がった。
    親方は静かに言った。
    「今のだ」
    「え?」
    「前回よりずっといい」
    「初めて相撲を取っていた」
    言葉を失う。
    親方は続ける。
    「まだ弱い」
    「はい」
    「だが、前回とは違う」
    「……」
    「今日は片腕の力士として土俵に立っていた」

    胸の奥が熱くなった。
    初めてだった。
    親方から、はっきりと認められた気がした。
    もちろん、まだ入門は決まっていない。
    力士にもなっていない。
    それでも確かに前へ進んでいる。

    俺は土俵の土を見つめた。
    事故の日、土俵への道は閉ざされたと思った。
    だが、その先にまだ続きがあるのかもしれなかった。
    まだ残っているものがある。
    戦う場所も。
    諦めない気持ちも。
    そして――。
    もう一度、相撲を取りたいという思いも。

    親方は土俵を降りながら言った。
    「来週もやるぞ」
    俺は力強く答えた。
    「はい」

    その返事は、自分でも驚くほど大きな声だった。


    第12話 壁の正体

    気付けば日曜日の朝が当たり前になっていた。
    俺はいつものように大和田部屋へ向かっていた。
    もう迷いはなかった。
    改札を抜ける足も自然だった。
    大和田部屋の玄関を開ける。
    「おはようございます」
    「おはようございます」
    翔馬が笑顔で返した。
    まわしを締めるのも前回ほど気まずくない。
    まだ一人ではできない。
    だが、それも今の自分だった。

    着替えを終え、稽古場へ入る。
    親方は土俵脇からこちらを一瞥しただけだった。
    俺は黙って土俵へ向かう。
    もう何をすればいいかは分かっていた。
    前回より足取りは軽かった。
    構えも安定している。
    四股も崩れない。
    すり足も前より滑らかだった。
    親方は黙って見ている。
    やがて言った。
    「少し慣れてきたな」
    初めて認められた気がした。

    その直後、親方が言った。
    「今日から次へ進む」
    俺は息を呑んだ。
    親方は翔馬を呼ぶ。
    「翔馬」
    「はい!」
    「相手をしろ」
    翔馬が土俵へ上がる。
    相手は前回と同じだった。
    だが空気が違う。
    翔馬の表情も真剣だった。

    親方が言う。
    「今日は止めるな」
    俺は意味を理解した。
    前回はぶつかり稽古だった。
    今日は違う。
    実戦に近い。
    翔馬が腰を落とす。
    俺も構えた。
    稽古とはいえ、初めて本格的に相手と相撲を取る。
    行司はいない。
    だが、土俵の空気は本番だった。
    「始めろ」
    親方の声が飛ぶ。
    俺は踏み込んだ。
    翔馬も出る。
    ぶつかる。
    前回とは違った。
    翔馬が横へ動く。
    視界から消える。

    次の瞬間。
    身体が浮いた。
    土俵へ転がる。
    何が起きたのか分からなかった。
    「立て」
    親方の声が飛ぶ。
    俺は起き上がる。
    もう一度、踏み込む。
    今度は押そうとした。
    だが、左を差そうとした瞬間、身体が崩れる。

    翔馬に回り込まれる。
    また倒された。
    三度目。
    四度目。
    五度目。
    一度も勝負にならなかった。

    息が切れる。
    汗が落ちる。
    悔しかった。
    ぶつかりなら何とかなる。
    だが、相撲になると違う。
    相手は動く。
    回る。
    崩してくる。
    片腕であることが容赦なく突き付けられた。

    親方が止めた。
    「そこまでだ」
    俺は土俵の上で膝をついた。
    翔馬も息を切らしているが、余裕はあった。
    俺との間には大きな差があった。

    親方が近づいてくる。
    「どうだった」
    答えは分かっていた。
    「全然駄目です」
    親方は頷く。
    「そうだな」
    否定しない。
    慰めもしない。
    その方がありがたかった。
    俺は土俵を見つめる。
    握った拳に力が入る。

    親方が言った。
    「何が一番苦しかった」
    俺は考えた。
    そして答える。
    「相手が動くと追えません」
    「なぜだ」
    「右腕がないからです」

    親方は首を横に振った。
    「違う」
    俺は顔を上げる。
    親方の目は鋭かった。
    「お前は失った腕を見ている」
    言葉が胸に刺さる。
    親方は続けた。
    「相手を見ろ」
    俺は黙る。
    「右腕がないことばかり考えている」
    図星だった。
    崩れるたびに思う。
    右腕があれば。
    右腕が残っていれば。
    そんなことばかり考えていた。

    親方は言う。
    「相撲は言い訳を聞いてくれん」
    静かな声だった。
    だが、重かった。
    「右腕がないのは事実だ」
    「はい」
    「土俵に上がれば全員同じ力士だ」
    俺は何も言えなかった。
    土俵が静まり返る。
    若い力士たちも聞いていた。

    親方は最後に言った。
    「壁に当たったと思うな」
    俺は顔を上げる。
    「今、お前はやっと入口に立っただけだ」

    その言葉に思わず絶句した。
    ここまで来るだけでも長い道のりだった。
    だが、親方から見れば、まだ入口だった。
    相撲の世界は思った以上に遠い。
    思った以上に厳しい。
    それでも、不思議と諦めたいとは思わなかった。

    翔馬が近付いてくる。
    「大丈夫ですか」
    俺は頷いた。
    「悔しいな」
    翔馬は少し笑った。
    「俺も毎日そうです」
    その言葉に思わず苦笑した。

    俺だけではない。
    みんな負けている。
    みんな苦しんでいる。
    その先に強さがあるのだ。
    部屋を出る頃には夕方になっていた。

    春の風が吹いている。
    俺は空を見上げた。
    今日、一度も勝てなかった。
    だが、一つだけ分かったことがある。
    片腕になった俺の相撲は、まだ始まったばかりだ。
    そして親方が見せようとしている景色は、まだその先にある。

    俺は歩き出した。
    まだ入口なら、その先へ進むしかない。
    来週もまた土俵へ上がるために。


    第13話 土俵のない六日間

    日曜日の稽古が終わった。
    帰りの電車に揺られながら、俺は窓の外を眺めていた。
    今日も翔馬には勝てなかった。
    いや、勝負にすらなっていなかった。
    ぶつかり稽古では何とか形になった。
    だが、相撲になると違う。
    相手は動く。
    崩してくる。
    回り込んでくる。
    そのたびに俺は対応できなかった。

    右腕がない。
    その事実を何度も突き付けられた。
    だが、親方は言った。
    「右腕がないことばかり考えている」
    その言葉が頭から離れなかった。

    家へ帰る。
    夕飯を食べる。
    風呂に入る。
    それでも考えていた。
    相手を見ろ。
    失った腕を見るな。
    親方の言葉を何度も反芻する。

    そして机の引き出しを開けた。
    学生時代のノートが出てきた。
    大会の反省を書き込んだノートだった。
    ページをめくる。
    そこには当時の自分の文字が並んでいる。
    『立ち合いは低く』
    『左を差したら前へ出る』
    『相手を止めるな』
    懐かしかった。
    だが、今の俺には遠いものだった。
    そこに書かれているのは両腕があることを前提とした相撲だった。
    今の自分には使えない。

    俺は新しいノートを取り出した。
    そして最初のページに書く。
    『片腕の力士』
    しばらく見つめる。
    それから続けた。
    『右腕がない』
    『だから何ができる』
    初めてだった。
    失ったものではなく、残ったものを書くのは。
    ノートを閉じた。

    次の日から俺は生活を変えた。
    まだ暗いうちに家を出て、近くの公園へ向かう。
    誰もいない。
    俺は四股を踏み始めた。
    一回。
    二回。
    三回。
    最初は順調だった。

    だが、二十回を超えた頃から足が震え始める。
    五十回を超えると息が上がる。
    汗が流れる。
    それでも続けた。

    親方は言っていた。
    「身体を覚えさせろ」
    今の身体を覚えなければならない。
    事故前の身体ではない。
    今の身体だ。
    四股が終わる。
    今度はすり足だった。
    前へ出る。
    戻る。
    前へ出る。
    戻る。
    何度も繰り返す。
    途中でバランスを崩す。
    そのたびに立て直す。
    右腕がない。
    だから身体の使い方も変わる。
    以前と同じではいけない。
    それだけは分かっていた。

    平日はアルバイトへ向かう。
    学生横綱になったあの日、誰もが俺の角界入りを疑わなかった。
    俺自身もそうだった。
    だが、事故ですべてが変わった。
    卒業式は終わった。
    同期たちはそれぞれの道へ進んでいった。
    そして今、俺は物流会社の倉庫で働いている。
    事故のあと、生活のために始めた仕事だった。
    荷物の管理。
    伝票整理。
    できる仕事は限られる。
    それでも働く。
    生活のためだった。
    そして相撲を続けるためだった。

    仕事が終わると河川敷へ向かう。
    ランニングをする。
    走る。
    走る。
    走る。
    肺が苦しくなる。
    足が重くなる。
    それでも止まらない。
    誰よりも走らなければならない。
    土俵の上で動けなければ意味がない。

    夜になる。
    食事を終える。
    風呂に入る。
    そしてまたノートを開く。
    今日できたこと。
    できなかったこと。
    全部書く。

    ある日、スマートフォンで昔の試合動画を見返した。
    学生横綱を決めたあの日の決勝戦だった。
    画面の中には自分がいた。
    両腕がある。
    迷いがない。
    強かった。
    その向かいには久我がいる。
    何度も戦ったライバルだった。
    動画の中の久我は今より若い。
    だが目は変わらない。
    真っ直ぐだった。

    取組が始まる。
    立ち合い。
    激しくぶつかる。
    最後は俺が勝った。
    当時は当たり前だと思っていた。

    だが、今は違う。
    動画を止める。
    画面が暗くなる。
    そこに映るのは今の自分だった。
    右腕はない。
    身体も違う。
    立場も違う。
    それでも思った。
    もう一度土俵へ立ちたい。
    逃げたまま終わりたくない。
    片腕の力士として相撲を取りたい。
    そして、いつか久我と同じ土俵で真正面から戦いたい。
    初めて目標がはっきりした気がした。

    数日後、夕飯の席だった。
    母が俺を見る。
    「最近忙しそうね」
    「そうか?」
    「毎日相撲ばかりじゃない」
    俺は少し笑った。
    否定できなかった。

    母は味噌汁を置きながら言う。
    「顔つきが変わった」
    箸が止まる。
    「前よりいい顔してる」
    事故のあと、俺は何も見ていなかった。
    未来も。
    夢も。
    相撲も。
    全部失ったと思っていた。

    だが、今は違う。
    苦しい。
    悔しい。
    それでも前を向いている。

    母は小さく笑った。
    「久しぶりに相撲の話をするようになったもの」
    俺は何も言えなかった。
    ただ少し照れ臭かった。

    そして日曜日が来た。
    俺はいつもの電車に乗る。
    窓の外を流れる景色を見る。
    一週間前とは違っていた。
    強くなったとは思わない。
    まだ翔馬には遠く及ばない。
    だが、止まってはいない。
    それだけは言えた。

    大和田部屋へ着く。
    玄関を開ける。
    「おはようございます」
    翔馬が振り返る。
    「おはようございます」
    その顔を見た瞬間だった。
    翔馬が少し首を傾げる。
    「ん?」
    「何か変わりました?」
    俺は思わず笑った。
    「そうか?」
    「何となくです」
    俺は首を傾げた。
    自分ではよく分からなかった。
    その時だった。
    奥から親方が現れる。
    親方は俺を見た。
    ほんの一瞬だけだった。
    だが、その視線は以前より長く俺に留まった気がした。
    「準備しろ」
    「はい」
    それだけだった。
    だが、不思議と嬉しかった。
    土俵のない六日間、その時間も無駄ではなかった。
    そう思えた。


    第14話 初めての一勝

    その週も俺は始発電車に乗っていた。
    俺はいつものように大和田部屋へ向かっていた。
    この一週間も休まなかった。
    朝は四股。
    夜はランニング。
    ノートも続けている。
    強くなった実感はない。
    だが、身体は少しずつ変わっていた。
    以前より構えが安定する。
    以前より前へ出られる。
    ほんのわずかな変化だった。
    それでも確かに前進していた。

    部屋へ着く。
    翔馬が顔を上げた。
    「おはようございます」
    「おはよう、翔馬」
    まわしを締めながら翔馬が言う。
    「最近、動き変わりましたよね」
    「まだ全然だろ」
    翔馬は真面目な顔で首を振った。
    「前は当たる前から力が入ってたんです」
    「そうか?」
    「はい。でも今は少し違います」
    その言葉が妙に嬉しかった。

    稽古場へ向かう。
    親方は何も言わない。
    だが視線だけはこちらを見ていた。
    稽古が始まる。
    四股。
    すり足。
    構え。
    汗が流れる。
    足が悲鳴を上げる。
    それでも以前ほど苦しくない。
    身体が少しずつ今の形を覚え始めていた。

    やがて親方が声を掛ける。
    「翔馬」
    「はい」
    「上がれ」
    翔馬が土俵へ上がる。
    俺も向かう。
    ここまでは前回と同じだった。

    だが、今回は違った。
    親方は俺を見ながら言った。
    「今日は一つ課題を与える」
    俺は黙って聞く。
    「前へ出ろ」
    それだけだった。
    「技はいらん」
    「はい」
    「押し切れ」
    俺は頷いた。
    翔馬と向き合う。
    腰を落とす。
    呼吸を整える。
    親方の声が響く。
    「始めろ」
    踏み込む。
    ぶつかる。
    鈍い音が響く。
    翔馬は横へ動こうとする。
    前回なら対応できなかった。

    だが、今回は違った。
    親方の言葉が頭にあった。
    相手を見ろ。
    失った腕を見るな。
    俺は翔馬だけを見る。
    足を止めない。
    前へ出る。
    出続ける。
    だが、甘くなかった。
    翔馬は体勢を入れ替える。
    気付いた時には土俵際だった。
    そのまま押し出される。
    負け。

    俺は息を吐いた。
    悔しい。
    だが、前回とは違う。
    何が違うのか、自分でも分かった。
    少しだけ相撲になっていた。
    二番目。
    また負けた。
    三番目。
    押し込んだ。
    だが、最後に逆転された。

    親方は何も言わない。
    ただ見ている。
    四番目。
    五番目。
    六番目。
    何度もぶつかる。
    身体中が痛かった。
    汗で視界が滲む。
    それでも止まらない。
    気付けば七番目だった。
    立ち合いで低く入る。
    左腕で胸を押さえる。
    前へ出る。
    翔馬が回ろうとする。
    俺も動く。
    足を止めない。
    とにかく前へ出る。

    一歩。
    もう一歩。
    さらに一歩。
    気付けば翔馬が土俵際にいた。
    その瞬間だった。
    翔馬の足が俵を割る。

    土俵の外へ出た。
    静寂が落ちる。
    俺は何が起きたのか分からなかった。
    翔馬も目を丸くしている。
    親方の声が響いた。
    「今のだ」
    胸が大きく鳴る。
    勝った。
    ほんの一番。
    それでも勝った。

    事故以来初めてだった。
    俺は土俵の上で立ち尽くす。
    翔馬が笑った。
    「やられました」
    俺は思わず頬が緩んだ。
    息は切れていた。
    身体も痛い。
    だが嬉しかった。

    親方が近付いてくる。
    「勘違いするな」
    俺は背筋を伸ばす。
    「はい」
    「今の一番で強くなったわけじゃない」
    「はい」

    親方は続ける。
    「でも前へ進んだ」
    「先週のお前なら勝てなかった」
    返事がすぐに出なかった。
    親方は滅多に褒めない。
    だからこそ重かった。

    稽古が終わる。
    翔馬が隣へ座った。
    「初勝利ですね」
    「たまたまだ」
    「違います」
    翔馬は笑った。
    「前は相手を追うのに必死でした」
    「今は?」
    「今はちゃんと相撲してます」
    不思議な言葉だった。
    だが、何となく意味は分かった。

    以前の俺は失った腕ばかり見ていた。
    今は相手を見ている。
    土俵を見ている。
    少しだけ力士に近づいたのかもしれない。

    帰り際、親方が呼び止めた。
    「真田」
    「はい」
    「来週から相手を増やす」
    俺は目を見開いた。
    翔馬以外とも稽古をする。

    それは新しい段階だった。
    親方は続ける。
    「翔馬だけでは足りん」
    その言葉に緊張と期待が入り混じる。

    もっと強い相手。
    もっと違う相撲。
    もっと厳しい現実。
    それが待っている。
    だが不思議と怖くはなかった。

    部屋を出る。
    春の風が吹いていた。
    空を見上げる。
    事故の日から失ったと思っていた未来。
    その未来が少しずつ形になり始めている。
    まだ遠い。
    だが、確かに近づいている。
    俺は歩き出した。

    次の土俵へ向かうために。


    第15話 新しい相手

    「翔馬だけでは足りん」
    親方の言葉は、一週間経っても頭から離れなかった。
    初めて翔馬に一番勝った日、親方は喜ぶわけでもなく、褒めるわけでもなく、ただそう言った。

    翔馬だけでは足りない。
    その意味を考え続けていた。
    俺が成長したということなのか。
    それとも、まだ見えていない弱点があるということなのか。
    答えは分からない。
    ただ一つ分かるのは、親方が次の段階へ進ませようとしていることだった。

    その一週間も自主練習は続けた。
    朝は四股。
    仕事の後はランニング。
    夜はノートを開く。
    『足を止めない』
    『相手を見る』
    『前へ出る』
    何度も書き直した。
    学生横綱だった頃の相撲へ戻るためではない。
    片腕の力士として新しい相撲を作るためだ。

    そして日曜日、俺はいつものように大和田部屋へ向かっていた。
    玄関を開ける。
    「おはようございます」
    「おはようございます、真田さん」
    翔馬が頭を下げる。
    だが、その表情はどこか楽しそうだった。
    「何かあったのか」
    俺が聞くと、翔馬は少し笑った。
    「すぐ分かりますよ」
    意味深だった。
    着替えを済ませ、稽古場へ向かう。

    親方はいつもの場所に立っていた。
    若い力士たちはすでに四股を踏んでいる。
    俺も準備を始めた。
    四股。
    すり足。
    構え。
    身体は以前より動く。
    だが、親方は何も言わない。

    やがて朝稽古が一段落した頃だった。
    親方が声を上げる。
    「真田」
    「はい」
    「上がれ」
    俺は土俵へ上がった。

    続いて親方が別の名前を呼ぶ。
    「隆平」
    「はい!」
    聞き慣れない声だった。
    一人の力士が前へ出てくる。
    翔馬より一回り大きい。
    肩幅も広い。
    身体つきが明らかに違った。

    年齢は俺と同じくらいに見えた。
    俺の向かいへ立つ。
    親方が言った。
    「翔馬より一年先輩だ」
    俺は頷いた。
    隆平も頭を下げる。

    「よろしくお願いします」
    「よろしくお願いします」
    親方は腕を組んだ。
    「今日はこいつだ」
    その意味を理解する。

    新しい相手。
    親方が言っていたことはこれだった。
    翔馬だけでは足りない。
    だから別の力士と当たらせる。
    親方の意図は明白だった。
    そして厳しかった。

    「始めろ」
    声が飛ぶ。
    俺は踏み込んだ。
    隆平も出る。
    ぶつかる。

    次の瞬間だった。
    押し返された。
    身体が浮く。
    二歩。
    三歩。
    あっという間に土俵際だった。
    何とか残す。
    だが、完全に力負けしていた。

    「もう一回」
    親方の声。
    再び当たる。
    今度は低く入る。
    前へ出る。
    だが、隆平はびくともしない。
    まるで壁だった。
    押しても押しても動かない。
    そのまま体勢を崩される。
    土俵へ転がった。

    息が上がる。
    汗が流れる。
    翔馬との相撲とはまるで違った。
    力が強い。
    重い。
    前へ出る圧力が違う。

    「立て」
    俺は起き上がる。
    三回。
    四回。
    五回。
    結果は同じだった。
    一度も勝負にならない。
    それでも親方は止めない。
    何度も当たらせる。
    身体中が悲鳴を上げ始めていた。
    一番が終わり、俺は肩で息をしていた。
    隆平が少し息を整えながら言う。
    「真田さん」
    「ん?」
    「前へ出てくるのは嫌なんですけど」
    「え?」
    「途中から動きが読めます」
    俺は返す言葉を失った。
    親方の声が飛ぶ。
    「まだ終わりじゃない。構えろ」
    俺は再び腰を落とした。
    「始めろ!」
    隆平が動く。
    俺も前へ出る。
    だが次の瞬間――。
    押し出された。
    土俵の外へ出る。
    隆平は頭を下げた。
    「すみません」
    俺は首を振った。
    謝る必要はない。
    むしろ図星だった。
    前へ出ることばかり考えていた。

    親方に言われた課題だからだ。
    だが、相撲はそれだけではない。
    相手がいる。
    動きがある。
    駆け引きがある。
    親方が近付いてくる。

    「どうだ」
    俺は正直に答えた。
    「強いです」
    隆平が苦笑した。
    だが親方は頷いた。
    「当たり前だ」
    静かな声だった。
    「翔馬と隆平では相撲が違う」
    俺は黙って聞く。
    「相手が変われば答えも変わる」

    親方は続けた。
    「一つ覚えでは勝てん」
    その言葉が胸に残った。

    相手を見る。
    前へ出る。
    それだけでは足りない。
    まだ足りないのだ。

    稽古が終わる頃には、全身が痛かった。
    土俵脇へ座り込む。
    すると隆平が水を差し出した。
    「お疲れ様です」
    俺は受け取る。
    「ありがとうございます」
    隆平は少し笑った。

    「でも正直驚きました」
    「驚いた?」
    「何度やられても向かってくる人だとは思いませんでした」
    俺は返事に困った。
    褒められているのか分からない。
    だが、悪い気はしなかった。

    離れた場所で親方がこちらを見ていた。
    その表情は変わらない。
    厳しいままだ。
    それでも分かる。
    親方は試している。
    俺がどこまで進めるのか。
    どこで諦めるのか。
    そして、その先へ行けるのか。

    部屋を出る頃には夕方になっていた。
    春の風が少し暖かい。
    今日も負けた。
    翔馬にも。
    隆平にも。
    だが、不思議と落ち込んではいなかった。
    相撲の世界が少し広がった気がしたからだ。

    翔馬だけでは足りない。
    その意味が少しだけ分かった。
    そして、その先にはまだ見たことのない相手がいる。

    俺は空を見上げた。
    力士への道は遠い。
    だが、一歩ずつ近付いている。
    そんな気がしていた。


    第16話 片腕の武器

    隆平に何度も押し返された感触が、まだ身体に残っていた。
    力の差。
    体格の差。
    経験の差。
    だが、それ以上に考えていたことがある。
    俺には何があるのか。
    片腕になった今の俺は、何を武器に戦えばいいのか。

    帰宅した夜、俺は机に向かっていた。
    ノートを開く。
    『足を止めない』
    『相手を見る』
    そこへ新しい言葉を書き加える。
    『俺の武器は何か』
    ペンが止まった。
    答えが出ない。
    事故前なら簡単だった。
    押し。
    前へ出る力。
    低い立ち合い。
    学生横綱だった頃はいくらでも書けた。

    だが、今は違う。
    片腕になった今の自分に何があるのか。
    分からなかった。
    ノートを閉じる。
    答えは土俵にある気がした。

    翌日からも自主練習は続けた。
    朝は四股。
    公園で黙々と踏む。
    最初の頃は五十回で足が震えた。
    今は百回踏んでも最後まで形を保てる。
    仕事が終われば河川敷を走る。
    夜はすり足。
    汗だくになる。
    強くなっている実感はない。
    だが、止まってはいなかった。

    日曜日、俺は大和田部屋へ向かった。
    玄関を開ける。
    「おはようございます」
    翔馬が振り返る。
    「おはようございます」
    その顔は少し楽しそうだった。

    「今日は誰なんだ」
    俺が聞くと、翔馬は笑った。
    「今日は面白いと思います」
    意味深だった。
    着替えを済ませる。
    まわしを締めてもらう。
    稽古場へ向かう。

    親方はいつもの場所に立っていた。
    朝稽古が始まる。
    四股。
    すり足。
    構え。
    身体は少しずつ今の形に馴染んできていた。

    やがて親方が声を上げる。
    「真田」
    「はい」
    「上がれ」
    俺は土俵へ向かった。

    親方は別の名前を呼ぶ。
    「健吾」
    「はい!」
    小柄な力士が前へ出てきた。
    翔馬より細い。
    隆平よりずっと軽そうだった。
    だが、目だけは鋭い。
    俺の前へ立つ。

    親方が言った。
    「当たれ」
    俺は構える。
    健吾も腰を落とした。
    「始めろ」
    踏み込む。
    ぶつかる。
    その瞬間だった。
    消えた。
    そう見えた。

    健吾が横へ回った。
    慌てて向きを変える。
    だが、追いつかない。
    背後へ回られる。
    身体を崩される。
    気付けば土俵に転がっていた。

    速い。
    隆平とはまるで違う。
    「立て」
    親方の声。
    俺は起き上がる。
    二回目。
    今度は警戒した。
    だが、結果は同じだった。
    健吾は止まらない。
    左右へ動く。
    回り込む。
    捕まえられない。
    また負けた。

    三回目。
    俺は必死に追う。
    だが、追えば追うほど身体が開く。
    そこを突かれる。
    また転がされた。
    健吾が不思議そうに言った。
    「見えてますか?」
    嫌味ではなかった。
    純粋な疑問だった。
    俺は返事ができなかった。

    見えていない。
    完全に振り回されていた。
    悔しかった。

    四回目。
    踏み込む。
    健吾が動く。
    その瞬間だった。
    無意識に左腕が伸びた。
    肩に触れる。
    ほんの一瞬。
    健吾の動きが止まった。
    俺は前へ出る。
    だが、勝負にはならない。
    すぐ体勢を入れ替えられた。
    それでも何か違った。
    健吾の眉がわずかに動いた。

    「もう一回」
    親方が言う。
    再び構える。
    今度は意識していた。
    健吾が動く。
    左腕を出す。
    肩に触れる。
    腕に触れる。
    身体に触れる。
    完全には止められない。

    だが、追える。
    さっきより追える。
    健吾の動きがわずかに遅れる。
    そして表情がわずかに変わった。
    勝負が終わったあと、小さく言った。
    「やりづらいですね」
    俺は顔を上げた。

    親方が歩いてくる。
    「それだ」
    静かな声だった。
    俺は意味が分からなかった。
    親方は健吾を見る。
    「もういい」
    そして俺へ向き直った。
    「何が違った」
    俺は考える。
    「左腕ですか」

    親方は頷いた。
    「そうだ」
    土俵が静かになる。
    若い力士たちも聞いていた。
    親方は続ける。
    「お前には右がない」
    「はい」
    「だから相手は左を警戒する」

    俺は黙る。
    「普通の力士とは距離感が違う」
    親方は俺の左腕を見る。
    「相手はその腕を嫌がる」
    「その理由を考えろ」
    健吾も苦笑しながら頷いた。
    「触られると嫌です」
    俺は驚いた。
    今までそんなことを考えたこともなかった。

    親方は言う。
    「両腕の力士の真似をするな」
    その言葉は何度も聞いてきた。
    だが今日は少し違って聞こえた。
    「お前にはお前の相撲がある」

    俺は左腕を見る。
    今まで足りないものばかり見ていた。
    右腕がない。
    できないことがある。
    失ったものがある。
    そんなことばかりだった。
    だが、親方は違った。
    残っているものを見ていた。
    俺の左腕を。
    俺の身体を。
    俺自身を。

    稽古が終わる頃には全身が汗で濡れていた。
    土俵脇へ座る。
    翔馬が隣へ来た。
    「健吾、嫌がってましたね」
    「そうなのか」
    「ああいう触り方する人、いませんから」
    翔馬は笑った。
    「今までと違いました」
    「何がだ」
    「うまく言えませんけど……片腕の相撲って感じでした」
    俺はその言葉を繰り返した。
    片腕の相撲。
    事故以来ずっと探していたものかもしれない。

    帰り道。
    夕暮れの空を見上げる。
    俺は初めて気付いた。
    片腕になった俺には、俺だけの相撲がある。
    両腕だった頃の真田悠斗には戻れない。

    だが、その代わりに片腕の力士として戦う形が、ようやく見え始めていた。


    第17話 磨かれる武器

    稽古の帰り際、親方は最後に言った。
    「その理由を考えろ」
    親方の言葉は、その週ずっと頭の中に残っていた。
    相手はその腕を嫌がる。
    その理由を考えろ。
    健吾との稽古の帰り道も、仕事中も、夜にノートを開いた時も、その言葉が離れなかった。
    俺は机に向かい、ノートを開く。
    『左腕』
    その下に続ける。
    『相手はなぜ嫌がる』
    しばらく考える。
    だが、答えは出ない。
    分からないなら試すしかなかった。

    翌日も自主練習が始まる。
    朝は四股。
    すり足。
    仕事の後は河川敷を走る。
    夜になると鏡の前で構える。
    左腕を伸ばす。
    引く。
    押す。
    角度を変える。
    何度も繰り返した。
    以前の俺は失った右腕ばかり見ていた。
    今は違う。
    残された左腕を見るようになっていた。
    その変化だけでも大きかった。

    そして日曜日、俺は大和田部屋へ向かった。
    玄関を開ける。
    「おはようございます」
    「おはようございます」
    翔馬が頭を下げる。
    その顔はどこか楽しそうだった。
    「何かいいことでもあったのか」
    俺が聞くと、翔馬は笑う。
    「今日の稽古、楽しみなんです」
    意味は分からなかった。
    だが嫌な予感はしなかった。

    着替えを済ませ、稽古場へ向かう。
    朝稽古が始まる。
    四股。
    すり足。
    構え。
    身体は以前より自然に動いていた。
    親方は何も言わない。
    だが視線だけは感じた。
    やがて稽古が一段落した頃だった。

    親方が声を上げる。
    「真田」
    「はい」
    「健吾」
    健吾が土俵へ上がる。

    先週と同じだった。
    俺も土俵へ上がる。
    健吾と向かい合う。
    腰を落とす。
    呼吸を整える。

    「始めろ」
    踏み込む。
    健吾が横へ動く。
    先週と同じ動きだった。
    だが今回は追いかけなかった。
    左腕を伸ばす。
    肩に触れる。
    健吾の動きが一瞬止まる。
    そこへ前へ出る。
    押す。
    さらに押す。
    健吾は体勢を入れ替えようとする。
    だが、以前ほど自由に動けない。
    最後は崩された。
    負けだった。

    それでも健吾が苦笑した。
    「前より嫌ですね」
    俺は思わず笑った。
    それは褒め言葉だった。
    二番。
    三番。
    何度も当たる。
    勝てない。
    だが、先週ほど一方的ではない。
    健吾の動きが見える。
    追える。
    捕まえられる。
    その変化を自分でも感じていた。

    稽古が終わるかと思った時だった。
    親方が言う。
    「隆平」
    「はい」
    隆平が前へ出てきた。
    俺は思わず表情を引き締めた。

    先週、まるで歯が立たなかった相手だった。
    隆平も笑う。
    「よろしくお願いします」
    「よろしくお願いします」
    構える。
    親方が短く言った。
    「始めろ」
    踏み込む。
    ぶつかる。
    重い。
    やはり強い。
    胸に鉄板を押し当てられたようだった。

    だが、前回とは違う。
    押し返されながらも左腕を出す。
    胸に触れる。
    肩に触れる。
    隆平の身体がわずかに揺れた。
    ほんの少しだった。
    だが、確かに揺れた。
    俺は驚いた。
    前回はびくともしなかったからだ。

    隆平も目を細める。
    「なるほど」
    そう呟いた。
    結果は負けだった。
    だが、内容が違った。

    二番目。
    今度は土俵際まで押し込まれる。
    それでも簡単には崩れない。
    足が残る。
    以前ならすぐ転がされていた。

    三番目。
    俺は左腕で胸を押さえた。
    隆平が前へ出る。
    ほんの一瞬、その勢いが止まる。
    その隙に半歩だけ横へ動いた。
    自分でも驚いた。
    勝負は負け。

    それでも隆平が言った。
    「強くなってますね」
    息が止まりそうになった。
    俺は何も言えなかった。
    隆平は続ける。
    「前は押すだけでした」
    汗を拭きながら笑う。
    「今は考えてます」
    その言葉が嬉しかった。

    親方が近付いてくる。
    「どうだ」
    「少し分かってきました」
    親方は何も言わない。
    俺は左腕を見る。
    「左腕で勝つんじゃない」
    「左腕で相手を迷わせる」

    親方の口元がわずかに動いた。
    笑ったようにも見えた。
    「そうだ」
    静かな声だった。
    だが重かった。

    親方は続ける。
    「武器とは力だけじゃない」
    土俵が静まる。
    若い力士たちも聞いていた。
    「相手が嫌がるものも武器だ」

    俺は左腕を見る。
    太いわけではない。
    特別強いわけでもない。
    だが、相手は嫌がる。
    そこに意味がある。
    そこに可能性がある。
    今まで考えたこともなかった。

    稽古が終わる。
    土俵脇へ座り込む。
    翔馬が隣へ来た。
    「見てました」
    「どうだった」
    翔馬は笑った。
    「真田さんらしい相撲になってきました」
    「なってきた?」
    「はい。前よりずっと」
    俺はその言葉を繰り返した
    真田らしい相撲。
    学生横綱だった頃の相撲ではない。
    片腕になる前の相撲でもない。
    今の俺だけの相撲だ。

    帰り道、夕暮れの空を見上げる。
    事故の日から失ったものばかり数えていた。
    だが、今は違う。
    残されたものを見ている。
    そして少しずつ形になっている。
    片腕の力士としての相撲が。

    綱取りへの道はまだ遠い。
    だが、その道は確かに続いていた。


    第18話 開き始めた扉

    「相手が嫌がるものも武器だ」
    親方の言葉は、その後も頭の中に残っていた。
    武器とは力ではない。
    速さでもない。
    相手が嫌がるもの。
    相手が迷うもの。
    俺の左腕は、そのために使える。

    その一週間も自主練習は続いた。
    朝の四股とすり足は続ける。
    走り込みも続ける。
    夜になると鏡の前へ立った。
    左腕を伸ばす。
    角度を変える。
    触れる。
    離す。
    相手がどう動くかを想像しながら何度も繰り返した。
    正解は分からない。
    それでも以前のような迷いはなかった。
    俺は失った右腕ではなく、残された左腕を見ていた。

    そして迎えた日曜日、大和田部屋へ着くと、いつもより空気が違った。
    若い力士たちの表情がどこか引き締まっている。
    稽古場へ入ると、親方が言った。
    「今日は三人だ」
    俺は一瞬意味が分からなかった。
    すると翔馬が笑う。
    「連続です」
    なるほど。
    三人続けて相撲を取るということだった。

    親方は腕を組む。
    「逃げるな」
    「はい」
    「全部当たれ」
    俺は頷いた。

    最初の相手は健吾だった。
    小柄で速い。
    何度も苦しめられてきた相手だ。
    「お願いします」
    「お願いします」
    構える。
    呼吸を整える。
    「始めろ」
    健吾が動く。
    だが、以前のように追いかけない。
    左腕を出す。
    触れる。
    健吾が嫌そうな顔をする。

    その瞬間、前へ出た。
    一歩。
    二歩。
    健吾が回る。
    俺も動く。
    土俵際。
    最後は投げられたが、以前のように一方的ではなかった。

    だが簡単にはやられなかった。
    健吾が息を吐く。
    「本当にやりづらくなりましたね」
    その言葉が少し嬉しかった。

    二人目は隆平だった。
    壁のような力士。
    以前は何もできなかった。
    ぶつかる。
    重い。
    圧力が違う。
    それでも左腕で胸を押さえる。
    距離を作る。
    前へ出る。
    隆平が驚いた顔をした。
    俺は初めて土俵際まで押し返した。
    だが、最後は力負けした。
    俵を割る。
    負け。
    それでも隆平は笑った。
    「今のは危なかったです」
    前ならそんな言葉は出なかったはずだった。

    三人目。
    見たことのない力士だった。
    俺より年上に見える。
    親方が言う。
    「隣の部屋から来てもらった」
    俺は少し驚いた。
    部屋の外の力士。
    初めてだった。
    その力士は軽く頭を下げる。
    「お願いします」
    「お願いします」
    構える。
    始まる。
    ぶつかる。
    相手は巧かった。
    力ではない。
    間合いが巧い。
    俺が出ようとすると下がる。
    止まると前へ出てくる。
    翻弄された。

    一番目。負けた。
    二番目も押し切られた。
    三番目も土俵を割る。
    息が切れる。
    足が重い。
    全身が痛い。
    だが不思議と諦めたくなかった。
    最後の一番。
    構える。
    相手も構える。
    俺は深く息を吸った。
    左腕を見る。
    違う。
    見るのは相手だ。
    親方に何度も言われた。
    相手を見ろ。
    俺は相手だけを見た。

    立ち合い。
    ぶつかる。
    左腕を伸ばす。
    相手はそれを払うか迷った。
    一瞬だけ動きが止まる。
    その隙だった。
    前へ出る。
    足を止めない
    一歩。
    二歩。
    三歩。
    押す。
    押す。
    押し続ける。
    相手が後退する。
    俵が近付く。
    俺はさらに前へ出た。
    次の瞬間。
    相手の足が俵を割った。

    静寂。
    俺は動けなかった。
    何が起きたのか分からない。
    相手は肩をすくめた。
    「参りました」
    その言葉でようやく理解した。
    勝った。
    初めて親方が用意した相手に勝った。

    親方が近付いてくる。
    俺は思わず顔を上げた。
    親方は短く言う。
    「今のは良かった」
    俺は耳を疑った。
    親方が褒めた。
    ほんの一言。
    だが、十分だった。

    稽古が終わる。
    土俵脇へ座り込む。
    全身が痛い。
    息も苦しい。
    それでも笑いそうだった。
    翔馬が隣へ来る。
    「やりましたね」
    「たまたまだ」
    「違います」
    翔馬は即答した。
    「勝つべくして勝ちました」
    俺は首を振った。
    そんな大層なものではない。
    だが、少しだけ分かる。
    以前の俺なら勝てなかった。
    今日の勝ちは偶然ではない。
    積み重ねたものの結果だった。

    帰り際、親方が俺を呼び止めた。
    「真田」
    「はい」
    親方はしばらく俺を見る。
    そして言った。
    「来週から次の話をする」
    「次?」
    「お前が本当に力士になる話だ」
    俺は固まった。
    ずっと目指していたはずなのに、返事が出なかった。
    だが、胸の奥で何かが大きく鳴った。
    力士になる。
    事故の日に消えたと思った未来。
    その扉が、今ようやく開こうとしていた。

    春の夕暮れ、部屋を出た俺は空を見上げた。
    まだ何も成し遂げていない。
    横綱どころか、力士ですらない。
    だが、確かに前へ進んでいる。
    事故の日から止まっていた時間が、再び動き始めていた。

    俺はゆっくり歩き出した。
    その先にある土俵を目指して。


    第19話 進む理由

    「来週から次の話をする」
    親方の言葉は帰り道になっても頭から離れなかった。
    電車の窓に映る自分を見る。
    事故の日から何度も諦めた。
    相撲は終わったと思った。
    もう土俵へ戻ることはないと思った。
    それなのに今、自分は力士になろうとしている。
    信じられない気持ちだった。
    嬉しかった。
    それでも怖かった。
    力士になるということは、ただ相撲を続けるという話ではない。
    人生をもう一度、相撲に賭けるということだ。

    家へ帰る。
    玄関を開けると夕飯の匂いがした。
    いつもと変わらない光景だった。
    母が台所から顔を出す。
    「おかえり」
    「ただいま」
    その声を聞いた瞬間、不思議と緊張した。

    夕飯の席に着く。
    味噌汁の湯気が上がっている。
    しばらく黙って食べていたが、やがて箸を置いた。
    「話がある」
    母が顔を上げる。
    「どうしたの?」
    俺は少しだけ息を吸った。
    「大和田部屋に入るかもしれない」
    母は驚かなかった。
    静かに俺を見ている。

    「親方から話をもらった」
    沈黙が流れる。
    やがて母が頷いた。
    「そう」
    それだけだった。
    俺は少し拍子抜けする。
    もっと反対されると思っていた。
    もっと心配されると思っていた。
    母は小さく笑った。
    「最近の顔を見てたら分かるわよ」
    俺は黙る。
    「毎週日曜日になると楽しそうだったから」

    事故のあとを思い出した。
    何もしたくなかった。
    誰にも会いたくなかった。
    未来なんて考えられなかった。
    母は続ける。
    「病院で目を覚ました日のこと覚えてる?」
    俺はゆっくり頷いた。
    忘れるはずがない。
    右腕がなくなったことを知った日だ。
    「毎日、死んだみたいな顔をしてた」
    胸が少し痛んだ。
    「何を話しても上の空だった」
    母は味噌汁を見つめたまま言う。
    「あの時は本当に心配だった」
    俺は何も言えなかった。
    母は全部見ていたのだ。
    俺が諦めていたことも。
    自暴自棄になっていたことも。
    全部。

    しばらく沈黙が続く。
    やがて母が顔を上げた。
    「本当にやりたいの?」
    その問いに迷いはなかった。
    「やりたい」
    即答だった。
    母は少しだけ笑う。
    「そう」
    そして言った。
    「ならやりなさい」

    俺は顔を上げる。
    「でも約束して」
    「何?」
    「今度は途中で逃げないこと」
    その言葉が胸に残った。
    事故のあと、俺は相撲から逃げた。
    現実から逃げた。
    自分自身からも逃げた。
    母は全部分かっていたのだ。
    「分かった」
    そう答えると、母は安心したように笑った。

    「横綱になったら親孝行してよ」
    思わず笑ってしまった。
    「難しい注文だな」
    「じゃあ十両でもいいわ」
    その言葉に二人で笑った。
    久しぶりだった。
    こんなふうに笑えたのは。

    その夜、ベッドへ横になる。
    だが、眠れなかった。
    天井を見つめる。
    力士になる。
    言葉にすると簡単だ。
    だが、人生を変える決断だった。
    本当に通用するのか。
    また怪我をしたらどうする。
    結果が出なかったらどうする。
    不安はいくらでも浮かぶ。
    だが、不思議だった。
    以前のような迷いはなかった。
    怖い。
    それは間違いない。
    それでも進みたい。
    その気持ちの方が大きかった。

    目を閉じる。
    土俵が浮かぶ。
    翔馬。
    隆平。
    健吾。
    親方。
    みんなの顔が浮かんだ。

    事故の日から止まっていた時間が、ようやく動き出している。
    そんな気がした。
    翌日からも自主練習は続いた。
    四股。
    すり足。
    ランニング。
    ノート。
    いつもと同じだ。
    だが、心構えは違っていた。
    もう力士を目指しているのではない。
    力士になるために動いていた。

    数日後、仕事が終わったあと、主任のところへ向かった。
    「少しお時間いいですか」
    主任が顔を上げる。
    「どうした」
    俺は頭を下げた。
    「退職させてください」
    主任は驚かなかった。
    むしろ少し笑った。
    「やっぱり相撲か」
    思わず笑う。
    「分かりましたか」
    「分かるさ」
    主任は椅子にもたれた。
    「最近のお前はずっと相撲の顔をしてた」
    俺は少し照れ臭かった。

    主任は続ける。
    「事故のあと、お前は別人だった」
    俺は黙る。
    否定できない。
    「でも今は違う」
    主任は真っ直ぐ俺を見る。
    「目が死んでない」
    短い言葉だった。
    だが、不思議と力になった。

    主任は立ち上がる。
    そして右手を差し出した。
    「頑張れ」
    俺は左手を出す。
    強く握り返した。
    「ありがとうございました」
    短い握手だった。
    だが一生忘れない気がした。

    そして日曜日、稽古を終えたあと、親方に呼ばれる。
    部屋の奥。
    親方と向かい合う。
    少しだけ緊張した。
    親方はしばらく黙っていた。
    やがて口を開く。
    「考えたか」
    「はい」
    「なぜ戻りたい」
    すぐには答えられなかった。
    横綱になりたいからか。
    勝ちたいからか。
    有名になりたいからか。
    どれも違う気がした。
    親方は黙って待っている。
    俺はゆっくり答えた。
    「相撲が好きだからです」
    親方は何も言わない。

    俺は続ける。
    「事故で全部終わったと思いました」
    静かな部屋に声だけが響く。
    「でも土俵へ戻ったら分かったんです」
    親方の表情は変わらない。
    「やっぱり相撲が好きなんです」
    沈黙。
    長い沈黙だった。

    やがて親方が言った。
    「横綱になりたいか」
    俺は驚いた。
    だが迷わない。
    「なりたいです」
    「なれると思うか」
    難しい質問だった。

    俺は少し考える。
    そして答えた。
    「分かりません」
    親方は黙る。
    「でも諦めるつもりはありません」
    親方の目が少しだけ細くなった気がした。
    「覚悟はあるか」
    「あります」
    「苦しいぞ」
    「はい」
    「今よりもっとだ」
    「はい」
    「それでもやるか」

    俺は真っ直ぐ親方を見る。
    「やります」
    親方は静かに頷いた。
    そして短く言った。
    「なら来い」
    その一言だった。
    だが、それで十分だった。

    事故の日に失ったと思った未来。
    その扉が今、ようやく開いた。
    俺は深く頭を下げる。

    力士として生きる道が、ここから始まるのだ。


    第20話 土俵へ帰る

    「なら来い」
    親方のその一言で終わった。
    だが、俺にとっては、それだけで十分だった。
    部屋を出た帰り道、春の夕暮れが街を染めていた。
    駅へ向かう足取りは不思議なほど軽かった。
    足取りは軽かった。
    それでも胸の中は落ち着かなかった。

    本当に力士になる。
    言葉にすると簡単だ。
    それでも人生を変える決断だった。
    事故の日に閉ざされたと思った未来。
    その夢へ、もう一度手を伸ばそうとしている。
    期待もある。
    不安もある。
    それでも前へ進みたい。
    その気持ちは揺らがなかった。

    翌日から退職の手続きが始まった。
    物流会社での仕事は、事故のあと生活のために始めたものだった。
    気づけば月日は流れていた。
    淡々とした毎日だったが、あの頃の自分を支えてくれた場所でもある。
    相撲を諦めたつもりでいた時間。
    その間、自分を現実に繋ぎ止めていたのは、この仕事だった。

    最後の出勤日。
    朝、いつものように作業着へ着替える。
    ロッカーを開ける。
    中には使い慣れた手袋やメモ帳が入っていた。
    一つずつ取り出す。
    やがてロッカーが空になる。
    扉を閉めた。
    金属音が静かに響いた。
    それだけのことなのに、一つの区切りのように感じた。
    作業を終えたあと、主任が声を掛けてきた。
    「いよいよだな」
    「はい」
    主任は笑う。
    「最初に相撲の話を聞いた時は驚いたよ」
    俺は少し照れくさく笑った。
    「自分でも驚いてます」
    主任は頷いた。
    「でも今のお前を見てると、それしかない気もする」
    俺は黙った。

    事故のあと、何も見えていなかった。
    仕事だけして帰る。
    毎日がただ過ぎていく。
    そんな日々だった。
    だが、今は違う。
    目の前に目標がある。
    土俵がある。

    主任は言った。
    「横綱になったらサインくれ」
    思わず笑う。
    「気が早すぎますよ」
    「冗談でもいいから、約束しとけ」
    二人で笑った。
    最後に頭を下げる。
    「お世話になりました」
    主任は大きく頷いた。
    「頑張れ」
    その言葉を背中で受けながら会社を出た。
    振り返らなかった。
    振り返る必要がなかった。
    次へ進むと決めていたからだ。

    数日後、入門の日がやって来た。
    まだ夜も明けきらない時間だった。
    荷物をまとめた俺は玄関へ立つ。
    母が見送りに出てきた。
    「忘れ物ない?」
    「大丈夫」
    「ちゃんと食べるのよ」
    「子供じゃないぞ」
    そう言うと母は笑った。
    だが、目は少し赤かった。
    俺も胸の奥が少しだけ熱くなる。
    事故の日から今日まで、一番近くで見ていたのは母だった。
    諦めていた自分も。
    逃げていた自分も。
    全部知っている。
    だからこそ言った。
    「ありがとう」
    母は少し驚いた顔をした。
    そして笑う。
    「横綱になったら、ちゃんと恩返ししてよ」
    「だから気が早いって」
    二人で笑った。
    そのまま家を出る。
    振り返ると母がまだ立っていた。
    俺は軽く手を振った。
    そして前を向いた。

    大和田部屋へ向かう。
    電車に揺られる時間が妙に長く感じる。
    窓に映る自分を見る。
    学生横綱だった頃とは違う。
    事故前とも違う。
    右腕もない。
    それでも今の自分は嫌いではなかった。
    失ったものは戻らない。
    それでも残ったものがある。
    だからここまで来られた。

    部屋へ到着する。
    何度も通った玄関だった。
    だが、今日は違う。
    見学ではない。
    体験でもない。
    弟子として入る。
    俺は深く息を吸った。
    そして扉を開ける。

    「おはようございます!」
    部屋の中の力士たちが振り返る。
    翔馬が笑った。
    「おはようございます」
    隆平も頷く。
    健吾は腕を組んだまま言った。
    「逃げませんでしたね」
    思わず笑った。
    「逃げるつもりはなかったよ」
    「ちょっと心配してました」
    そんな軽口も心地よかった。

    親方は土俵脇に立っていた。
    俺を見る。
    そして言った。
    「今日からだ」
    「はい」
    それだけで十分だった。
    俺は深く頭を下げた。

    力士としての生活が始まった。
    朝は早い。
    掃除。
    準備。
    稽古。
    食事。
    片付け。
    また稽古。
    学生時代とは全く違う。
    相撲だけやればいい世界ではない。
    生活そのものが修行だった。
    数日で身体中が悲鳴を上げた。
    稽古はもちろんきつい。
    だが、掃除も洗濯も雑用もある。
    思っていた以上だった。
    それでも不思議と嫌ではなかった。
    毎日が土俵へ繋がっている。
    それが嬉しかった。

    ある日の夕方、稽古を終えた俺は土俵脇へ座り込んでいた。
    汗が止まらない。
    翔馬が隣へ来る。
    「どうですか」
    「想像以上だな」
    翔馬が笑う。
    「まだ序の口ですよ」
    「聞かなきゃよかった」
    二人で笑った。

    ふと視線を上げる。
    部屋の壁に新しい番付表が貼られていた。
    何気なく立ち上がり、近づく。
    序ノ口。
    序二段。
    三段目。
    その上へ視線を動かしていく。
    まだ遠い世界だった。
    そして、ある名前で目が止まった。
    『久我』
    俺はしばらく動かなかった。
    学生時代、何度も戦ったライバル。
    病院で会った男。
    事故の日に終わったと思っていた相手。
    その名前は確かにそこにあった。
    俺よりはるか上の番付に。
    翔馬が不思議そうに聞く。
    「知り合いですか」
    「ライバルだ」
    自然と口から出た。
    翔馬が番付を見る。
    「強い人なんですね」
    俺は頷いた。
    「強い」
    そして少しだけ笑った。
    「だから追いかける価値がある」
    番付表を見上げる。
    遠い。
    想像もできないほど遠い。
    だが、事故の日の俺から見れば、ここまで来ることだって十分遠かった。
    なら進むだけだ。
    一歩ずつ。
    土俵の上で。
    番付の上で。
    いつか、あの名前の隣に立つために。
    夕暮れの光が土俵を照らしていた。
    俺は静かに拳を握った。

    ここが始まりだ。
    片腕の力士・真田悠斗の挑戦は、今ようやく本当のスタートラインに立ったのだから。


    第21話 約束の土俵

    真田が大和田部屋へ入門したという話を聞いた時、久我龍臣は正直、一年も続かないと思っていた。
    もちろん口には出さなかった。
    病院で会ったあの日。
    「できないって決まったわけじゃない」
    そう言ったのは自分だ。
    だが、現実は別だった。
    相撲は甘くない。
    まして片腕で戦うなど前例がない。
    久我自身、大相撲の世界へ入ってから嫌というほど思い知らされていた。
    だから気になった。
    番付が出るたびに確認した。
    真田の名前を探した。
    序ノ口。
    序二段。
    三段目。
    勝ったり負けたりを繰り返していた。
    派手な成績ではない。
    それでも消えなかった。
    何場所経っても名前が残っていた。
    それが妙に気になった。

    普通なら折れる。
    普通なら諦める。
    だが、真田は諦めなかった。
    やがて耳に入る話も変わっていった。
    「あの学生横綱、まだ辞めてないらしい」
    「片腕で続けてるって本当か」
    最初はそんな噂だった。
    だが、次第に内容が変わる。
    「あいつはやりにくい」
    「距離感がおかしい」
    「左が嫌なんだ」
    そんな話が増え始めた。

    久我はすぐに理解した。
    武器を見つけたのだ。
    真田だけの相撲を。
    両腕の力士の真似ではない。
    失った右腕を補う相撲でもない。
    片腕だからこそ生まれた相撲だった。
    左腕で触れる。
    距離を支配する。
    相手を迷わせる。
    一瞬の躊躇を生み出す。
    そして誰よりも前へ出る。
    学生時代の真田ならやらなかった相撲だった。

    だが、今の真田には、それがあった。
    真田は少しずつ番付を上げていった。
    幕下。
    十両。
    そして関取。
    ある日の取組を久我はよく覚えている。
    真田の左手が相手のまわしを捉えた。
    その瞬間だった。
    真田の足が止まらなくなる。
    一歩。
    もう一歩。
    頭を胸につけたまま前へ出る。
    相手は離れようとする。
    だが、離れられない。
    左腕一本で引き寄せられ、真田の圧力に飲み込まれていく。
    最後まで足を止めなかった真田が、そのまま相手を土俵の外へ運んだ。

    事故の日から続けてきた積み重ねが、その相撲には滲んでいた。
    ある場所で真田は大きく負け越した。
    新聞は限界だと書いた。
    評論家も口を揃えた。
    ここまでだと。
    だが、久我は思った。
    終わらない。
    あいつは終わらない。
    真田悠斗という男は、無理だと言われてからが本番だからだ。

    予感は当たった。
    翌場所、真田は勝ち越した。
    さらに次の場所も。
    その次の場所も。
    気付けば幕内へ上がっていた。
    誰よりも驚いていたのは、もしかすると久我だったかもしれない。

    病院で見たあの日の真田。
    すべてを失ったと思い込んでいた男。
    その男が今、幕内の土俵へ立っている。
    奇跡ではなかった。
    積み重ねだった。
    何千回の四股。
    何万歩のすり足。
    数え切れない敗北。
    その全部の先に今がある。
    そして今日、久我は西の控えで座っている。
    向こうには東の控え。
    真田がいる。
    長かった。
    本当に長かった。

    呼出の声が両国国技館に響く。
    何度も夢見た瞬間だった。
    学生横綱決定戦の帰り道。
    「次は大相撲だな」
    あの日、交わした約束。
    事故の日に消えたと思った未来が、今、目の前にあった。
    観客は片腕の力士を見ている。
    だが、久我が見ているのは違う。
    学生時代から追い続けてきた、一人のライバルだった。

    何年も待ち続けた光景だった。
    事故の日には、二度と見ることはないと思っていた。
    あの日の約束を覚えていたのは、自分だけではなかったらしい。
    だから今日、この土俵にいる。

    行司が軍配を構える。
    真田が腰を落とす。
    久我も腰を落とした。
    二人の視線が交わる。
    学生横綱決定戦の日。
    病院で交わした言葉。
    右腕を失った日。
    土俵へ戻ると決めた日。
    そのすべてが、この瞬間につながっている。
    久我は静かに息を吐いた。
    強くなったな。
    心の中でそう呟く。
    真田の表情は変わらない。
    だが、分かる。
    あいつは今も前だけを見ている。
    片腕になって失ったものは多い。
    それでも歩みを止めなかった。
    だからここまで来た。

    土俵の中央、二人の力士が向かい合う。
    長い物語の終わりではない。
    ここから始まる新しい勝負だ。
    国技館が静まり返る。

    そして――。

    【完】

    #創作大賞2026#エンタメ原作部門


     
     

    福助

     
     
    2人の子供を育てる50代。 人生の折り返しを過ぎても、迷いながら前を向く毎日です。 夫婦のこと、仕事のこと、これからの生き方。日々感じたことを言葉にしています。 同じ世代の方に読んでいただけたら嬉しいです。