
小説 クオリアの交差点
あらすじ
ギターをきっかけに出会い、付き合い始めた高校生のひろしと優子。初めてのキスを交わした翌朝、ひろしのコーヒーの味が変わった。音感も、においも、海の見え方も、音楽の感じ方も、すべてが入れ替わっていた。
物理教師の北見は言った。「感覚の中身のことをクオリアという。波長は測れる。でも頭の中で何が起きているかは、物理では扱えない」。そして仮説を立てた。キスの瞬間、二人の神経信号が共鳴し、クオリアが入れ替わった可能性があると。
元に戻すには、もう一度同じ場所で、同じ状態で。すったもんだの末、二人は夕暮れの公園に戻った。ギターを弾いて、キスをした。感覚は戻った。
ただし、優子の絶対音感だけが、消えなかった。
第一章 Gコード
ひろしがギターを始めたのは中学二年の冬で、理由は不純だった。
好きな女の子がアコースティックギターを弾く男子に憧れていると聞いた、それだけだった。その女の子の名前はもう思い出せない。クラスが違って、話しかけたことも一度もなかった。ただ廊下ですれ違うたびに胸が痛くて、何かしなければという焦りだけがあった。
ギターを買ったのは、父親に頼み込んで近所のリサイクルショップで見つけた安物だった。弦が一本切れていて、ボディに細かい傷があった。それでも自分のギターだと思うと、少し気持ちが落ち着いた。
Gコードを押さえようとして、指が届かなかった。Cコードを押さえようとして、隣の弦に触れてしまった。ユーチューブの動画を何本も見て、真似をしたが、音が出なかった。
三ヶ月で、その女の子は別の男子と付き合い始めた。
ギターだけが残った。
中学を卒業するころには、コードはひと通り押さえられるようになっていた。好きな曲をコピーして、一人で弾いた。誰かに聞かせることはなかった。ギターは自分の部屋の中だけのものだった。
高校に入学して、軽音楽部の見学に行ったのは、他にやりたいことが見つからなかったからだ。運動部は向いていないと中学でわかっていたし、文化部の中ではギターが弾ける場所が一番自然に思えた。
部室は校舎の端にある小さな部屋で、アンプが二台と、古びたドラムセットと、パイプ椅子がいくつか置いてあった。先輩が数人いて、ひろしが入ったとき、全員がスマートフォンを見ていた。
部屋の隅に、一人だけ違うことをしている女子がいた。
パイプ椅子に座って、アコースティックギターを膝に置いて、左手のフォームを確認するように、ゆっくりと指を動かしていた。眉間にわずかに皺が寄っていた。小指が届かずに、何度もやり直していた。
Gコードだとわかった。
ひろしは黙って隣の椅子を引いて座った。自分のギターケースを開けた。チューニングを合わせてから、Gコードを押さえた。
女子がひろしを見た。
クオリアの交差点「小指、立てすぎ」とひろしは言った。「寝かせて、指の腹で押さえる感じにすると、届きやすい」
余計なお世話だと思われるかもしれないと思った。でも言ってしまった後だった。
女子はしばらくひろしを見てから、黙って指のフォームを変えた。
Gコードを鳴らした。
きれいに音が出た。
「あ」と女子は言った。
それだけだった。
それで十分だった。
優子という名前を知ったのはその日の帰り際だった。出席簿に名前を書くときに、隣にいたから見えた。宮本優子。ひろしと同じクラスだったが、それまで話したことはなかった。
ひろしには絶対音感があった。
物心ついたころから、音が聞こえると同時にその音の名前が浮かんだ。車のクラクションはファ。冷蔵庫のモーター音はラ♭。雨が窓を叩く音は音程がなくて、でもその中に微妙な高低があった。授業中にチョークが黒板を走る音はソで、先生によって少しずれた。
ラジオから流れる曲のキーが瞬時にわかった。誰かの鼻歌が半音ずれていると体がむずむずした。音楽を聴くのは好きだったが、生演奏でチューニングが甘いとどうしても気になった。
でもそれを人に言ったことはなかった。
一度だけ、小学校のとき音楽の先生に言ったことがある。先生は面白そうに聞いていたが、その後クラスで発表されて、しばらくみんなに「ねえ、これ何の音?」と試されることが続いた。それが嫌だった。それ以来、黙っていることにした。
優子はギターの飲み込みが早かった。
一週間でGコードとCコードとAmコードを覚えた。一ヶ月でFコードを克服した。Fコードは人差し指で全弦を押さえるバレーコードで、多くの初心者がここで挫折する。優子は毎日指が痛くなるまで練習して、ある日突然きれいな音が出るようになった。
「できた」と優子は言った。その日ひろしは隣にいた。
「うん」とひろしは言った。
「なんで嬉しそうじゃないの」
「嬉しいよ」
「顔に出てない」
「そういう顔なんだと思う」
優子が笑った。少し呆れたような笑い方だった。
放課後の部室で二人で弾いていることが増えた。先輩たちはバンドの練習があったり、そうでない日は早く帰ったりしていたので、夕方の部室にいるのはたいていひろしと優子だけだった。
ひろしはコードを教えた。スケールを教えた。チューニングの合わせ方を教えた。優子は教えたことをすぐに吸収して、翌日には自分のものにしていた。
「ひろしって、音感すごいよね」
ある日、優子が言った。放課後の部室で、窓から夕日が入っていた。
「ちょっとだけ」
「ちょっとじゃないでしょ。わたしが弾いたコード、全部当てるじゃない」
「まあ」
「絶対音感?」
「たぶん」
優子はしばらくひろしの顔を見ていた。
「いいな」と言った。「音が全部わかるって、どんな感じなの」
ひろしは少し考えた。普段なら「別に大したことない」と流すところだった。でもなぜか、優子には少し話してもいい気がした。
「音が聞こえると、名前が勝手についてくる感じ。赤いものを見たら赤って思うのと同じで、意識しなくてもわかる」
「それって、音楽を聴くとき、楽しい?」
「楽しいけど、たまにうるさい」
「うるさい?」
「ずっと音の名前が頭の中で鳴ってる感じがして。電車に乗ってても、走行音がドとかレとか聞こえてくる。静かな場所でも、どこかで音がしてると全部聞こえてしまう」
優子はそれを聞いて、少し考えるような顔をした。
「じゃあ、今のわたしのギターの音は」
「Cコードのはずが、少し音が下がってる。チューニングがずれてきてる」
優子が弦を確認した。確かにわずかにずれていた。
「すごい」と優子は言った。感心しているようだった。
「べつに」
「べつにじゃないよ。わたしには全然わからない」
「慣れれば誰でも、ある程度は」
「絶対音感は慣れじゃないでしょ」と優子は言った。「生まれつきか、幼いころに身につくかのどちらかで、大人になってから習得できるものじゃないって聞いたことある」
ひろしは少し驚いた。優子がそういうことを知っていると思わなかった。
「なんで知ってるの」
「ピアノを小学校まで習ってたから。先生に聞いたことがある。絶対音感があったら良かったのにって言ったら、それは幼児期に決まることで今からは無理だって言われた」
「そうなんだ」
「だからいいなって思う。あなたの中に、わたしが持ってないものがある」
その言葉が、妙に心に残った。
自分の中に、他の人が持っていないものがある。そう言われたことはなかった。だいたいは「便利だね」とか「なんかすごいね」という反応で終わった。優子の言い方は、それとは少し違った。
付き合い始めたのはそれから二週間後だった。
きっかけは些細なことだった。帰り道、駅に向かう途中の坂で、優子がギターケースを背負いながらスマートフォンを見ていて、前から来た自転車を避けようとして、足をひねった。
ひろしが手を掴んだ。
そのまま、手を離さなかった。
優子も離さなかった。
駅に着くまで、二人とも何も言わなかった。改札の前で立ち止まって、優子が言った。
「付き合ってください」
ひろしは一瞬、何を言われたかわからなかった。
「え」
「付き合ってください」と優子は繰り返した。「わたしから言う方が早いと思って」
「なんで」
「ひろしが言いそうにないから」
それは正しかった。ひろしはこういうとき、どう切り出せばいいかわからないまま、機会を逃すタイプだった。
「わかった」とひろしは言った。
「わかったって何」
「付き合います」
優子が少し笑った。
「もう少しドラマチックな返事が良かった」
「ごめん、慣れてない」
「わたしも慣れてないよ」と優子は言った。「でも言わないと始まらないから」
改札を通って、電車が来るまでのホームで、二人は並んで立っていた。手はまだつないでいた。
付き合って最初の週末、二人は近所の公園で並んでギターを弾いた。
優子が最近作っていると言っていた曲で、Cから始まってAmに落ちる、少し切ない進行だった。まだ途中で、サビの部分ができていないと優子は言ったが、ひろしには十分完成して聞こえた。
「この曲、タイトルは?」
「まだない」
「つけないの?」
「つけたら終わっちゃう気がして」
ひろしにはその感覚がわからなかった。曲はできたら完成で、タイトルはあとからつければいいと思っていた。でも優子の言いたいことは、なんとなくわかるような気もした。名前がついたものは、それ以上変わらなくなる。名前がない間は、まだどこへでも行ける。
「タイトルがなくても弾けるじゃない」とひろしは言った。
「そうだけど」と優子は言った。「なんか、名前をつけることで、その曲がその曲になっちゃう感じがして」
「その曲はその曲じゃないの」
「今はまだ、何にでもなれる気がするの」
ひろしはそれを聞いて、少し黙った。
公園に夕暮れが来た。ベンチの周りに人が少なくなった。優子がギターをケースに仕舞い始めながら、何でもないことのように言った。
「ねえ、キスしてもいい?」
ひろしは一瞬固まった。
「どっちかというと、ぼくが聞く台詞じゃないの、それ」
「どっちでもいいじゃない」
確かにどっちでもよかった。
夕焼けの中で、二人は初めてキスをした。
その瞬間、何かが起きた。
音がした、というより、音が変わった。世界の音が、一瞬だけ別の周波数に合わせ直されたような感覚があった。チューニングがずれた、というより、別の楽器に持ち替えたような。音の名前は変わらない。でも音の質感が、一瞬だけ違って聞こえた。
ひろしは目を開けた。優子も目を開けていた。
「なんか、した?」
「した、って何が」
「音が、変わった気がした」
優子は首を傾げた。
「わたしは何も」
そのときはそれだけだった。気のせいかと思った。夕焼けが赤かった。帰り道、つないだ手が温かかった。
異変に気づいたのは、翌朝だった。
第二章 コーヒーの味
ひろしは毎朝コーヒーを飲む習慣があった。
インスタントではなく、ちゃんとドリップして飲む。中学のころ父親がコーヒーを淹れる様子を見ていて、真似をするうちに自分も好きになった。豆はやや深煎りのブレンドで、近所のスーパーで買える安いものだったが、苦みの中にほんの少し甘みがある、その味が好きだった。朝の、まだ頭が完全に動いていない時間に、温かいカップを持って窓の外を見ながら飲む、その時間が好きだった。
翌朝、いつものようにコーヒーを淹れた。
ドリッパーにフィルターをセットして、豆を量って挽いて、少し蒸らしてからゆっくり湯を注ぐ。いつもと同じ手順だった。カップに注いで、一口飲んだ。
まずかった。
まずい、というより、知らない味だった。苦みの輪郭が全然違った。酸味が前に出てきて、いつもの甘みがない。薄い、というわけでもない。ただ、違う。
豆が劣化したかと思って袋を確認したが、開封したばかりだった。水道水ではなくミネラルウォーターを使っているが、それも同じボトルだった。水温が高すぎたかと思って、もう一度淹れ直した。
やはり違った。
気のせいだと思って飲み続けたが、最後まで違和感が消えなかった。
学校に着くと、優子が昇降口で待っていた。付き合い始めてから、優子はよく昇降口で待っていた。待ち合わせをしているわけではなく、優子が早く着いたときだけそうしていた。
「ねえ」と優子は開口一番言った。「今朝、何かおかしくなかった?」
「コーヒーの味が変だった」
優子の目が大きくなった。
「わたしも。毎朝飲んでるルイボスティーが、全然違う味で」
ルイボスティーは優子が毎朝飲んでいると聞いていた。カフェインが少なくて体にいいと言っていた。ひろしは飲んだことがなかった。
「豆を変えたとか?」
「変えてない。昨日と同じパックから出したのに、全然違う味がした」
二人で顔を見合わせた。
「昨日のキス」とひろしは言った。
「関係ある?」
「わからない」
その日の午前中、ひろしは音が気になった。
絶対音感があるから、普段から音には敏感だった。授業中のチョークの音も、廊下を歩く足音も、全部何かしらの音程として聞こえてきた。それはいつものことで、慣れていた。
でもその日は違った。一時間目の数学の授業中、先生がチョークで黒板を叩いた音がした。その瞬間、音の名前が出てこなかった。
ソのはずだった。先生のチョークがいつも出す音はソで、それはひろしには自明のことだった。赤いものを見て赤と思うのと同じで、考えるより先にわかることだった。
でもその日は、音は聞こえているのに、名前がついてこなかった。
音が聞こえてから、頭の中で何かが変換されようとして、途中で止まる感じがした。まるで、知っている言語で書かれた文章なのに、意味が取れないような。
気持ち悪かった。
二時間目も、三時間目も、同じだった。チャイムが鳴るたびに、その音が何かを確かめようとして、出てこなかった。完全に出てこないわけではなかった。かろうじてわかる、という感じで、でも以前のような即座の確信がなかった。
昼休み、ひろしは購買部でパンを買いながら、その包装を開けるときのビニールの音を聞いた。何かわかるかと思ったが、やはりぼんやりとしか出てこなかった。
放課後、部室で優子に話した。
「音感が、おかしい」
優子はギターのチューニングをしていた。手を止めてひろしを見た。
「どんなふうに?」
「音は聞こえてる。でも名前が出てこない。いつもは自動的に出てくるのに、今日は考えないと出てこない。しかも考えても、はっきりしない」
優子はしばらく黙っていた。それから、おそるおそるという感じで言った。
「わたし、今朝チャイムの音を聞いて、ラだと思ったんだけど」
ひろしは優子の顔を見た。
「ラで合ってる」
「でもわたし、絶対音感なんてないよ。これまで音の名前なんて、聞かなければわからなかった。なのに今日は、チャイムを聞いた瞬間、ラって浮かんできた」
沈黙があった。
「他には?」と優子が聞いた。
「他には?」とひろしが聞き返した。
「わたし以外にも、何かおかしいと気づいたことある?」
ひろしは今日一日を振り返った。コーヒーの味。音感の不具合。それだけだろうか。
「味だけかと思ってたけど」とひろしは言った。「実は他にも何かあるかもしれない」
「どういうこと」
「気づいてないだけで、ずれてることが他にもあるかもしれない」
優子は少し考えてから言った。
「試してみよう」
翌日、二人は実験をした。
まずギターのコード当て。ひろしがコードを押さえて、優子が音名を当てる。C、G、Am、F、D、Em。優子は全問正解した。間違いなく、即座に答えた。ひろしには今、それが出てこなかった。自分で弾いているのに、何のコードかを考えないと答えられなかった。
次に飲み物。優子が好きだと言っていたルイボスティーを、ひろしが飲んでみた。香ばしくて、ほんのり甘くて、美味しかった。自分では一度も買ったことがなかったのに、なぜか体がなじんでいるような感じがした。
ひろしが好きだったコーヒーを、優子が飲んだ。
「美味しい」と優子は言った。「こんなに美味しかったっけ」
「昨日まではまずかったの?」
「苦いだけで、好きじゃなかった。でも今飲んだら、なんか、苦みの奥に甘みがあって」
「それがいつもの味だ」とひろしは言った。「ぼくにはもうその味がしない」
二人でしばらく黙った。
「完全に入れ替わってる」とひろしは言った。
優子は深刻な顔をしていた。でもどこか、笑いをこらえてもいるように見えた。
「笑いごとじゃないよ」とひろしは言った。
「笑ってない」
「こらえてる」
「こらえてない」
「こらえてる」
「少しだけ」と優子は認めた。「だって状況がおかしすぎて。どうしたらいいかわからないとき、笑えてくることない?」
ひろしにはその感覚がわからなかった。困ったときは黙るか、考えるかのどちらかだった。笑えてくることはなかった。
でも優子の顔を見ていると、少し笑えた気がした。笑いごとではないのに。
実験はその後も続いた。
三日目に、においの検証をした。優子が香水をつけているとき、ひろしがどう感じるかを確認した。優子はフローラル系の軽い香水を使っていて、ひろしはそれが好きだった。付き合い始めてから、優子の近くにいると香る程度のその匂いが、いつの間にか安心感と結びついていた。
でも三日目に嗅いだとき、ひろしには何も感じなかった。匂いはわかる。フローラルだということもわかる。でも「好き」という感覚が、そこに結びつかなかった。
優子に話すと、優子はひろしのジャケットを嗅いだ。ひろしが時々使っているシャンプーの匂いがするはずだった。
「なんか落ち着く」と優子は言った。少し困ったような顔で。「これがひろしの匂いなのに、こんなに落ち着いたことなかったんだけど」
「それはぼくの感覚だと思う」とひろしは言った。「優子の匂いが、ぼくにとっての安心感だったから」
「じゃあ今、あなたにとってわたしの匂いは」
「普通の香水の匂いにしか感じない」
優子は少し顔を曇らせた。
「それは、さびしい」
「ぼくもさびしい」
四日目に、映画を見た。
優子がホラー映画を見ようと言った。優子はホラーが苦手で、ひろしが一緒だから見てみると言っていた。二人でひろしの家で、タブレットで再生した。
映画が始まって、最初の怖い場面が来たとき、優子は何も反応しなかった。じっと画面を見ていた。ひろしは少し怖かった。
「怖くないの?」とひろしが聞いた。
「なんか、普通に見られる」と優子は言った。不思議そうに。「音楽で怖さを出してるのはわかるけど、全然びっくりしない」
ひろしはクッションをぎゅっと持った。
「ぼくは怖い」
「え、ひろしって怖いものないって言ってたじゃない」
「言ってたけど、今日は怖い」
優子がひろしを見た。
「入れ替わってる」と優子は言った。
「うん」
「怖さも」
「たぶん」
優子はしばらく黙ってから、画面を止めた。
「やめよう」
「なんで、優子は怖くないんでしょ」
「あなたが怖そうにしてるのを見てたら、なんか申し訳なくて」
ひろしはクッションを離した。
「これ、どこまで入れ替わってるんだろう」
「わからない」と優子は言った。「でも」
「でも?」
「あなたの香水が落ち着くとか、ホラーが怖くないとか、コーヒーが美味しいとか、全部あなたのものでしょ。それがわたしの中に入ってきてる」
「そう考えると、気持ち悪い?」
優子は少し考えた。
「気持ち悪くはない。なんか、あなたの一部がわたしの中にいる感じがして、それはそれで不思議な感じ」
「ぼくは少し気持ち悪い」とひろしは正直に言った。
「どうして」
「自分のものが、自分じゃないところに行ってる感じがして。ぼくのコーヒーの美味しさが、優子の中にある。それを、ぼくが取り戻せない」
優子はそれを聞いて、しばらく黙っていた。
「北見先生に相談してみよう」とひろしは言った。
「物理の先生に?」
「他に誰がいる」
優子は少し考えてから、頷いた。
第三章 灰色の海と逆転したピアノ
入れ替わりは、思っていたより広い範囲に及んでいた。
一週間が過ぎて、二人はリストを作った。優子のアイデアだった。ノートの見開きを使って、左側にひろし、右側に優子と書いて、それぞれが失ったものと得たものを書き出した。
ひろし側の失ったもの。コーヒーの美味しさ。絶対音感の即応性。優子の香水への安心感。ホラーへの耐性。
優子側の得たもの。コーヒーの美味しさ。絶対音感の萌芽。ひろしの匂いへの安心感。ホラーへの耐性。
「得たものと失ったものが、きれいに対応してる」と優子は言った。
「入れ替わりだから当然だけど」とひろしは言った。「問題は、まだ気づいてないものがある可能性だ」
「どうやって気づく?」
「日常の中で、いつもと違うと感じたことを記録する」
それからの一週間、二人はLINEで気づいたことを報告し合った。
ひろしから優子へ。「電車の中でイヤホンで音楽を聴いたが、以前ほど没入できない。音はわかるが、感動が薄い」
優子からひろし。「同じ曲を聴いたら、なぜか泣きそうになった。もともとそんなに好きな曲じゃなかったのに」
ひろしから優子へ。「今日の給食のカレーが、なんか違う。辛さの感じ方が変わった気がする」
優子からひろし。「今日のカレー、辛くて全部食べられなかった。わたしカレー好きなのに」
ひろしから優子へ。「寒くない。昨日と気温変わってないはずなのに、全然平気」
優子からひろし。「今日寒い。なんかいつもより寒く感じる」
報告は増えていった。
音楽の感じ方。食べ物の味と辛さの感じ方。温度の感覚。見るものの美しさの感じ方。どこまで入れ替わっているのか、全貌がまだつかめなかった。
一週間後の日曜日、二人で海に行った。
優子が行きたいと言ったからだった。入れ替わりが起きる前から決まっていた予定で、キャンセルするのも変だと思って、そのまま行くことにした。
優子は海が好きだった。青くて広いものを見ると気持ちが落ち着くと、以前言っていた。子供のころ、夏になるたびに家族で海に行っていたと。母親が生きていたころの話だった。優子の母親は優子が中学に入る前に病気で亡くなっていた。それ以来、家族で海に行くことはなくなったが、優子は一人でも海を見に行くことがあると言っていた。
ひろしは海が特別好きでも嫌いでもなかった。どちらかというと、山の方が落ち着く気がしていた。広くて見渡せる場所より、木々に囲まれた狭い場所の方が安心した。
電車を乗り継いで二時間、小さな漁港の外れにある浜に着いた。観光地ではなく、砂浜はそれほど広くなかった。でも人が少なくて、波の音がよく聞こえた。
晴れていた。砂浜は白く、海は青かった。水平線がきれいに見えた。
優子が波打ち際に立って、しばらく黙っていた。
ひろしは少し離れて、優子の横顔を見ていた。優子がいつものように、海を見て何か感じているはずだと思った。でも優子の表情は、ひろしが想像していたものと違った。
「綺麗じゃない」と優子は言った。不思議そうに。
「え?」
「なんか、普通の水って感じ。綺麗だとは思うけど、いつものあの感じがない。胸が広がる感じとか、落ち着く感じとか、全部ない」
ひろしは海を見た。
青かった。広かった。水平線がはっきり見えた。波が規則的に来て、引いた。
なぜか、胸が広がる感じがした。
「ぼくは綺麗だと思う」
優子がひろしの顔を見た。
「ひろし、いつも海より山って言ってたじゃない」
「言ってた」
「でも今は?」
「なんか、落ち着く。ここにいると、なんか、大丈夫な感じがする」
優子は少しの間、ひろしの顔を見てから、また海を見た。
「わたしの海が、あなたのところに行っちゃった」
「そうかもしれない」
「返して」
「返したいけど、どうやって」
波が来て、引いた。
二人でしばらく、並んで海を見ていた。優子は黙っていた。ひろしには優子が今何を感じているかわからなかった。いつもなら、優子はこの場所で何かを感じていたはずだった。でも今の優子には、その何かがなかった。
それはひろしの胸の中にあった。
「お母さんのこと、思い出す?」とひろしは聞いた。
「思い出す」と優子は言った。「でも海を見ながら思い出す感じが、違う。前はここに立つと、お母さんと来たときの気持ちがそのまま戻ってくる感じがしてた。でも今日は、記憶はあるのに、気持ちが戻ってこない」
ひろしは何も言えなかった。
「それが一番怖い」と優子は続けた。「味とか音とかが変わっても、まあそのうち戻るだろうって思えるけど、お母さんのことを思い出すときの感じが変わったのは、怖い」
「ぼくのせいだ」とひろしは言った。
「違う」と優子は即座に言った。「キスはわたしからしたんだから」
「ぼくも同意してた」
「じゃあ、お互いのせい」
波がまた来た。
「戻れるといいね」と優子は言った。泣きそうではなかったが、声が少し平坦だった。
「戻る方法を考える」とひろしは言った。
翌週、部室でさらに発覚した。
優子がギターで弾いた自作曲を聴いて、ひろしは何も感じなかった。
音は聞こえている。コードもわかる。展開も理解できる。でも何も動かなかった。いつもなら優子の曲には独特の切なさがあって、CからAmに落ちるあの進行を聴くたびに胸の奥が少し痛かった。それが好きだった。
でも今日は、何もなかった。音楽として理解できるが、感情が動かなかった。
「どうだった?」と優子が聞いた。
「良かった」とひろしは言ったが、自分でも声が平坦なのがわかった。
優子は察した。
「刺さらなかった?」
「ごめん」
「正直に言ってくれた方がいい」
ひろしは少し迷ってから言った。
「音は全部わかる。でも、何か来るはずのものが来ない。あの曲がぼくの好きな曲だってことはわかってるのに、好きだという感覚が出てこない」
優子はギターを膝に置いた。
「わたしも、ひろしの弾く曲を聴いて、最近同じことを思ってた。でも言えなかった」
「いつから?」
「海に行った日のあたりから。ひろしがいつも弾くあの曲、以前は聴いてると落ち着いたのに、最近は普通に聞こえるだけで、何も動かない」
二人の間に静かな時間があった。
「感情まで入れ替わってるのかな」とひろしは言った。
「感情じゃなくて」と優子は言った。「感じ方が、かな」
「どう違うの」
「感情はある。悲しいとか嬉しいとかはある。でもどこに刺さるかが、違う気がする。悲しいという感情は出てくるけど、何が悲しいかが変わった。怖いという感情は出てくるけど、何が怖いかが変わった」
ひろしはそれを聞いて、物理の授業で先生が言っていたことを思い出した。波長は測れる。でも頭の中で何が起きているかは、物理では扱えない。
感情はある。でも感情の「中身」が変わった。悲しさの質感。怖さの質感。美しさの質感。それが入れ替わった。
その「頭の中で起きていること」が、入れ替わった。
「北見先生に相談してみよう」とひろしは言った。
「物理の先生に?」
「他に誰がいる」
優子は少し考えてから、頷いた。
第四章 北見の仮説
北見誠は三十八歳で、物理を教えて十四年になる。
独身で、猫を二匹飼っていて、休日は登山をする。生徒からの評判は悪くないが、授業が脱線することで知られていた。量子力学の話をしていたはずが気づくと意識の話になっていて、意識の話をしていたはずが猫の話になっていた。シュレーディンガーの猫のせいだと本人は言うが、たいてい本物の猫の話で終わった。
今年度、北見はひろしのクラスの物理を担当していた。一学期の最初の授業で、光の波長について説明しながら、こんなことを言った。
「波長は測れる。700ナノメートルの光が赤で、450ナノメートルの光が青だ。それは機械で確かめられる。でも、その光を見たときに頭の中で何が起きているかは、物理では扱えない」
ひろしはそのとき少し引っかかったが、授業が先に進んでしまって、あとで聞こうと思ったまま忘れていた。
でも今は、あの言葉の意味がわかる気がした。
ひろしと優子が放課後の職員室を訪ねたのは、月曜日だった。北見は机でコーヒーを飲みながら採点をしていた。赤ペンが止まっていて、どうやら難問で引っかかっているらしかった。
「先生、相談があります」
「なんだ、進路か」
「違います」
北見はひろしと優子を交互に見た。
「二人で来るということは、個人的な相談か」
「そうです」
「まあ、座れ」
北見は採点を脇に置いた。ひろしと優子は向かいの椅子を引いて座った。
二人は順番に説明した。キスをしたこと、翌朝から味覚がおかしくなったこと、音感が入れ替わったこと、においの感じ方が変わったこと、海の見え方が変わったこと、音楽の感じ方が変わったこと、ホラーへの耐性が入れ替わったこと。
北見は途中からコーヒーを置いて、腕を組んで聞いていた。表情は変わらなかった。口を挟まなかった。
説明が終わっても、しばらく黙っていた。
「冗談じゃないんだな」
「冗談だったら相談に来ません」とひろしは言った。
「そうだな」と北見は言った。「君たちが冗談でここに来るタイプじゃないことは知っている」
北見はもう一度腕を組んだ。しばらく天井を見てから、ひろしを見た。
「クオリアという言葉を知っているか」
「一学期の授業で、少し」とひろしは言った。「波長の話のときに」
「あの話を覚えていたか」
「引っかかったので」
北見は少し目を細めた。
「感覚の中身のことだ。赤い光を見たとき、700ナノメートルの波長は測れる。でもその光を見て頭の中で何が起きているか、つまり赤として感じる体験そのものは、物理では測れない。その体験の質のことをクオリアという」
「それが、入れ替わった、ということですか」とひろしは言った。
「理論的には、あり得ない」と北見は言った。「クオリアは個人の内部に閉じているとされている。他人に渡せるものではない、というより、渡す方法が存在しないはずだ」
「でも実際に渡ってます」と優子が言った。
北見は優子を見た。優子はまっすぐ北見を見返した。
「ギターのコードを一つ弾いてみろ」
優子はギターを持っていなかった。北見が立ち上がって、職員室の端にあるロッカーを開けた。中にアコースティックギターがあった。少し埃がついていたが、弦は張ってあった。
「先生、ギター弾くんですか」とひろしが言った。
「昔な。今はほとんど触っていない」
優子にギターを渡した。優子がチューニングを確認して、Aのコードを鳴らした。
「ラ、ミ、ラ、ド♯、ミ、ラ」と優子は言った。迷いなく、即座に。
北見がひろしを見た。
「合っているか」
「合ってます」とひろしは言った。「でもぼくには、今その音の名前がすぐには出てきませんでした。少し考えればわかりますが、以前のような即座の確信がない」
北見はしばらく黙った。それから小さく言った。
「面白い」
「面白くないです」とひろしは言った。
「そうだな、すまない」と北見は言ったが、目が少し輝いていた。これは本当に面白いと思っているときの顔だとひろしは思った。授業で量子もつれの話をするときと同じ顔だった。
「仮説を一つ立ててもいいか」
「どうぞ」
「クオリアは脳内の神経信号のパターンとして存在している、という考え方がある。まだ証明はされていないが、有力な仮説の一つだ。視覚野のある部分が活性化したとき赤を感じる、聴覚野のある部分が活性化したとき特定の音高を感じる、そういうパターンが人それぞれに存在している」
「それが入れ替わった、ということですか」とひろしが言った。
「もしそのパターンが、何らかのきっかけで同期し、書き換えられたとしたら、という仮説だ」
「キスが、そのきっかけになった」
「物理的な接触の瞬間、二人の神経系が何らかの形で共鳴した、という可能性は、完全には否定できない。理論的にはほぼあり得ないが」
「ほぼ、というのは」と優子が言った。
「ゼロとは言えない、という意味だ。量子論的な効果が神経系に働く可能性は、研究者の間で議論されている。マクロな現象としては観測されていないが、否定もされていない」
北見はホワイトボードに立って、波の図を書いた。二つの波が重なっている図だった。
「二つの波が同じ位相で重なったとき、振幅が倍になる。これを共鳴という。もし神経信号が波として振る舞い、二人の信号が完全に同期した瞬間があったとしたら、信号のパターンが混ざった可能性がある」
「混ざったのなら、また混ぜれば戻りますか」と優子が言った。
北見は少し考えた。
「もう一度同じことをすれば戻るかもしれない。ただし」
「ただし?」
「同じ状態で、同じ強度で、同じタイミングでなければならない。最初の共鳴と同じ条件を再現できれば、パターンが元に戻る可能性がある。しかし」
北見は言葉を切った。
「しかし?」とひろしが言った。
「絶対音感は、通常は後天的に失われない。幼児期に形成された神経回路は、その後の経験によっても消えにくい。つまり、ひろしの絶対音感は今も消えたわけではなく、優子側に複製されているか、あるいはひろし側の信号が一時的にマスクされているかのどちらかだ」
「それは、戻れるということですか」
「戻れる可能性が高い。ただし、複製されているケースだと」
「複製されているケースだと?」と優子が聞いた。
「戻っても、優子側の信号は消えないかもしれない」
部屋に静寂が落ちた。
「つまり」とひろしは言った。「戻っても、優子に絶対音感が残る可能性がある」
「あくまで仮説だ」と北見は言った。「だがそういうことになる」
優子はしばらく黙っていた。それからひろしを見た。
「どうする?」
ひろしは答えられなかった。
優子は北見を見た。
「先生は、どうした方がいいと思いますか」
「私には言えない」と北見は言った。「これは君たちの感覚の問題だ。どう生きたいかの問題で、私が口を出せることではない」
「でも、意見はありますか」
北見は少し間を置いた。
「感覚がずれたまま、それでも一緒にいられるかどうかを、まず考えてみなさい。戻ることを前提にするより、戻らなかったときにどうするかを先に考えた方が、本当の答えが出やすい」
ひろしは北見の言葉を聞いて、少し黙った。
第五章 すったもんだ
すったもんだがあった。
まず優子が「戻りたくない」と言った。
翌日の放課後、部室で二人きりになったとき、優子がそう言った。前置きも何もなく、唐突に。
「絶対音感が欲しい」
ひろしは少し呆れた。
「それはわかった。でも他の感覚は? お母さんの海も、戻したくないの?」
優子は少し沈黙した。
「海は、戻したい。でも絶対音感は手放したくない」
「感覚はセットで入れ替わってる。海だけ戻して音感だけ残す、というのは無理だと思う」
「北見先生はそう言った?」
「明言はしてなかったけど、神経信号のパターンが入れ替わってるなら、部分的に戻すのは難しいと思う」
優子は腕を組んだ。
「交渉できない?」
「誰と」
「わからない。でも、これをどうするかは、わたしたちが決めていいんでしょ」
「決めていいけど、感覚の入れ替わりを交渉で変えられるわけじゃない」
優子はしばらく黙った。
「絶対音感があると、どんなふうに変わると思う? 音楽的に」とひろしは聞いた。
「作曲するとき、全然違うと思う」と優子は言った。「今まで、コードを押さえて、なんか違うと思ったら弾き直してたけど、最初から音の名前がわかったら、もっと正確に作れる気がする」
「でも、それはぼくのもとの感覚で作ることになる」
「えっ」と優子は言った。
「ぼくが幼いころから持ってた感覚で、優子が曲を作ることになる。それは優子の音楽?」
優子はそれを聞いて、少し黙った。
「そういう考え方はしてなかった」
「道具として使うなら、誰のものかは関係ないかもしれない。でも感覚は道具じゃないと思う」
「じゃあ聞くけど」と優子は言った。「ひろしはわたしの音楽の感じ方を持ったまま、ひろしの音楽を作ることになる。それはひろしの音楽?」
ひろしは黙った。
「同じことでしょ」と優子は続けた。「どちらも、相手の感覚を借りて何かをすることになる」
「だから戻すべきだと思う」
「だから難しいと言ってる」
二人はその日、結論を出せなかった。
翌日も、その翌日も、話し合いが続いた。話し合いというより、言い合いに近かった。でも怒鳴り合いではなく、どこか滑稽な交渉だった。
ひろし「ぼくのコーヒーの美味しさを返してほしい」
優子「コーヒーはあげる、音感だけ残したい」
ひろし「選べない」
優子「じゃあルイボスティーの美味しさも返す」
ひろし「それはもともとぼくのじゃない」
優子「そうだった。じゃあ海はひろしが持っていていい、わたし最近山の写真を見ると落ち着くし」
ひろし「海と山も選べない」
優子「理屈っぽい」
ひろし「そういう問題だから」
優子「感覚の問題を理屈で解決しようとしてる」
ひろし「感覚の問題だから理屈で考えないと感情的になる」
優子「感情的になっていい場面もある」
ひろし「今がその場面?」
優子「わからない」
三日目の夜、ひろしは一人で部屋にいて、ギターを弾いていた。
優子の曲を弾いた。Cから始まってAmに落ちる、タイトルのない曲だった。弾けた。指は覚えていた。でも弾きながら、何も感じなかった。以前は弾くたびに胸の奥が少し痛かった。今は何もなかった。
ひろしは弾くのをやめた。
何が嫌なのかを、正確に考えた。コーヒーの味が戻ってほしいのは本当だ。でも一番嫌なのは何か。
音楽が楽しくないことだ。
音楽はひろしにとって、中学のころから一人でいる時間を埋めてくれるものだった。誰かに見せるためではなく、自分のために弾くものだった。それが今、楽しくない。弾いても何も感じない。
それが一番、困っていた。
優子に電話した。
「ぼくが一番困るのは、音楽が楽しくないことだ」
電話の向こうで、優子がしばらく黙った。
「わたしが一番困るのも、ひろしの曲で何も感じないことだ」
「だったら」
「うん」と優子は言った。「戻ろう」
しばらく沈黙があった。
「絶対音感は、残るかもしれないけど」とひろしは言った。
「うん、わかった」
「それでいい?」
「残ったら残ったで、どうにかなると思う。もしなかったら、今まで通りだし」
「後悔しない?」
「後悔するかもしれない。でも今のままの方が、もっと後悔すると思う」
ひろしはそれを聞いて、少し気持ちが楽になった。
「じゃあ、戻し方を北見先生に相談しよう」
「また職員室に押しかけるの?」
「他に手がない」
優子が笑った。
「先生、迷惑そうにしてたね」
「でも目が輝いてた」
「そうだった」
それからまた三日間、北見を巻き込んだ。
最初の日、北見は「実験台にはなれない」と言った。二日目に二人が押しかけると、「条件の整理くらいなら」と言い始めた。三日目に二人が揃って職員室に来たとき、北見は採点を脇に置いて、ため息をついてから言った。
「条件を整理しよう」
「ありがとうございます」と優子が言った。
「礼は後でいい」
北見が出した条件はシンプルだった。
同じ場所で、同じ時間帯に、もう一度。
「夕暮れの公園で最初のキスをしたなら、同じ公園で同じ時間帯に、同じ状態で、ということだ」
「同じ状態って、どういう意味ですか」とひろしが聞いた。
「最初のキスのとき、二人はギターを弾いた後だったんだろう」
「そうです」
「同じ曲を、同じように弾いてからの方がいい。神経信号のパターンをできるだけ最初の状態に近づける、という意味だ。脳の状態は、直前の行動や体験に影響される。音楽を演奏した後の脳の状態は、していない状態とは違う。科学的な根拠は薄いが、条件を揃えるに越したことはない」
「他には?」
「精神状態だ。最初のキスのとき、二人はどういう気持ちだったか」
ひろしと優子は顔を見合わせた。
「嬉しかった」と優子は言った。
「緊張してた」とひろしは言った。
「つまり、特別な感情があった。今回も同じ状態に近づけた方がいい。ただし」
「ただし?」
「今回は目的があって行く。最初は偶然だった。それを同じ状態に戻すことは難しい。できる限りでいい」
「先生も来ますか」と優子が言った。
「なぜ私が」
「何かあったときのために。先生が近くにいてくれると安心です」
北見は少し考えた。目が少し動いた。
「少し離れたベンチにいる。ただし、私はいないものとして行動しろ。私が見ているから緊張するというのも、条件を乱す」
「わかりました」と優子は言った。「ありがとうございます」
「礼は後でいい」
第六章 もう一度
土曜日の夕方、三人は公園に集まった。
北見は入り口近くのベンチに座って、文庫本を開いた。どう見ても読んでいなかったが、何も言わなかった。ひろしと優子はいつもの場所に向かった。
公園の奥の方に、木製のベンチがあった。東向きで、夕焼けが背中から当たる場所だった。付き合い始めた最初の週末に、二人でここに来てギターを弾いた。あの日も夕暮れだった。
二人でギターケースを開けた。
「緊張する」と優子は言った。
「ぼくも」
「なんで緊張するんだろう。うまくいかなかったらどうしようとか、思ってるわけじゃないのに」
「大事だからじゃないかな」とひろしは言った。
「大事?」
「うまくいってほしい、という気持ちがあるから、緊張する」
優子はそれを聞いて、少し笑った。
「そうかもしれない」
「あの曲、弾ける?」と優子が聞いた。
「たぶん」
Cから始まってAmに落ちる、優子の作った曲だった。タイトルのない曲。
二人で合わせた。最初は少しずれたが、すぐに揃った。体が覚えていた。何度も一緒に弾いた曲だったから、指が勝手に動いた。
曲の途中で、ひろしは気づいた。
何も感じていない、と思っていたが、それは正確ではなかった。何かが、あった。感動というほど大きくはない。でも、何かが動いていた。
優子の作った曲を、優子と一緒に弾いている。それが、何かを起こしていた。
曲が終わって、夕焼けが赤かった。
「今、どう聞こえた?」と優子が聞いた。
「音の名前は出てこない」とひろしは言った。「でも、何かあった。小さかったけど」
「わたしも」と優子は言った。「以前ほどじゃないけど、少し刺さった」
「準備できた?」
「うん」
もう一度キスをした。
今度は夕焼けの中ではなく、少し暗くなり始めたころだった。空が橙から紫に変わりかけていた。公園には人がほとんどいなかった。風が少しあって、木の葉が揺れていた。
何かが起きた気がした。前回と同じような感覚があった。音が一瞬、別の周波数に合わせ直されるような。でも前回より短く、かすかだった。
気のせいかもしれなかった。
離れてから、二人でしばらく黙っていた。
「コーヒー、どう?」と優子が聞いた。
「飲んでないから、わからない」とひろしは言った。
「音は?」
ひろしはその辺の音に耳を澄ませた。遠くで車が走っていた。どこかで子供が笑っていた。風が木の葉を揺らしていた。
風の音に集中した。
木の葉が揺れると、複数の音が混ざり合う。その中に、音程が浮かびあがってくるような感じがした。
「シとミとソが混ざってる」とひろしは言った。言ってから、少し驚いた。言葉が出てきた。即座ではなかったが、以前よりずっと速かった。
優子が息を飲む音がした。
「戻った?」
「たぶん。完全じゃないかもしれないけど」
「よかった」と優子は言った。それから少し間があった。「ねえ、チャイム鳴らして」
「え?」
「スマホで、チャイムの音出して」
ひろしがスマートフォンで学校のチャイムに近い音を出した。
優子が目を閉じた。しばらく黙っていた。
ひろしは優子の顔を見ていた。何かを聞き取ろうとしているときの顔だった。音の名前を探しているときの、あの顔に似ていた。
「ラ」と優子は言った。
静寂があった。
「合ってる」とひろしは言った。
優子はゆっくり目を開けた。何かを確かめるように、もう一度ひろしを見た。
「消えてない」
「うん」
「どうしよう」
「どうもしなくていいんじゃないか」
「でも」
「北見先生が言ってた、複製されたケースだって」とひろしは言った。「ぼくの絶対音感はぼくに戻った。優子にも残った。それだけだ」
優子はしばらく黙っていた。
「ひろし、怒ってない?」
「なんで怒るの」
「わたしだけ得したみたいで」
ひろしは少し考えた。
「ぼくの感覚がぼくに戻ったなら、損してない。優子が得したとしても、ぼくが損したわけじゃない」
「理屈っぽい」
「理屈で考えないと、怖いから」
優子が笑った。透明な笑い方だった。
北見が遠くのベンチから歩いてきた。文庫本を脇に挟んでいた。
「どうだった」
「戻りました」とひろしは言った。「たぶん」
「たぶん、というのは」
「明日コーヒーを飲んで、確かめます」
北見は頷いた。それから優子を見た。
「音感は?」
「残ってます」
「そうか」
北見はしばらく空を見ていた。橙と紫が混ざった空だった。
「先生は、これが何だったと思いますか」と優子が聞いた。
北見は少し考えた。
「わからない」と言った。「クオリアは物理では扱えない。入れ替わる理由も、戻る理由も、理論的には説明できない」
「でも起きた」
「起きた」と北見は繰り返した。「それは確かだ」
三人でしばらく空を見ていた。
「先生も、誰かとキスしたとき、こういうことありましたか」と優子が聞いた。
ひろしは焦った。「優子」
「いいんだ」と北見は言った。少し笑っていた。「ない。残念ながら」
「残念ながら、ってどっちの意味ですか」
「さあ、どっちだろうな」
北見は文庫本を開いて、来た道を戻り始めた。背中が少し丸かった。
エピローグ
翌朝、ひろしはコーヒーを淹れた。
深煎りのブレンド。いつもの豆。
一口飲んだ。
苦みの中に、ほんの少し甘みがあった。
戻っていた。
スマートフォンに優子からメッセージが来た。
「ルイボスティー、いつもの味がした。戻ってた」
よかった、と返した。
その日の放課後、部室で二人でギターを弾いた。優子の作った曲、タイトルのないあの曲だった。体が覚えていた。音が戻っていた。優子の曲が、ちゃんと刺さった。
「戻ったね」と優子が言った。
「うん」
「よかった」
しばらく二人で音を合わせていた。
帰り際、優子が部室の電気を消した。蛍光灯が落ちる直前、ジジ、という音がした。
優子が足を止めた。
「どうした?」と聞いた。
「なんでもない」と優子は言った。
でもその顔が、少し違った。
何かを聞いたような顔だった。音の名前を探すような、あの顔だった。ひろしが何年もかけて鏡で見てきた、あの顔と同じだった。
優子はそのまま廊下に出た。
ひろしは暗くなった部室に一瞬だけ立ち止まった。
蛍光灯が消える音は、E♭だ。
優子は、今それを知ったのかもしれない。
知ったとして、それをどう思うのか。
廊下から、優子の足音が聞こえた。
ひろしは部室の鍵を閉めて、後を追った。
何も言わなかった。
まだ、言う必要はなかった。