【創作大賞エッセイ部門】脳性まひのポンコツ男子 元気と疲れ
読者のみなさんは「元気」という言葉の意味をどう解釈しているだろうか? 今回のエッセイは、もしかしたら俺と同年代の健常者の方には共感を得られないかもしれない。しかしそれを承知で書いてみようと思う。
一般的に元気という言葉は「自分が持っている100%の力を発揮できる状態」という意味で使われていることが多い気がする。けれども俺にとっての元気は少し違う。高校生くらいから俺にとっての元気は「病院に行くほど体調が悪いわけではないこと」という意味になった。というのも、自分が本来の意味で元気だった時のことが、もう思い出せないのだ。高校時代からほぼ毎日身体のどこかは痛かったし、寝ても疲れが取れていないと感じることが日常になった。体力が100%まで回復したことは、高校に入学してからは一度もないと思う。
最初は、自分でもなぜこんなに疲れてしまうのか理解できなかった。普段と同じ日常のはずなのに、毎日疲れが溜まっていった。ぐっすり寝ても疲れが抜けきらない状態でまた学校や作業所に行くから、日を追うごとにパフォーマンスが落ちていく。しかしその状態も、いつしか慣れていった。俺は疲れているのが標準で、たまにスッキリした感覚の日があってもテンションを上げないことを意識するようになった。調子がいいからといってテンションを上げると、翌日全身が筋肉痛になって死ぬ思いをするということが分かっているから。
こういった経験は、健常者でも俺より上の世代の方だったら理解してもらえるかもしれない。常に身体のどこかしら痛い状態が続いているから、それを普通だと認識するようになる。明らかに万全じゃないけど、かと言って不調でもない。俺にとっての元気とは、その程度だ。
先日親友の菜月さんと久しぶりに会った時、訪問リハビリを受けた直後に会うことになった。俺としては大歓迎だったのだが、彼女が「そっちが疲れてるかと思って」と別日を提案しようとしてくれた。好意からの言葉だということは分かっているが、俺は少しだけ複雑な気持ちになった。
極端な話、俺にとって「疲れずに出来ること」なんてひとつもない。布団から身体を起こすのだって、人と話すのだって、本を読むのだって、俺にとっては全身運動だ。おそらく普通の人の5倍くらいは体力を消費している。そこに加齢に伴う慢性的な疲れが上乗せされるから余計に辛い。しかしそれは大前提として、疲れてでもしなければいけないことやしたいことはある。俺の場合生きていくのに必要なこと以外の「したいこと」は、心が自然に高鳴ることだ。親友である菜月さんをはじめとする友人たちとの何気ない会話やカラオケ、好きな本を読むこと、推しの曲を聴き、歌うこと。これらは身体的にはかなりエネルギーを消費するが、その分心を元気にしてくれる。楽しいことが終わった後は、身体の疲れを上回るくらいに心は元気になっている。だからこそこんな俺に付き合ってくれる友人たちにはとても感謝しているのだ。
しかしいつも申し訳なく思うのは、身体的な疲れが表情に出てしまうことだ。もしかしたら相手に不快な思いをさせてしまっているかも、とは思うのだが、いかんせん身体的疲労には抗えないのが悔しい。菜月さんと話していると、ふとした瞬間に彼女の表情が暗くなるのを感じる。そういう時は疲労がすべて表情に出ているのだろう。しかし俺はその状態すら楽しんでいる。心地いい疲れというやつだ。ただでさえ身体的に疲れやすいのに、これで心の栄養源まで失ってしまったらと考えると不安になる。障がい者のみなさんの中には、こういう気持ちを抱えている人も多いのではないだろうか?