
掌編小説 | 享子という女 ─未明の怪談─
心霊映画は割と好きだった。まずもって、作り物だと分かっていて怖いわけがない。それに、月並みなことを言うならば、何よりも一番恐ろしいのは人間なのだとよく分かっていた。そしてまさに今、それを実感している。
「……な、何してんの?享子」
「何って、眠れないので」
未明
時刻は深夜2時半、丑三つ時も終わりがけという刻限。普段、この時間にこの場所で誰かと遭遇することなど滅多になかった。ところが、廊下の角を曲がった途端、長い黒髪の女が死んだようにもたれかかっているのを見つけ、思わず腰を抜かしかけた。
その正体が誰だか分かったので、咄嗟に平静を装い、一体何をしているのかと尋ねたところだ。すると、なんだか眠れないから月でも見ようかと思って、と享子は言う。
促されるまま享子の隣に腰を下ろしたはいいものの、享子は何も喋らない。先程までと同じように、まるで死んでいるかのようにぐったりともたれかかり、じっと夜空を眺めている。空には細い三日月が浮かんでいたが、雲が多い夜だったため、その雲に隠れては現れてを繰り返していた。
直視するのは憚られたので、横目で享子の様子を窺う。この時期に、しかも薄ら寒い廊下にこうしているには、寒すぎるくらいの格好だった。
白い肌が月明かりに照らされ、より一層青白く引き立っている。ともすれば心霊映画の登場人物のようにすら見えてしまう長い黒髪も、享子のものだと思うと途端に美しく艶やかに見えた。
目はどこか物憂げで、月が隠れてしまうとより一層落ち込むのが目元を見るとよく分かった。こうやって、窓にしがみついて必死に月を追いかけている姿は、まるで子供のようだった。いつもの、冷静で、大人びていて、皮肉っぽくて、どこか諦念を抱えたような雰囲気とはまるで違う。
ふと、享子が両腕を包むようにして掴んでいるのに気がついた。
「寒いんでしょ。早く部屋戻りなよ」
「……嫌。私、滅多に風邪引かないから平気よ。貴方は早く戻ったらいいじゃないですか」
そもそも隣に座れと促したのは享子の方なのに、今日の享子はやけに天邪鬼だった。お望み通り立ち去ろうとすると、予想に反してと言うべきか、今日の享子の様子からすれば当然と言うべきか、服の裾を引っ張られた。
「……やっぱり、寒い」
「だろうね。だから早く戻りなって言ってんじゃん」
「それは嫌。ここに居たいの」
今しがたまで不安定な三日月を必死に追いかけていた瞳は、今やこちらをしっかりと見据えている。
「……じゃあ、どうすればいいわけ?」
と聞くと、分からないの?と言わんばかりの目をして、突然立ち上がった。無造作に服を掴んでいた享子の手が、脇腹から腰の辺りまで静かに落ち、思わず神経が集中する。
途端、享子はパッと手を離し、
「やっぱり、戻ります。眠くなってきたから」
と言い出した。虚をつかれ、反応が一拍遅れた。ちょっと待って、と引き止めようとした頃にはもう享子は歩き始めていて、手を伸ばしたものの、掴めたのは残り香だけだった。
享子は、少し歩いたところでふと立ち止まり、振り返って「おやすみなさい」と微笑んだ。享子の唇は、彼女が追いかけていた三日月によく似た形の弧を描いていた。