
第十四話 東から来る国
夏が近づいていた。
吉備の平野では、田に青い稲が並んでいる。
川から引かれた水が、田の間をゆっくり流れていた。
海では、船が行き来している。
卑弥呼が亡くなってからも、吉備の暮らしは続いていた。
けれど、海から届く知らせには、少しずつ変化が出ていた。
「東から来た船です」
港の者が言った。
若い戦士は、船を見た。
いつもの吉備の船とは、少し形が違っていた。
乗っている人々の服も違う。
積んでいる品も違った。
船から降りてきたのは、一人の男だった。
若いとは言えない。
けれど、老人でもない。
東の土地から来たという。
「ここが吉備か」
男は港を見回した。
「そうだ」
若い戦士が答えた。
「何を求めて来た?」
男は少し考えてから言った。
「米だ」
若い戦士は眉を寄せた。
「米なら、ここにも余っているわけではない」
「分かっている」
男はうなずいた。
「だから、代わりになるものを持ってきた」
船から、石の道具や珍しい品が運び出された。
吉備ではあまり見ないものだった。
若い戦士は、その品を手に取った。
「どこから来た?」
「東だ」
「その先には、どんな国がある?」
男は笑った。
「国は一つではない」
その答えに、若い戦士は黙った。
それは、吉備と同じだった。
吉備にも、多くの集落がある。
それぞれの長がいる。
それぞれの土地がある。
ただ、卑弥呼がいた頃は、それらが一つの大きなつながりを持っていた。
男は言った。
「東では、人が増えている」
「どれくらい?」
「分からない」
男は海の向こうを見た。
「でも、田を増やしている者がいる。山を越えて移動する者もいる」
若い戦士は、その言葉を聞いた。
人が増える。
田が増える。
食べ物が必要になる。
鉄が必要になる。
そして、人が集まれば、土地をまとめる者も現れる。
吉備が歩いてきた道と、似ていた。
「その東の国は、何という?」
男は少し考えた。
「いくつもの名がある」
「一つの国ではないのか」
「今はな」
その答えが、若い戦士の胸に残った。
その日の夜。
若い戦士は、登与に東から来た男の話を伝えた。
登与は静かに聞いていた。
「人が増えている」
「はい」
「田が増えている」
「はい」
「そして、米や道具を求めている」
若い戦士はうなずいた。
「吉備と同じですね」
「そうね」
登与は言った。
「だからこそ、気をつけなければならない」
「敵になるでしょうか」
登与は首を横に振った。
「まだ、分かりません」
卑弥呼が生きていた頃なら、きっとそう言っただろう。
登与も、その言葉を受け継いでいた。
翌日。
吉備の有力者たちが集まった。
東から来た船のことを話し合うためだった。
「交易を続ければいい」
一人が言った。
「東の品が手に入る」
別の者は反対した。
「東の人間を港に入れすぎるのは危険だ」
「なぜ危険なのだ?」
「人が増えている国だ。力を持つようになれば、吉備の海の道を狙うかもしれない」
「まだ何もしていない」
「だからこそ、今のうちに考えるのだ」
話し合いは続いた。
卑弥呼がいた時なら、最後には一つの判断が出た。
今は、それぞれが自分の考えを主張している。
若い戦士は、その様子を見ながら思った。
吉備は弱くなったのだろうか。
それとも、
自分たちで決める国へ変わろうとしているのだろうか。
答えは出なかった。
その頃、東から来た男は、吉備の平野を歩いていた。
田を見た。
川を見た。
人々が集まる集落を見た。
そして、海を見た。
「大きいな」
男がつぶやいた。
「何が?」
一緒に歩いていた者が尋ねる。
「人の数だ」
男は答えた。
「東にも人は増えている。しかし、ここには、海から人が集まっている」
男は港へ目を向けた。
吉備は、ただ米が取れる土地ではない。
川がある。
平野がある。
海がある。
そして、人がいる。
そのことが、東から来た者にも見え始めていた。
秋。
東から、また別の知らせが届いた。
「大きな集まりができつつある」
港の者が言った。
「どこに?」
「東の方だ」
「一つの国か?」
「まだ、そうとは言えない」
それでも、人々が集まり始めているという。
若い戦士は、その話を聞いて海を見た。
海は静かだった。
波も穏やかだった。
だが、海の向こうでは、何かが変わり始めている。
吉備も、かつて同じだった。
最初は、小さな集落だった。
そこに人が集まった。
米が集まった。
鉄が集まった。
海の道がつながった。
そして、一人の女が人々をつないだ。
東でも、同じようなことが起ころうとしているのかもしれない。
「人が集まれば、国になる」
若い戦士が言った。
登与は答えた。
「必ずしも、そうとは限らないわ」
「では、何が必要なのでしょう」
「人をつなぐもの」
登与は海を見た。
「それが何なのかは、まだ分からない」
吉備の人々は、東の力を恐れていたわけではない。
まだ、戦ったこともない。
互いに敵だと決めたわけでもない。
ただ、
相手もまた、
生きるために力を集めている。
そのことが、少しずつ分かってきた。
その冬。
吉備の港に、一隻の船が入った。
東から来た船だった。
船を降りた男が、吉備の者たちに告げた。
「東の大きな集まりが、さらに人を集めている」
「どれくらいだ?」
「分からない」
男は首を振った。
「だが、以前とは違う」
若い戦士は、海を見た。
遠くには、何も見えない。
けれど、その向こうには、吉備とは別の道を歩く人々がいる。
そして、その人々もまた、
米を求めている。
鉄を求めている。
土地を求めている。
人を求めている。
吉備が大きくなった時と同じように。
その夜。
吉備の集落では、いくつもの火が燃えていた。
卑弥呼がいた頃と同じ火だった。
けれど、火を見つめる人々の心は変わっていた。
もう、卑弥呼はいない。
狗奴国との関係も、まだ不安定だ。
そして東では、新しい力が生まれようとしている。
吉備は、これから何を選ぶのか。
海を閉じるのか。
それとも、さらに遠くへつながるのか。
戦うのか。
それとも、交易を続けるのか。
一つにまとまるのか。
それとも、それぞれの道を歩むのか。
誰にも、まだ分からなかった。
ただ一つだけ、
確かなことがあった。
吉備の時代は、
吉備だけの問題ではなくなり始めていた。
海の向こうで、人が集まっている。
東の土地で、新しい力が育っている。
そして、やがてその力は、
吉備の前に姿を現すことになる。
その時、
吉備の人々は、
自分たちが何を守り、
何を手放すのかを、
決めなければならない。