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第十二話 女王の死

    畦﨑 温浩

    春が来た。

    冬の冷たい風が去り、吉備の平野には、また水が流れ始めていた。

    田には新しい水が入り、人々は種をまく準備を始めている。

    去年の秋に狗奴国へ渡した米のことを、吉備の人々は忘れていなかった。

    約束した米が、来年の収穫のあとに返ってくる。

    その約束が守られるか。

    多くの人が、それを気にしていた。

    けれど、その春。

    卑弥呼の姿を見ることが、少なくなった。

    最初は、ほんの小さな変化だった。

    朝の祭りに姿を見せない。

    人が集まっても、長く話さない。

    食事を残す。

    そして、昼になると横になっていることが増えた。

    祭祀を担ってきた登与が、卑弥呼のそばに座っていた。

    「少し休んでください」

    卑弥呼は目を開けた。

    「春なのに?」

    「春だからです」

    登与は笑った。

    「田が始まります」

    卑弥呼も、わずかに笑った。

    「そうね」

    しばらく二人は黙っていた。

    外から、人の声が聞こえてくる。

    子どもたちの声。

    田へ向かう人々の声。

    水を引くために、木を動かす音。

    吉備は動いていた。

    「私は、ずいぶん長くここを見てきたわ」

    卑弥呼が言った。

    登与は答えなかった。

    「最初は、小さな争いを止めるだけだった」

    「はい」

    「水のことで争う人がいた」

    「はい」

    「土地のことで争う人もいた」

    「はい」

    卑弥呼は目を閉じた。

    「いつの間にか、海の向こうからも人が来るようになった」

    「そして、女王と呼ばれるようになりました」

    卑弥呼は少し困ったように笑った。

    「私は、最初から女王になりたかったわけではないのに」

    登与も笑った。

    しばらくして、卑弥呼は尋ねた。

    「狗奴国から、知らせは?」

    「まだありません」

    「そう」

    卑弥呼は天井を見た。

    「約束は、守られるかしら」

    「分かりません」

    登与は正直に答えた。

    卑弥呼はうなずいた。

    「そうね」

    その言葉を聞いて、登与は少し驚いた。

    以前なら、卑弥呼は何か道を示そうとした。

    けれど今は、分からないことを分からないまま受け入れているようだった。

    数日後。

    卑弥呼は、さらに弱っていた。

    吉備の有力者たちが集まった。

    若い戦士も、その中にいた。

    「女王は、どうされるのでしょう」

    誰かが尋ねた。

    登与は答えなかった。

    卑弥呼自身が、皆の前に出てきたからだった。

    以前のように立ってはいない。

    座ったまま、集まった人々を見ている。

    「私は、もう長くないかもしれません」

    ざわめきが起こった。

    卑弥呼は手を上げた。

    静かになった。

    「恐れないでください」

    その声は弱かった。

    けれど、よく通った。

    「私がいなくなっても、田はなくなりません」

    人々は黙って聞いていた。

    「水も流れます」

    卑弥呼は続けた。

    「海もなくなりません」

    そして、少し間を置いた。

    「人も、なくなりません」

    その言葉に、若い戦士は顔を上げた。

    卑弥呼は一人の人間だった。

    しかし、今まで多くの人が、その存在を一つの国の中心として見ていた。

    だからこそ、卑弥呼がいなくなることは、ただ一人の人がいなくなることではなかった。

    「私がいなくなったあとも、吉備を一つにしようとしてはいけません」

    有力者の一人が驚いた。

    「それでは、連合が崩れます」

    「かもしれません」

    卑弥呼は答えた。

    「でも、形だけ一つにしても、人の心が離れれば意味がありません」

    それは、卑弥呼が長い時間をかけて知ったことだった。

    人は、命令だけではつながらない。

    水が必要だからつながる。

    米が必要だからつながる。

    海を渡るためにつながる。

    鉄を得るためにつながる。

    そして、互いに必要だと思うからこそ、つながる。

    「つなぐ者が必要なのです」

    卑弥呼は言った。

    「一人で全部を決める者ではなく」

    その言葉を聞き、登与は黙って卑弥呼を見つめた。

    その夜。

    卑弥呼は一人で外を見ていた。

    遠くに、祭りの火が見える。

    小さな火だった。

    一つ。

    また一つ。

    集落ごとに火がともっている。

    卑弥呼は、その火を見ながら思った。

    最初は、一つの火だった。

    それが、少しずつ増えた。

    人が集まり、村が大きくなった。

    海から人が来た。

    鉄が来た。

    米が増えた。

    そして、吉備は一つの大きなつながりになった。

    けれど、その火を一人で守ることはできない。

    そう思った。

    翌朝。

    卑弥呼は目を覚まさなかった。

    登与が呼びかけた。

    何度も呼んだ。

    けれど、返事はなかった。

    その知らせは、吉備の各地へ広がった。

    女王が死んだ。

    人々は、すぐには信じられなかった。

    田では手が止まった。

    海では船を出す者が足を止めた。

    祭りの火を守っていた者たちは、火の前で黙った。

    若い戦士も、何も言えなかった。

    彼は、卑弥呼が初めて女王と呼ばれた日のことを思い出していた。

    あの時、卑弥呼は「様」をつけて呼ぶことを嫌がった。

    自分は特別な人間ではない。

    そう言っていた。

    それでも、人々は彼女を中心に集まっていった。

    今、その中心がなくなった。

    「これから、どうなるのでしょう」

    若い戦士がつぶやいた。

    登与は答えなかった。

    答えられなかった。

    吉備の連合には、決まった後継者がいなかった。

    卑弥呼が生きている間は、彼女の判断によって、多くの争いが抑えられていた。

    しかし、その判断を代わりにできる者がいるとは限らない。

    それぞれの集落には、それぞれの考えがある。

    水を多く必要とする者。

    鉄を求める者。

    海の道を守りたい者。

    自分たちの土地を守りたい者。

    卑弥呼の死によって、それまで見えにくかった違いが、少しずつ表に出始めていた。

    そして、もう一つ。

    狗奴国との約束が残っていた。

    米を返すという約束。

    船を襲わないという約束。

    その約束を、これから誰が守らせるのか。

    誰も答えを持っていなかった。

    数日後。

    卑弥呼の亡骸を送るため、人々が集まった。

    大きな塚を築くことになった。

    土を運ぶ者。

    石を運ぶ者。

    食べ物を用意する者。

    火を守る者。

    多くの人が動いた。

    若い戦士も、土を運んだ。

    その途中、彼は足を止めた。

    遠くに吉備の平野が広がっている。

    田がある。

    川がある。

    その向こうには山がある。

    さらに先には海がある。

    卑弥呼が見ていた景色だった。

    「女王は、ここから何を見ていたのだろう」

    若い戦士は思った。

    答えは分からない。

    卑弥呼はもう、答えてくれない。

    けれど、彼は一つだけ分かっていた。

    卑弥呼がいなくなっても、吉備は終わらない。

    人々は田を耕す。

    船は海へ出る。

    鉄は道具になる。

    米は人を生かす。

    そして、各地の人々は、また自分たちの道を選び始める。

    卑弥呼がつないだものは、卑弥呼そのものではなかった。

    人と人との間にできた、細い道だった。

    その道は、今、大きく揺れ始めていた。

    春の風が吹いた。

    卑弥呼がいなくなった吉備を、静かに通り抜けていった。

    女王の時代は、終わった。

    けれど、

    吉備の物語は、まだ終わっていなかった。

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