第十五話 吉備の彼方へ
その船が来たのは、秋の終わりだった。
吉備の港に、見慣れない船が一隻入った。
東から来た船だった。
船から降りた男は、港の者に告げた。
「吉備の長に会いたい」
「何の用だ」
男は、積んできた品を指した。
「米と鉄を交換したい」
若い戦士は、その言葉を聞いて船を見た。
鉄を求めている。
それだけなら、珍しいことではなかった。
けれど、男は続けた。
「もう一つ、頼みがある」
「何だ?」
「吉備の船に、東の海まで来てもらいたい」
若い戦士は黙った。
東の海。
そこには、これまで吉備が直接関わってこなかった土地がある。
「何のために?」
「品を運ぶためだ」
男は答えた。
「東では、人が増えている。米も鉄も足りない。だが、こちらにも渡せるものがある」
若い戦士は、その話を持ち帰った。
その夜。
吉備の有力者たちが集まった。
「東と交易する」
そう言う者がいた。
「危険すぎる」
反対する者もいた。
「なぜだ?」
「船が遠くまで行けば、戻れないこともある」
「それは海の道なら、どこでも同じだ」
話し合いは、なかなか終わらなかった。
その時、一人の老人が口を開いた。
「卑弥呼なら、どうしただろうな」
誰も答えなかった。
登与が言った。
「卑弥呼なら、きっと自分で決めなかったでしょう」
皆が登与を見る。
「相手の話を聞いて、こちらの損得を考え、それから決めたはずです」
「つまり?」
「決めるのは、私たちです」
静かな言葉だった。
翌朝。
東から来た男と、吉備の者たちが向かい合った。
交換する米と鉄の量。
船が通る道。
積み荷。
帰る時期。
一つずつ話を決めていった。
それは、かつて卑弥呼が行っていたことに似ていた。
けれど、卑弥呼はいない。
今回は、何人もの人間が話し合って決めた。
船が出る日。
若い戦士は港に立っていた。
東へ向かう船を見送る。
隣には登与がいた。
「これでよかったのでしょうか」
若い戦士が言った。
登与は笑った。
「また、それを聞くの?」
若い戦士も少し笑った。
「卑弥呼がよく言っていたので」
「何を?」
「分からない、と」
登与は海を見た。
「そうね」
二人は、それ以上話さなかった。
船は東へ進んでいった。
それから年月が流れた。
吉備の平野では、田が増えた。
集落も増えた。
海の道を行き来する船も増えた。
鉄を使った道具が、人々の暮らしを変えていった。
そして、吉備で生まれた祭りや器の形、土を大きく盛り上げる葬りの形も、少しずつ変わりながら残っていった。
しかし、吉備だけが大きくなったわけではなかった。
東の土地でも、人々が集まっていた。
やがて、その中から、より大きなまとまりを作ろうとする力が現れてきた。
その中心の一つとなったのが、大和の地だった。
それが、どのように始まったのか。
どの勢力が、いつ、どこまで結びついたのか。
すべてが分かっているわけではない。
ただ、この物語では、
吉備で育った人や技術や文化が、
海や道を通って東へ伝わり、
さまざまな土地の力と結びつきながら、
新しい時代へ入っていったと考えてみたい。
吉備が消えたわけではない。
むしろ、形を変えながら残った。
大きな墓が築かれるようになった。
人々を動かす力も大きくなった。
祭りの形も変わった。
海の道も消えなかった。
そして、かつて吉備の平野で卑弥呼が見つめていたものも、消えなかった。
人が集まること。
水を分けること。
米を蓄えること。
鉄を求めること。
海を渡ること。
遠くの人と話すこと。
それらは、時代が変わっても続いていった。
ある春。
若い戦士だった男は、年老いていた。
彼は吉備の平野を歩いていた。
昔とは違う景色だった。
田は広がり、人も増えた。
遠くには、大きな土の盛り上がりが見える。
「ずいぶん変わったな」
男はつぶやいた。
その時、そばにいた若者が尋ねた。
「何がですか?」
男は答えた。
「全部だ」
若者は笑った。
「それなのに、同じものもあります」
男は若者を見た。
「何が?」
「川です」
若者は言った。
「川は昔から、ここを流れている」
男は笑った。
そうだった。
人が変わっても、
国の名前が変わっても、
力を持つ者が変わっても、
川は流れている。
海も続いている。
吉備の土地を歩いた人々は、次の時代へ進んでいった。
男は、ふと卑弥呼のことを思い出した。
女王だった。
けれど、未来を知っていたわけではない。
戦いを避けた。
それでも、戦う覚悟は持っていた。
人をつないだ。
けれど、すべてを一つにしたわけではなかった。
最後まで、迷いながら選んだ。
「卑弥呼は、間違っていたのだろうか」
男はつぶやいた。
若者には、その意味が分からなかった。
男は笑った。
「いや。俺にも分からん」
そう言って、歩き始めた。
吉備の彼方には、また別の土地がある。
その先にも、人がいる。
そこにも田があり、川があり、海がある。
そして、その人々もまた、
自分たちの暮らしを守りながら、
誰かとつながろうとしている。
日本という国が、最初から一つだったとは限らない。
いくつもの土地があり、
いくつもの人々がいて、
それぞれの道を歩いていた。
その道が重なり、
ぶつかり、
離れ、
また重なった。
吉備も、その一つだった。
卑弥呼がいた時代は終わった。
吉備を中心とする大きなつながりも、やがて別の形へ変わった。
そして、東の大和を中心とする新しい時代が、大きくなっていった。
けれど、
それは吉備の物語が消えたということではない。
人は移動する。
技術も移動する。
言葉も、祭りも、器も、記憶も移動する。
一つの場所で生まれたものが、
別の場所で姿を変える。
歴史とは、
そういうものなのかもしれない。
夕暮れ。
吉備の平野を風が渡っていく。
川は流れている。
田には水がある。
海には船が見える。
遠い昔、
この場所で一人の女が人々をつないだ。
その女の名は、
卑弥呼。
彼女が見ていた世界には、
まだ「日本」という一つの国はなかった。
けれど、
人々はすでに、
自分たちの暮らしを守りながら、
誰かとつながろうとしていた。
その積み重ねの先に、
やがて一つの大きな時代が生まれていく。
吉備から見れば、
それは遠い彼方にある。
けれど、
その彼方へ向かう道の途中には、
確かに吉備の人々がいた。
田を耕した人。
鉄を扱った人。
海を渡った人。
祭りの火を守った人。
そして、
迷いながら人々をつないだ一人の女。
卑弥呼。
彼女の時代は終わった。
けれど、
その道は終わらなかった。
吉備の風は、
今日も東へ向かう。
その先に、
新しい時代が待っている。
