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水道哲学×生成AI|誰もが作品を作れる時代、価値はどこに残るのか

初めて生成AIの文章を見た時の衝撃


―――これ、人が書いたんじゃないんだ!?

初めて生成AIが書いた文章を見た時は衝撃的でした。
「もう人間いらないよね」
とさえ思いました。


ジブリ風画像の時もそうです。

「すげぇ」

人が描いたら数日かかるようなイラストが、
たった数分で、しかも無料でできてしまうのは
まさしく革命だと感じました。


究極の水道哲学?


パナソニック創業者・松下幸之助氏の「水道哲学」という思想があります。

低価格で良質なものが大量供給され、
消費者が手に取りやすくなるという思想です。

文章、画像、音楽、動画。
プロのクリエイターが持つ表現の力が、
誰にでも無料で手に入るのですから、
究極の水道哲学の実現と言えるかもしれません。


誰もが使い始めると、特別ではなくなる


最初は、自分だけが特別な力を手に入れたような優越感がありました。

しかし、徐々に周りでも同じツールを使う人が増え、
「これはあのツールを使ったな」
と気づくようになりました。

その瞬間、なぜか少しがっかりしました。


大量供給は、創作を急速に陳腐化させる


水道哲学の本質は「大量供給」ですが、
創造性の世界では、これが諸刃の剣になります。

同じようなトーンの画像、似通った文章の構造、
これらを何度も目にして「既視感」を覚えます。

同じものを短期間に何度も見ると飽きやすいし、
アンチが生まれやすい。

それはとてもとても悲しいことだと思います。


「だから、生成AIは使わず人の手で」
というつもりは全くありません。

行動経済学に、時間をかけて苦労して作ったものに
価値を感じるという心理効果がありますが、
それでも「ツール」は有効活用したほうがよい
という考えです。


しかし、究極の水道哲学を手に入れた今、
少し立ち止まって考えてみたいと感じました。


「作れること」の次に、何が価値になるのか


生成AIによって価値が下がるのは、創作そのものではなく、「作れること」自体なのかもしれません。

文章を書ける。画像を作れる。音楽を作れる。

それだけでは、違いになりにくくなっていきます。
その代わりに価値が高まるのは、

何を作るのか。
なぜ作るのか。
何を残し、何を捨てるのか。
誰に届けたいのか。

といった、人間の判断ではないでしょうか。

生成AIは、これからも積極的に使った方がよいと考えていますが、誰もが簡単に作品を作れる時代だからこそ、何のために作るのかが問われます。

生成AIは創作を「水道」にしました。

その先で違いを生むのは、道具の性能ではなく、使う人の目的と判断なのだと思います。この記事を書いた時点では言語化しきれなかった違和感は、その後「AI 2027」を読んだことで、もう少し明確になりました。


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村田 裕樹 最後までお読みいただきありがとうございました! サポートもうれしいですが「スキ」をしていただけると大変励みになります!!