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日常を、知にする #27 映画 エンドロールまで観る

    映画が終わり、画面が暗転して、名前の列が下から上へ流れはじめる。とたんに、まわりの席が次々と立ち上がる。上着を羽織り、空になったカップを持って、明るくなりかけた通路を、みんな出口へ向かっていく。スクリーンには、聞いたこともない名前が、まだ延々と流れている。物語はもう終わったはずなのに、映画は、まだ終わろうとしない。あの、誰も読まない名前の列は、いったい何のためにあるのだろう。
    ―――
    いま、映画が終わると、たいてい長い名前の列が流れる。俳優や監督だけでなく、照明、衣装、会計、運転手まで、何百もの名が、何分もかけて上っていく。この、最後に全部まとめて流すやり方が根づいた裏には、一人の男の、小さな、しかし高くついた意地がある。ジョージ・ルーカスである。
    一九七七年の『スター・ウォーズ』を、ルーカスは冒頭にいっさい名前を出さずに始めた。会社のロゴと、あの文字が宇宙へ流れていく口上だけ。監督である自分の名も含めて、クレジットは全部、映画の最後に回した。観客を名前でいちいち立ち止まらせず、いきなり物語へ放り込むためだ。監督組合はこれを認めた。ルーカス自身が監督で、冒頭のロゴは彼のクレジットとみなせたからだ。
    問題は、続編の『帝国の逆襲』で起きた。今度の監督はルーカスではなく、アーヴィン・カーシュナーだった。それでも彼は前作と同じ形で、冒頭に名前を出さずに始めた。だが組合の規則では、冒頭に誰か一人でも名が出るなら、監督の名も冒頭に出さねばならない。当のカーシュナーは、それでかまわないと言った。それでも組合は引かず、映画を劇場から引き上げ、作り直すよう求めて、ルーカスに罰金を科した。
    ルーカスは、二万五千ドルの罰金を払い、監督組合と脚本家組合を、両方とも脱退した。名前をどこに置くか、ただそれだけのことで、彼はハリウッドの中枢に背を向け、以後ずっと外の人になった。次の作品で、組合員でない監督を探すはめになったのも、その代償だ。ちなみに、名前を最後にまとめて流すやり方じたいは、彼の発明ではない。一九六〇年代には、そういう映画がもう現れていた。ルーカスがしたのは、はじまりを名前で汚さないことを、脱退してでも守り抜いたことだ。
    私たちがいま、物語のあとに延々と流れる名前の列を目にしているのは、そのはじまりを守るために、名前を終わりへ回した人がいたからだ。
    ―――
    流れていく名前を、試しに少し目で追ってみると、知っている名は、ほんの一握りだと気づく。監督、主演、あとは聞き覚えのある何人か。残りの何百という名は、一度も顔を見ることのない人たちだ。効果を作った人、色を調整した人、撮影の弁当を手配した人。ふだん私たちは、届いたものだけを受け取って、それを作った手のほうは見ない。宅配の荷物も、朝のパンも、名もない大勢が作っている。映画も同じで、看板になる数人の作品ではなく、その大勢の手が一つずつ積み上げたものだ。エンドロールは、その見えない手が、ほんの数分だけ、名前になって現れる場所だ。
    その大勢の名が、なぜ映画の最後尾にあるのか。はじまりを、物語だけのものにするためだ。ルーカスが脱退してまで守ったのは、そこだった。名前で始まる映画は、観客をいったん現実に立たせてから、物語へ入らせる。名前を消せば、最初の一秒から、もう別の世界にいられる。その澄んだはじまりと引き換えに、作った人たちの名は、ほとんどの人が席を立つ場所へ送られた。映画がいちばん正直になる数分は、いちばん見られない場所に置かれている。
    席を立たずにいると、べつのことにも気づく。物語が終わった瞬間に立ち上がると、まだその世界に半分残っている身体を、いきなり明るいロビーへ引き戻すことになる。エンドロールの数分は、暗がりのまま、音楽だけが続く。その時間が、さっきまでいた世界から現実へ戻るための、ゆるやかな坂になっている。夢から覚めるのに少し時間が要るのと、同じことだ。流れる名前を読むともなく眺めているあいだに、昂ぶった気持ちが、静かにほどけていく。
    最後まで残ると、作る順番と観る順番が、正反対だったことにも気づく。映画は、脚本があり、撮影があり、編集があり、音がついて、いちばん最後に一本の作品になる。私たちはその逆から入る。完成した二時間を先に受け取り、それがどんな順に、誰の手で組み上がったかは、知らないままだ。エンドロールは、その順番が、ほどける場所だ。できあがったものから入った観客が、作られていった道のりを、逆回しに最後だけ見せてもらう。席を立つか、残るか。それは、完成品の裏側に、一度だけ回ってみるかどうかの分かれ目でもある。
    ―――
    映画館で、物語が終わったとたんに立ち上がり、名前が流れ始めた通路を、さっさと出ていったことは、誰にでもあるはずだ。あるいは配信で、エンドロールに入った瞬間、指がもう次の作品のサムネイルへ伸びている。あの数分を、たいてい「もう終わったところ」として、反射的に飛ばしている。けれど、終わったのは物語のほうで、映画そのものは、その名前の列まで含めて一本だった。飛ばしていたのは、いちばん大勢が写った、集合写真のような時間だったのかもしれない。
    明日からできることもある。まずは、次に映画館へ行ったら、物語が終わっても席を立たず、エンドロールを最後の一名まで、そのまま眺めてみる。次に、好きな映画のエンドロールを一度、止めながら読んでみて、自分がまったく知らない役割の名前を、三つ書き出してみる。それから、その中の一つ、たとえば「フォーリー」や「グリップ」が何をする仕事なのかを調べ、次にその映画を観るとき、その人の仕事が画面のどこに出ているかを探してみる。
    ―――
    今度、物語が終わって、まわりの人が立ち上がりはじめても、もう少しだけ、座っていてみる。暗がりの中を、名前が上へ上へと流れていく。その一つひとつが、さっきまであなたがいた世界を、こしらえた手だ。

     
     
    このnoteは新しい時代の「リベラルアーツ的生き方」の哲学と物語を綴っています。 あなたの日常に、新たな気づきと静かな喜びが訪れることを願って。

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