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「硫黄島」について語ろう

    ISSA

    硫黄島については、これまで色んな意味で語ることを避けてきたのですが、

    今年は戦後80年の節目の年で、4月7日に敬愛する天皇皇后両陛下が硫黄島を訪問されるというので、

    この機会に、私も硫黄島について思うところを書き残すことにしました(文字削減のため、以下「である」調で記載)。

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    十数年前のことになるが、出向先の外務省から戻った私は、3年間のアフリカ暮らしで沢山の貴重な人生経験を積む傍ら、逆カルチャーショックと、本業に復帰することの難しさに喘いでいた。

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    外務省時代のISSA
    ポケットにぶら下がっているのは
    「飛べないブタはただのブタだ」と
    自虐ネタに使っていた「ポルコ」

    出向前までは、日々、当たり前のようにこなしていた、礼儀正しい日本人であること、勤勉な〇〇官であること、マルチタスクをスマートにこなす〇〇士であることが、如何に凄い事だったかを思い知らされた。

    いつまで経っても立ち直らない私を見ていた上司は、恐らくしびれを切らしたのだろう。私に更なる試練を与えた。

    「しばらく、硫黄島で修行してこい」

    は? 今、何とおっしゃいました?
    希望したこともないんですけど…?
    人が苦境にある時に「島流し」とは
    一体、どういうことですか?

    正直、私は憤りを覚えた。

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    今にして思えば、私は3年間のアフリカ暮らしで日本人らしさ、〇〇官らしさを何処かへ置き忘れてしまっていて、この頃の私は、やや心が荒んでいた。

    しかし、上からの命には従うしかない。

    こうして私は、ある年の暑い夏の日に、本土から遠く離れた南洋の僻地、硫黄島へと赴くことになった。

    こんな心がけの悪い、不甲斐ない自分が、幾多の英霊たちが眠るあの島に足を踏み入れて良いのだろうか。

    そんな一抹の不安さえも拭えないまま、輸送機のタラップから硫黄島に降り立ったのだった・・・。

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    硫黄島の概要
    硫黄島(いおうとう)(注1) は、東西南北の主要地点から、概ね1,200~1,300km離れた南海の孤島で、概ね台北と同じ緯度線上に位置している。

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    硫黄島の位置
    (Created by ISSA)

    東京からだと、沖縄ほど離れているが、ここは歴とした東京都の一部である。

    (注1) 戦前、島民は「いおうとう」と呼んでいたが、米軍が「Iwo Jima(いおうじま)」と呼び、戦後は東京都や国も「じま」を使ってきた。

    2006年に映画「硫黄島(じま)からの手紙」が公開されると、旧島民から苦情が寄せられ、翌2007年に国が公式に「じま」から「とう」に変更した

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    【参考】米海軍の強襲揚陸艦
    「IWO JIMA」(LHD-7)

    硫黄島は約22平方キロと、概ね品川区と同じ広さを有する。

    全体として島の形状は平たく、南西端に位置する標高170mの摺鉢山(すりばちやま)が最高点である。

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    硫黄島の外観
    写真の左下が摺鉢山

    最も近い有人島である父島でも、硫黄島から北に約280kmも離れていて、北硫黄島、南硫黄島とともに火山列島を成している。(注2)

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    (Created by ISSA)

    (注2) 2025年2月1日現在の人口は、父島が2,071人、母島が429人。北硫黄島には、戦前、200人ほど住んでいたが、現在は無人島である(1991年、こんなところで石器時代の遺跡が見つかっている)。南硫黄島は一環して無人島であり、原生自然環境保全地域に指定されている。その北にある福徳岡ノ場は、2021年8月の噴火で大量の軽石が発生、2023年11月には硫黄島の沖合約1kmに新島が出現するなど、この辺りの火山活動は未だ活発である

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    左上:二見港周辺のメイン・ストリート
    右上:唯一の交通手段「おがさわら丸」
    左下: 小笠原聖ジョージ教会  (1909年)
    右下:「紅の豚」のモデルとなった扇池
    (Photo by ISSA)

    硫黄島の歴史
    1543年にスペイン人に発見されたこの島は、1784年にイギリスの探検家キャプテン・クックの船団によって「サルファー・アイランド」(硫黄島)と名づけられた。(注3)

    (注3) 小笠原諸島には、今もなお、日本人の入植前に渡ってきた西欧系をルーツとする、彫の深い顔立ちをした島民が暮らす

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    左:キャプテン・クック
    右:第3次航海の航路図

    1889年6月、父島の住民だった田中栄次郎が、帆船「南洋丸」にて十数名とともに、漁業と硫黄採取を目的として渡航した時から硫黄島の開拓が始まった。

    1891年9月、政府が日本の領土に編入し、東京府小笠原島庁の所轄となり、正式に「硫黄島」と命名された。

    1892年から硫黄の採掘事業が開始された。その後、平坦な土地と地熱を活かした農業も始まり、砂糖キビや薬用植物が栽培され、人口も次第に増えていった。

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    島民の社交場だった硫黄島神社
    (Photo by ISSA)

    1933年以降、大日本帝国海軍が、順次、3つの飛行場を開設。

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    海軍が硫黄島に建設した滑走路

    1940年4月には、硫黄島に村制が施行された(この年の人口は、硫黄島が1,051人、北硫黄島が103人)。

    硫黄島の戦史
    やがて太平洋戦争が始まると、硫黄島の戦略的価値が高まっていった。

    1944年6月、マリアナ沖海戦で海軍が大敗すると、米軍は1944年8月までにグアム、サイパン、テニアンなどに進駐し、B-29爆撃機による日本本土への空襲を開始。

    爆撃エリアの拡大と緊急着陸場及び護衛戦闘機の拠点を必要としていた米軍は、次なる目標として硫黄島に目を付けた。

    もし、硫黄島が米軍の手に落ちたら、本土への空襲が激しさを増すだろうーーー。

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    B-29による爆撃エリアの拡大
    (Created by ISSA)

    このことを予期していた大本営は、2万人規模の陸海軍将兵を硫黄島に再配備した。

    1944年6月、総司令官として栗林忠道・陸軍中将が硫黄島に着任し、持久戦に備えて島内各所に地下壕を作り、日々、戦術研究を重ねて戦いに備えた。

    翌1945年2月16日、遂に米軍による硫黄島攻略が始まった。硫黄島守備隊は、山の形が変わり果てるほどの激しい艦砲射撃と空襲に晒された。

    2月19日、米軍が硫黄島に上陸を開始。南海岸(上陸海岸)には、約130隻の上陸舟艇が押し寄せた。

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    米軍が大挙として押し寄せた上陸海岸
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    現在の上陸海岸は、死闘が繰り広げら
    れた激戦地とは思えないほど穏やかだ
    (Photo by ISSA)

    栗林中将の優れた戦術研究の成果で、この海岸に上陸した米軍は、わずか1日で全上陸兵力の8%(注4) を失った。

    (注4) これは、史上最大の作戦と言われた仏北西部でのノルマンディー上陸作戦で米軍が失った2,000人を遥かに上回る

    2月21日、八丈島経由で飛来した第二御盾隊が硫黄島沖の米艦隊に特攻し、空母「ビスマルク・シー」が沈没、空母「サラトガ」が戦列を離れる戦果を挙げた。

    同じ頃、伊370など複数の潜水艦と回天特攻隊が硫黄島沖の米艦隊を水中から攻撃したが、いずれも戦果不明のまま未帰還となった。

    しかし、日本軍による迎撃も束の間、2月23日には摺鉢山の守備隊が陥落し、米軍がその頂に星条旗(注5) を掲げた。

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    左:摺鉢山の星条旗(日本硫黄島、摺鉢山)
    右:摺鉢山の星条旗(米アーリントン墓地)

    (注5) 左側の写真は、現場に居合わせた写真家のジョー・ローゼンタールがAP通信に送ったもので、後に不朽の一枚(Immortal Image)としてピュリツァー賞に輝いた。

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    左上:摺鉢山から上陸海岸を見下ろす
    右上:米軍の聖地となっている記念碑
    左下:米の艦砲射撃で崩壊した火山壁
    右下:日本側の硫黄島戦没者顕彰碑等
    (Photo by ISSA)

    その後、日本軍は島の北東部へと追い込まれつつも、果敢に抵抗し続けた。

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    戦況の推移

    3月22日、1932年のロス五輪の馬術大障害飛越競技で優勝し、「バロン西」の通称で知られた西武一・陸軍中佐が、米軍の襲撃を受けて戦死。

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    左:西中佐戦死の碑
    (Photo by ISSA)

    3月26日、栗林中将が硫黄島の指揮官として大本営に訣別電を打電し、最後の総攻撃を指揮して戦死(注6) した。

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    栗林中将の訣別電

    (注6) 栗林中将の亡骸は、今も見つかっていない。「一日でも長く戦い続ける」ため、指揮官の死(すなわち、硫黄島の陥落)を敵に悟られないように工作した、という説が有力視されている

    ここに日本軍の組織的な抵抗は終わり、硫黄島は米軍の手に落ちた。

    そして、予想どおり本土への空襲が激化した。空襲後に硫黄島に緊急着陸したことで命拾いしたB-29は、延べ2,400機(延べ27,000人)に上ったという。

    硫黄島からの手紙
    湖沼・河川を持たない硫黄島では、渇きを潤すには、唯一、雨水だけが頼りだった(現在も、硫黄島で濾過された雨水で給水が賄われている)。

    そんな中でも、守備隊の将兵は短期間で総延長18kmにも及ぶ豪を掘り抜いた。

    しかし、豪の内部は、どこも人一人が通るのがやっと。

    屈んで歩けたら良い方で、場所によっては這いつくばらないと通れないほど狭隘で、健常者でも、例外なく閉所恐怖症に見舞われる。

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    島には、今なお当時の姿で豪が散在する
    (Photo by ISSA)

    兵団司令部豪も、映画のワンシーンとは比較にならないほど手狭で暑苦しい場所だった。

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    栗林中将が指揮した兵団司令部壕
    (Photo by ISSA)

    栗林中将をはじめとする守備隊の将兵らは、これらの豪の中で、日々、本土に暮らす愛する人たちのことを想い、手紙(注7) を書き綴った。

    (注7) 2006年、戦跡の調査隊が地下壕の地中に埋められていた鞄を見つけた。その中には、硫黄島守備隊の将兵らが残した数百通の手紙が入っていた

    戦闘の結果
    硫黄島の戦いは、両軍に甚大な被害をもたらした。

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    (Created by ISSA)

    勝利した米軍は、日本軍の将兵が立て籠もる豪の中に火炎放射器を投入し、無残にも彼らを焼き払った。

    その後、埋葬もそこそこに、大量のブルドーザーを投入して、日本軍の将兵の亡骸の上に新たな飛行場を建設した。

    遺骨収集に関する問題
    1977年から、毎年、厚生省(現・厚労省)による硫黄島戦没者遺骨収集が行われているが、日本軍の戦死者のうち約半数の1万柱もの将兵が、今もなお見つかっていない。

    このことを知っていた安倍元総理は、2013年4月、河野統合幕僚長のアテンドで硫黄島を訪問した際、

    周囲の目を構うことなく、突如、飛行場の真ん中で膝間づき、手を合わせて深々と哀悼の誠を捧げられた。

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    「自衛隊の地位を高めた大恩人:河野
    前統合幕僚長が語る安倍首相
    」より
    (nippon.com)

    戦後、硫黄島を含む小笠原諸島は、1968年まで米軍による統治が続いた。

    返還後、1968年6月から海上自衛隊が、1984年1月から航空自衛隊も常駐し、

    防衛警備のほか、急患輸送、災害派遣、各種調査支援、気象観測、米軍支援及び史跡・戦跡の維持管理など、様々な活動を担ってきた。

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    今もなお、各地に激戦の爪痕が残る
    (Photo by ISSA)

    しかし、硫黄島は島全体が日米共用の基地であることや、活発な火山活動及び残された不発弾などで定住が困難であるとして、現在に至るまで旧島民の帰島は実現していない。

    よって、東京都は1965年から旧島民を対象とした墓参事業(注8) を実施している。

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    82名の英霊を祀る旧島民墓地
    (Photo by ISSA)

    (注8) 1944年の夏、島民が本土へ強制疎開させられた際、103人が軍属として徴用されて島に残り、うち82人が硫黄島戦で犠牲となっている

    1982年から、厚木基地で行われてきた米空母艦載機の夜間着陸訓練(NLP)は、1994年以降、陸上空母着陸訓練(FCLP)として硫黄島で行われている。

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    硫黄島に飛来する米軍機
    (Photo by ISSA)

    戦後、日本は米国との同盟による安全保障という道を選んだため、幾多の英霊は、未だ冷たい滑走路の下から家族の元に帰ることを許されず、その頭上を米軍機が踏みつけている現状がある。

    現在、種子島近くの馬毛島に急ピッチで飛行場を建設している理由は、主として戦略上の要求によるものだが、

    FCLPを馬毛島に移転することで、硫黄島での遺骨収集も進展するという別の側面があるということを、もっと多くの人が知るべきだろう。

    併せて覚えておきたいこと
    終戦間近の1945年8月、広島・長崎への原爆を搭載したB-29爆撃機は、いずれもテニアン島から出発し、長崎に原爆を投下した1機は、帰路、硫黄島に降り立っている。

    そのテニアン島付近では、米軍から「フォックス」と呼ばれ恐れられていた大場栄・陸軍大尉や、

    原爆輸送に従事した米艦インディアナポリスを撃沈した橋本以行・海軍少佐を艦長とする伊58潜水艦が敢闘していたことも忘れてはならない。

    1985年2月19日、日米両軍の生存者が、現在、硫黄島の再会記念碑がある場所で再会し、両国の友好と恒久の平和を誓い合った。

    その後、この場所では、毎年、日米合同慰霊祭が行われている。

    80年前に硫黄島で勇敢に戦った米軍の海兵隊員、海軍兵士、陸軍兵士、陸軍航空隊員、沿岸警備隊員、そして島を必死に守り抜いた日本軍兵士たちの献身と犠牲を追悼する「日米硫黄島戦没者合同慰霊追悼顕彰式」が硫黄島とワシントンD.C.で行われます。式典では、日米両国の友情と共通の価値観を再確認し、… pic.twitter.com/3a5qzc4E5n

    — アメリカ大使館 (@usembassytokyo) February 18, 2025

    美しい祖国日本と、愛する人たちが空襲に晒されないよう、一日でも長く長く耐え抜くことーーー。

    この至上命題を果たすため、栗林中将は、将兵一人一人に潔く自決することを固く禁じ、最後の最後まで粘り強く戦い抜くことを命じた。

    それ以外に選択肢がなかった二万人もの将兵たち。戦争の是非を軽々しく断じる前に、先ずは彼らの筆舌に尽くし難い思いというものを推し量るべきだろう。

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    上:硫黄島を彩るハイビスカス
    下:硫黄島に群生する月下美人
    (Photo by ISSA)

    よく「戦争のことを語り継ぐ」という話を耳にするが、硫黄島で勤務してからというもの、

    その人たちは「一体、何を語り継ぐつもりなのか」、そして「本当に平和の尊さを理解しているのか」が、気になるようになった。

    自らを犠牲にし、愛する人の為に戦い抜いた人々の勇気と誇り、悲しみや無念さに対する真の理解と敬意に到達していなければ、本当に平和の尊さを理解したとは言えないのだ。

    「戦争のことを語り継ぐ」とは、本質的にそうでなければならない。

    おわりに
    今もなお、あの島で暮らし、南洋の海と島々を飛び回った日々のことを思い出す。

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    高度10,000フィートから硫黄島を望む
    (Photo by ISSA)

    離島・船舶からの急患や人員・物資の輸送、各種調査支援及び島の環境保全など、様々な活動に従事する傍ら、

    激戦の爪跡を間近に見て、日々、自分自身と向き合う中で、あのとき上司が意図したとおり「修行」を積み、自分自身を取り戻すことが出来たのだと、今となってはそう思う。

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    最後に、この島で見た皆既日食を紹介しよう。

    太陽が月の後ろにスッポリと隠れた時、まるで夜のとばりが降りたように辺りは暗闇に包まれた。

    その後、暫くしてパァーっと降り注いだ一筋の眩い光 ーーー ✨

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    (Photo by ISSA's colleague)

    それまで、色んな美しい景色を見てきたが、これほど、神々しいものを見たことはなかった。

    太陽、月、地球、それぞれが持つ絶妙とも言える大きさと位置関係が、このような奇跡的な瞬間を生み出すのであり、

    そのとき、この世界の大いなる意思は「調和」であることを感じ取った。

    硫黄島で果敢に戦った日米の将兵と島民の御霊。そして戦後80年が経ってもなお、争いが絶えないこの世界に、恒久的な「調和」が訪れることを、これからも切に願い続けたいと思う💐


     
     
     

    ISSA

     
     
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