
【エッセイ】味噌汁の湯気が蛇に見えた夜
その日は、いつもの通り仕事を終えて19:30過ぎに帰ってきた。
最近、受験生の息子は夕飯食べるとさっさと部屋へ引っ込んでしまう。
狡猾な息子は部屋へ直行して自身を隠す。
私は、彼が「–––––勉強している」と祈るのみ。
無垢の木製テーブルには、娘がまだゆっくりと夕ご飯中。
高三でこちらも受験生の娘は母親と女子トークに華を咲かす。
私がダイニングに顔を出すと、
「おかえり」
と声をかけてくる娘といつものようにハグをしてテーブルにつく……
–––––なんて展開があるアメリカ人家族が羨ましい。
娘にそんなことしようものならライフルの銃口を向けられそうだ。
娘は妻とのおしゃべりに夢中だ。
その無防備な笑みについ頬が緩む。
そんな情景を横目で見ながら、邪魔しないようにテーブルにつくのがいつもの私だ。
私はテーブルにつき、並べられた夕ご飯に目にやる。
ご飯、肉じゃがに味噌汁から美味しそうな湯気が燻る。
引き寄せらるように肉じゃがに箸をつけて頬張ると、
「–––––そうそう」
と女子トークから私に話し相手を変えてきた。
娘は何やらニヤニヤして話しかけてきた。
「ねぇねぇパパ!新中学生が5名も入ったよ。それでぇ……」
部活のことになると、目をキラキラさせて心躍るのか、るんるん軽く踊りながら話している。そんな時の娘をみると和む。
「ほぅ……」
音楽が大好きな娘は中高一貫校に通う、コーラス部の元部長。
高三は受験シーズンのため通常3月で引退になる。
ところがズルズルと、いまだお邪魔しているようで……。
しかし、私はふと違和感を覚える。
なぜなら、さすがに5月上旬で完全引退したはずだったからだ。
勉強!勉強!そして勉強!のはずだが……。
–––––ははん。グループLINEか。
おそらく、部員とのLINEのやり取りで近況を知ったんだと私は勘違いした。
味噌汁を啜りながら、娘は続ける。
「それでね……。その中一の指導を担当することになったの」
可愛い笑みを向けてくる娘の言葉に私は思わずギョッとする。
ご飯の湯気がスッと消え氷結したように思えた。
去年の秋ごろから、娘は突然泣くことが増えた。
ハァハァ……ハァハハァと過呼吸気味に苦しそうにする。
情緒不安定なのか。
学校へ行けなくなる子の話を聞くたび、私は娘の顔を見てしまう。
「不登校」
その四文字が、時々頭をよぎった。
だから妻とは、なるべく娘を追い詰めないようにしようと話していた。
しかし、もう五月も終わり。
引退したはずのクラブ活動。
また誰かの面倒を見る娘。
私のなかで、何かがざわつき始める。
————これで大学へ合格できるのか。
疑心の視線を娘に送る。
————自覚が足りない。
と叱りつけたいが……。
味噌汁のお椀から立ち上る湯気がシャーッと威嚇する蛇にみえる。
私の顔が凍りついているのを見て何かを察したか、娘はそそくさと食べ終わり、逃げるようにリビングへ移動した。
私は迷っていた。
怒るべきか、忘れるべきか。
今の娘の成績と学校での立ち位置を考えると、指定校推薦はほぼ取れそうではある。
しかしあくまでも「今のところ」だ。
7月に大事な定期試験があり、それ次第なのだ。
喉まで出かかっている言葉をそのまま飲み込み、行く末を見守るのが吉なのか。
私の味噌汁のお椀から美味しそうな湯気が踊り、和す。
以前妻に言われたことがスッと頭に蘇る。
「父親であるあなたの言葉は裕子にとって重いの。言葉を選ばないと全て台無しになる。
だから、あなたは何も言わないで」
顔が歪む。
父親であるにもかかわらず、何も言えない?
娘が明らかに寄り道しているのを知りながら、声をかけてはいけないのか。
「こっちが正しい道だよ」と。
このまま放置して、娘は合格できるのか。
もし不合格なら、
「やっぱりダメだった。あの時、クラブなんか余計なことしてたから。思った通り」
と娘を罵倒してしまうのではないか。
————後悔はしたくない。
私は何気なく、お椀を手に取り味噌汁を口に注ぐ
「アチッ!チッ!!」
咄嗟に出た舌打ちがリビングの空気を凍らせた。
夕ご飯を食べ終わった私は、意を決して娘に声をかけた。
「裕子。中一の指導を担当ってどういうこと?もう引退したでしょ?なんで引き受けた?」
普通の会話を装ってかけた言葉だったが、明らかに硬かった。
そして語尾が強くなる。
私は娘を責めていた。
さっきまでの無邪気な空気が娘から消し飛んだ。
涙ぐんだ目でキィッと睨みつけてくる視線が刺さる。
「いいでしょ?たった1時間だよ!うちは14時まで授業も寝ないで一生懸命受けて14時から18時30まで自主勉強している。1時間くらいいいじゃない」
娘の強い声からは責められた事への苛立ちと抗議が伺えた。
「……たった1時間!?」
私は言葉を失った。
週3回あるクラブ活動で週3時間、1ヶ月で12時間以上の勉強時間が消える。
それが何を意味するのか娘はわかっていない。
それだけ時間があれば、英文法や単語の理解だって深まる。
そんな可能性を自ら手放したことをわかっていない。
ボロボロと崩れる表情の裏から般若の面が覗く。
全身の震えが止まらない。
言葉が口から爆発するように娘に飛びかかる。
「なんで受験期で、学校からも引退して勉強に専念するよう言われているのに、クラブ活動を続けるんだ!これで大学に落ちたら、お前は大恥かくぞ」
私は文字通り娘を罵倒した。
言葉も選べず、
いやむしろ、軽蔑するかのように強い言葉で罵った。
娘は震えながら涙を流す。
「パパは……グスン私から音楽を……どうして取り上げるのよ。
グスングスン 私は18時30まで……頑張ってる。
グスン パパは……見てないでしょ……グスン」
しゃくりあげながら、精一杯の抵抗を見せる。
「18時!?」
自分でも嫌になるくらい、口元が歪んだ。
「なんで!なんで!お前は18時30分以降は全く勉強せず、ここで遊んでいるだ!受験生なら、寝る、食べる時間以外は全て勉強するのが当たり前だぁ!お前の成績は確かに緩やかに上がっている。それは認める。しかし”緩やかに”だ」
我を忘れた私はこれまで言えなかった言葉を吐き出した。
「なぜ”緩やか”なのか!お前はわかっていない!!1日の努力量が極端に少ないからだ。つまり勉強時間が経ったの3時間〜4時間しかない。持久力が無さすぎるんだ!お前は!もっと時間を有効に使うべきだ!考え直せ!!」
娘は涙で何も言えなくなる。
そして、震える手で涙を拭いながら、ダッダッダッと2階の部屋へ駆け上がっていった。
何かが崩れていく音のように思えてならなかった。
それは、娘にとって努力した”順調だった日々”だったのかもしれない。
しかし、いずれ失敗すると見えている計画なんて壊した方がいいと思っている。
娘に私の真意が伝わればいいのだが。
冷静に考え直して、チーズのような穴だらけの計画を見直してほしい。
しかし、ガラス細工のように繊細な娘を叱りつけた。
もう壊れてしまったかもしれない。
誰も聞いていないニュースの声だけがリビングを包み込んだ。
私はテーブルに置きっぱなしの皿を流しへ持って行き、
静かに置いた。
翌日、仕事が帰ると、いつも食べ終わったらリビングでスマホを見てリラックスしている娘がいなかった。
娘の部屋に灯りがついている。
息子と同じように部屋に閉じこもって見せない作戦か。
いや、娘は勉強している……
そう、私は信じている。