ショートショート|半透明ハイキング|毎週ショートショートnote
男は山道を軽快に登っていた。今日は絶好のハイキング日和だ。
背中のリュックには水や食料がぎっしり詰まっているはずだが、不思議なほど重さを感じない。日頃から欠かさずこなしているトレーニングの成果だろうか。どれほど急な坂を登っても、まったく息が切れないし、汗ひとつかかない。山の冷たい空気がただただ心地よかった。
すれ違う登山者たちに「こんにちは」と声をかけるが、誰も返事をしてくれない。それどころか、こちらに目もくれず、みな一様に険しい顔をしてせっかくの景色も見ず、地面ばかりを見つめて歩いている。最近のハイカーは心に余裕がないな、と男は少し呆れた。
やがて、見晴らしの良い崖の上のポイントにたどり着いた。
そこには揃いの服を着た数人のグループが集まり、無線機を片手に眼下の谷底を覗き込んでいた。
「何かありましたか?」
男が尋ねても、やはり誰も振り向かない。仕方なく、男も彼らの横に並んで一緒になって谷底を覗き込んだ。
はるか下方の険しい岩場に、ひしゃげた人間が倒れていた。傍らには、男が今まさに背負っているものと全く同じリュックが転がっている。
男がふと自分の手を顔の前にかざすと、手のひら越しに向こう側の景色がうっすらと透けて見えた。
そうか、と男は納得した。
自分は知らぬ間に足を滑らせて命を落とし、幽霊になっていたのだ。どおりで足取りが軽く、誰にも声が届かないわけだ。男は深い悲哀に包まれた。
そのとき、無線機から焦燥に満ちた怒声が響いた。
『――本部、こちら捜索班!』
『容態はどうだ!』
『心拍、呼吸ともに極めて微弱! だが、まだ生きているぞ!』
(生きて……いる?)
死んだのではなかった。自分はまだ死んでいない。
薄れゆく生命の淵で、山頂を目指す執念のあまり、意識だけが抜け出してここを登ってきたのだ。
(早くあそこへ戻らなければ、本当に死んでしまう!)
男は青ざめ、慌てて谷底へ駆け戻ろうとした。
――だが、その足がふと止まった。
待てよ、と男は考えた。
いま肉体に戻ればどうなる?
待っているのは、全身を貫く激痛と複雑骨折だ。救助ヘリで運ばれ、長期の入院とリハビリが待っている。何より、せっかくの休日のハイキングはここで完全に台無しになってしまう。
それに比べて、いまのこの体はどうだ。
荷物の重さはゼロ。どれだけ急勾配を登っても息は上がらず、汗もかかない。疲労とも関節痛とも無縁。人生でこれほど完璧なハイキング向きのコンディションが、かつてあっただろうか。
男は顔を上げた。
山頂までは、あとわずか数百メートル。今の足取りなら、十五分もあれば十分に往復できる。
見上げれば吸い込まれそうな快晴で、絶好のハイキング日和なのだ。
谷底からは「持ちこたえろ! 死ぬな!」と、悲壮な叫び声が風に乗って聞こえてくる。
男は谷底の自分に向かって、心の中で親指を立てた。
『悪いがもう十五分だけ辛抱してくれ。山頂からの景色を堪能したら、すぐに戻るから』
男は口笛を吹きながら、雲ひとつない青空へ向かって、いっそう軽やかに坂を登り始めた。
(終)
こちらの企画に参加させていただきました。
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30分で書いて100スキ超えのショートショート作成術をまとめました。
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