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ショートショート|雨の日の傘|拝啓文芸部

    朝から、鉛色の空が切れ目なく雨を降らせていた。
    大柄な体躯を持つその男にとって、雨の日の外出は人一倍の憂鬱を伴うものだった。並みの傘では肩幅を覆いきれず、目的地に着く頃にはスーツの両肩がじっとりと濡れそぼってしまうからだ。
    男は駅前のコンビニエンスストアに立ち寄り、棚に並んだビニール傘の中から、もっとも親骨の長い七十センチの特大サイズを選び取った。千円札を崩して手に入れたそれは、骨組みが八本しっかり組まれ、張りのある透明なビニールが美しく弧を描く、文句のつけようのない新品だった。
    男は柄のプラスチックの先端に、自分の爪でキュッと小さな引っかき傷を刻みつけた。どこにでもあるビニール傘だ。取り違えを防ぐための、ささやかな自衛策だった。
    外へ出て傘を開くと、パッと心地よい緊張感を伴ってビニールが広がり、男の大きな体をすっぽりと覆った。雨粒が小気味よい音を立てて弾き飛ばされる。肩幅の広い男の体はどこも濡れず、靴先すら湿らない。男は満足し、水しぶきを上げる街へと歩き出した。

    最初の異変は、昼下がりに訪れた。
    商談の合間、男は喉の渇きを覚えて別のコンビニエンスストアへ立ち寄った。店先の傘立てに自慢の特大傘を差し込み、缶コーヒーを一本買ってレジを済ませる。時間にすれば、ほんの三分ほどだった。
    自動ドアを出て傘立てに目を落とした男は、小さく眉をひそめた。

    自分の傘がない。

    そこには数本のビニール傘が無造作に刺さっていたが、男の預けたはずの、あの広大で張り詰めた七十センチの新品は跡形もなく消え失せていた。代わりに残されていたのは、どこにでもある六十五センチの、ややくたびれた普通の傘だった。

    (誰かが間違えたのか……いや、確信犯か)

    男は周囲を見渡したが、足早に行き交う歩行者の中に、それらしき犯人の姿は見当たらない。雨足は強まっていた。舌打ちをしながらも、背に腹は代えられない男は、傘立てにぽつんと残されていたその六十五センチの傘を引き抜いた。

    開いてみると、やはり小さい。

    歩き出してすぐに、右肩に冷たい感触が走った。傘の裾からこぼれ落ちた雨水が、スーツの生地を確実に湿らせていく。男は大柄な体を縮こまらせ、不快感に口元を歪めた。
    その時、男の脳裏にふと、奇妙な感傷がよぎった。

    ――雨の日の傘へ。
    君は今、誰の頭上を覆っているのだろう。
    私から君を奪い去った者は、その広大で頼もしい守りにさぞ満足していることだろう。大柄な男だろうか、それとも小柄な男だろうか。もし小柄な者ならば、あの完璧な天幕の下で、雨粒ひとつ寄せ付けずに悠々と闊歩しているに違いない。

    我が子を手放したような奇妙な喪失感を覚えながら、男は冷えゆく肩を抱えて歩いた。

    二度目の異変は、雨宿りと時間潰しを兼ねて立ち寄った大型書店で起きた。
    濡れた傘を持ち込むことを禁じる貼り紙に従い、男は入り口の傘立てに先ほどの六十五センチの傘を差し込んだ。新刊の背表紙を眺めて二十分ほど過ごし、会計を終えて出入り口に戻った時、男は我が目を疑った。

    またしても、傘がないのだ。

    先ほどの六十五センチの傘は消え去り、傘立ての底に残されていたのは、五十センチほどの小ぶりな傘だった。しかも、骨組みの各所には赤茶色の錆が浮き、透明であるはずのビニールは黄色く濁り、石突きはすり減って欠けていた。

    「嘘だろう……」

    男は思わず声をもらした。二度続けて盗まれるなどという確率が、果たしてこの世にあるのだろうか。
    しかし雨は無慈悲に降り続いている。ずぶ濡れで歩くわけにはいかない男は、指先が触れるのも躊躇われるその薄汚れた傘を握りしめ、外へ出た。

    差してみると、惨めさは極まった。

    小さな傘は頭部をかろうじて覆うのが精一杯で、大柄な男の肩は両方とも完全に雨の直撃を受け、跳ね上がった泥水がズボンの裾を容赦なく濡らした。錆びた骨がギシギシと悲鳴を上げ、生温かい湿気が顔にまとわりつく。
    男は憤りを通り越し、底知れぬ気味悪さに襲われながら、またしてもあの傘に思いを馳せた。

    ――雨の日の傘へ。
    君の銀色に光る八本の骨は、今も折れずに美しく輝いているだろうか。
    こんな錆びた骨と比べものにならないほど、君の骨組みは強靭で、誇らしげだった。君を奪った者は、君の優秀さに感謝しているだろうか。それとも、私がこうして一段ずつ階段を転がり落ちていることなど露知らず、ただ都合の良い道具として使い潰しているのだろうか。

    男の体温は奪われ続け、歯の根が合わなくなってきた。
    暖を取らなければ風邪を引いてしまう。男は通り沿いに見つけた古い喫茶店へ駆け込んだ。
    今度こそ店内に持ち込もうと試みたが、ウェイトレスに「濡れた傘は傘立てにお願いします」と事務的に制止され、仕方なく店先の傘立てにその錆びた傘を押し込んだ。熱いコーヒーを喉に流し込み、震える指先を温めること三十分。
    店を出た男を待っていたのは、もはや笑うしかない現実だった。

    あの錆びた傘すら、消えていたのだ。

    傘立ての隅に打ち捨てられるように残されていたのは、親骨の一本が途中でボッキリとへし折れ、ビニールが十センチほど無惨に裂けた、ゴミ捨て場から拾ってきたような残骸だった。
    男は乾いた笑いを漏らした。
    開いて頭上にかざしてみたが、折れた骨がだらしなく垂れ下がり、裂け目からは冷たい雨水が滝のように顔面へ滴り落ちてくる。もはや傘としての機能を何ひとつ果たしていなかった。
    男はずぶ濡れになった。髪は額に張り付き、スーツは水を吸って鉛のように重く、靴の中では冷たい水がぐちゅぐちゅと音を立てていた。

    なぜだ。なぜ私の傘ばかりが、こうも都合よく、一段階ずつ正確に粗悪品へとすり替えられていくのか。
    新品の特大傘から、並の傘へ。並の傘から、錆びた小さな傘へ。そして、壊れた残骸へ。
    街を行き交う人々を、男は血走った目で見つめた。
    誰もが、そこそこまともな傘を差して歩いている。こんな骨の折れたゴミを掲げて、全身を濡らしながら震えている人間など、この広い街のどこを探しても男一人きりだった。

    歩道橋の階段を上がりながら、男は冷え切った頭の奥で、猛烈な思考を巡らせた。
    これは単なる不運ではない。
    これは、雨の日の街に張り巡らされた、巨大で冷酷なシステムの仕業なのだ。
    男は直感した。

    ――傘立てとは、人間が手元の不良債権を処分し、他人の優良資産を掠め取るための、巨大な市場なのだ。

    人間は雨の日に店を出る際、傘立てに並ぶ傘を無意識に品定めする。
    誰もが「自分より少しでも状態の良い傘」を平然と引き抜いていく。罪悪感を「似たような傘だったから間違えた」という言い訳で塗り潰しながら。
    新品の特大傘を持っていた者は、普通の傘を持つ者に奪われる。
    普通の傘を持っていた者は、錆びた傘を持つ者に奪われる。
    錆びた傘を持っていた者は、骨の折れた傘を持つ者に奪われる。
    そして、その連鎖の最下層に突き落とされた者が、最後に残った絶対のゴミを掴まされるのだ。

    男は激しい怒りに震えた。
    自分は朝、最強の資産を市場に投入してしまったがために、街中の傘泥棒たちに次々と富を吸い取られ、最後にはこの壊れた残骸という名の「ババ」を押し付けられたのだ。
    自分は街の人間たちを一段階ずつ救済してやるための、哀れな施し主でしかなかったというのか。

    (ふざけるな)

    男の心の中で、どす黒い憎悪が鎌首をもたげた。

    (奪われたのなら、奪い返せばいいのだ。それがこの街のルールなら、私もそのルールに従ってやるまでだ)

    男は駅前の商業ビルのエントランスへと向かった。そこには、屋根の下に数百本もの傘が林立する巨大な傘立てが置かれていた。
    男は濡れそぼった体で傘立てに歩み寄った。
    手元の壊れた残骸を傘立ての最も深い隙間にねじ込み、無数に並ぶ傘の森を見つめる。
    その時、男の目が一点に吸い寄せられた。
    傘立ての中央に、ひときわ大きく、威風堂々とそびえ立つ一本のビニール傘があった。
    親骨は太く、八本の骨が完璧な均整を保ち、張りのあるビニールには水滴が玉となって美しく転がっている。七十センチの、特大サイズ。
    男の心臓が跳ね上がった。
    男は吸い寄せられるように手を伸ばし、その傘の柄を掴んだ。
    手元のプラスチックの感触。指先に触れる、わずかな凹凸。
    男は息を呑んだ。
    そこには――爪でキュッと刻みつけられた、小さな引っかき傷があった。

    男の全身を電流が駆け抜けた。

    (私の傘だ!)

    間違いなく、今朝男が買ったあの傘だった。
    人から人へと奪われ、街を巡り巡って、この巨大な傘立てに流れ着いていたのだ。
    男の胸に、狂おしいほどの歓喜と全能感が満ち潮のように押し寄せてきた。
    私の傘へ。お前は帰ってきたのだ。数々の人間の手を経て、最後に再び、真の主人の元へと戻ってきたのだ。

    男は傘立てからその特大傘を勢いよく引き抜いた。
    外へ飛び出し、バッと開く。
    パアン、と心地よい緊張感を響かせて、広大な透明の天幕が頭上に広がった。雨粒が弾き飛ばされ、男の大きな体が完璧に守られる。冷え切った体に、久しぶりの完全な安堵が染み渡っていった。
    男は歪んだ笑みを浮かべ、傘の柄を愛おしそうに撫でた。

    「雨の日の傘へ。――もう離しはしないぞ」

    その時だった。

    「おい! 貴様、何をしている!」

    背後から、雷のような怒号が轟いた。
    男が驚いて振り返る間もなく、濡れた革靴の激しい足音が迫り、男の右腕が強い力でねじり上げられた。
    傘が手から滑り落ち、水たまりへと落ちる。
    見上げると、血相を変えた大柄な中年男が、鬼のような形相で男を組み伏せていた。

    「離せ! 何をするんだ!」

    男が叫ぶと、中年男は地面に落ちた七十センチの傘を指差し、唾を飛ばしながら怒鳴り散らした。

    「何をだと!? 白昼堂々、人の傘を盗みおって! 現行犯だぞ!」

    「盗んだんじゃない! これは私の傘だ! 今朝コンビニで買った、私の傘なんだ!」

    男が必死に叫ぶと、中年男は冷酷な嘲笑を浮かべ、男の顔の前に自らの警察手帳を突きつけた。非番の刑事だった。

    「寝言を言うな。その傘はな、今朝うちの娘が駅前のコンビニで買った新品だ。柄の先端を見てみろ。娘が『盗まれないように』と爪でつけた、小さな傷があるはずだ!」

    男の思考が、真っ白に凍りついた。
    爪の傷。
    今朝、コンビニで買った新品。
    大柄な男の体から、急速に血の気が引いていく。
    あのコンビニの傘立てには、最初から、同じ傘が何本も並んでいたのだ。そして誰もが、考えることは同じだったのだ。

    「署までご同行願おうか。ずぶ濡れの傘泥棒さん」
    冷たい手錠の金属音が、激しさを増す雨音に混じって、カチリと小さく響いた。

    (終)


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