
取り返しがつかないことは、していない。——はずだった。
その匂いを知ってしまった日、
もう戻れないと思った。
隣にいる。
触れていないのに、
触れてしまっている感覚がある。
ほんの30センチ。
その距離のせいなのか、
越えてはいけないはずの境界線が、
曖昧になっていく。
教えることは、いくらでもある。
目の前の仕事も、
次から次へと片付けていかなきゃいけない。
それなのに、
視線が、
ふと横に流れる。
資料を見ているはずなのに、
頭に入ってこない。
理由は、分かっている。
すぐ隣にいるからだ。
書類から目を離して、
問いかけると、
澄んだ眼差しが、
すぐ目の前にある。
その距離で、
匂いがする。
柔らかくて、
少しあたたかい、
落ち着く匂い。
それだけで、
思考が止まる。
彼には家庭がある。
子供もいる。
ここから先は、
越えてはいけない。
ちゃんと分かっている。
一度だけ、
二人で飲みに行った夜がある。
酔って、
そのまま眠ってしまった彼の横で、
気づいたら、
顔を近づけていた。
あと数センチで、
すべてが変わる距離。
触れてしまったのか、
触れていないのかも分からないまま、
何もなかったように、
元の距離に戻った。
誰もいないのをいいことに、
彼の席に残っていたものに、
ほんの一瞬だけ、
触れてしまったことがある。
すぐに手を離したのに、
指先に残る感覚だけが消えなかった。
自分でも、
少し引いた。
ここまで来ているのかと、
初めて思った。
会社に戻れば、
また隣の席だ。
同じ空間、
同じ距離、
同じ匂い。
何もなかったことにするには、
近すぎてうまくいかない。
理性は、
ちゃんと働いている。
それでも、
一瞬だけ、
揺らぐことがある。
その瞬間、
呼吸が浅くなる。
触れないままでいることの方が、
ずっと難しいと、
知ってしまった。
越えたら終わる。
でも、
越えなくても、
もう戻れない。
取り返しがつかないことは、
していない。
——はずだった。