短編小説『7月11日』|創作大賞2026
あらすじ
七月十日を、何度も繰り返している。高校生の堂本は、同じ朝、同じ通学路、同じ電車、同じ教室を意識してなぞることで、自分が周囲のようにNPC化してしまうことを防いでいた。そんなある日、いつも空席だった窓際の席に、君島澪が座っている。彼女もまた、ループに気づいたまま三百回以上の七月十日を生きていた。世界は変化を嫌い、昨日と違う行動を取る者を“修正”しようとする。二人は図書室で、世界が観測者によって維持されていることを知る。止まった日付の奥に隠されていたのは、誰かを失いたくないという願いだった。七月十一日へ進むため、彼らは忘れたくなかった誰かの不在と向き合う。
第一章 いつもどおりにしなければならない朝
200x年7月10日、AM7:00。
「早く起きないと遅刻よ……」
その声で目が覚める。
今日もいつもどおりだった。
いや、正しく言えば、今日も「いつもどおりにしなければならない日」だった。
布団から起き上がり、部屋を出る。
台所には冷凍食品が温まった匂いが漂っていた。朝から湿った空気が肌にまとわりつき、胃の奥が小さく拒絶する。
それでも、食べる。
食べなければならない。
昨日と同じように。
昨日の前の日と同じように。
冷凍チャーハンを無理やり胃に流し込み、歯を磨き、制服の襟を正して家を出る。
玄関のドアを閉める角度も、自転車にまたがる動作も、ペダルを踏み込むタイミングも、なるべく変えない。
変えてはいけない。
駅に向かう途中、自転車の横を電車が抜いていく。
俺はそれを気にしない。気にしないことにしている。
ゆるい坂を下ると、国道を白いセダンが駆け抜けていった。明らかにスピード違反だ。だが、それも今日だけのことではない。
その車は、毎日同じ速度で、同じ角度から現れ、同じように国道の向こうへ消える。
俺は駐輪場に自転車を停め、陸橋を渡る。
ホームには、向こう側から来た列車が停まっている。
すれ違い列車を待つ間、ドアの前に立つ位置も昨日と同じだ。
「ドア締まります」
音が鳴る。
ドアが閉まる。
列車が動き出す。
向かう先は、私立高校。
十五分ほどの列車移動。その間に耳へ流れ込んでくる情報も、もう聞き飽きていた。
「この間、五万もらってさ、これ買ったんだ」
「えぇー!? やばい、超高いやつじゃん」
今日も、派手な女子高生たちの自慢話か、と心の中で吐き捨てる。
金とブランド物の話。
聞きたくもない笑い声。
昨日と同じ声の高さ。
昨日と同じ語尾。
昨日と同じタイミングで揺れる、鞄の金具。
これで何度目かは、もう数えるのをやめた。
乗る場所を変えれば、聞かずに済むのかもしれない。
別の車両へ移れば、このくだらない会話から逃げられるのかもしれない。
だが、俺は動かない。
動けない、ではない。
動かないと決めている。
だから、窓の外を見る。
窓の外の国道も、昨日と同じ顔をしていた。
次の駅では、痩せぎす眼鏡君が短距離走者のような走りで階段を駆け下り、車内の注目の的になる。
息を切らし、ギリギリで乗り込み、眼鏡を押し上げる。
その仕草まで、俺は知っている。
そうこうしているうちに目的地へ着く。
ここで派手な女子高生たちとはお別れだ。
半女子高の連中、学ランたち、私服組が一斉に下りる。
俺も流れに乗ってホームへ出る。
湿った風が肌に触れる。
駅前のロータリーには、買い食い禁止の校則を破るためにコンビニ袋をわざと隠す奴がいる。
自転車の二人乗りで何かを誤魔化すように笑う奴らがいる。
校門までの道で、毎朝同じタイミングで靴紐を結び直す男子がいる。
そのすべてが、昨日と同じだった。
同じ朝。
同じ道。
同じ会話。
同じ呼吸。
だが、同じでなければならないのは、俺だけではなかった。
この世界そのものが、同じ日を繰り返している。
最初に気づいたときは、気のせいだと思った。
白いセダン。
電車内の会話。
痩せぎす眼鏡君の走るタイミング。
教室の黒板に書かれた日付。
すべてが前日と同じだった。
二日目は偶然だと思った。
三日目は悪夢だと思った。
五日目で、俺は数えるのをやめた。
そして気づいた。
周りの人間は、すでにほとんど「人間」ではなくなっている。
声は出す。
笑いもする。
授業も受ける。
昼休みに弁当を食べる。
けれど、そこに意志がない。
感情の波がない。
毎日同じ反応を繰り返すだけの、薄い人形。
ゲームの中のNPCみたいだ、と最初は思った。
だが、そう思った瞬間に、怖くなった。
俺も同じになるかもしれない。
同じ日を繰り返し、同じ役割を演じ続け、やがて「俺が演じている」という自覚さえ消えてしまうかもしれない。
実際、一度だけ外れようとしたことがある。
この世界の異変に気づいてしまった直後だった。
俺は、登校中の他生徒に話しかけようとした。
相手は、毎朝同じ角で友人を待っている男子だった。
名前は知らない。だが、顔は何度も見ていた。
今日も彼は、昨日と同じようにスマホを見て、昨日と同じように顔を上げ、昨日と同じように「おはよう」と友人へ言うはずだった。
その前に、俺が声をかければ何かが変わる。
そう思った。
「なあ」
と言おうとした。
だが、声は出なかった。
喉が塞がったわけではない。
息が詰まったわけでもない。
口を開くという命令が、どこかで握りつぶされた。
代わりに、体が勝手に息を吸った。
勝手に吐いた。
勝手に視線を前へ戻した。
その瞬間、全身の血が冷たくなった。
金縛りとは違う。
金縛りは、動かしたいのに動かない。
けれど、そのときの俺は、動かしたくないのに動いていた。
自分の意志が体の中に残っている。
怖い、やめろ、止まれ、そう叫んでいる。
それなのに、足は勝手に前へ出る。
右足。
左足。
右足。
左足。
俺はその男子の横を通り過ぎた。
彼は俺の存在に気づかなかった。
いや、気づかないように世界が処理したのだと思う。
俺は歩かされた。
通学路を。
横断歩道を。
校門へ続くゆるい坂を。
視界の端で、景色だけが流れていく。
自分の体の中に閉じ込められたまま、俺はただ運ばれていた。
校門をくぐった瞬間、ふっと拘束が解けた。
自分の指が動いた。
喉が鳴った。
膝が笑いそうになった。
だが、立ち止まることはできなかった。
周囲の生徒たちが、昨日と同じ速度で歩いている。
昨日と同じ会話をしている。
昨日と同じ顔で笑っている。
その流れから外れたら、また何かが俺を握る。
そう思った。
だから俺は、そのまま教室へ向かった。
あれは誰かと共有するには、あまりに奇妙で、あまりに恐ろしい体験だった。
それから俺は、できるだけ世界と同調しているように振る舞った。
昨日と同じ朝食を食べる。
昨日と同じ道を通る。
昨日と同じ車両に乗る。
昨日と同じ席に座る。
昨日と同じタイミングで教科書を開く。
毎日が同じ繰り返しで切り取られたコマ割りだった。
俺はその一コマ一コマを、何度も、何度もなぞった。
だが、それでも安全ではなかった。
ある日、俺はまた乗っ取られた。
その日は、いつもより少し疲れていたのだと思う。
朝食を食べ、歯を磨き、家を出て、電車に乗る。
そこまでは覚えている。
派手な女子高生たちの声が聞こえた。
痩せぎす眼鏡君が階段を駆け下りてきた。
窓の外では、国道の車列が昨日と同じ速度で流れていた。
そこまでは覚えている。
だが、次に意識が戻ったとき、俺は教室にいた。
放課後だった。
机の上には、閉じられた教科書が重なっていた。
黒板には、掃除当番の名前が書かれていた。
窓の外では、部活動の掛け声が遠く響いていた。
昼休みの記憶がなかった。
授業を受けた記憶もなかった。
誰かと話した記憶もなかった。
なのに、ノートには俺の字で板書が写されていた。
弁当箱は空になっていた。
鞄の中には、昨日と同じ順番で教科書が詰め直されていた。
俺は、自分の一日を失っていた。
そのとき鳴ったチャイムが、ひどく冷たく聞こえた。
今から自分で動き出せ。
そう命令されたように聞こえた。
試されているのかと思った。
この先を完全に演じなければ、次はもう意識が戻らないのか。
今度こそ、俺は向こう側へ行ってしまうのか。
恐怖で喉が乾いた。
だが、俺は下校した。
昨日と同じように。
昨日の前の日と同じように。
家に帰ってから、考えた。
何が良くて、何が駄目なのか。
どうすれば意識を保てるのか。
何をしたら乗っ取られるのか。
ノートに書き留めようともした。
だが、朝になればすべてが消えている。
机の上に置いたノートは、翌朝には昨日と同じ位置の参考書に戻っていた。
シャーペンで手の甲に書いた文字も消えていた。
スマホのメモも、撮ったはずの写真も、なかったことにされていた。
世界は、記録を許さない。
残せるものは、俺の頭の中だけだった。
なら、考えるしかない。
なぜ俺は、他の生徒と違う。
なぜ俺は、まだ「おかしい」と思える。
なぜ、自分の足で歩ける日と、勝手に歩かされる日がある。
あの放課後まで飛んだ日は、何が違った。
俺は思い出した。
あの日、俺は何も考えていなかった。
昨日と同じ朝食を、ただ食べた。
昨日と同じ道を、ただ歩いた。
昨日と同じ車両に、ただ乗った。
怖さに疲れて、考えることをやめていた。
同じことをしていたのではない。
同じことをさせられていた。
その違いに気づいたとき、背筋が冷えた。
世界から外れようとすれば、体を握られる。
だが、世界に流されきれば、意識を薄められる。
どちらも駄目だ。
必要なのは、同じことをすることではなかった。
同じことを、自分の意志で選び直すことだった。
朝食を食べる。
ただし、食べさせられるのではなく、俺が食べる。
ドアを閉める。
ただし、閉めさせられるのではなく、俺が閉める。
自転車に乗る。
電車に乗る。
教室へ向かう。
昨日と同じ行動をしながら、その一つ一つに「俺がやっている」と印をつける。
演じさせられるのではなく、演じていると自覚し続ける。
それだけが、俺を「こちら側」に留めている気がした。
だから俺は決めた。
昨日と同じことをする。
同じ道を通り、同じ席に座り、同じタイミングで教科書を開く。
同じ日常を、意識して繰り返す。
無意識に流されるのではなく、自分の意志で反復する。
それだけが、俺を「俺」のまま保つ方法だった。
通学路の最後の曲がり角に差しかかったとき、視界の端に女子生徒が見えた。
毎朝、そこにいる気がする。
いや、毎朝いたのかもしれない。
けれど、はっきり見ようとすると、いつも輪郭が薄くなる。
肩までの髪。
夏服の白。
こちらを見ているようで、見ていない横顔。
名前は、知っていたはずだった。
同じ学年だと思う。
もしかすると、同じクラスかもしれない。
廊下ですれ違ったことも、委員会か何かで名前を聞いたことも、あったような気がする。
だが、思い出そうとすると、そこだけ白く滲む。
彼女だけが、不思議と浮いて見えた。
周囲の生徒たちが、同じ流れの中を同じ速度で進んでいく中で、彼女だけがほんの少しだけ遅れている。
あるいは、世界のほうが彼女を置き去りにしようとしている。
そんなふうに見えた。
話しかければ、何かが分かるかもしれない。
そう思った瞬間、喉の奥がきゅっと縮んだ。
あの感覚が蘇る。
声が出ない。
体が勝手に動く。
自分の中に閉じ込められたまま、校門まで運ばれる。
ここで彼女に話しかけたら、きっと俺は――。
「おはよう」
横から声がした。
昨日と同じタイミング。
昨日と同じ声。
昨日と同じ相手。
俺は昨日と同じように、少しだけ顎を動かす。
「おう」
言葉を返す。
ただし、返させられたのではない。
俺が、返した。
校門をくぐり、昇降口へ向かう。
教室へ入ると、担任はもう来ていた。
黒板には白いチョークで日付が書かれている。
200x年7月10日。
昨日も見た。
一昨日も見た。
何度も見た。
俺は昨日と同じ角度で椅子を引き、昨日と同じ速度で鞄を下ろす。
いつもと同じように席へ着く。
担任が出席を取り始める。
名前が呼ばれる。
返事が返る。
また名前が呼ばれる。
また返事が返る。
その流れも、昨日と同じだった。
だが、途中でひとつだけ、妙な空白があった。
担任の視線が出席簿の上を滑った。
チョークの粉がついた指が、紙の端を軽く押さえる。
そこには、誰かの名前があるはずだった。
けれど、担任はその名前を呼ばなかった。
教室の前方で、一人の女子が髪を結び直していた。
細い指が、ほどけかけた髪をまとめる。
その仕草だけが、周囲の反復からほんの少し遅れているように見えた。
彼女は何も言わない。
ただ、少しだけ悲しげな顔をしていた。
名前は、知っているはずだった。
同じクラスなのか。
隣のクラスなのか。
委員会で見たのか。
駅で見かけたのか。
思い出そうとした瞬間、頭の中に白いもやがかかった。
休み時間になったら、机の名前でも確認してみよう。
そう思った。
思ったはずだった。
次の瞬間、俺は購買のパンのことを考えていた。
あれ。
俺は、今、何を思い出そうとしていた?
まあいい。
昼休みは早めに行かないと、焼きそばパンが売り切れる。
ぼんやりした違和感を抱えたまま、俺は視線を窓際へ移した。
そのはずだった。
窓際、最後尾の席。
いつも空席だったそこに、誰かが座っていた。
小柄な女子だった。
同じ学年の君島澪。
背が低く、ほとんど喋らず、隣のクラスでも影が薄いと聞いたことがある。
見たことはある。
見たことはあるはずだ。
だが、この何度も繰り返された7月10日の中で、彼女の席はずっと空いていた気がした。
彼女がこちらを見た。
目が合う。
その瞬間、息が止まった。
その目だけが、生きていた。
第二章 三百十二回目の君島澪
放課後、下駄箱の前で君島は俺を待っていた。
周囲の生徒たちは笑いながら歩いている。
同じ歩幅。
同じ速度。
同じ呼吸。
誰もこちらを見ない。
君島だけが、俺を見ていた。
「気づいてるでしょ」
乾いた声だった。
だが、それは確かに誰かの意志を持った声だった。
録音された台詞ではない。昨日と同じ場所に貼りついた音でもない。
今、この瞬間に、君島澪という人間が選んで発した声だった。
俺は喉の奥が詰まるのを感じながら答える。
「……お前も、か」
君島は小さくうなずいた。
「私は三百十二回目」
「三百十二……?」
「堂本くんは、二十七回目。たぶん」
自分の名字を呼ばれて、妙な感覚がした。
この世界では、名前さえ少しずつ記号になっていく。
出席番号。
座席表。
提出物の欄。
誰かが呼ぶ声も、昨日と同じならただの再生音でしかない。
けれど、君島の「堂本くん」は違った。
俺を見て、俺に向けて、今ここで発せられた音だった。
それだけで、胸の奥に少しだけ血が戻る気がした。
「場所、変えよう」
君島はそう言って歩き出した。
向かったのは、校舎裏の渡り廊下だった。
校舎と体育館をつなぐ細い通路。
いつも風が強く、放課後には人の気配が薄れる場所。
蝉の声が近くで鳴り、遠くで反射している。
「ここなら、少しは聞かれない」
君島は鉄の柵に触れながら言った。
「少しは?」
「完全に聞かれない場所なんてないよ。この世界そのものが耳みたいなものだから」
冗談のように言ったのに、君島の目は笑っていなかった。
俺は周囲を見た。
グラウンドでは、運動部が昨日と同じ掛け声を上げている。
体育館からは、同じタイミングでボールの跳ねる音がする。
遠くの廊下では、誰かが同じ笑い声を上げた。
全部、同じだ。
だが、そのすべてがこちらを聞いているのだとしたら。
「なんで、お前は気づいてる?」
俺が訊くと、君島は少し空を見上げた。
「気づいた、というより、忘れられなかった」
「忘れられない?」
「うん。私は一回、死んでるから」
淡々とした声だった。
重さを持たない言い方だったからこそ、胸の奥が冷えた。
「二百四回目。いつもと違うことをしたの。教室から出るタイミングを、数秒だけ遅らせた。それだけで階段から落ちて、頭を打った」
「それで……?」
「目を開けたら、また7月10日だった」
君島は、三百十二回分の夏を背負った目で俺を見る。
「この世界は、変化を嫌う。昨日と違う行動をすると、修正しようとする」
「修正……」
「堂本くんも、されたことあるでしょ」
あの感覚が蘇った。
声が出ない。
体が勝手に動く。
自分の中に閉じ込められたまま、校門まで運ばれる。
俺は答えなかった。
けれど、君島はそれで十分だというようにうなずいた。
「最初は、私も悪い夢だと思った」
君島の声が、ほんの少しだけ遠くなる。
「ここは、私がよく知っている場所だった。学校も、教室も、廊下も、人の声も、夏の空気の匂いまで同じ。だから余計に、夢じゃないって認めるのが怖かった」
君島は柵に置いた指先を見た。
「でも、決定的に違うことがあった」
「新しいことが起きない」
俺が言うと、君島は小さく笑った。
「そう。全部、ループ再生みたいに同じ。朝も、授業も、放課後も。誰かが笑うタイミングまで全部」
そして、少し黙った。
「私には、親友がいた」
その言葉だけ、少しだけ温度が違った。
「別に、その子がいなくなったわけじゃない。今もすぐそばにいる。毎朝同じ教室にいて、同じ友達と話して、同じように笑ってる」
「なら……」
「でも、もう彼女は彼女じゃない」
君島は、はっきりと言った。
「声は同じ。顔も同じ。癖も同じ。だけど、そこにいるのは、私が知っていた子じゃない。ただ、彼女の形をした一日分の役割」
蝉の声が、急に近くなった気がした。
「ある日、その子が私を訪ねてきたの」
「訪ねてきた?」
「隣のクラスから。放課後、私の教室まで」
君島は目を細める。
「このループの中で、一度だってそんなことはなかった。だから私は思った。ああ、この子は周りと違うんだって。まだ起きてるんだって」
「それで?」
「何もできなかった」
君島の声が、初めて少し揺れた。
「怖かったの。違う行動をしたら、世界が私をどうするのか分からなかったから。彼女はたぶん、必死に何かを訴えようとしていた。私を見て、口を動かして、手を伸ばして」
君島は、自分の右手を見た。
「でも私は、その手を取れなかった」
俺は何も言えなかった。
「次の7月10日、その子はもう来なかった。いつもの席に座って、いつもの友達と、いつもの話をしていた。声も、顔も、仕草も、全部同じだった」
「戻った、のか」
「ううん」
君島は首を振った。
「戻されたんだと思う」
風が渡り廊下を抜けた。
湿った夏の匂いがする。
「それから私は、自分のクラスの席に戻れなくなった」
「どういう意味だ?」
「今、私が座っている席。あれ、本当はその子の席なの」
俺は朝の教室を思い出した。
窓際、最後尾。
いつも空席だったはずの場所。
そこに座っていた君島。
「その子の席に座っていると、不思議と世界から少しだけ孤立できるの」
君島は言った。
「特別ルールみたいなものかな。私が私の役を演じなくても許される感じ。見飽きた映画を、映写室の隅から眺めているみたいな感じ」
「だから、いつも空席だったのか」
「うん。私はそこにいた。でも、たぶん堂本くんには見えていなかった。世界が、私を席ごと背景にしていたんだと思う」
君島は淡々と言う。
だが、その淡々とした声の下に、どれだけの時間が沈んでいるのか、俺には想像できなかった。
三百十二回。
同じ朝。
同じ授業。
同じ放課後。
その中で、親友だったもののすぐそばにいながら、もうその子ではないものを見続ける。
俺なら、耐えられるだろうか。
「最初の頃は、他にも探したよ」
君島は続けた。
「私みたいに気づいている人がいるかもしれないって。話しかけた。手紙も渡そうとした。机に印をつけた。階段の段数を変えようとした。チャイムより先に教室を出ようともした」
「結果は?」
「大体、修正された」
君島の指が、柵の上をなぞる。
「話しかけようとしたら声が出ない。手紙は渡す前に白紙になる。机の印は朝には消える。階段は、数え直すたびに数が変わる」
「……悪趣味だな」
「悪意があるのかどうかも、分からない」
君島は少しだけ苦笑した。
「ただ、世界は同じでいたいんだと思う。昨日と同じ形を保つためなら、私たちの意志くらい簡単に削る」
「それで、諦めたのか」
君島はすぐには答えなかった。
遠くで、野球部の掛け声が聞こえる。
昨日と同じ声。
昨日と同じ間隔。
「諦めた、というより、怖くなった」
君島は言った。
「ちゃんとした相手に話しかけないと、私が私でなくなる。手を伸ばす相手を間違えたら、その瞬間に世界が私の中まで入ってくる気がした」
その言い方は、俺にも分かった。
あの乗っ取りの感覚。
意志だけが残され、体だけが勝手に動く恐怖。
一度味わえば、忘れられるわけがない。
「だから私は、観察することにした」
「観察?」
「うん。ちょっとしたバードウォッチングみたいなもの」
初めて、君島の声に少しだけ人間らしい冗談が混じった。
「早く登校して、あの席から校門を見る。誰が何時何分に来るか。誰が誰に話しかけるか。誰がどの角度で笑うか。誰が毎朝同じタイミングで遅刻しかけるか」
「暇つぶしか」
「生存戦略だよ」
君島は真面目に言った。
「飽きたら終わり。全部同じだって思って、見ることをやめたら、私もあっち側に行く。だから私は、同じ世界の中から違いを探した」
「それで、俺を見つけた?」
君島はうなずいた。
「最初は、気のせいだと思った」
彼女は視線を落とす。
「もう一人、ずっと気になっている子がいる」
「もう一人?」
「校門から見える日もある。昼休みに屋上へ出ている日もある。フェンスに背を預けて、空だけを見てるの」
「屋上?」
「うん。周りの誰も、その子を気にしない。そこにいるのに、背景みたいに扱われてる。私の席と少し似てるけど、もっと危うい」
「危うい?」
「輪郭が薄いの。見ようとすると、見えなくなる。名前を思い出そうとすると、そこだけ抜ける」
君島はそこで、俺を見た。
「堂本くんも、見たことあるでしょ。通学路の最後の曲がり角にいる、ぼんやりした女子生徒」
心臓が跳ねた。
「お前も、見えてるのか」
「見えてる。でも、名前は分からない。あの子は、世界から半分だけ消されてる」
「半分だけ……」
「たぶん、まだ完全には向こう側じゃない。でも、自分でも自分を保てていない」
俺は今朝の横顔を思い出した。
白く滲む輪郭。
こちらを見ているようで、見ていない目。
名前を思い出そうとすると、そこだけ抜け落ちる感覚。
「その子を目印にして、私は毎朝校門を見てた。そろそろ堂本くんが来る時間だって」
「俺は鳥かよ」
「似たようなものだよ。毎日同じルートで来るし」
「ひどいな」
「でも、今日は違った」
君島は俺を見た。
「堂本くん、今朝、少しだけ返事の間が違った。いつもの相手に『おう』って返す前、ほんの少しだけ自分で選んでる顔をした」
そんなものまで見られていたのか。
俺は少し気味が悪くなった。
だが同時に、奇妙な安心もあった。
誰かが見ていた。
俺がまだ俺として踏みとどまっていることを、誰かが見つけていた。
「その前の日も見たよ。電車を降りるとき、堂本くんだけ一瞬だけ流れに逆らいかけた。すぐ戻したけど」
「……よく見てるな」
「三百回以上同じ映画を見てれば、コマ落ちくらい分かるよ」
君島はそう言って、ほんの少しだけ笑った。
その笑みは、三百回以上の孤独がほんの少しほどけたように見えた。
「それで、尾行したのか」
「人聞き悪いな。観察の延長」
「同じだろ」
「違うよ。たぶん」
君島は真顔で言った。
その普通さが、少しおかしかった。
けれど、笑いかけた瞬間、空気が変わった。
蝉の声が止まった。
風も途切れた。
まるで世界が一瞬だけ息を止めたようだった。
渡り廊下の向こうから、靴音が聞こえる。
一定のリズム。
けれど、完全に一定ではない。
右足は大股で、左足は妙に内側へ入る。
肩は男子のように揺れているのに、首の傾きだけが誰か別の人間のものだった。
複数の歩き方を雑に混ぜ合わせたような、不自然な足取り。
現れたのは、クラスメイトの佐伯だった。
普段は大声で笑う、騒がしい男子。
いつも誰かとふざけていて、廊下の真ん中を占領するように歩く奴だ。
だが、今の佐伯は、佐伯の形をした何かだった。
口元だけが笑っている。
目は笑っていない。
能面に、無理やり笑いの線だけを描き足したような表情だった。
「……来た」
君島が小さく言う。
佐伯は俺たちの前で立ち止まった。
「あれぇ?」
佐伯の声だった。
けれど、少しだけ高い。
少しだけ低い。
一音ごとに、違う誰かの声が混じる。
「お前らって、そんなに仲良かった感じぃ? ウケる」
笑っている。
だが、笑い声が喉の奥で途切れない。
「君島、ずっと休んでたのに、登校してそうそう何してんの?」
ずっと休んでいた。
その言葉に、君島の肩がわずかに揺れた。
世界の中で、君島はそう処理されているのだ。
いなかったこと。
休んでいたこと。
背景に押し込まれていたこと。
その帳尻を、佐伯の口が勝手に合わせている。
「あーあ、俺たち親友だと思ってたのに、先越されたぜ。ったく」
佐伯は一人で喋り続ける。
こちらが返事を差し込む隙はない。
言葉と言葉の間が、会話のために空いていない。
ただ、世界が用意した台詞を、佐伯の口から流し込んでいるだけだった。
俺は何も言わなかった。
何か不用意に返せば、その一言を足場にして、世界がこちらへ踏み込んでくる。
そんな気がした。
佐伯の背後、渡り廊下の向こうで、数人の生徒がこちらを見ていた。
いや、見ているというより、顔の向きだけがこちらへ揃っていた。
目の焦点は合っていない。
けれど、視線の束だけが、俺たちの皮膚に貼りつく。
「沈黙、確認」
佐伯の口から、急に別の言葉が落ちた。
先ほどまでの軽薄な調子が、糸を切られたように消える。
「接触、確認」
俺の背中を汗が伝った。
君島が、ほとんど唇を動かさずに囁く。
「いつも通りに返して」
いつも通り。
佐伯に対する、昨日までの俺ならどう返す。
俺は喉を震わせながら、できるだけ面倒くさそうな声を作った。
「……何がだよ。別に、普通だろ」
佐伯の目が、ゆっくり瞬きをした。
ただの瞬きなのに、機械の再起動みたいに見えた。
「普通」
佐伯は俺の言葉を繰り返した。
「普通、確認」
背後の生徒たちが、同じタイミングで顔を戻した。
遠くで、止まっていた蝉の声が一匹だけ鳴き直す。
佐伯の口元に、また軽い笑みが戻った。
「ま、いいけどさ。ほどほどにしとけよー」
そう言って、佐伯は踵を返した。
不自然な歩き方のまま、元のグループのところへ戻っていく。
奇妙なことに、佐伯がいなくなっていた間も、そのグループは昨日と同じ会話を続けていた。
佐伯が途中で抜けたことなど、誰も気にしていない。
戻ってきた佐伯も、最初からそこにいたような顔で笑い声を足した。
会話の輪は、何事もなかったように閉じる。
明らかにおかしい。
だが、この世界の中では、それが正しいことにされている。
俺は膝が抜けそうになるのをこらえた。
「今の、何だよ」
「世界側の介入」
君島はそう言った。
「周りの人たちはNPCになったんじゃない。世界自身が、あの子たちを動かしてるだけ」
「俺たちが話したからか」
「たぶん」
君島の顔は青かった。
それでも、目だけは逸らさなかった。
「私と堂本くんが接触したことへの警告。まだ軽い方だと思う」
「軽い……?」
「本気で修正するなら、私たちはもうここにいない」
喉が乾く。
世界は、俺たちを見ている。
そう理解した瞬間、恐怖より先に、腹の底から別の感情が湧いた。
このままでは終われない。
昨日と同じ今日。
明日も同じ今日。
自分の形が溶けていくまで繰り返すだけの世界。
そんなものを、続けられるわけがない。
「……終わらせたい」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
君島は俺を見る。
「本当に?」
「怖いけど、このまま消える方がもっと怖い」
君島は、ほんの少しだけ笑った。
「じゃあ、堂本くんは終わらせる側の人だ」
その笑みは、三百十二回分の孤独が、ほんの少しだけほどけたように見えた。
「図書室へ行こう」
「図書室?」
「鍵がある。世界を知るための鍵」
君島は歩き出した。
今度は、俺も自分の足でその後を追った。
第三章 観測者の本
放課後の図書室は、いつも涼しい。
その涼しさが、俺は少し苦手だった。
廊下に残る夏の湿気も、教室にこもった人いきれも、ここでは急に薄くなる。
まるで図書室だけが、学校の中で別の季節を閉じ込めているみたいだった。
扉を開けると、耳の奥で小さく音が鳴った。
きん、と金属を爪で弾いたような音。
俺は思わず立ち止まる。
「今の、聞こえたか?」
「うん」
君島は短く答えた。
図書室の中には数人の生徒がいた。
みんな本を読んでいる。
いや、読んでいるのではない。
ページをめくっているだけだった。
目は文字を追っていない。
指は紙を触っているのに、その本と繋がっていない。
昨日と同じ姿勢で椅子に座り、昨日と同じ角度で首を傾け、昨日と同じ間隔でページをめくる。
一人の女子生徒が、右手でページをめくった。
三秒後、奥の男子生徒も同じようにページをめくった。
さらに三秒後、窓際の生徒も。
動きが波のように伝わっていく。
ぞっとした。
「こっち」
君島は声を落として、一番奥の棚へ向かった。
百科事典、歴史書、人文書。
普通の高校生なら、まず近づかない棚だった。
背表紙には、古い金文字で難しそうな題名が並んでいる。
その中で一冊だけ、周囲から浮いている本があった。
深い紺色の表紙。
表面は布張りのようで、長い間誰にも触れられていなかったはずなのに、埃は積もっていなかった。
タイトルは、
『世界構築論』
君島がそれを抜き取る。
「前から知ってたのか?」
「見つけたのは、百八十回目くらい」
「だいぶ前じゃねえか」
「読めなかったの」
君島はそう言って、近くの机に本を置いた。
「読めない?」
「正確に言うと、読めるところと読めないところがある。読む人によって、見える文字も違う」
君島が表紙を開く。
最初のページには、ただ一文だけ書かれていた。
世界は、観測者によって維持される。
俺はその一文を読んだ。
声には出さなかった。
だが、頭の内側でその言葉が勝手に反響した。
世界。
観測者。
維持。
「君島にも、そう見えてるのか?」
「私には少し違う」
「違う?」
君島はページを覗き込み、ゆっくり読んだ。
「世界は、観測されることで輪郭を保つ」
俺は眉をひそめた。
「同じ意味っぽいけど、文は違うな」
「でしょ」
君島は本をめくる。
次のページには、黒いインクの線が何本も走っていた。
文字のようにも見える。
けれど、崩れた記号のようにも見える。
読める部分だけを追う。
観測者が不在となるとき、世界は自己保存のため――
そこから先は、黒く滲んでいた。
「ここ、読めるか?」
「私にはこう見える」
君島は指で行をなぞる。
「観測者が失われるとき、世界は同じ時刻へ帰ろうとする」
「帰ろうとする……」
「堂本くんには?」
「自己保存のため、ってところまでしか読めない」
二人で同じページを見ているはずなのに、違う文章が見えている。
読める文字。
読めない文字。
そして、見え方が違う文字。
三種類の情報が、同じ本の上で重なっていた。
これでは、俺が読んだ内容と君島が解読した内容で意味がずれる。
手掛かりにはなる。
だが、答えには届かない。
「この本、壊れてるのか?」
「本が壊れてるんじゃないと思う」
君島は言った。
「私たちの見方が、足りないんだと思う」
「見方?」
「観測者、って書いてあるでしょ」
君島は最初のページを指す。
「この本は、たぶん観測者ごとに違う面を見せてる。一人では全部読めない。二人でも、まだ欠けてる」
「つまり、もう一人必要ってことか」
その言葉を口にした瞬間、図書室の空気が少しだけ重くなった気がした。
俺は思わず周囲を見る。
本を読んでいる生徒たちは、変わらずページをめくっている。
けれど、さっきより音が硬い。
紙ではなく、薄い板をめくっているような音だった。
「もう一人って、誰だよ」
俺は声を落とした。
「君島が俺を見つけるのに、一年近くかかったんだろ。そんなに長く、俺たちが正気を保てるか分からない」
「分かってる」
君島の声も硬かった。
「だから、考えるしかない」
考える。
その言葉が、ひどく頼りなく感じた。
この世界では、考えたことを記録に残せない。
ノートも、メモも、写真も消される。
残せるものは頭の中だけだ。
だが、頭の中すらいつ削られるか分からない。
「世界に飲み込まれていない、意識を持った人間……」
俺は呟いた。
そして、今朝の通学路を思い出した。
白く滲む輪郭。
名前を思い出せない女子生徒。
見ようとすると、見えなくなる横顔。
「君島」
「なに?」
「前に、バードウォッチングとか言ってただろ。俺を見つけた方法」
「ええ。校舎から生徒を観察し続けて、偶然あなたを見つけた」
「それが、この本の読解と関係あるかもしれない」
君島は怪訝そうに俺を見る。
「どういうこと?」
「この本には読めない字がある。俺と君島で見えてる内容も違う。なら、もう一人、別の見え方をするやつが必要なんじゃないか?」
「それは分かる。でも、誰か心当たりでもあるの?」
「俺には……ちょっと気になる子がいる」
君島の眉が、ぴくりと動いた。
「え?」
「いや、その反応は何だよ」
「まさか告白?」
「違うって」
「ごめんなさい。堂本くんをそういう目で見れない」
「勝手に振るな」
こんな状況なのに、声が少しだけ普通になった。
その普通さに、俺は少し救われた。
君島も、ほんのわずかに口元を緩める。
「で、その気になる子って?」
「朝にいるんだよ。通学路の最後の曲がり角に。ぼやっとした、何だか不思議な感じの女子」
「ぼやっとした女子って、幽霊か何か?」
「ちゃんと脚はあった。たぶん」
「たぶんって何よ」
君島は呆れたように言ったが、目は真剣だった。
「でも、朝の子っていうなら、普通に接触できるのは次の7月10日になるわね」
「明日、って言いたくないな」
「私たちに明日はまだないものね」
その言葉は軽くなかった。
7月10日が何度も来る。
だが、7月11日は来ない。
それを「明日」と呼んでいいのか、もう俺には分からなかった。
「それに、堂本くんは通常通りの行動しかできない」
君島は言った。
「通学路で急にその子に話しかけようとしたら、たぶん修正される」
「だから君島が動く」
「私が?」
「お前は、その席にいると世界から少し孤立できるんだろ。なら、俺より自由に観察できる」
君島はしばらく黙った。
「決まりだな」
俺は言った。
「次の7月10日、その子に接触してみてくれ」
「簡単に言うね」
「簡単じゃないのは分かってる」
それでも、そのときの俺たちは、まだ当然のように思っていた。
次の7月10日が来る、と。
明日ではない。
けれど、また同じ今日が来る。
その繰り返しの中で、今度こそ彼女を探せばいい。
俺たちは、世界がもう一度だけ猶予をくれると思っていた。
「もし、あの子がすでに向こう側だったら?」
「そのときは、別の方法を考える」
「もし、私が修正されたら?」
答えられなかった。
君島は少しだけ笑った。
「今のは意地悪だったね。ごめん」
「いや」
「でも、そういうことを考えないといけないところまで来てる」
君島は再び本へ視線を落とした。
「この本を調べ始めてから、変わったことがあるの」
「変わったこと?」
「空間の圧が高まってる」
言われて、俺も気づいた。
図書室の空気が、さっきより重い。
息苦しいわけではない。
酸素が足りないわけでもない。
ただ、空気そのものが固くなっている。
何か違うことをしようとすれば、見えない壁にぶつかるような感覚。
動作の先回りをされて、選択肢の幅を狭められていくような感覚。
「固定化」
君島がページの一部を指す。
そこには、俺にも読める文字があった。
巻き戻しが繰り返されると、観測者は減少し、世界は固定化する。
「固定化って、こういうことか」
俺は周囲を見た。
本棚。
机。
椅子。
生徒たち。
ページをめくる指。
全部、同じ場所にある。
同じ形をしている。
なのに、さっきより動きにくい。
世界が半熟のまま揺れていたものを、少しずつ固めていく。
黄身まで火が通り、もう形を変えられないようにしていく。
そんな静かな侵食が、俺たちを焦らせた。
「このまま続けば、俺たちは身動きできなくなるのか」
「たぶん」
「君島といるときだけ、少し空気が動く気がする」
「私もそう思ってた」
君島は声を潜めた。
「観測者が二人いる場所では、世界の輪郭が揺らぐのかもしれない」
「じゃあ、やっぱり三人目が必要だな」
「うん。でも、世界もそれを分かってる」
そのとき、奥の席で本を読んでいた男子生徒が、ページをめくる手を止めた。
一秒。
二秒。
三秒。
それから、何事もなかったようにまたページをめくった。
だが、俺には分かった。
世界は聞いている。
「巻き戻しについても、少し分かってる」
君島は、本の別のページを開いた。
そこには円が描かれていた。
円の端には、いくつもの短い線が刻まれている。
時計の文字盤のようにも、何度も閉じた輪のようにも見えた。
俺に読める文字は少なかった。
同じ日。
同じ時刻。
自己保存。
帰還。
君島には、別の文が見えているらしい。
「世界は、終端を拒む」
「終端?」
「その日の終わり、かな。あるいは、次の日の始まり」
「7月11日か」
俺が言うと、本のページが、かすかに震えた。
君島と目を合わせる。
今、確かに反応した。
「この世界は繰り返されている。それは俺たちの体験通りだから間違いない。でも、どうやって?」
「巻き戻し」
君島は言った。
「全部がビデオみたいに逆再生されているわけじゃないと思う。でも、何かが一日の終わりにボタンを押してる。再生を止めて、同じ場所に戻してる」
「なら、このループから出るには、誰かが巻き戻しボタンを押す前に、リモコンを奪って再生しなきゃならない」
「その例え、古くない?」
「分かりやすいだろ」
「まあね」
君島は少しだけ肩の力を抜いた。
だが、すぐに表情を戻す。
「問題は、そのリモコンを誰が握っているか」
「どこで押しているか、だな」
本から得られた内容を断片的につなぐと、そこまでが限界だった。
観測者が足りない。
世界は固定化している。
一日は巻き戻されている。
7月11日は拒まれている。
三人目の協力が必要で、さらに巻き戻しを止める核のようなものがある。
あとどれくらい繰り返せば、そこにたどり着けるのだろう。
いや、そもそも俺たちは、そこまで繰り返せるのだろうか。
「ここ」
君島が、ページの端を指した。
ほとんど真っ黒に塗りつぶされたページだった。
だが、ところどころに文字が浮かんでいる。
三つ目の――
視点。
――揃うとき、固定はほどける。
「三つ目の視点」
俺は呟いた。
「やっぱり、もう一人必要なんだ」
君島は頷く。
「私が読めたのは、そこまで。堂本くんは?」
俺には、別の行が見えていた。
三つの観測が交わるとき、世界は次の相へ移る。
「次の相へ移る、だってさ」
「次の相……」
「7月11日ってことかもしれない」
本のページに、また小さな震えが走った。
今度は、さっきよりはっきりと。
図書室の空気が一段重くなる。
生徒たちがページをめくる音が、ぴたりと揃った。
同時に、全員が一枚めくった。
ぱさり。
その音が、やけに大きく響いた。
「もうひとつある」
君島は声を落とした。
「読めないページの中に、何度も出てくる言葉」
「何?」
君島はためらった。
それから、黒く滲んだページを開く。
そこには、円の中央にぽつんと一文だけ浮かんでいた。
起こしてはいけない。
それ以外は読めない。
誰を。
何を。
なぜ。
何も分からない。
ただ、その一文だけが、やけに鮮明だった。
「起こしてはいけない者」
俺は無意識にそう呼んだ。
「ラスボスみたいだな」
「冗談で済めばいいけど」
君島は言った。
「これまでの解読内容をつなぎ合わせると、世界のループを行っている存在がいる。少なくとも、巻き戻しの中心になっている何かがある」
「まったく迷惑な話だな」
「でも、そいつから世界を取り戻すには、そいつに気づかれてはいけない」
「三人目の協力者を探し、起こしてはいけない者に気づかれずに実行せよ、か」
「なかなか無茶を言ってくれるね」
君島が小さく息を吐く。
「そいつの正体が不明なままだと、気づかれずに、なんて無理だろ」
「情報がまだ足りない」
「どこかにあるのか? そいつについて書かれた情報」
「たぶん、この本の中にある。でも、私たち二人では読めない」
三人目。
その言葉が、重く残った。
通学路の最後の曲がり角に立つ、ぼやけた女子生徒。
名前を思い出せない彼女。
あの子が三人目なのか。
それとも、ただ世界に消されかけているだけなのか。
確かめなければならない。
そのためには、次の7月10日まで耐えなければならない。
俺たちは、そう考えた。
考えてしまった。
だが、世界はもう待ってくれなかった。
そう思った瞬間だった。
音が止まった。
本のページをめくる音。
鉛筆の擦れる音。
空調の風。
遠くの蝉の声。
すべてが止まる。
いや、止まったのではない。
こちらへ向いたのだ。
図書室にいた生徒たちが、一斉に顔を上げた。
無表情。
焦点の合わない瞳。
けれど、明確すぎる意図を持った視線。
見られている。
人間ではない。
世界が、こちらを凝視している。
一人が立ち上がる。
「観測……異常……」
別の生徒も立つ。
「固定……破損……」
さらに三人、四人。
「接触……予測」
「三相……阻止」
「修正開始」
声が重なる。
俺は反射的に本を閉じようとした。
だが、君島が止める。
「持って」
「え?」
「その本、置いていったら次はもう出てこないかもしれない」
俺は本を抱えた。
重い。
さっきまで普通の本だったはずなのに、急に石の塊みたいな重さになっていた。
「走るよ」
君島が言った。
俺たちは図書室を飛び出した。
背後から足音が追ってくる。
だが、それは人間が走る音ではなかった。
机の脚が床を擦る音。
椅子が一斉に引かれる音。
本棚が低く唸る音。
壁が迫ってくるような、世界そのものが押し寄せてくるような音だった。
廊下の窓ガラスが白く曇る。
そこに映る俺の影が、遅れて動いた。
「こっち!」
君島が階段へ向かう。
だが、階段の位置が昨日と違っていた。
いや、違うはずがない。
この校舎の構造は何度も見ている。
それなのに、曲がり角の先にあるはずの階段が、数メートル奥へずれている。
壁には、同じ掲示物が何枚も貼られていた。
夏季講習のお知らせ。
購買部利用規定。
進路希望調査。
すべての日付が、200x年7月10日。
何枚も。
何枚も。
何枚も。
同じ日付だけが、廊下の壁を埋め尽くしている。
「固定化が進んでる」
君島が息を切らしながら言う。
「世界が、私たちの進路を固めようとしてる」
「どこへ行けばいい?」
「上」
「なんで上なんだよ」
「分からない。でも、空気が動いてる」
君島は迷わず階段を駆け上がる。
俺も後を追った。
一段ごとに、本が重くなる。
腕が痺れる。
息が乱れる。
背後から声が聞こえる。
「修正開始」
「三相、阻止」
「観測者、回収」
回収。
その言葉に、背筋が凍った。
殺すでも、捕まえるでもない。
回収。
物のように。
部品のように。
間違って配置された何かを、元の場所に戻すように。
俺たちは、世界にとって人間ではないのだ。
ただの異物。
ただの誤差。
ただのバグ。
階段を上りきると、屋上へ続く扉が見えた。
本来なら鍵がかかっているはずだった。
だが、その日は少しだけ開いていた。
隙間から、湿った夏の風が入り込んでいる。
「開いてる……?」
君島も驚いた顔をした。
俺は扉の向こうに漏れる光を見た。
次の7月10日に探すはずだった相手。
その手がかりが、なぜか今、この先にある気がした。
「誰かが、先にいる」
君島が言った。
俺たちは、世界に追われてここへ逃げ込んだのではない。
逃げ込まされたのかもしれなかった。
俺は扉の隙間を見た。
光が漏れている。
図書室の冷たい空気とは違う。
廊下の固まった空気とも違う。
そこだけ、世界がまだ完全には固まりきっていない。
生きている空気だった。
背後の足音が近づく。
俺は本を抱え直した。
「行くぞ」
君島がうなずく。
俺たちは屋上の扉を押し開けた。
第四章 名前を思い出せない彼女
屋上の扉を押し開けた瞬間、湿った夏の風が体にぶつかった。
図書室の冷たさとも、廊下の固まった空気とも違う。
そこにはまだ、空気が流れていた。
生きている空気だった。
俺は本を抱えたまま、屋上へ踏み出す。
背後では、階段を上ってくる足音が聞こえていた。
ひとつではない。
何人分もの靴音が、同じ速さで、同じ強さで、同じ角度から迫ってくる。
だが、屋上へ出た途端、その音が少しだけ遠のいた。
いや、遠のいたのではない。
扉の向こうで、足音が乱れた。
同じ速さで迫っていた靴音が、ばらばらにほどける。
何人分もの足音が、同時に立ち止まり、同時に迷い、同時に壁へぶつかったような音を立てた。
「……止まった?」
俺が言うと、君島は屋上を見回した。
「ここ、固定が薄い」
「固定?」
「たぶん、あの子がずっと見ていた場所だから」
君島の視線の先に、フェンスにもたれる女子生徒がいた。
「毎日、同じ今日の中で、あの子はここから空を見ていた。誰にも名前を呼ばれないまま、それでも世界を見続けていた。だからここだけ、世界があの子を完全には背景にできていない」
扉の向こうで、爪を立てるような音がした。
ぎり、と金属が鳴る。
「長くは持たない」
君島が低く言った。
「でも、今なら話せる」
「……いた」
君島が呟いた。
屋上のフェンスの近くに、一人の女子生徒が立っていた。
夏服の白いブラウス。
細い肩。
ほどけかけた髪を、片手で押さえる仕草。
頭が痛んだ。
でも見覚えがある。
通学路の最後の曲がり角。
ホームルームで呼ばれなかった名前。
休み時間に確かめようとして、なぜか忘れてしまった机。
昼休みの屋上で、空だけを見ていた横顔。
何度も見ていたはずなのに、俺は彼女の名前を思い出せない。
それどころか、顔の輪郭さえ曖昧だった。
見ようとすると、ぼやける。
思い出そうとすると、白く滲む。
彼女はフェンスに背を預け、空を見上げていた。
青い空だった。
いや、青いはずの空だった。
けれど今の空は、どこか薄い。
塗り直しを重ねすぎた絵の具みたいに、青の下に灰色が透けていた。
俺たちが近づくと、彼女はゆっくりこちらを向いた。
その目は、空っぽではなかった。
だが、完全に生きているとも言い切れなかった。
灯りの消えかけた部屋に、まだ火の匂いだけが残っている。
そんな目だった。
「……見えた」
彼女は言った。
とても儚く、小さな声だった。
それでも、風に流されず、俺たちのところまで届いた。
「世界が、こっちを見ているのが」
君島が息を呑む。
「あなた……起きてるの?」
彼女は少しだけ首を傾げた。
「起きてる……のかな」
その言い方は、頼りなかった。
「分からない。ずっと夢の中みたいだった。みんな同じことをして、先生が出席を取って、でも私だけ飛ばしていく」
彼女は自分の胸元を押さえた。
「名前を呼ばれないの。毎日。たぶん、私の名前があるはずなのに」
担任の視線が出席簿の上を滑った瞬間。
呼ばれなかった空白。
髪を結び直していた女子の悲しげな横顔。
あれは、彼女だった。
「君の名前は?」
俺が訊くと、彼女は答えようとした。
唇が動く。
だが、音は出なかった。
声にならないまま、口の形だけがほどけて消える。
彼女は少しだけ眉を寄せた。
「駄目。思い出そうとすると、そこだけ白くなる」
「机の名前とか、持ち物は?」
「見ようとすると、読めなくなる。友達に呼ばれた気もする。でも、その声もすぐ遠くなる」
彼女は困ったように笑った。
「私、ここにいるのにね」
その笑みが、胸に刺さった。
悲鳴ではない。
怒りでもない。
ただ、毎日少しずつ削られて、叫ぶ力さえ薄くなった人の笑い方だった。
君島が一歩近づく。
「私、君島澪。こっちは堂本くん」
「君島……澪。堂本……くん」
彼女は俺たちの名前を、確かめるように繰り返した。
その瞬間、風が少しだけ強く吹いた。
屋上の空気が揺れる。
抱えていた本が少し熱を持った。
「君島」
「うん。反応してる」
君島は彼女を見つめた。
「あなた、私たちの名前は言えるんだね」
「うん」
「なら、まだ大丈夫」
「大丈夫?」
「少なくとも、全部は消えてない」
彼女はその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。
「全部じゃないなら、まだ私は私なのかな」
誰に聞かせるでもない声だった。
「私、怖かった。みんなが私を見ないの。先生も、友達も、すれ違う人も。たまに目が合ったと思っても、すぐに逸らされるんじゃなくて、最初から私を物として処理してる感じがする」
彼女はフェンスを指先で握った。
「だから、屋上に来るようになった。空だけは大丈夫だから」
「空だけは?」
「空は名前を呼ばないでしょ。だから、私の名前を忘れていても、見ていていい気がした」
背後で、屋上の扉が一度だけ震えた。
どん、と鈍い音がする。
扉を叩いているのではない。
向こう側で、何かが扉の位置を思い出そうとしているような音だった。
俺は振り返りかけたが、君島が小さく首を振った。
「見ないで」
「なんで」
「視線を渡すと、道になる」
その言葉の意味は分からなかった。
けれど、今は分からないまま従うしかなかった。
君島の表情を見て、俺は思った。
君島は彼女に、かつての自分を見ているのかもしれない。
親友の席に座ることで、世界から少しだけ孤立していた君島。
名前を呼ばれないまま、屋上で空だけを見ていた彼女。
二人とも、世界から完全には消えず、しかし人間として扱われない場所にいた。
「さっき、世界が見てるって言ったな」
俺が訊くと、彼女は頷いた。
「うん。下から、たくさんの目が上がってくる感じがした。人の目じゃない。校舎とか、窓とか、廊下とか、そういうもの全部が、同じ方向を向く感じ」
背後で、屋上の扉が小さく軋んだ。
追ってきた生徒たちが、すぐそこまで来ている。
「時間がない」
君島が言った。
俺は抱えていた『世界構築論』を屋上の床に置いた。
重かった本が、彼女の近くに置かれた瞬間、少しだけ軽くなったように見えた。
表紙が風もないのに開く。
ページがめくれる。
一枚。
二枚。
三枚。
黒く滲んでいた文字の一部が、ゆっくり浮かび上がった。
だが、それは読むというより、見せられる感覚に近かった。
俺の目には、
三つの観測が交わるとき、固定はほどける。
君島の目には、
三つ目の視点は、失われた輪郭を照らす。
そして彼女の目には、別の一文が映っていた。
彼女は震える指でページをなぞる。
「名前を失っても、痛みを覚えている者は、まだ観測者である」
その言葉に、誰もすぐには反応できなかった。
名前を失っても。
痛みを覚えている者。
彼女は自分の胸に手を当てた。
「痛い」
小さく言った。
「名前は思い出せない。でも、痛いって思う。呼ばれないと悲しい。見てもらえないと怖い。忘れられるのが、いやだって思う」
彼女は顔を上げた。
「名前がなくても、痛いって思えるなら、まだ私は残ってる」
その瞬間、屋上の空が大きく揺れた。
灰色がかった青が裂けるように滲み、雲の輪郭が一瞬だけ崩れる。
背後の扉が、激しく叩かれた。
「観測……増加」
「三相……成立」
「固定……破損」
扉の向こうから、いくつもの声が重なった。
君島が彼女の手を取る。
「あなたは、こっち側だよ」
彼女はその手を見た。
触れられていることを、確かめるように。
「こっち側……」
「うん」
俺も言った。
「俺たちと一緒に来てほしい」
「どこへ?」
「世界の核へ」
君島が答えた。
「この本が、三人目で読めるようになった。なら、次に行く場所も分かるはず」
ページがまためくれる。
今度は、白紙だったページに、薄い線が浮かび上がった。
校舎の見取り図。
現在地の屋上。
図書室。
渡り廊下。
そして、普段は使われていない旧校舎。
その一番奥に、小さな印がついていた。
理科準備室。
「旧校舎……」
俺は呟いた。
「普段は使われてない棟だろ」
「でも、毎日きれいに保たれてる」
君島が言う。
「誰も使っていないのに、廊下だけは埃がない」
彼女は見取り図を見つめた。
「そこ、知ってる気がする」
「行ったことがあるの?」
「分からない。でも、そこを思い出そうとすると、胸が苦しい」
彼女の声が震える。
「たぶん、そこに何かある」
扉がさらに強く叩かれた。
屋上の金属扉が、内側へわずかにへこむ。
生徒たちの声が、ひとつの低い音にまとまっていく。
「修正開始」
「観測者、回収」
「三相、阻止」
君島が本を閉じる。
「行こう」
「どうやって? 扉は塞がれてる」
俺が言うと、君島は屋上の反対側を指した。
そこには、非常階段へ続く古い扉があった。
普段は鍵がかかっている。
錆びた鎖が巻かれていて、開くはずがない。
だが、今は違った。
鎖が床に落ちていた。
まるで、誰かが先にほどいておいたように。
彼女が小さく呟く。
「私、昨日もここを見てた」
「昨日?」
「ううん。今日。何度も同じ今日の中で、ずっと」
彼女は非常階段の扉へ歩き出す。
「ここからなら、旧校舎の裏へ行ける。たぶん、誰にも見られずに」
「覚えてるのか?」
「覚えてるわけじゃない」
彼女は振り向いた。
「でも、体が知ってる」
その言葉に、俺は自分の朝を思い出した。
自分の意志で体を動かすこと。
同じ行動に、自分の印をつけること。
彼女もまた、消えかけた自分の中に、まだ残っているものを探している。
名前ではなく。
記録ではなく。
体の奥に残った痛みと違和感で。
俺たちは非常階段の扉へ向かった。
背後で、屋上の扉がついに開きかける。
隙間から、生徒たちの顔が見えた。
無表情。
同じ角度。
同じ視線。
だが、俺はもう先ほどほど怖くなかった。
隣には君島がいる。
そして、名前を思い出せない彼女がいる。
観測者が三人になった。
世界は、もう完全な固定ではいられない。
非常階段の扉を開けると、古い鉄の匂いがした。
階下から、旧校舎へ続く細い渡り廊下が見える。
空がまた揺れた。
彼女は一度だけ屋上を振り返った。
「私、名前を思い出したい」
小さく、でもはっきりと言った。
「でも、それより先に、思い出さなきゃいけないことがある気がする」
君島が頷く。
「行こう」
俺たちは階段を下り始めた。
背後で、扉が完全に開く音がした。
世界が追ってくる。
だが俺たちは、もう逃げているだけではなかった。
止まった今日の奥にあるものへ向かって、自分たちの足で進んでいた。
第五章 忘れたくない
非常階段を下りるたびに、世界の音が遠ざかっていった。
屋上の扉の向こうでは、まだ生徒たちの声が重なっている。
「修正開始」
「観測者、回収」
「三相、阻止」
だが、その声は階段を一段下りるごとに薄くなった。
代わりに聞こえてきたのは、古い鉄が軋む音と、自分たちの息遣いだった。
君島澪。
名前を思い出せない彼女。
そして、俺。
三人分の足音が、錆びた非常階段に重なる。
それは昨日までの学校にはなかった音だった。
誰かに歩かされている音ではない。
録音された足音でもない。
俺たちが、自分で進んでいる音だった。
非常階段を下りきると、旧校舎の裏へ出た。
普段は誰も近づかない場所だ。
新校舎の明るい窓とは違い、旧校舎の窓は内側から薄い灰色を塗られたように曇っている。
壁には蔦が這い、地面には乾いた葉が溜まっている。
それなのに、入口の前だけは妙にきれいだった。
落ち葉もない。
砂埃もない。
まるで誰かが毎日掃き清めているようだった。
「誰も使ってないはずなのに」
俺が呟くと、君島が頷いた。
「ここだけは、ずっと変だった」
「来たことあるのか?」
「近づこうとしたことはある。でも、いつも途中で別の用事を思い出してた」
「世界に逸らされてたってことか」
「たぶんね」
名前を思い出せない彼女は、旧校舎の入口をじっと見ていた。
その横顔は、屋上で空を見ていたときよりも、少しだけはっきりしているように見えた。
「ここ、知ってる」
彼女は言った。
「でも、来たことがあるのかは分からない」
「体が知ってる、ってやつか」
俺が言うと、彼女は小さく頷いた。
「うん。胸の奥が、先に思い出してる感じ」
旧校舎の扉は、鍵がかかっていなかった。
君島が手をかけると、抵抗もなく開いた。
中は薄暗かった。
蛍光灯は点いている。
だが、その光は床まで届く前に弱っていた。
廊下の壁には、古い掲示物が貼られている。
色褪せた文化祭のポスター。
理科研究発表の結果。
避難経路図。
どれも日付が読めなかった。
いや、日付がある場所だけ、紙が白く抜けていた。
「ここは、7月10日じゃないのか」
俺が言うと、君島が低く答えた。
「たぶん、7月10日になる前の場所」
その言葉に、空気が少しだけ沈んだ。
俺たちは廊下を進む。
床は軋まない。
窓は揺れない。
埃も舞わない。
古い校舎のはずなのに、ここだけ時間が止まっているというより、時間から切り離されているようだった。
廊下の途中で、胸が痛んだ。
俺は思わず足を止めかける。
だが、止まってはいけない。
そう思った瞬間、いつもの通学路が頭をよぎった。
駅へ向かう道。
ゆるい坂。
国道を走り抜ける車の音。
曲がり角の少し手前。
何度も繰り返した朝の中で、そこを通るたびに胸が痛んだ。
なぜなのかは分からなかった。
歩みを止めてはいけない。
変えてはいけない。
だから、いつもその場所をすぐに通り過ぎていた。
けれど、本当は知っていたのかもしれない。
そこに、何かがあった。
誰かがいた。
――いっておいで。
風のような声が、胸の内側を通り抜けた。
誰の声なのか分からない。
母の声ではない。
君島の声でもない。
名前を思い出せない彼女の声でもない。
もっと近くて、もっと遠い声。
とても悲しいはずなのに、その言葉は優しかった。
いっておいで。
俺は息を呑む。
「堂本くん?」
君島が振り返る。
「大丈夫?」
「……今、何か思い出しかけた」
「どんな?」
「分からない。ただ、通学路の途中で、誰かにそう言われた気がした」
「そう」
君島はそれ以上聞かなかった。
聞かれたところで、俺にも答えられなかった。
ただ胸の痛みだけが、さっきより輪郭を持っていた。
君島もまた、廊下の途中で立ち止まった。
視線は、壁の掲示物ではなく、何もない空間に向いている。
「私も、少しだけ分かってきた」
彼女は言った。
「何を?」
「家に帰ってから、毎日やっていたこと」
君島は、自分の指先を見た。
「私は、私を忘れないために、アルバムや日記を読み返してた。家族写真とか、小学校の遠足とか、昔の交換日記とか。自分がちゃんと続いている人間だって確かめるために」
その声は落ち着いていた。
だが、奥に小さな震えがあった。
「でも、写真とページごと消えている場所があったの」
「消えてる?」
「うん。アルバムの途中に、何枚かだけ空白がある。日記も、その日だけ破られている。何か大切なことがあったはずなのに、そこだけ抜けてる」
君島は唇を噛んだ。
「両親に聞こうとしたこともある。でも、この世界では聞けない。聞こうとすると、夕飯の話になる。天気の話になる。明日の持ち物の話になる」
「逸らされるんだな」
「そう。だから、私自身で思い出すしかなかった」
君島は旧校舎の奥を見る。
「でも、ヒントすらないのは、残酷すぎる」
名前を思い出せない彼女は、黙って二人の話を聞いていた。
そして、ゆっくりと自分の胸元に手を当てる。
「私も……たぶん、同じ」
「何か見えたの?」
君島が訊く。
彼女は首を横に振りかけて、途中で止めた。
「見えた、というより、貼りついてるものがある」
「貼りついてるもの?」
「スマホ」
彼女は、自分の空っぽの手のひらを見つめた。
「壊れたスマホ。画面が割れてて、でも裏側に何か貼ってあるの」
その声は、屋上にいたときより少しだけ確かになっていた。
「プリクラみたいな、小さい写真。二人で写ってる。私と、誰か」
「誰か……」
「でも、その人の顔が見えない。私の顔も、ぼやけてる。名前も読めない」
彼女は目を閉じる。
「私が消えたら、きっとその人も消えてしまう気がした。だから、名前を思い出せないのが怖かった。自分の名前だけじゃなくて、その人まで失くしてしまうみたいで」
誰も言葉を返せなかった。
俺たちは、違うものを失くしているのだと思っていた。
俺は通学路の痛み。
君島はアルバムと日記の空白。
彼女は壊れたスマホに貼られた、ぼやけた二人の写真。
けれど、三つの欠落は、どこかで同じ場所へ向かっている。
旧校舎の奥へ。
理科準備室へ。
廊下の一番奥に、その部屋はあった。
古いプレートには、かすれた文字で「理科準備室」と書かれている。
だが、扉の前に立った瞬間、それがただの理科準備室ではないことは分かった。
扉の隙間から、白い光が漏れている。
蛍光灯の光ではない。
太陽の光でもない。
色のない光だった。
君島が、本を開く。
『世界構築論』の最後のページに、薄い文字が浮かんでいた。
三つの欠落が同じ名を避けるとき、閉じた日はほどける。
「同じ名を避ける……」
俺は呟く。
「呼ぶなってことか」
君島は頷く。
「たぶん、名前を与えてはいけない」
名前を思い出せない彼女が、小さく言った。
「私の名前も?」
「違う」
君島は首を振った。
「あなたの名前じゃない。もっと奥にある名前」
言いながら、君島の顔が青ざめていく。
俺にも分かった。
起こしてはいけない者。
俺たちは、それを世界を巻き戻しているラスボスのように考えていた。
このループを作った敵。
倒すべき相手。
気づかれてはいけない存在。
だが、違う。
もしかすると、起こしてはいけない者とは。
俺たちが、もう一度会いたくてたまらない誰かのことではないのか。
扉が、内側からわずかに開いた。
俺たちは誰も触れていない。
それなのに、扉は俺たちを招くように開いていく。
中は、空っぽだった。
机も棚も、薬品も窓もない。
ただ白い空間が広がっている。
その中央に、一冊のノートが置かれていた。
表紙には日付だけが記されている。
200x年7月10日。
俺たちは、ゆっくりと近づいた。
足音はしなかった。
白い床に触れているはずなのに、歩いている感覚が薄い。
まるで、記憶の中を進んでいるようだった。
君島がノートの表紙をなぞる。
「ここが、始まりの日」
俺は震える声で訊いた。
「なんで、この日が固定された? 誰が止めたんだ?」
君島は答えなかった。
代わりに、ノートがひとりでに開いた。
最初のページには、三人分の字が書かれていた。
俺の字。
君島の字。
そして、名前を思い出せない彼女の字。
見たことがあるわけではない。
それでも分かった。
そこには、同じ言葉が並んでいた。
忘れたくない。
ただ、それだけだった。
胸の奥が締めつけられる。
俺たちは、忘れたくなかった。
誰を。
何を。
どんな声を。
どんな顔を。
どんな時間を。
それはまだ分からない。
分からないのに、痛みだけは確かだった。
「この日、私たちは誰かを失った」
君島が言った。
「三人とも?」
俺が訊くと、君島はゆっくり頷いた。
「たぶん、同じ誰かを」
名前を思い出せない彼女が、ノートに手を伸ばす。
「私の名前と一緒に、その人のことも失くしたんだ」
「失くしたんじゃない」
君島が言う。
「隠したんだと思う」
俺はノートを見た。
忘れたくない。
その文字は祈りのようでもあり、命令のようでもあった。
「7月10日を繰り返せば、7月11日は来ない」
俺は言った。
「7月11日が来なければ、その人がいなくなった明日を迎えなくて済む」
名前を思い出せない彼女の頬を、涙が伝った。
「じゃあ、この世界は……」
「罠じゃなかったのかもしれない」
君島が静かに言う。
「私たちが耐えられなかった痛みを、世界が肩代わりしていた」
白い部屋の奥に、影が立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
顔は見えない。
背丈も、輪郭も、曖昧だった。
けれど、そこに誰かがいることだけは分かった。
呼べば、きっと形になる。
名前を与えれば、世界はその人を再現しようとする。
声も。
顔も。
仕草も。
あの日のままに。
もう一度会いたい。
その願いが、喉の奥まで込み上げた。
通学路で聞こえた声。
いっておいで。
アルバムから消えた写真。
破られた日記。
壊れたスマホに貼られた、ぼやけたプリクラ。
すべてが、その影へ向かって伸びていく。
「起こしてはいけない者って」
俺は声を絞り出した。
「この人のことだったんだな」
君島は頷いた。
「思い出したい。戻したい。もう一度会いたい。そう願えば、世界はその人を再現しようとする」
「でも、それは」
「本物じゃない」
君島の声は震えていた。
「世界が、私たちを閉じ込めるための核になる」
名前を思い出せない彼女が、両手を握りしめた。
「じゃあ、どうすればいいの」
誰もすぐには答えられなかった。
白い空間の中央で、影だけが静かに立っている。
敵ではなかった。
化け物でもなかった。
倒すべきラスボスでもなかった。
ただ、失いたくなかった誰かだった。
だからこそ、苦しかった。
俺はノートに手を置いた。
君島も手を置く。
名前を思い出せない彼女も、震える手を重ねる。
三人の手の下で、紙がかすかに温かくなった。
「終わらせるってことは」
俺は言った。
「もう一度、失うってことなんだな」
君島は目を閉じた。
「うん」
名前を思い出せない彼女が、涙を拭わずに言った。
「でも、忘れたくない」
「忘れなくていい」
君島が言う。
「ただ、止めなくていい」
その言葉が、白い部屋に静かに落ちた。
忘れなくていい。
ただ、止めなくていい。
俺は影を見た。
顔は見えない。
名前も分からない。
それでいい。
名前を呼んではいけない。
姿を与えてはいけない。
戻そうとしてはいけない。
ただ、そこにいたことだけを認める。
その人がいた。
俺たちは、その人を大切に思っていた。
そして、今はもういない。
その事実を、消さない。
でも、そのために世界を止め続けることもしない。
ノートの最後のページが開いた。
そこには一行だけ書かれていた。
7月11日へ。
俺たちは、三人でその文字に触れた。
その瞬間、白い部屋が大きく揺れた。
影が、こちらを見た気がした。
呼びたかった。
ありがとうと言いたかった。
ごめんと言いたかった。
行ってくると言いたかった。
どれも正しくて、どれも足りなかった。
だから、俺たちは名前を呼ばなかった。
ただ、三人のうち誰かが言った。
「ありがとう」
俺だったのかもしれない。
君島だったのかもしれない。
名前を思い出せない彼女だったのかもしれない。
あるいは、三人同時だったのかもしれない。
影は、夏の光の中にほどけて消えた。
世界が、大きく息を吐いた。
終章 七月十一日
目を開けると、部屋は淡い光に満たされていた。
「早く起きないと遅刻よ……」
母の声が聞こえる。
同じ声だった。
けれど、同じではなかった。
繰り返された声ではない。
録音された台詞でもない。
今日という一度きりの朝に、母が俺へ向けて投げた声だった。
俺は布団から起き上がる。
部屋には、何かが足りない気がした。
けれど、その欠けはもう恐怖ではなかった。
輪郭を持った痛みだった。
階段を降りる。
冷凍食品の匂い。
夏の湿気。
歯磨き粉の味。
どれも昨日までと似ている。
けれど、昨日ではない。
リビングの席に着くと、皿の上にチャーハンが盛られていた。
俺は箸を持ち、ひと口食べる。
そこで、手が止まった。
エビだ。
「……エビチャーハン?」
思わず声に出た。
母が台所から顔を出す。
「なに、嫌だった?」
「いや」
俺はもう一度、皿を見る。
昨日までの冷凍チャーハンとは違う。
具の色も、香りも、口に残る味も違う。
ほんの小さな違いだった。
けれど、その小ささが、胸に沁みた。
「母さん」
「なに?」
「今日、何日だっけ」
母は少し呆れたように笑った。
「七月十一日でしょ。寝ぼけてるの?」
七月十一日。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が静かに震えた。
そうか。
今日は、今日なんだ。
俺はエビチャーハンを飲み込んだ。
胃はもう、それを拒まなかった。
「いってきます」
玄関を出る。
夏の空気が肌に触れる。
湿っていて、重くて、少しだけ鬱陶しい。
だが、それさえも新しかった。
いつもの通学路。
自転車を漕ぎながら、俺は無意識に白いセダンを待っていた。
ゆるい坂を下る。
国道が見える。
いつもの角度。
いつものタイミング。
けれど、最初に視界を横切ったのは、赤い小型車だった。
俺は思わずブレーキを握りかける。
赤い車は、何事もなく国道を走り抜けていった。
その少し後から、白いセダンが現れた。
いつもより遅い。
いつもより静かだ。
いつもより、普通の速度で走っている。
当たり前になっていた風景が、少しだけ変わっている。
コンビニの前では、校則を破っている生徒たちが、ホットスナックを美味しそうに頬張っていた。
隠す気があるのかないのか分からない手つきで、紙袋を背中側へ回している。
昨日までと似ている。
でも、違う。
そうか。
ここも、もう昨日じゃない。
駅に着き、駐輪場に自転車を停める。
陸橋を渡る。
ホームへ下りる。
列車はまだ来ていなかった。
それだけで、少し不安になる。
決まっていたはずのものが、決まっていない。
その当たり前が、こんなにも心細くて、こんなにも自由だとは思わなかった。
列車が来る。
俺はいつもの位置に立ちかけて、少しだけずれた場所に立った。
誰も俺を押し戻さない。
喉も塞がらない。
足も勝手には動かない。
ドアが開く。
俺は、自分の意志で乗り込んだ。
車内の会話は、相変わらずくだらなかった。
けれど、それは昨日までと同じ台詞ではなかった。
派手な女子高生たちは、金やブランド物の話ではなく、期末テストの赤点の話をしていた。
片方が笑い、もう片方が本気で焦っている。
くだらない。
でも、生きている。
次の駅に着く。
俺はドアの方を見た。
痩せぎす眼鏡君が、階段を駆け下りてくる。
昨日までなら、彼は必ず間に合った。
同じタイミングで、同じ息切れで、同じように眼鏡を押し上げて乗ってきた。
だが、今日は分からない。
ドアが閉まるアナウンスが鳴る。
彼は走る。
あと少し。
間に合うのか。
間に合わないのか。
車内の誰も、特別に気に留めていない。
だから、俺だけが見届けた。
ドアが閉まる直前、痩せぎす眼鏡君は車内へ飛び込んだ。
肩で息をしながら、眼鏡を押し上げる。
そして、自分でもおかしくなったのか、少しだけ笑った。
俺は隣に話しかけそうになった。
今のあいつ、見たか。
そう言いかけて、相手の耳にイヤホンがあることに気づく。
やめておこう。
共有できないこともある。
それでも、俺は見た。
あいつが、今日、ぎりぎりで間に合ったことを。
学校へ着く。
校門へ向かう最後の曲がり角で、俺は足を緩めた。
そこに、彼女がいた。
もう、ぼやけてはいなかった。
夏服の白いブラウス。
結び直された髪。
柔らかくて、少し眠たげな目。
優しそうな雰囲気のクラスメートが、そこに立っていた。
彼女は俺に気づいたのか、ほんの少しこちらを見る。
名前は、まだ思い出せない。
けれど、不思議と焦りはなかった。
輪郭は戻っている。
目の焦点も合っている。
世界はもう、彼女を背景として処理できていない。
彼女が自分の名前を取り戻す日は、きっと遠くない。
俺は何も言わず、軽く会釈だけした。
彼女も、小さく会釈を返した。
それだけで十分だった。
昇降口へ向かうと、君島澪がいた。
昨日まで、いや、何度も繰り返された七月十日の中で、彼女は窓際の席にいた。
親友の席に座り、世界から少しだけ孤立していた。
けれど今は、昇降口で靴を履き替えている。
ただの朝の一場面として、そこにいる。
俺は声をかけなかった。
君島も、すぐには何も言わなかった。
ただ、こちらに気づき、視線だけを合わせる。
数秒の間。
その短い沈黙の中に、三百十二回分の七月十日と、たった一度の七月十一日があった。
やがて、別の女子生徒が遅れて駆け寄ってくる。
「澪、待って!」
君島はそちらを振り返る。
一瞬だけ、驚いたような顔をした。
それから、笑った。
ちゃんと、今日の顔で。
「遅いよ」
君島はそう言って、その子と並んで廊下を進んでいった。
俺はその背中を見送る。
親友を失った席から、彼女は歩き出している。
それが誰の代わりなのか。
誰が戻ってきたのか。
あるいは、ただ新しい今日が始まっただけなのか。
俺には分からない。
分からないことが、こんなにも優しいとは思わなかった。
教室へ入る。
ホームルーム前の雑談時間。
机の間を、昨日とは違う声が行き交っている。
くだらない話。
眠そうな欠伸。
誰かの笑い声。
机を引く音。
全部、ありふれている。
ありふれているのに、一度きりだ。
俺は自分の席へ向かい、ふと黒板を見た。
白いチョークの文字。
200x年7月11日。
胸の奥で、何かが静かにほどけた。
その下に、日直の名前が書かれている。
堂本。
俺だった。
「おい堂本、日直じゃん。寝ぼけてんの?」
佐伯が茶々を入れてきた。
昨日、渡り廊下で世界の口になった佐伯。
能面のように笑いながら、俺たちを確認した佐伯。
その顔が一瞬、重なった。
だが、目の前の佐伯はただの佐伯だった。
騒がしくて、軽くて、少しうるさいクラスメイト。
「うるせえな。今やるよ」
俺は悪態をつきながら席を立った。
黒板消しを手に取る。
そこには、昨日の授業で書かれた文字の跡が残っていた。
白い粉。
薄く引きずられた線。
消し残された、昨日の名残。
俺は腕を動かした。
黒板消しが、黒板の上を滑る。
白い粉が朝の光に舞う。
昨日の文字が消えていく。
繰り返された日付の気配が消えていく。
七月十日に閉じ込められていた世界の残響が、少しずつ薄れていく。
俺は、昨日の名残を、俺の手で完全に消した。
黒板には、七月十一日だけが残った。
担任が教室へ入ってくる。
チョークが黒板を滑る音がする。
白い粉が朝の光に舞う。
俺は深く息を吸った。
痛みはまだある。
失った誰かは、いない。
けれど、確かにいた。
その人の名前は、まだ思い出せない。
顔も、声も、すべてが戻ったわけではない。
それでもいい。
戻すために世界を止めるのではなく、
忘れないまま、今日を生きる。
そう決めたのだから。
窓の外で、蝉が鳴いた。
昨日と同じような声で。
けれど、昨日とは違う一度きりの声で。
世界は、もう止まっていない。
終わりではなく、続きが始まっている。