さようなら
過去に書いたものをせっかくだから投稿する 自分の作品のジャンルがいつもわからない
さようなら
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枝から離れた桜の花は地面に落ちて、誰かの汚れた靴底のせいか泥に塗れてぐちゃぐちゃだった。いつ頃だろうか小雨でも降っていたのだろう。広い公園の湿った地面は、桜の花の薄い桃色を一瞬で奪うようだった。花の混じった乱れた泥を美しいとあまり感じない。
それでも視線を上にあげれば、綺麗な夜桜が楽しめた。桜をいくらか残した枝が、冷たい風で微かに揺れてさわさわと音を立てている。花弁が頻繁に降って落ちてくる。花を魅せるための照明はなかったが、ポツンと立って薄ら黄色く光る電灯と幸の薄そうな月光がちょうど良い具合で、桜の花は白く滑らかなレースの端が集ったように綺麗だ。きっとあれらの全てが散ったら、泥に桜が積み重なって、綺麗な花の絨毯にでもなるんだろう。手の届かない桜はきっと、掬い取れない季節の形見になって気がつけば消えているのだ。ベンチに座って桜を見上げる生き残りの思考回路はもはや取り止めもなく、何の結果も残さないような有様だった。それでも温かいアップルティーを水筒に入れて持ってきたのは正解だった。暗い夜はとても肌寒かった。ブランケットでも持ってきていたらましだったかと思うけど、水筒と骨以外に物を持てそうにない。その水筒にはストラップが付いていなかったし、一瞬だろうが骨を手放すのは嫌だった。骨上げの時にこっそり盗んできたものだ。かさかさに乾いた小さいそれは、以前見かけた珊瑚の死骸に似ていて面影などないが、これがかつてはあの友人だというのであれば、そうなのだろう。花に埋もれた棺が火葬炉へ入る様子を、間違いなくこの目で見つめていた。
生き残りは片手に骨を握ったままで、器用に水筒の蓋を開ける。蓋の部分がコップになるタイプだったので、隣にコップを置いて紅茶を半分注ぎ、水筒を置いてコップを持った。うっすらと湯気が立ち上がるので息を吹きかけ、ふた呼吸分だけ何もしないで桜を見上げた。手のひらの中の骨を思うと、今晩の桜と桜吹雪を知るのが自分だけなのが寂しくなった。だからなのかふと思い立ち、少し熱かった紅茶を一口啜ってから、握りしめていた骨を齧って食べてみる。特別気がつく味はなく、硬くてざらざらとしていた。少なくとも、紅茶に合わせる物ではない。
齧った分をきちんと飲み込み、口に残ったざらざらしたものも紅茶と一緒に胃に入れた。温かいものが体の内に広がっていくのを感じつつ、ぼんやりと景色を見上げる。すぐに寂しい気持ちが湧いて、コップを置いて遺骨を両手でギュッと握ってみたが敵わず、しょうがないので一口食べた。なくなってしまうのが惜しくて、ゆっくり噛んでゆっくり飲んだ。骨の後には紅茶を飲んで、しばらくそれを繰り返していた。コップに紅茶がなくなれば注いで、骨が小さくなったと思えば前歯で擦るだけにした。木はさわさわと揺れ続け、桜はひらひら散り続けた。一度始めた虚しい食事を、やめるきっかけがわからなかった。遺骨が半分になった時、生き残りはじっと目を閉じて思った。友人が死んだ。骨よりケーキやオランジェットが食べたいが、友人の人生は終わった。友人の飼っていた老猫は、神に頼んで主人を手引きに行くのだという。あと数日で彼も動かなくなるのだろう。
大きく息を吸いながらそっと目を開けて、黒い夜空の手前の明るい桜を見る。生き残りは決して命を桜に喩えなかった。桜の花は短い命かもしれないが、桜の木は来年もこの場所に居続けるのだと知っていた。
残った骨のかけらにそっと爪を立て、名残惜しそうに手のひらで転がしたりもする。耐えきれなくてまた齧る。3杯目の紅茶を飲み終えると、流石にそろそろ行かなくてはと冷静になる。食べ続ければ骨はなくなり、飲み続けたら紅茶もなくなる。もっと時間が経てば桜も散り終わり、自分はベンチに座ったままで、一体何をするのだろう。
桜を見上げ続けたせいで体の一部が痛くなり、生き残りは視線を下へ移した。泥々だった地面は散ったばかりの桜に覆われ始め、綺麗で柔らかくなりつつある。悲嘆にくれたみたいに俯くと、頭に乗っていた花びらがふらりと落ちてきた。風で飛んだら吹雪のように見えるのに、冷たくないし、雪の白より淡い色合いで目に優しい。本当に綺麗だ、と繰り返し思った。それは何かを信じる気持ちにそっくりだった。公園のどこかに設置されている時計を見つけてしまいたくない。
でも、と生き残りは一欠片の骨に話しかけるつもりで思った。流石に、桜が散ったら行くよ。腰を上げるのが億劫だけど、流石に決意して立ち上がり、今までのように暮らし続ける。長い人生には受け入れなくてはならない別れというのがある。
そうわかっているはずなのに、そう考えた途端に勝手に力が入り唇が硬く閉じたので、やっと生き残りは自分が自分の思う以上に落ち込んでいると理解した。身体中から力が抜けて、立ち上がる気がなおさら失せる。瞬きを一つするだけで、元いた場所から消えている散る花びらが惜しくなってきた。勿体無いので瞬きをやめてしまったら、目が乾燥して泣くかと思った。涙が溢れることはなく、骨はひと齧りでなくなった。紅茶を啜ると、最初と変わらず甘くて温かい味がした。生き残りはカップを持ったまま、この中に花が落ちてきたりはするだろうかと黙って見つめていた。花弁はなんと落ちてきて、赤く透明な水面をつっとあめんぼのように揺蕩ったが、立ち上がる意思は湧いてこない。
このままぼうっとし続けていては朝が来る。人が目覚めて街が動く。どうしようと生き残りは思った。骨がなくなって空いた手のひらが物足りない。
それで生き残りは思いつく。自分が活き活きと動く理由が見つかって、いくらばかりか前向きな気持ちが湧いたとみえた。同時に罪悪感も湧いたが、自身を苛むやるせなさに強く出れる元気はないようだ。生き残りはいそいそとぎこちない動きで、花びらごと紅茶を飲み干した。開けっぱなしの水筒に蓋をして、朝、ベッドから立ち上がるように気だるい体を動かした。友人の骨を全部盗みに行ってみよう。立ち上がると、座っている時よりも桜が身近になる。
花びらが散った小枝は小さくみえた。あの木の枝の貧弱さも、たくさんの人に後ろ指を刺されたとしても、100年後には誰も覚えていないだろう。
翌日になり、早朝の空がまだ薄い頃、桜が全て散った公園のベンチには、誰も座っていなかった。消えた友人の骨が誰かに見つかる日はない。