
実質、神
片づけが苦手だ。そのせいでものはすぐになくなるし、僕の勉強机は常に散らかっている。
母にもよく小言を言われるのだが、面倒で後回しにしているうちにいつも忘れてしまう。何しろ、正直片付けなくても困ることはないのだ。勉強したくなったらその都度どかせばいいのだから。
母にそう弁明すると、「モーゼみたいだ」と言われた。モーゼが海を割ったように、僕は勉強のために教科書の山を左右に割る、ということらしい。
誠に恐れ多い話である。モーゼが海を割ったのがエジプト軍に追われていたときなのだったら、僕が教科書の山を割るのは課題に追われている時なのだから。
そう夕食の時に喋っていたら、ふと気づいたことがあった。よく考えたら、教科書の山を作るのも僕だ。神がこの世界をお創りになったように、僕は毎日教科書の山を創造している。
恥ずかしながら聖書に明るくなく、この程度の知識しかないのだが、この理論でいくと僕は神ということになってしまう。
とまあここまで書いてきたわけだが、誰がどう見てもこの理論は傲慢だ。
たかが人間のガキが神になろうだなんて、勘違いも甚だしい。
傲慢さは破滅を招く。それは古代から今まで、それこそ神話の時代からの不変の原理の一つなのだろう。自分の翼を過信して太陽に近づきすぎたイカロスは墜落し、神々をコケにしたシシュポスは今も冥界で岩を運び続けているように。
どうやらギリシャ神話ではこういう傲慢は「ヒュブリス」と呼ばれる最大の罪だったらしく、その傲慢な人間には「ネメシス」という天罰が下るそうだ。
なるほど、僕の教科書の山が定期的に崩れる理由がようやくわかった。これは、山を創造していい気になっている僕に与えられる罰なのかもしれない。
バベルの塔を作る人間たちの言語をバラバラにして建設を妨害したように、神は僕が山を創造するのにも警告を出してくださっているのだろう。
僕はこれまで崩れた教科書の山にいらだっていたが、きっとこれは神の御心なのだろう。
そう思うと、少し片づけをする気になる。たぶん。