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Photo byima_doco

潮騒のあとに、月はレプリカ 最終話 【#創作大賞2026 #恋愛小説部門】

    暗闇のなかで女たちが赤ん坊に乳を飲ませている。女たちの頬は煤で汚れている。煤は最初からそこにあったようにも、今ついたばかりのようにも見える。女たちの視線は焚き火の周りでは踊る男たちに預けれていた。その視線は見守るようでもあり、突き放すようでもあった。
    皿の代わりに葉が重なり、その上に色の濃い魚が置かれている。一番の老婆が手を伸ばし口に含む。頷いた。何枚もの葉が準備され、同じ魚が載せられる。乳を飲ませる女たちの前に運ばれた。老婆が何かを言う。木で作られた楽器がなり出す。太鼓が聞こえてきた。女たちがわずかに体を揺らしながら歌う。男たちは曲の合間に叫んだ。
    息を吸うと薪の匂いがして、眠くなる。僕の前に葉の皿が置かれる。その上には蛙がいた。切られても、揚げられてもいない。生きていた。蛙は僕をみて驚いたのか反対側に飛び進んだ。その動作に巻き込まれて葉の皿の形が崩れる。蛙が飛ぶ。踊る男たちの足元を抜ける。そして火の中に消えた。

    焚き火の奥、離れた場所に一人の女がいた。首元の伸びたTシャツを着ている。服の袖を握っている。僕はその女から目が離せなかった。言葉になりかけて、喉の奥が塞がる。僕以外の誰もが、祭りを進行することに夢中になっていて、その女に気づいているものはいなかった。踊っている男の一人が泥濘に嵌って転んだ。僕の足の指に泥がついた。視線を戻すと、女は背中を向けて暗い薮の中を戻っていった。僕は眠くて仕方がなかった。

    「おい」と呼ばれ、僕は自分が呼ばれていると思った。気づけば祭りは終わっていた。焚き火だけがそこにある。乳を出した女も、泥だらけになった男も、老婆もいない。
    「おい、なにやってんだよ」視界の隅に三人の靴が映る。首は固定されたように上には向かなかった。男は黒い革靴を履いていた。少しだけ甲が擦れている。女は二人ともヒールだったが、一人はきちんと揃っていて、もう一人は歩き慣れているせいか、かかとの減り方が違っていた。

    「パーティに遅れるぞ、もたもたするなよ」
    確かにそうだったと思ったが、それでも僕の体は動かない。二人の女が順番に僕に声をかけてくる。三人の靴が鮮明に見える。だからこそ、そこには誰もいないと感じた。
    「早くしろよ」僕はようやく自分の体を動かせた。喉も軽くなった。
    「僕は、いかないよ」三人を見上げる。三人の体は黒い靄のようなものがかかっていた。よく見ると小蝿の大群だった。差し伸ばされる手の形をした小蠅群。
    「僕は、いかない」もう一度言うと、それは頭の形をした部分から、夜に吸い込まれていくように蟠を巻いて立ちぼっていった。焚き火が大きくなる。熱かった。焚き火の中心から白い光が漏れてくる。形を得るように強くなっていく。僕は目を閉じた。手で光を遮る。しばらくすると刺すような光が和らいでいった。

    目を開けると、そこは海だった。僕は小さな島にいた。椰子の木が数本。潮の満ち引きによっては完全に海に沈んでしまいそうだった。海はどこまでも広がっているはずなのに、どこか広がっている感じがしなかった。すべてが無音だった。遠くへ行こうとするたびに、同じ場所に戻されているような気がする。波だけが規則的に押し寄せて、同じ形のまま崩れていく。水の色はあるのに、距離の色がない。波の向こう側には何もない。そこに薄い面のようなものがある気がする。触れられないのに、視線がそこで止まる。海はそこで折り返している。四方を見た。どこを見ても同じ波が続いている。少しずつ高さも形も違うのに、意味としては同じ波だった。空と海の境目はあるはずなのに、その線は途中で途切れている。途切れているのに、どこにも抜けていかない。何も音がしなかった。波だけが動いている。
    それ以外はすべて止まっているのかもしれないし、最初から動いていなかったのかもしれない。砂を握る。感触がない。指の間からすり抜けていく感覚が頭の中だけで起こる。

    いつの間にか、女が一人砂浜にいた。焚き火の時に見た、藪の中に一人消えていった女だ。ブルーシートの音が聞こえた気がした。女は枝で砂浜に何かを書いていた。読めない文字だった。一通り書き終えると、平たい流木の前に座った。その上には千切ったような紙とペンがある。砂浜に書いた文字を見ながら、ペンを動かす。波が押し寄せてくる。透明な波だった。屑ひとつない、軽い波だった。砂浜の文字が半分ほど消えた。女は慌てた様子で流木を持ち上げて後ろに移動する。そしてまた、枝で砂浜に何かを書いた。流木の前に座って書き出す。砂浜の文字を写していた。書き終わるとペンを置いた。それは手紙だった。どこからか瓶を取り出した。その中に手紙を入れる。波打ち際まで行ってそれを海に向かって投げた。瓶は波を伝って、何度も女の足元へ戻ってきた。褐色の膝に砂がついている。女が拾うたびに水が肘に滴る。僕は女をぼんやりと見ていた。もう一度瓶を投げると、それは波に乗った。波のリズムに合わせて遠くへと運ばれていく。水平線に薄らと白い影が見えた。さきほどまでは何も見えなかった。白い影は、街だった。
    手紙が流れたと知った女はその場で飛び跳ねた。砂浜を走り回った。
    空にはいく筋もの飛行機雲があったが、飛行機は見つからなかった。
    水平線が随分と近く見えた。何か音が鳴っていると思った。耳を済ませる。それは水平線の音だった。次に潮騒が聞こえてくる。そのあとに薄い月が登る。レプリカみたいだった。波だけが同じ形で繰り返されている。
    女が、月の下で踊り出した。
    裸足のまま、砂を踏んでいる音が遠くに聞こえた。僕はその女の名前を思い出そうとした。
    思い出そうとした瞬間に、名前ではない別のものが浮かんだ。
    燻んだコップの縁とか、朝に残っていた水の匂いとか、赤い毛の目立つ果実とか、寂しげな教会の鐘みたい心臓の音とか、そういうもの。

    女はこちらを見なかった。
    見なかったのではなく、見ていたかどうかが分からなかった。
    視線というものが、そもそもここにあるのか分からない。

    僕は手を振った。そのとき一瞬だけ、女の動きが止まった。
    止まったように見えただけかもしれない。女の手が僅かに上がりかける。
    でも次の波が来たとき、そこにはもう誰もいなかった。
    砂の上に、さっきまで何かが立っていた形だけが残っている。
    すぐにそれも波にほどかれていく。
    胸の奥に、名前のない空白がひとつある。
    そこに何かがあった気がするのに、思い出すことができない。波は同じ形で戻ってくる。
    手紙の入った瓶が、海面を揺蕩っている。光の反射でキラキラしている。
    波の谷間に飲み込まれては波頭に現れる。やがて、小さな光の粒になり、そして見えなくなった。


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    海外在住2年目 noteは海外生活の記録をまとめるために始めたが、青い師匠に影響を受け、なぞに小説も書き始める。

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