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朱熹の修行法である靜坐

    石郚統久@mototchen


    解説note

    朱熹の朱子孊ずは

    宋時代を迎えおみるず、儒教は新たな儒孊ずしお培底した歊装をなしずげたずみるに足るものになっおいた。それが総説ずしおの朱子孊だった。

     新たな展開は王安石の新法に始たり、匵茉の『正蒙』『暪枠易説』をぞお、呚敊頀しゅうずんいの『倪極図説』に発端した。
     あたりにも有名な倪極図を含む呚敊頀のアむディアは、タオむズムが埗意ずする䞀元二気䞇物の䞖界生成論を儒孊の理屈で説明しようずしたものであったが、その門䞋に皋頏皋明道・皋頀皋䌊川の兄匟が出おのちに二皋ず呌ばれる、そこに「理」「心」「性」それぞれが気ず組み合わさる道筋をひらき、さらにこれを胡宏が「性」性理を䞭心に組み立おおいくうちに、ここに぀いに朱子が登堎しおすべおをかっさらう「理気孊」ずしおの朱子孊を確立したのである。
     それは気を扱っおたこずに勇敢であり、いいかえれば儒の栞心においお仏教も道教もねじ䌏せおしたうような理屈を駆䜿したものであった。
    気の思想からみるず、朱子孊は「䞀気→陰陜→五行」が重局的に展開する気の集散によっお骚栌を぀くっおいる。これは気の䞀元論に近い。
     しかし他方では、その䞭心コンセプトには仏教から採った「理」ず道教から採った「気」ずが扱われおいるのだから、朱子孊は思想ずしおはすこぶる二元論的でもあった。しばしば理気二元論ずいわれるゆえんだ。
     ずころがどっこい、朱子その人はたんなる䞀元論にも二元論にもずどたらなかった。そこに「心」や「性」を加えたロゞックを甚意しお、「䞀気→陰陜→五行」が「気質物」の䞉䜍䞀䜓ずも「心性」や「性理」ずも察応しお、ずきには「性即理」のむデオロギヌが唞るように組み立おた。
     理屈っぜいずいえばこれほど理屈っぜい䞭囜哲孊もないが、ワヌディングずロゞックの組み合わせの劙からいえば、そうずう華麗なアクロバティック・゚ディティングでもあろう。ずもかくもこうしお朱子孊は新儒孊ずしお、これたでの䞭囜哲孊の党般をディコンストラクションしたかのように芋えるほどのもシステム理論になったのである。
     けれども、どんな理論も近隣者からこそ䞍満は出るもので、続く陞九淵陞象山は朱子による「心」の扱いに䞍満をもっお、そこから心孊を匕き抜き、新たな「心即理」のテヌれを匕き出した。今日、朱子孊あるいは宋孊ず呌ばれおいるのは、この朱子ず陞九淵を足し合わせたものをいう。

    https://1000ya.isis.ne.jp/1443.html

    朱熹の「倧孊章句」が先の岩波文庫に蚳文だけ掲茉されおいるのだが、その泚がよい。読んでミ゜っおいうくらい。気ず質に぀いお金谷先生はこう解説する。

    朱子の哲孊では、あらゆる存圚は理ず気によっお成り立っおいる。人間はみな理による本性をわり぀けられおいお『䞭庞』の「倩呜の性」、それは倫理的には絶察善ずしおの「本然の性」でだれもが共有しおいるずさるが、他面では気ずいうガス状の流動するものによっお人間ずしおの物質性が䞎えられ、その気ず気の凝瞮した質ずによっおもたらされる「気質の性」ずいうものができる。埌略

    http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/02/post_37.html

    朱熹の靜坐ずは

    https://kumadai.repo.nii.ac.jp/records/19141

    抂芁

    https://chinese.nchu.edu.tw/files/users/189/䞭文孞報18-朱熹靜坐法(P233~P248).pdf

    https://ctext.org/zhuzi-yulei/12/zh


    明治倧正期における“䞭囜哲孊”の構築ず静坐の実践配付資料

    はじめに


    孊んで聖人に至るには心の修逊が必芁
    静坐儒教の瞑想法ずしお宋代より重芖。江戞の儒者たちも実践しおいた。
    東掋思想の近代化儒教を“䞭囜哲孊”ずしお構築するこず
    哲孊か宗教か研究か実践か
    䞭囜哲孊史䞊で、皋䌊川—李延平—朱熹 陳癜沙・王陜明ず続く、朱子孊から陜明孊ぞの静坐実践の系譜をどのように䜍眮づけるか


    たずめ

    最初期の“䞭囜哲孊史”は、実際に実践するこずを前提ずしお修逊法が重芖され、静坐などの具䜓的な技法が泚目された。
    しかし、珟圚の䞭囜哲孊研究に぀ながる孊統では文献孊的研究が䞻流ずなり、修逊論においおも技法より理論の説明が重芖され、静坐の実践は問題ずされなくなっおいった。
    朱熹ず王陜明の䞡者においおは盎接に静坐の実践を語るこずさえ回避されるようになった。
    静坐の䜍眮づけ身䜓技法ずしおみれば坐犅ず連続し、哲孊思想ずしおみれば坐犅ず断絶するように語られる。
    身䜓技法ずしおの静坐は、江戞からの修逊法の継承ずしお、藀田調和道や岡田匏静坐法などの健康法に接続。
    近幎、䞭囜哲孊研究でも再々泚目されるようになったが、身䜓技法ずしおの広がりは等閑芖。

    https://www.facebook.com/notes/3355526878005752/

    「意識次元の根本的転換」は、朱子孊の堎合、「静坐」であり、それをベヌスにした「栌物窮理」であるp81ff.。「静坐」は或る意味で〈意識の流れ〉を吊定するものであり、珟象孊ずの関係で、たたベルク゜ンやゞェヌムズの哲孊ずの関係で興味深いずころがあるが、䞻題から倖れるので、粟神集䞭の蚓緎を積むこずによっお、〈意識の流れ〉が途切れるずころ、぀たり「未発」「心の未発動状態」p.82が芋えおくるずいうこずを指摘するにずどめる。「栌物窮理」ずは、「静坐」によっお埗られる粟神胜力をベヌスにしお、「経隓界に拡散するすべおの事物を、それぞれの「本質」に還元し぀぀、それらを唯䞀絶察の「本質」たで远求しようずする」こずであり、「経隓界にある事物、事象を芳察し省察しお、それらに内圚する先隓的「理」を窮め、窮め尜くしお、぀いに突劂ずしお䞇物の唯䞀絶察の「理」に翻入する道」p.83である。このような実践は衚面的には犅ず䌌おいる。しかしながら、犅は「本質」を解䜓するために行われるのに察し、「静坐」や「栌物窮理」は「本質」を芋いだすために行われるのである。

    https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20061013/1160761446

     "本然の性"ずは先倩的な道埳性であり、五垞である仁じん・矩ぎ・瀌れい・智ち・信しんずしおあらわれるが、人間が悪人になっおいるずきは"気質の性"が"本然の性"を䞊回り、欲望などに満ちた"悪"の人間性があらわれおしたう。このため、"情"である"気質の性"を倉化・矯正させお本来あるべき"本然の性"に埩垰させる埩初。ふくしょ。初めに埩すこずが人間の倫理的課題であり、ここで修逊法である"窮理居敬"が必芁ずなるのである。

     埩初の方法ずしお、具䜓的には窮理は読曞、居敬は静座静坐。座っお心身を鎮めるこずである。静座は、犅宗の座犅公案や只管打坐などずは違い、感情や欲求を抑えお心を集䞭させ、心を安静の状態に保぀こずである。たた"敬感情や欲求を慎むこず"を重芖した朱熹は、日垞においお欲気が抜けずにいるず、人間の善性が発揮されないため、どんな時ず堎合においおも心を集䞭させ、感情や欲望を謹んで、あちらこちらに行き回るのではなく、立ち居振る舞いを厳粛にする居敬が必芁であるず説いた。䞖の䞭の"理"は五垞ずなっおあらわれるため、これに埓うこずによっお"理"は窮められ、私利私欲が抑えられお適切な刀断ができ、奉仕掻動ずいった瀟䌚的善行ができるなど、物事が円滑に運ばれる。これこそ君子の姿であり、有埳者であり統治者の姿であり、窮理居敬によっお"理"を䜓埗した者は聖人になりうるのである。

    https://www.worldhistoryeye.jp/240.html#kyukyo

    「敬」あるいは静坐の意図するこずが、粟神を統䞀・集䞭しお芚醒するこずにあるこずがわかる。おそらく仏教の坐犅ずのちがいは䞻ずしおここにある。坐犅の粟神統䞀においおは、集䞭した粟神は、なにものか絶察的なるもの、無限なるものず合䞀する。あるいは瞑想のなかで自己の意識は消えはお光明に぀぀たれ、そしお光ず䞀䜓化した粟神は、神秘的な恍惚のなかでなにものかの啓瀺を埅っおいるのである。

    坐犅における粟神は、神秘的合䞀のなかで光明に぀぀たれお確立する。「敬」・静坐における粟神は、「理」 ず察面するなかで「理」を実珟する䞻䜓性を獲埗する。前者における粟神の方向性は神秘的な光明のなかにある。埌者の粟神における䞻䜓性は「理」(窮理)を実珟する「心」(居敬)にある

    https://teapot.lib.ocha.ac.jp/record/6777/files/1_7_3_81-195.pdf

    日本の朱子孊


    朱子孊を倧成させたのは、チャむナ南宋の孊者であった朱子です。朱子は、よく孊んで物事の理を窮きわめるこずず、雑念を払っお身の振る舞いを厳粛にするこずを教えたした。前者は「窮理」、埌者は「居敬」ず蚀いたす。

    それぞれに方法があり、窮理には儒孊教本の「読曞」が、居敬には静かに座っお雑念を払う「静坐」が甚意されおいたした。静坐は䞀皮の瞑想法ですが、座犅のように無念無想ずなるのではなく、心を䞀぀の事に集䞭させたす。

    䟋えば、倩地自然を芏定する「理」ず、自分に宿る本性性が䞀぀に貫かれおいるずいうこず性即理を意識したす。そうする内に雑念が取れおいき、日垞的に心の萜ち着いた安定状態になるこずを目指したのです。

    これら窮理ず居敬を教える朱子孊を基本ずしたのが玠行の朱子孊専䞀時代で、歳頃たで続きたした。

    しかし、歳頃になるず、朱子孊も理論的過ぎお空論になり易いずいう問題に行き着きたす。䜕しろ窮理は、あらゆる物事に求められたす。䞀朚䞀草、䞀事䞀物に至るたで理を窮めねばならないずいうのですから䞊倧抵のこずではありたせん。居敬においおも、自然に湧き起こっおくる人欲の䞀぀䞀぀を抑えおいくのは倧倉なこずです。

    朱子の功瞟は、儒孊を倧系化し修逊の方法を暹立したずころにありたすが、その厳栌さによっお、儒孊は孊問思想ずしおの生き生きずした躍動感を倱いたした。そうしお玠行は、朱子孊に偏るず堅苊しくお身動きの取れない人間になり、歊士ずしおの実践に圹立たなくなっおしたうずいう結論に蟿り着いたのです。

    確かに、読曞ず静坐ばかりしおいたのでは、熱情が冷めお気迫は衰え、公憀・矩憀が萎んで腰が重くなりかねたせん。䞀瞬に党おを懞けお刀を抜き、その堎で本懐を遂げねばならない歊士にずっお、朱子孊だけでは物足りず、むしろ害になるばかりだず考えたわけです。

    その 孊者の良心に則っお、埡甚孊問の誀りを正す
    https://hayashi-hideomi.com/series/4107.html

    日本朱子孊論
    https://teapot.lib.ocha.ac.jp/record/6777/files/1_7_3_81-195.pdf

    「日本朱子孊には極限的な䞻䜓性である「聖人」になるずいう思想はないゆえに①存圚論が重芖される」

    「この傟向をさらに発展させるのが浅芋絅斎である。この段階になるず、「敬」静坐は修逊法手段ずしおほずんど意味がなくなる。぀たり手段ずしお静坐をするこずはない」

    https://www.dc.ocha.ac.jp/dics-jacs/consortium/consortium200912/shisou1.pdf

    日本朱子孊における敬の意味
    https://www.dc.ocha.ac.jp/dics-jacs/consortium/consortium200912/shisou1.pdf

    王陜明 王守仁 による靜坐

    朱子が䞖を去っおから270幎ほど埌、明の時代に王守仁王陜明、1472-1528ずいう思想家が登堎したす。

     圌は理気二元論に基づいお、栌物臎知を究めようずしたした。

     具䜓的にどんな行動を取ったのか。

     圌は庭の竹林の前に座り、7日7晩にわたっお竹を芋぀めおいたのです。

     そうやっお竹の理ずは䜕か、を䞀心に考えたした。

     それは竹を芋぀めるうちに感じ取れるものなのか。

     しかし7日7晩の努力もむなしく、䜕䞀぀埗るものはなく、王守仁は疲劎しお倒れおしたいたした。

     けれども、王守仁は倧きな収穫に恵たれたした。

     竹の理は感じられたせんでしたが、竹をじっず芋぀めおいた自分の存圚だけは確かにあったのだ、ずいう事実です。

     このあたり、「我思う、ゆえに我あり」で、たさにデカルトず同じ発想です。

     しかも、デカルト1596-1650より、100幎以䞊も早いのです。

     もっずも、同じ発想をしたむブン・スィヌナヌ980-1037は、デカルトより600幎以䞊も早いのですが。

     そしお王守仁は、信奉しおいた朱子の理論である性即理、事物の本性が理なのではなく、人間の気持ちこそが理なのではないかず考え始めたす。

     すなわち「心即理」です。

     そしお王守仁は、朱子の孊説に察しお心即理を基本的な抂念ずする、圌自身の孊問を打ち立おおいきたす。

    https://diamond.jp/articles/-/309258

    王守仁党集 -> 卷八
    https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=924919


    論文

    朱子孊における静坐・居敬の解釈をめぐっお(補線)
    https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/26506/p058.pdf


    宋明期儒孊における静坐の圹割及び䞉教合䞀思想の興起に぀いお
    https://glim-re.repo.nii.ac.jp/records/1468

    朱熹『呚易參同契考異』に぀いお
    https://nippon-chugoku-gakkai.org/wp-content/uploads/2024/06/36-13.pdf

    呚易參同契考異
    https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=890743



    朱子孊における静坐・居敬の解釈をめぐっお(補線)
    https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/26506/p058.pdf

    朱子孊における静坐・居敬の解釈をめぐっお
    https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/18225/ctr_034_p001.pdf

    朱熹靜坐法
    https://chinese.nchu.edu.tw/files/users/189/䞭文孞報18-朱熹靜坐法(P233~P248).pdf

    関連

    圓時の理孊

    北宋の滅亡埌、意倖ず安定しおいた南宋王朝では、君䞻・臣䞋・孊士などが理孊心の本䜓である性ず宇宙の根本である理を䞭心問題ずす る孊問に傟倒し、終日心性の説に぀いお語らった。理孊はもずもず儒教に仏教ず道教が溶け蟌んだもので、䞉綱五垞の神聖化を䞀歩進め、高 い宗教性を備えた孊説になっおいた。それは道教文化ず同じ源から生たれたものだった。宋の理宗は理孊に傟倒し、道教も奜んでいた。

    https://web.archive.org/web/20110101131308/http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX2-6.htm


    朱子孊ず道教

    気の理論は道教

    朱子孊は道教
    http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/02/post_37.html

    「意識次元の根本的転換」は、朱子孊の堎合、「静坐」であり、それをベヌスにした「栌物窮理」であるp81ff.。「静坐」は或る意味で〈意識の流れ〉を吊定するものであり、珟象孊ずの関係で、たたベルク゜ンやゞェヌムズの哲孊ずの関係で興味深いずころがあるが、䞻題から倖れるので、粟神集䞭の蚓緎を積むこずによっお、〈意識の流れ〉が途切れるずころ、぀たり「未発」「心の未発動状態」p.82が芋えおくるずいうこずを指摘するにずどめる。「栌物窮理」ずは、「静坐」によっお埗られる粟神胜力をベヌスにしお、「経隓界に拡散するすべおの事物を、それぞれの「本質」に還元し぀぀、それらを唯䞀絶察の「本質」たで远求しようずする」こずであり、「経隓界にある事物、事象を芳察し省察しお、それらに内圚する先隓的「理」を窮め、窮め尜くしお、぀いに突劂ずしお䞇物の唯䞀絶察の「理」に翻入する道」p.83である。このような実践は衚面的には犅ず䌌おいる。しかしながら、犅は「本質」を解䜓するために行われるのに察し、「静坐」や「栌物窮理」は「本質」を芋いだすために行われるのである。井筒先生は、宋儒たちには「プラトン哲孊䞭期のむデア論のそれず根本的には同じ性質のもの」だずいう「存圚界の事物には必ずそれぞれに「本質」がある、ずいう揺るがしがたい確信」があり、それには「圌らなりの実䜓隓的裏付け」ずずもに、経兞䞊の裏付けもあったのだず述べおいるp.89。その経兞䞊の裏付けずは、孔子の「正名論」ず孟子のいう「有物有必則」であるp.89ff.。

    朱子孊は「道教」ではない
    https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20061013/1160761446

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