
掌編小説:『便所から』
1
ある晩、便所から声が聞こえた。
わたし以外に誰かがいるらしい。
わたしは震え上がり、また、息を殺した。
「気づかぬふりだ、気づかぬふりだ。」
そう言い聞かせ、台所にある包丁を握る。
握りしめた。
「最悪の場合はコレだ、私より大切なものはないのだから。」また、言い聞かせる。
わたしは便所に忍び寄る。
声が聞こえる。どうやら怯えているらしい。
「どうすれば、どうすれば、」
震えている、わたし以上に。
「どうにもならぬ、父母は死に、金なし。女にも愛想つかされ、昼は虚しく、夜は悲しい。わたしはこれから、路上でのたれ死ぬのだろうか。」
なにがあったのか、わたしは気になったもののそこから声は途切れてしまった。不安と好奇に駆られたわたしは、思い切って扉を開けることにした。いざとなればどうにでもなると、自分に言い聞かせる。
勢いよく扉を開ける。誰もいない。恐ろしい。
「夢でもみていたか」
そう言い聞かせた。そういうことにした。
2
ある明け方、便所から声がする。
「大丈夫だ、大丈夫だ、あんなに訓練したのだから。きっと満足してくれる。今日こそはあの娘に、」
どうやら恋の悩みらしい。
「我が家でともに暮らそう、これだけ、これだけでよいのだ!」
冷えて目覚めた私は薄ぼんやりと考える。
「君の家ではない。わたしの家だろう。しかし賑やかとなるのも悪くない」
そんな思考を払うかのようにまた次の考えが浮かぶ。
「私はこのまま立ち入ってもよいものか」
恋に病む者のそばで用を足すとは無礼だろうか。
しかし、大の大人が用をこらえきれない失態をおかす度胸もない。
他所の便所で不安をもらすことに非がある。そう言い聞かせる。
私は扉を開けることにする。
誰もいない。恐ろしい。
以来、便所の声は久しく聞こえない。思うに、あれらは過去の声だ。
この家に住まった者の声。便所でもらす小言もあまりないのだから聞こえずとも当然であるが。過去の人間どもが未だ黙りこくって用をたしているのだろうが。言い表せぬ寂しさすら感じる。
もうじき夜更け、
さて、わたしもひとつ残すこととする。